『神聖なる音の行方』
銅鐸はなぜ、ある時を境に姿を消したのか。古代史の謎を、ひとりの大王の騒がしい一日から描く空想譚です。
神聖なる音の行方
古代の歴史において、何百年もの長きにわたり日本列島の祭りを支配していた青銅の至宝、銅鐸。
ある時期を境に巨大化を極めたその鐘たちは、突如として姿を消し、人里離れた丘の斜面に丁寧な手つきで埋められた。
なぜあれほど神聖視された至宝が、忽然と地中に封印されねばならなかったのか。
現代の考古学者たちがいまだ頭を悩ませる古代最大のミステリーの真相は――もしかすると、教科書の記述よりもずっと、切実で人間くさい朝の出来事にあったのかもしれない。
東の山際がうっすらと白み、朝靄が低く宮殿を包み込む時刻。
大王は温かい寝床の奥深くで、心地よい微睡みの海を漂っていた。
まだ鳥も鳴いていない。あとほんのひと時、この静寂の中で夢の続きを抱きしめていたい。大王が至福のため息をつき、布団を引き上げた――まさにその刹那であった。
「日輪よ昇れ! 闇を裂き、光の恵みを垂れ給え!」
寝殿のすぐ外、わずか数歩の距離に据えられた巨大な銅鐸の内側で、青銅の舌が全力で振り子のように打ち振られた。
――ガランゴロン! カランカラン、カンカンカンカン!
金属の硬質な大爆音が、薄い板戸を突き破って大王の枕元へと炸裂した。
寝床から三十センチほど垂直に跳ね起きた大王は、ぼさぼさに乱れた髪を両手で抱え込みながら絶叫した。
「ええい、やかましい! まだ寝ておるわ! 枕元で日の出を祝うなとあれほど申したであろうが!」
しかし、外に立つ白装束の神官長は、大王の怒声など耳に入らぬとばかりに恍惚とした表情で天を仰いでいる。
神官たちにとって、日の出とともに銅鐸を鳴らし、天の神と地の精霊を呼び覚ますことこそは、先祖代々受け継がれてきた絶対不可侵の神聖儀礼なのである。不敬を働く気など微塵もない。ただひたすらに、純粋な信仰心で全力の一打を浴びせているのだから余計に始末が悪かった。
「大王さま、神聖なる朝の息吹にございます……!」
「我が耳の穴の平穏を奪うておいて何が神聖か!」
耳鳴りに耐えかねて再び布団を頭からかぶった大王のもとへ、今度は土煙を上げて駆けてくる重い足音が響いた。
「伝令! 国境より急報にございます!」
早馬から転がり落ちた兵士が息せき切って駆け込んでくる。
大王が「何事じゃ」と顔を出そうとした瞬間、兵士は自らの口を開くより先に、広場の緊急用中型銅鐸へと飛びつき、腕が千切れんばかりに綱を引いた。
――ゴオオオン! カンカンカンカンカン!
青銅の地響きが、宮殿の柱をビリビリと震わせる。
非常事態の知らせには、まず神の加護を乞うための鐘を鳴らすのが古来の習わしであった。
「また鳴らしておる! 伝令なら小声で耳打ちせんか、小声で! 耳元で地獄の鐘を乱打されては、知らせの中身を聞く前に余の頭蓋骨が割れてしまうわ!」
大王が耳を塞いで床を転げ回る中、今度は湯気を立てた土器の鉢を両手で捧げ持った給仕頭が、厳かな足取りでやってきた。
「大王さま、土器に盛られし朝餉、滋味豊かな豆乳とかぼちゃの温汁が整いましてございます」
大王の腹が小さく鳴った。
(おお、ようやく飯か……)と気を取り直そうとした瞬間、給仕頭は神妙な顔つきで腰の小銅鐸を手にとり、涼やかな手つきで振り鳴らした。
――チリン、カランカラン! カンカンカンカン!
神聖なる実りの一粒、肉の一塊に宿る穀物の精霊に、感謝を捧げる儀礼である。
「飯が冷めるわ!」という大王の悲鳴は、精霊たちへの感謝の音色によって無残にもかき消された。
ようやく始まった午前の評定(国政会議)でも、受難は続いた。
長老たちが集まり、稲の収穫や治水について議論を交わすが、話がまとまり、誰かが名案を口にするたびに議長が満足げに紐を引く。
「神慮、ここに極まれり!」
――カアァァァン……。
「では、次の議題にございます!」
――カンカンカンカンカン!
神聖なる儀礼の証であるその音色は、臣下たちにとっては先祖の教えを忠実に守る誇らしい恍惚の響きであり、耳鳴りに耐える大王にとっては脳髄を削る拷問に他ならなかった。
「もう嫌じゃ……頼むから、少しでいいから黙ってくれ……」
昼下がり、すっかり精根尽き果てた大王は、重い玉座を抜け出し、宮殿の中で最も人目のつかない高殿のテラスへと逃げ出した。
吹き抜ける秋風が、火照った大王の額を優しく撫でていく。
眼下には黄金色に実った稲穂の海がどこまでも広がり、風に擦れ合う葉の音だけが、さわさわと心地よく耳を洗ってくれた。
ようやく訪れた、神聖ならざる本物の静寂。
大王は心から安堵し、深く息を吸い込んだ。
(ふう……生き返った心地がするぞ)
すっかり上機嫌になった大王は、青く澄み渡る大空を見上げながら、自分でも気づかぬうちに、お気に入りの旋律を口ずさみ始めていた。
ふん、ふふ〜ん、ふふふ〜〜ん……♪
喉を鳴らし、朗々と伸びる美声。
誰にも聞かれない高いテラスの上だからこそ、伸び伸びと歌い上げる。我ながらなかなかの美声ではないか、と大王が満足そうに目を細め、最後の一節を気持ちよく歌い切った――まさにその瞬間であった。
宮殿の陰になった祭壇の隅から、青銅の澄みきった音が、たった一度だけ、虚しく響き渡った。
――カーーーーーーーン。
透き通るような余韻を残し、秋の風に消えていく一打。
神官が、何かの節目と勘違いしたのか、あるいは単なる気まぐれか、銅鐸の舌をたった一度だけ揺らした音だった。
大王の喉が凍りついた。
時が完全に止まったかのような沈黙の中、大王の首が、油の切れた人形のようにギギギ……と音を立てて振り返る。
真っ赤に沸騰した大王の顔が、テラスの手すりをぎしぎしと軋ませた。
鐘一つ。
それはすなわち――容赦なき不合格。救いようのない音痴の証。
「……誰じゃ」
地を這うような低音で、大王が呟いた。
「いま、余の美声の尻に……銅鐸をひとつだけ鳴らしたのは、誰じゃあぁぁっ!!」
怒髪天を衝くとはこのことだった。
朝の睡眠を奪われ、知らせのたびに鼓膜を震わされ、朝餉のたびに頭痛に苛まれ、それでも耐えてきた大王の堪忍袋の緒が、音痴認定という決定的な一撃によって木っ端微塵に吹き飛んだ。
「神聖な祭器だか何だか知らんが、余の歌に冷酷な採点を下すなど言語道断! あの鐘がある限り、余はこの宮殿で鼻歌ひとつ気持ちよく歌えんではないか! 全員スコップを持て! あの青銅の鐘を、今すぐ台座から引きずり降ろせ!」
大王の雷が落ちたその日の夕暮れ。
宮殿の者たち総出による、前代未聞の極秘大作戦が始まった。
「絶対に余の耳に届かぬ場所へ運べ! 人里離れた、見晴らしのよい山の斜面に穴を掘るのじゃ! 神聖なものゆえ叩き壊すなよ、祟られたら敵わん! 傷ひとつつけず、誰の手にも触れぬよう、土深く丁寧に埋め尽くしてしまえ!」
臣下たちは涙を呑んだ。
長年親しんできた神聖なる鐘たちを、大王の命に従い、荷車に乗せて山奥へと運んでいく。
そして、人里から遠く離れた山肌に深い穴を掘り、横たえるようにして静かに土を被せた。
二度と、その澄んだ音が誰かの耳に届くことのないように。
翌朝。
宮殿の周りには、土をこねて焼いた素焼きの円筒や、口をぽかんと開けたまま一言も喋らない人形たち――「埴輪」が、ずらりと整然と並べられていた。
「これなら……絶対に音は出ぬな?」
大王の問いに、土器職人が胸を張って答える。
「はっ! 土でできておりますゆえ、風が吹こうが叩こうが、ただの一言も鳴り響くことはございません!」
大王は満面の笑みを浮かべた。
静まり返った宮殿のテラスで、鳥のさえずりを聴きながら、温かいスープを啜る大王。
誰にも邪魔されることなく、そして無情な鐘の音に採点されることもなく、大王は心地よい風の中で思い切り、調子外れの鼻歌を響かせたという。
千数百年の後。
考古学者たちが人里離れた山の斜面から、無傷のまま丁寧に埋められた巨大な銅鐸を掘り起こし、腕を組んで首を傾げた。
「なぜ彼らは、これほど神聖で貴重な青銅器を、人里離れた山中に埋めてしまったのだろうか……」
土の下で眠る銅鐸たちは、ただ静かに、大王のあの日の鼻歌を思い出しているのかもしれなかった。
おしまい




