第3話 絵本と、母の時間
スーパーのパートを終えた夕方、小林美穂、38歳。3歳の息子・悠太を抱きかかえ、商店街を歩いていた。朝早く仕事に出る夫に弁当を渡すため、毎朝6時起き。それから子供を送り、パート、家事をして、夕方のお迎え、夕飯作り、入浴、寝かしつけ。息子が20時頃に寝かしつけると、自分も一緒に床につく日々だ。
「ママ、絵本読んで!」息子がせがむが、美穂の手は疲労で重い。「うん、すぐ読むね」と言いながら、上の空でページをめくる。昔は小説を読み漁り、本屋巡りが楽しみだったのに。「母親なんだから、そんな時間ないよ」と自分に言い聞かせる。でも、心どこかで「自分の人生、どこ行った?」という虚無が疼く。
ある日のパートの帰り道、ふと「月灯書房」の暖簾が目に入った。「絵本あるかな…悠太喜ぶかな」。珍しく自分優先の気持ちで、店に入った。
店内は静か。絵本コーナーで息子に読み聞かせる本を選ぼうとしたが、なぜか文芸書コーナーに足が向く。昔愛読した小説の背表紙を見て、固まった。
「こちらの小説にご興味がおありですか?」
カウンターの佐倉健司、穏やかな敬語。美穂の疲れた目元と、本に触れる指先を静かに見つめていた。
「昔は…小説大好きで、本屋巡りしてました。でも今は母親業で手一杯で。夫の弁当作って、パートして、寝かしつけると一緒に寝ちゃって…自分の時間なんて贅沢だって思ってます。」
言葉がぽろぽろこぼれる。佐倉は小さく頷き、棚から一冊の本を抜き取った。ヘレン・ケラーの「楽観主義者」。
「ヘレン・ケラーさんは、目も耳も不自由な中で、困難を乗り越えました。最も印象的なのは、『人生とは、自分の中にある大胆不敵な自己を、勇敢に生きることである』という言葉です。」
美穂の胸がざわついた。「でも…母親として完璧じゃないと、愛されない気がして。睡眠削ってでも、家族のために完璧じゃなきゃって…」
佐倉の声が続く。「母親として完璧である必要はございません。美穂さんという一人の女性として、自分を大切になさってください。」
佐倉は静かに続ける。「私もかつて、会社のため家族のためと自分を犠牲にし、結局すべて失いました。いまは、この本屋で自分なりの時間を大切にしております。」
美穂の視界がぼやけた。完璧な母親じゃなくていい。70点の母親で、自分に30点をあげてもいいのかもしれない。ありのままの自分――睡眠不足で疲れた母親の自分を、否定しなくても。
美穂は自分用に文庫本一冊買った。翌日、いつもより30分早く起きて、コーヒーを淹れ、十数ページだけ読む。
夜、息子を寝かしつける前、息子は「ママ、絵本!」とせがむ。「うん、ママちょっとだけ読書してからね」と、初めて自分の時間を優先した。息子と並んで小説を読む美穂。ほんの少し、笑顔が戻っていた。




