第2話 止まったペンと、古い画集
会社の休憩室で、同僚たちの声が弾んでいた。西村沙耶、33歳。一般事務の契約社員。「このイラストレーター、今回の新作ヤバくない? 同い年くらいだって!」スマホを回し見る笑い声に、沙耶はチラッと覗き込んだ。画面の名前――大学時代、同じ投稿サイトで少し評価された相手だ。あの頃、自分もイラストをアップして、コメントに胸を躍らせたのに。
電車の中で、ついSNSを開いてしまう。新作告知にフォロワー数万。仕事の報告に祝福の嵐。「私も、あの頃は……」胸がチクッと痛む。現実に戻ると、明日のシフト確認と夕飯の献立が頭をよぎる。「夢なんて、子供の遊びだったんだ」。そう自分に言い聞かせても、モヤモヤは消えない。
商店街の路地で、ふと暖簾が目に入った。「月灯書房」。昔、画集を買い漁った記憶がよみがえる。懐かしさと現実逃避の混じった気持ちで、沙耶は店に入った。
店内は静かで、木の棚に美術書が並ぶ。沙耶はイラスト関連のコーナーの前で立ち尽くした。手が本に伸びかけるが、「今さら……」と引っ込める。
「お久しぶりのご様子ですね。お描きになる方でしょうか。」
カウンターの佐倉健司、穏やかな敬語。沙耶の指のタコや視線の動きを、静かに見抜いていた。
「昔、学生の頃はイラスト描いてて……投稿サイトで少し評価されたんですけど、生活のためにやめました。」
言葉がぽろぽろとこぼれる。佐倉は小さく頷き、棚から二冊の本を抜き取った。一冊はゴッホの書簡集、もう一冊はセザンヌのエッセイ。
「ゴッホさんは27歳で画家を志し、生前は評価されませんでした。それでもこう申しております。」
佐倉はページを開き、静かに読み上げる。
「すべてにもかかわらず、私は再び立ち上がる。深い落胆の中で手放した鉛筆を取り上げ、私はまた描き続けるつもりだ。」
沙耶の胸がざわついた。「でも……ゴッホさんは天才で。私はただの趣味で……」
「ゴッホさんもこう申しておりますよ。偉業は一時的な衝動でなされるものではなく、小さなことの積み重ねによって成し遂げられるのだ、と。」
佐倉は二冊目をめくる。セザンヌの言葉。
「私は毎日進歩しつつある。私の本領はこれだけだ。」
「セザンヌさんは、何十年も同じリンゴを描き続けました。誰かと比べず、自分なりの『毎日少し』を貫いたのです。」
沙耶は本のページを追う。ゴッホの落胆と再起、セザンヌの執念。どちらも、華々しい成功の裏に、長い諦めの時期があった。
佐倉の声が続く。「私も、かつて会社を失いました。その後、本屋という形で『人の挑戦を支える仕事』を続けております。昔の夢とまったく同じ形ではなくとも、自分の中で生かし続ける道はございます。」
沙耶の視界がぼやけた。「プロにならなきゃ意味がないって、ずっと思ってました。遅すぎるし、SNSで活躍してる人たちと並べない……」
「もう一度描くことに、誰かの許可はいりませんよ。あなたの中の沙耶さんが、待っています。」
その言葉が、静かに染み入った。プロか趣味か、遅いか早いか。そんな二択じゃないのかもしれない。ありのままの自分――筆を折った過去も含めて――から始めてもいい。
店を出ると、沙耶はコンビニを素通りし、100均に寄った。スケッチブックと黒のボールペン。自宅の机で、奥から埃をかぶった昔のペンケースを引っ張り出す。
「今日は一枚だけ。商店街のあの暖簾を、10分で下書きしてみる。完成しなくてもいい。SNSには上げない。」
ペンを握る手が震えた。最初の線が引けた瞬間、止まっていた何かが動き出す感覚。窓から見える月明かりの下、沙耶の机に小さな灯りがともった。
翌朝、会社のデスクでスケッチブックをそっと開く。商店街の暖簾が、粗い線で息づいていた。




