俺の拳は素早い 世界バンタム&フェザー級王者 テリー・マクガバン(1880-1918)
初タイトルを握った1899年は公式戦17試合に全勝し、KO勝ちは16回、二冠を制した1900年までに21連続KOを記録している。総じてレフェリーストップが遅かった時代としては驚異的な数字である。前座時代ならまだしも世界戦を複数回含んでこれだけKOを続けられる軽量級ボクサーは現代でもいない。試合が長丁場なら近代的テクニックがモノを言うかもしれないが、全盛時代は1~3ラウンドまでにほとんどのボクサーを片付けていたテリーの速攻はよほどの動体視力とタフネスがなければ、切り抜けられないだろう。だからこそ1970年代までボクシングを見続けたフライシャーがフェザー級史上最強といってはばからなかったのだ。
『テリブル・テリー』と聞くと、熟年ボクシングファンの多くは一九九〇年代にJ・ミドル級チャンピオンとして活躍し、かのシュガー・レイ・レナードを引退に追い込んだテリー・ノリスのことを思い浮かべるに違いない。
ミドル級で無敵の感があったマービン・ハグラーが十一ラウンドの消耗戦の結果、やっとKOで仕留めたアフリカの『ザ・ビースト(野獣)』ジョン・ムガビをわずか一ラウンドで葬り去ったノリスの速攻には目を見張るものがあったが、十九世紀末のリングに彗星のごとく現われた『初代テリブル・テリー』ことテリー・マクガバンが演じた数々の秒殺劇は、当時の観客にノリスとは比較にならないほどのインパクトを与えた。
オールドファンの多くがフェザー級歴代最強と評し、ボクシング技術がはるかに向上した現代ですら歴十傑に推す専門家も少なくないマクガバンはまさに早熟の天才児であった。
テリー・マクガバンことジョゼフ・テレンス・マクガバンはペンシルバニア州ジョンストンタウンで貧しいアイルランド系移民の長男として生まれ、彼が六歳の時、一家はニューヨークのブルックリンに移ってきた。
少年時代のマクガバンはブルックリンの製材所で働くかたわら、趣味としてボクシングを楽しんでいる普通の少年で、プロになろうという気持ちなど全く持ち合わせてはいなかった。
ところが、マクガバンのパンチ力に惚れ込んだ事務員のチャーリー・メイフッドの進言で地区のアマチュア大会にエントリーしてみたところ、いとも簡単に優勝をさらってしまう。
これでマクガバンが世界チャンピオンの器であることを確信したメイフッドは早速プロ転向を促すとともに自らがマネージャーを買ってでた。一八九六年、十六歳のテリーはメイフッドと二人三脚で世界への夢を追いかけることを決意した。
デビューから約一年で二十試合に出場したマクガバンは無傷の十七連勝(三引き分け)という快進撃を見せるが、そのうちKO勝ちはわずかに四度しかなく後年の強打者のイメージとは程遠い。倒すコツを覚えてKO率がぐんと上がるのは一八八八年七月二十三日のティム・キャラハン戦で反則負けして以降のことである。
以来、十五勝一引分け(十二KO)という快進撃で世界バンタム級王座決定戦(一八九九年九月十二日)に臨んだマクガバンは、二十六勝〇敗の英国チャンピオン、ペドラー・パーマーを世界選手権史上最短となる七十五秒で失神させ、この道に入ってわずか二年半足らずで世界の頂点を極めた。
見事な倒しっぷりで人気沸騰のマクガバンには次々と試合のオファーが舞い込み、この年は残り三ヶ月少々の間に九試合もこなしている。ところが驚くなかれ、その九試合で要したラウンドはわずか十六に過ぎず、十一月十八日と十二月十八日には一日に二度のKO勝ちという離れ業まで演じているのだ。
まだ十代で成長期にあったマクガバンは、減量が苦しくなったためバンタム級タイトルは一度も防衛戦を行わないまま、年が明けて間もない一九〇〇年一月九日、時の世界フェザー級チャンピオン、ジョージ・ディクソンに挑戦することになった。
『リトル・チョコレート』の愛称で親しまれたディクソンはまだ二十九歳の若さながら、足掛け十年もの間世界の王座に居座っている十九世紀屈指の軽量級ボクサーである。
一八九〇年六月二十七日に新設されたばかりの初代バンタム級チャンピオンになると、一八九一年三月三十一日にはフェザー級のタイトルも手にし、史上初の二階級同時制覇を達成した。まだフライ級のない時代だけに、ディクソンこそ軽量級最強の男であった。
人種差別の激しい時代、ディクソンも黒人であるがゆえの悲哀を幾度となく味わったが、その憂さをリングで晴らすために精力的に試合を行い、公式戦だけでも約二百、草試合も含めると二十年間に八百試合に出場したとも言われている。それだけに、当時としては天文学的といってもいい二十五万ドルものファイトマネーを拳一つで稼ぎ出しており、その豪遊ぶりも含めて黒人たちのアイドルとして絶大な人気を誇っていた。
マクガバンとの対戦までにフェザー級王座に就くこと三度に及び、第三次政権でも七度の防衛に成功していたディクソンは、柔軟な身体を生かしたスピーディーなボクシングが持ち味だった。そのため即決型で攻撃が比較的単調なマクガバンは、小顔で的が小さいうえ動きの早いディクソンを捉えきれず、三ラウンドまではまるで素人がボクシングのレッスンを受けているような有様だった。
五ラウンドにはディクソンのアッパーでマクガバンがキャリア初のダウンを奪われたが、四ラウンド以降ボディ狙いに切り替えたのが徐々に効果を現し、ディクソンは優勢を保ちながらも疲労の蓄積により動きに切れがなくなってきた。
八ラウンド、マクガバンの右をみぞおちに叩き込まれたディクソンはついに膝からリングに崩れ落ちた。カウント9で何とか立ち上がったものの、コーナーからスポンジが投げ入れられレフェリーストップ。キャリア初のKO負けを喫したディクソンはショックが大きかったのか、以後は精彩を欠いたファイトを続けた挙句に酒浸りになり、三十七歳の若さで病死した。
片やディクソンと同じく十九歳の若さで二階級を制したマクガバンは、『ブルックリンの恐怖』、『テ
リブル・テリー』などという物騒なニックネームをつけられ今や飛ぶ鳥を落とす勢いである。あまりにも強く、対戦相手が尻込みするようになったため、一階級上のライト級ボクサーともグラブを交えるようになり、そのほとんどをナックアウトで下している。その中でも今もなお語り草になっているファイトが、一九〇〇年七月十六日のフランク・アーン戦と同年十二月十三日のジョー・ガンズ戦である。
フランク・アーンは現役の世界ライト級チャンピオンにして、かつてはディクソンを下してフェザー級タイトルを保持していたこともある強豪で体つきもマクガバンよりふた周りほど大柄だった。余程自信があったのか、マクガバンに「ウィナー・テイク・オール」方式を持ちかけてみたところ、プライドの高いマクガバンはこれを了承した。そしていざ試合になると、アーンはブルックリンの恐怖をたっぷり味わわされた
結果はアーンが三ラウンドでギブアップ。ノンタイトルのため、チャンピオンベルトこそ守ったものの、賞金六千ドルはマクガバンにさらわれてしまった。
この日の勝利でマクガバンは前年九月十二日のパーマー戦からわずか一年の間にバンタムからライト級まで三階級のチャンピオンを全てKOで葬ったことになる。これは今日の五階級制覇に相当する大偉業だが、各階級にチャンピオンが一人しかいない時代ということも考慮すればまさに神業である。
フライ級からウェルター級まで制覇したマニー・パッキャオ(フィリピン)がいかに凄いといっても、長い年月をかけて身体を作り上げていった結果であり、かくも短期間に実質的な三階級制覇を成し遂げたのは、彼の他には史上唯一の同時三冠王ヘンリー・アームストロングしかいない。そのアームストロングでさえ急激な増量の影響でライト級とウェルター級のタイトルマッチは判定勝ちに終わっており、体重差などおかまいなしだったマクガバンのパワーには感服するしかない。
勢いに乗ったマクガバンは五ヶ月後の十二月十三日、ライト級伝説のリングマスター、ジョー・ガンスと対戦する。『オールド・マスター』の異名を取るガンスは、この一年半後にはかつて挑戦して敗れたフランク・アーンを一ラウンドで沈めて世界ライト級王座に就き、以後六年に渡り十五度の防衛を果たすことになる同級屈指のテクニシャンである。
リーチが一八〇センチもあり、ディクソン以上に懐の深い難敵であるガンスに対し、マクガバンは何と正攻法のラッシュ戦法で対峙した。左右のワン・ツーと伸び上がるようにして放つフックはガンスのブロックとスウェーでことごとくかわされてしまうが、プレッシャーがもの凄く、及び腰のガンスのカウンターではマクガバンのラッシュを抑えることが出来なかった。
防戦一方のガンスの顎をマクガバンの身体ごとぶつけるような強烈なフックがかすめると、バランスを崩したガンスがダウン。
かのジャック・ジョンソンが敬愛するディフェンシブマスターがこうも簡単に倒されるとは、観客はもちろんのこと当のガンスも信じられなかったに違いない。軽いダウンのためダメージはそれほどでもなかったが、精神的にパニックをきたしてしまった。
傍に仁王立ちして立ち上がるのを待っていたマクガバンはファイト再開と同時に物凄い勢いでガンスの襲いかかってきた。まるでこの後のラウンドがないかのように全力でパンチを繰り出すマクガバンの前ではさしものガンスも蛇に睨まれた蛙同然だった。
ライト級のチャンピオンクラスでさえいとも簡単にKOしてしまうマクガバンにとって残る敵は『慢心』だけであった。
一九〇一年四月三十日、マクガバンにとって五度目の防衛戦の相手は一年前に三ラウンドで一蹴しているオスカー・ガードナーである。ビッグマウスのガードナーは圧倒的不利という予想の中、KO宣言をしてリングに登場した。
二ラウンドまでは両者ともに激しいブローの応酬で息もつかせぬ展開だった。そして前回の対戦で決着をつけた三ラウンド、早くケリをつけようと焦るマクガバンがオープンワイドのまま強打を振るおうとした瞬間、ガードナーのカウンターが炸裂した。
ガードがおろそかになっていたところにまともにガードナーの右を喰らったマクガバンはたまらずダウンしたが、これでさらに頭に血が上ったのか、すぐに立ち上がると猛然とガードナーを追いかけ始めた。
ノーガードでなりふり構わずパンチを振り回すマクガバンは、このチャンスを待っていたガードナーにとって格好の餌食だった。ガードナーの狙い済ました左カウンターを浴びたマクガバンはキャンバスに伸びたままピクリとも動かなくなった。
とても十秒以内に起き上がれる状態ではないのは一目瞭然である。手ごたえ十分のガードナーはすでに勝利を確信した様子だったが、この芸術的なまでに見事なナックダウンシーンが彼の人生を狂わせてしまった。
何と不倒のマクガバンが倒れたことを観客のみならず、レフェリーのチャーリー・ホワイトまでが信じられず、ガードナー以外の会場の時間が完全に凍り付いていたのである。
ようやくレフェリーが我に返ってカウントを取り始めた時には、すでに五~六秒が経過していたばかりか、心配そうにマクガバンを覗き込むレフェリーのカウントもやけにゆっくりだった。これにいらだったガードナーがレフェリーにクレームをつけたのが失敗だった。レフェリーがカウントを中断してガードナーの方を向き直った瞬間、セコンドから水をかけられたマクガバンがようやく目を覚ましガードナーの両足を抱きかかえるようにしてヨロヨロと立ち上がったのである。
これをガードナーがふりほどくまでにさらに時間を要したため、マクガバンはようやくゴングに救われたが、実にダウンしてからすでに四十秒以上が経過していた(ダウンから立ち上がるまでの実測は十六秒と言われている)。
四ラウンド、ロングカウントとインターバルのおかげで完全に正気に戻っていたマクガバンは、千載一遇のチャンスを逃したせいか緊張感が途切れたガードナーに猛然と襲いかかり、あっさりとフィニッシュしてしまった。
両者の力量差からすれば結果は順当である。フェザー級リミットの試合にライト級のトップクラスでさえ一撃で倒せるパンチを持つ男が出てくれば、それは素手で凶器と渡り合うようなものだからだ。テクニシャンのガンスがすっかりすくんでしまい、自分のボクシングが出来なかったのも、マクガバンの凶器のような拳に恐怖を感じたからに他ならない。
マクガバンが鮮やかなKO勝ちを重ねれば重ねるほど、対戦相手はその拳の威力に畏怖を感じ、戦う前から気持ちで負けていた。ガードナーもカウンター狙いが的中しダウンを奪った時こそ精神的に優位に立てたが、マクガバンが立ち直ったと悟るや負け犬根性が出てしまい、易々と逆転KOを許してしまった。
一ヶ月後、同じ会場(サンフランシスコ、メカニクスパビリオン)で行われた六度目の防衛戦の相手アウレリオ・エレラは、これまでで最強のハードパンチャーだった。
西海岸で絶大な人気を誇るエレラは本場アメリカで最初に認められたラテン系ボクサーで、三四勝〇敗(三十二KO)二引分けという驚異的な戦績を残していた。しかも、痩せぎすのマクガバンと比べるとまるで筋肉の鎧で覆われたようにごつく腕も丸太のように太かった。
見た目も戦績もマクガバンより強そうなエレラだったが、ローカルファイトが中心で知名度が低かったせいか、賭け率となるとマクガバンが圧倒しており、大方の予想も六ラウンドまでにチャンピオンのKO防衛というものだった。このあたりが「マクガバン神話」とでも言うべきもので、エレラほどのボクサーにしても、戦前から「負けるかも知れない」という自己暗示にかかっていたことは否めない。
ところがいざ試合が始まってみると、サンフランシスコの劇場出演で多忙なマクガバンは本調子からは遠く、四ラウンドまではエレラの健闘ぶりが光った。四ラウンド終了後にコーナーに戻ってきたマクガバンが開口一番、「あいつは鉄人か?」と愚痴をこぼすほど真っ向勝負の打ち合いでもエレラは全く引けを取らなかったのだ。
それでも徐々に調子を上げてきたマクガバンは五ラウンドに二度のダウンを奪ってついに『西海岸の星』をカウントアウト。ボディブローが効かないと見るや、顎の先端に狙いを切り替えたマクガバンの作戦勝ちだった。
しかし負けたとはいえ、エレラの敗北の要因は経験不足からきたもので、マクガバンと戦わせたこと自体が時期尚早だったとする好意的な意見が多かった。マクガバンですらエレラのタフネスと強打を賞賛しており、近い将来チャンピオンになることを期待されていたが、不摂生が祟りその後のボクサー人生は尻すぼみだった。
エレラは大酒飲みである一方、試合前の控え室でも絶え間なく煙草をふかしているほどのヘビースモーカーだったのだ。そのため試合の序盤にKOで決着がつけられなければ、後半はスローダウンしてしまう傾向があった。
おそらくマクガバン戦でも、相手が相手だけにスタミナの消耗度がいつになく激しかったにもかかわらず、余力を残していたチャンピオンから打ち合いに引きずり込まれて墓穴を掘ってしまったというところが案外的を得ているのではないだろうか。
六人の挑戦者をことごとくKOで撃退したマクガバンの時代はまだまだ続くと思われたが、思わぬ伏兵の前に不覚を取ってしまう。
一九〇一年十一月二十八日、ヤング・コーベット二世を迎えて七度目の防衛戦に挑んだマクガバンは、速攻型であまりガードを重視しない欠点を逆手に取られた格好になった。
初回から激しく打ち合った両者だが、二ラウンドに入って最初にダウンを喫したのはマクガバンだった。不用意に右を喰らってマットに叩き付けられたマクガバンは、いきなりギアをトップにぶちこむや猛然と反撃し、今度は左フックでコーベットに片膝をつかせ、主導権を奪い返す。
いつものマクガバンなら、ここから一気呵成にフィニッシュなのだが、気合だけが空回りしてしまい、ノーガードでパンチを振り回しているところを再びコーベットに狙い打たれ、人生初のテンカウントを聴くはめになった。
二十世紀最初の年に年度最大の番狂わせで王座から滑り落ちたマクガバンだが、さすがにコーベットの勝ちはまぐれという声が多く、早速リターンマッチの運びとなった。
当初は一九〇二年八月二十九日、コネチカット州ニューロンドンでタイトルマッチが開催されることになり、チケットも販売されたが、試合の一週間前に州当局からの横槍でコネチカットでの試合が禁じられたため、翌年三月三十一日に延期された。
二十世紀に入ってもなお、ボクシングは野蛮なスポーツであると見る知識人、ブルジョアは少なくなかったのである。
コーベットは過去に三度KO負けの経験があるように、決して打たれ強くはない。しかもコーベットをKOしたうちの一人キッド・ブロードは、その数ヶ月前にマクガバンに判定で敗れていることから、リターンマッチの賭け率もマクガバンの優位は動かなかった。
試合序盤はまたしてもコーベットのペースだった。甘いガードの隙間を正確なブローで狙い打たれたマクガバンは一ラウンドと二ラウンドにダウンを奪われるが、ピンチを凌ぐとそこから驚異的な盛り返しを見せ、八ラウンドまでにはポイントを五分まで戻してしまう。
しかしマクガバンもここまでだった。そこからはガス欠に陥って動きが鈍くなり、十一ラウンドに右アッパーをまともに顎に喰らうと、再度のKO負けに退いた。
コーベットとはよほど相性が悪かったのだろう。タイトルを返上した後のコーベットに三度目の正直とばかり挑戦した試合も引き分けており、なぜか誰の目にも実力的には劣っているはずのコーベットに一度も勝てなかった。
無冠になってからも相変わらず強いマクガバンは一九〇六年には現役ライト級チャンピオンのバトリング・ネルソンともノンタイトルで対戦している。
人気者同士の対戦ということで注目を浴びたこの一戦、さすがに体格で勝るネルソンがニュースペーパージャッジで判定勝ちと現役王者の貫禄を見せたが、六ラウンドに渡る凄まじい打撃戦を展開し、マクガバンファンを喜ばせた。
リング上ではいまだに軽量級の強豪として絶大な人気があったが、ガードに難があったがゆえにこれまでに脳にかなりのダメージが蓄積したようで、まだ二十代の若さにもかかわらず認知症患者のような言動が目立ち始めた。
大の競馬好きだったマクガバンは、常軌を逸するような賭け方をして財産を大幅に目減りさせてゆく一方で、アポなしでホワイトハウスに出向いてボクシング好きで知られるセオドア・ルーズベルト大統領に面会を申し込み、「大統領、何かあったらいつでも私のところへ言ってきて下さいよ。力になりますから」などととんちんかんな話をして周囲を煙に巻くなど、さすがに放ってはおけない状態になった。
心配した友人たちがサナトリウムに入院させたものの、いつの間にか抜け出し、走行中の列車を止めて、「俺はテリー・マクガバンだ。ニューヨークの自宅まで乗せてくれ」と頼み込み、彼のことを知っていた親切な車掌の計らいで、ニューヨークまで送ってもらったこともある。
これではボクシングどころの話ではない。グローブを壁に吊るして闘病生活に入ったマクガバンは投資の失敗などで財産はびた一文残っていなかったが、旧知の仲間たちが義捐金を募ってくれたおかかげで、一年余の闘病生活を乗り越えて、実社会に復帰できるまでに回復した。
マクガバンはリングの上では無慈悲で、私生活は浪費家だったが、現役時代はブルックリンの貧困家庭の子供たちを自宅に招待して食事をさせるなど、面倒見がよく、地元では人情家として知られていた。
マクガバンは人気ボクサーだっただけに往年のファンからの義捐金もたくさん集まったが、子供の頃世話になった下町の住人たちも、成長してからは無償でマクガバンの仕事を手伝ってくれた。
マクガバンにはボクシングしか取り得がなかったが、幸いというか落ち目になったかつての宿敵ヤング・コーベット二世が自宅を訪ねてきたのを機に、ボードビルのような巡業ボクシングを始めると、これが結構当たってしばらくは巡業で食いつなぐことができた。
その評判を聞いたのか、これまた無一文になったジョージ・ディクソンまでが一時期この巡業に加わり(一九〇八年一月にアル中で死亡)、往年のレジェンドたちのエキジビションはあちこちの巡業先で評判になった。
またマクガバンには意外な才能があり、自分のボクシングのノウハウを一冊の本にまとめて出版したところ、ボクサーを目指す若者たちの間で一種のバイブル化し、長らく指導書として高い評価を得ることになった。それが一九一〇年刊の『How to box』である。
晩年は体調を崩し、長らく煩っていた腎炎と肺炎が原因で三十八歳の若さで亡くなった。
マクガバンの死から九年後には同い年のヤング・コーベット二世も貧困の中で心臓麻痺で急逝し、一時代を築いたフェザー級の強豪たちは揃いも揃ってあれほどかせいだドルを全て失って早死にしたことになる、
生涯戦績 六〇勝四敗(四十五KO)三引分 *六二勝四敗(四十七KO)説もある
テリーの速攻が通じたのは試合フィルムなどで癖を研究できない時代だったからこそだともいえる。ヤング・コーベットは熱くなるとノーガードでパンチを振り回すテリーのことを熟知していたのだろう。試合前にドレッシングルームを訪れて悪口を叩いたのも全て計算ずくだったのだ。




