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婚約破棄されて修道院でパン焼いたら、妹と元婚約者が滅びました

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学園で婚約破棄が流行ってますが、私は愛を叫びたい。

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――初めから、わかっていた。


「婚約を解消したい」


ルーカスの言葉に、私はゆっくりとカップを置いた。

紅茶の香りがやけに遠くに感じる。


「……そう。理由を、聞いてもいいかしら?」


「サラ、君のことは尊敬しているよ。

 けれど……僕はロゼッタと結婚したいんだ」


彼が、あの子に惚れることも。


彼の向かいで、妹のロゼッタが涙を浮かべていた。

白いレースの袖を揺らし、しおらしく俯く。


「ごめんなさい、お姉様……そんなつもりじゃ……」

「でも、ルーカス様がどうしてもって……」


妹が彼を欲しがることを――



ルーカス・ハートフィールド。

地方伯爵家の三男坊。

家督の見込みも領地の支配権もなく、

家の中では“便利な使い”に甘んじていた。


だからこそ、我が家との縁談は彼にとって願ってもない話だった。

食品商会を持つ父は「貴族の後ろ盾ができる」と喜び、

彼の家も「商家の資金と販路が手に入る」と乗り気だった。


そうして私は、彼と婚約した。

最初のうち、彼は誠実だった。

「勉強になるな」と目を細め、

取引先の意見も丁寧に聞いてくれた。


けれど次第に、足が向かう先が変わった。


“はじめまして、お姉様の婚約者様”


ロゼッタはわざと一歩、私の前に出た。

上目遣いでルーカスを見上げる。


「君が噂の妹君か」

「噂?どういう意味ですの?」

ロゼッタは目を伏せながら裾を摘んだ。


「とても愛らしいという噂だよ」

「まあ……光栄ですわ」


一見無邪気なその笑みの奥に、勝ち誇るような色が一瞬だけ走る。

私はその一瞬を見逃さなかった。

――やっぱりね。


それからというもの、彼が家を訪ねるたび、

現場ではなくサロンへ向かうようになった。

私には“商談がある”と言いながら、

彼の視線はいつもロゼッタの方へ向かっていた。



「…いいの。もう終わったことよ」


私は席を立ち、背筋を伸ばした。

「あなたたちの幸せを祈っているわ」


ロゼッタの涙がぴたりと止まる。

ルーカスが気まずげに目を逸らした。


ドアを閉めた瞬間、胸の奥に冷たい風が吹き抜ける。


――もう、あの家にはいられないわね。


私はその足で、実家が経営するパン屋へと向かった。

冷たい春風の中、屋敷の華やかさとは対照的に、石造りの店は静まり返っていた。

家の者も、妹も、誰ひとりここへは来ない。

パン屋は――放棄された私の、唯一の逃げ場だった。


裏口を開けると、温かい小麦の香りが胸をくすぐった。

窯の火がまだ赤く燃えている。


その前で、生地をこねているのは職人見習いの青年ルイ。

浅く焼けた小麦色の肌に、整った横顔。

もとはこの商家に仕えていたパン職人の息子で、

私が子どものころからよく厨房で顔を合わせていた。


「お嬢様、またそんなところに……粉だらけになりますよ」

「ええ、いいの。暇なんだもの」


ルイは笑って肩をすくめた。

「商家の娘が“暇”って、贅沢ですね」


「そうよ。羨ましいでしょう?」

私は小さく笑って、エプロンを手にした。


(今日は、この小麦にしよう)

北部から取り寄せたばかりの上質な小麦袋を開け、

香草と混ぜ合わせながらゆっくりと捏ねる。

小麦が指先にまとわりつき、ほのかな香りが立ちのぼった。


「そういえば、この前の“ハニー・ブリオッシュ”が評判だとか」

「ええ。たまたま貴婦人たちの間で“甘い朝食”が流行っていたのよ。

 だから蜂蜜を多めに使ったパンを出してみたの」

「流行を読むなんて……さすがです」


私は微笑む。

「みんなが欲しがるものを商品化したまでよ」


ルイが感心したように笑う。

「じゃあ今日はその次の流行ですか?」

「ふふ、かもしれないわね。――南の方で、香草を使った料理が流行っているらしいの。

 だからちょっと真似してみようかなって」


「香草パン……ですか?」

「ええ。保存も利くし、香りも良い。きっと、人気が出ると思うわ」


ルイは「南、ああ…なるほど」と相槌を打ち、やわらかく笑った。

「サラさんが焼くなら、何を作っても人気になりますよ」


「そう? じゃあ、これも“先取り”のパンになるといいわね」


私は手を止め、しばらく窯の炎を見つめていた。

火の粉がぱちりと弾け、小さな光が一瞬だけ舞う。

その音に紛れるように、静かに息を吐いた。


「ねえ」


「はい?」


「私の婚約、なくなったの」


青年の手が止まる。

「…え?」


「でもわかってたのよ。あの二人が出会った頃、まるで恋人のように見つめ合ってたわ」


私は淡々と笑った。

「それに…ロゼッタは、私のものは全部ほしがるから。

 ドレスも、髪飾りも、友人も。

 あの子が欲しがらないのは新聞くらいよ」


「そんな、まさか――」


「いいのよ。もう慣れたし」


火のはぜる音が、静寂を裂いた。

香草の香りが、ふいに少し苦く感じる。


「さ、パンが焼ける前に片付けしちゃいましょ」


青年は何も言えず、ただその背中を見つめていた。

私の肩越しに、炎がゆらめき、

その横顔をほんのりと照らしていた。



もともとこの家の食卓に、温もりというものはなかった。

母も父も、幼いころ病弱だったロゼッタばかりを気にかけ、

家の話題も、祝い事も、すべては彼女を中心に回っていた。


「お姉様、それちょうだい」


そう言って、ロゼッタは私の髪飾りや絵本を、当たり前のように持っていった。

渡さなければ、泣き喚いて家中を騒がせるから――結局、差し出すしかなかった。


返ってきたことは、一度もない。


私には「姉なのだから我慢しなさい」と言われ続け、

褒められることも、期待されることもなかった。


そんな日常の延長線上に、

この朝の沈黙もあるのだと、私はもう知っていた。


「…ルーカス様が、サラとの婚約を破棄して

 正式にロゼッタとの婚約を希望しているそうよ」


母の言葉は、パンを切るよりも淡々としていた。


「いいですわね、サラ。わかりましたか?」


父は新聞から目を上げもしない。

ロゼッタは隣でしゅんと肩をすくめ、俯いたふりをしている。


「お姉様……ごめんなさい。

 でも、ルーカス様の気持ちはもう決まっているの。

 お姉様なら……わかってくださいますよね?」


私は笑った。

「ええ、どうせあなたが欲しがることなんてわかっていたわ」


空気が止まる。反論すると思っていなかったのだろう。


母が咳払いをひとつ。

「あなたの今後のことだけど――」


「私は修道院に行こうと思います」


「え?」


「よろしいですか?」


母は眉をひ顰め、それでもすぐに口元を整えた。

「ええ、そうね。信仰の道に入ることは、恥を清める立派な選択よ。

 寄進も最低限で済むし、あなたの暮らしの面倒もいらない。

 あなたもそう思いませんか?」


父もようやく新聞を折り、面倒そうに付け加えた。

「……まぁ、妹の婚約も進む。

 そのほうが、話がややこしくならん」


ロゼッタは瞳を潤ませながら、

「お姉様……本当によろしいのでしょうか?」


私は静かに立ち上がり、微笑んだ。

「ええ、あなたもよかったわね。もう泣く“ふり”をしなくていいのだから」


ロゼッタの涙が止まる。

「サラ! ロゼッタになんてことを言うの!」


私は椅子を押し戻し、

その音が冷たい食卓に響いた。


「私はロゼッタに、すべて奪われてきたのですよ。

 ――最後くらい、言葉ぐらいは奪わせてください」


母の手が止まる。

私は一礼して部屋を出た。

廊下に漂うのは、 昨日パン屋で嗅いだ香草の匂いのような記憶。

焦げたその香りだけが、私の背を押していた。



窯の火が赤々と燃えていた。

パンの焦げる匂いが、どこか切なく感じる午後だった。


「……あんまりです」

粉のついた拳を握りしめ、ルイが低く言った。

「そんな身勝手な理由で、お嬢様との婚約を破棄するなんて」


私は静かに首を振る。

「いいのよ。両親も、どうでもいいと思っているわ。

 彼は三男坊だし、ロゼッタと結婚しても何も困らないもの」

私は、少し遠くを見るように目を伏せた。


「ルーカスの出資金で新しい工場を建てるつもりらしいの……いつも、思いつきばかり」


私は小さく息をつき、

「……だから、私、修道院に行くことにしたの」


ルイの手が止まった。

「……そんな、どうして……」


「もう限界、あの家にはいたくない……逃げたいのよ……」


私は微笑んだが、その目は少し赤かった。

粉の舞う空気の中、沈黙がふたりの間を包む。


これまで私はずっと冷遇されていた。


妹のお下がりのドレスに袖を通し、

彼女だけが新しい宝石を買い与えられ、


仕立て屋が屋敷に来ても、

採寸されるのはいつもロゼッタだけ。

私は、出来上がった服の余り布で袖を詰められる。


夏の避暑旅行も、

「留守番を頼むわね」の一言で終わった。


そんな時、私はいつもパン屋へ向かった。


これまで唯一、私に優しく接してくれたのが――ルイだった。


(ルイと別れるのは、辛いな……)


「……そう、ですか」

ルイはそれだけ言い、視線を落とした。


(伝えたい…でも、修道院へ行く身で彼を縛るわけにはいかないもの――)


「ねえ、ルイ」

「はい」

「私、修道院でパンを焼こうと思うの」


「……パンを?」


「ええ、きっと人気が出るわよ。そう思わない?」


ルイは一瞬、呆気にとられたように私を見つめ、

すぐに小さく笑った。


「……そうですね。お嬢様のパンなら、どこでも行列ですよ」


小さくため息をつき、それからいつもの微笑みに戻る。

「ふふ、じゃあ修道院初の“繁盛店”にしてみようかしら」

窯の熱に照らされたその笑顔は、どこか軽やかで、

それでもほんの少しだけ、寂しげだった。


私はふと、視線を落とす。

「ねえ、ルイ。……よかったら、会いに来て」


ルイは一瞬言葉を失い、それから静かにうなずいた。

「…ええ、もちろん…」


窯の炎がゆらりと揺れ、二人の影を重ねた。

やがて火が落ちる音がして、パンの焼ける香りが店いっぱいに広がる。


――それが、彼と過ごす最後の午後だった。



出発の朝。

部屋にある荷物といえば、古びた鞄ひとつと香草の小瓶だけだった。


「お姉様、そんな荷物で行かれるの?」


ロゼッタが部屋の戸口に立っていた。

ふわりとしたレースのドレス――もちろん新調されたばかり。

指には、ルーカスから贈られたという指輪が光っている。


「……本当に行かれるなんて。可哀想に」


「……」

私は淡々と支度を続けた。


ロゼッタは小首を傾げ、わざとらしく微笑む。

「修道院でもパンを焼かれるの?

 お姉様、庶民になられるなんて素敵。

 ……そういうの、お姉様にはお似合いですもの」


「そうね」

私は穏やかに答える。

「あなたはこれから、彼と運営側ね。

 せいぜい頑張って」


ロゼッタの笑みが一瞬かたまる。

私は香草の小瓶を鞄にしまい、扉を閉めた。


もう振り返ることはなかった。



外では、朝靄の中に馬車が待っていた。

もう振り返ることはなかった――はずだった。


「……お嬢様!」


振り向くと、粉のついた手で息を切らしたルイが駆けてきた。


「修道院に…俺も一緒に行きます」


「……え?」


「職人として、修道院に仕えます。もう申請済みです。お嬢様も、俺がいれば安心でしょう?」

ルイは笑いながら話す。


私は目を瞬かせた。

「……どうして、そこまで?」


私の問いに、ルイは少し息を整え、

まっすぐな目で見つめ返した。


「理由なんて、いりますか?」


「え?」


「好きなんです。

 サラ様――いやサラさんが。

 それだけです」


静かで、でも揺るぎのない声だった。


私の喉がかすかに震える。

「……でも、私は修道女になるの。三年は、外に出られないのよ?」


ルイは首を振った。

「待ちます。

 時間なんて、どうでもいいです。

 あなたが生きてる世界の中に、俺がいられたら、それでいい」


涙がにじむ視界の中で、

私はかすかに笑った。


「……ほんとに、ばかね」


震える指で、彼の手を取った。

その手は温かく、粉の香りがした。


朝靄の向こうで、鐘の音が鳴る。

新しい一日が、静かに始まろうとしていた。



志願書に署名してからの日々は、あっという間だった。

鐘の音で目を覚まし、祈りのあとに厨房へ向かう。

最初のうちは「商家の娘が道楽でパンを焼いている」と笑われていたが、

香草パンの香りが回廊に満ちる頃には、

誰もがその香りを待つようになっていた。


「サラ姉妹、今日のパンもいい香りですね」

「香草を少し多めにしたの。香りが長持ちするのよ」

「この香りがあるだけで、食堂が明るくなる気がします」


軽く会釈しながら、私は窯に向かう。

そこへ粉袋を抱えたルイが入ってきた。


「北部の商人から小麦が届きました。状態も上々です」

「ありがとう。あの人たち、もうすっかり協力的ね」

「ええ。東は値上がりが続いてますが、北部は安定してますし」


私は頷きながら、生地を叩いた。

「複数のルートを確保しておくのは当たり前よね。

 ……実家は“安いほうがいい”って、そればかりだったけれど」


ルイは少し笑って言う。

「前に働いてた商人もそうでしたよ。仕入れ先が一本しかなくて大混乱だって」


私は驚いたように顔を上げた。

「……本当に? やっぱり、そうなるのね」


ルイは粉袋を脇に置きながら、淡々と続けた。

「取引って、ひとつ滞るだけで全部が止まるんですよね。

 “安いから”で選ぶと、結局いちばん高くつくのに…どこも学ばない」


「なるほどね」

私はくすりと笑い、香草を指先で砕いた。


香草の粉が生地に散り、ふわりと香りが立つ。

その香りに修道女たちがまた足を止めた。


「今日のは特に香りが強いですね」

「ええ。神様が恵んでくださったのかもしれないわ」

「日頃の行いの賜物かしらね」


ルイが横で笑う。

「それでも、サラさんのパンは奇跡みたいですよ。

 あっという間に売り切れです」


「なら、もう少しだけ焼きましょう。

 ――お腹を空かせた人が、まだ並んでるはずだから」


窓の外では、香草の香りに惹かれて

修道院の門前に人々が列をなし始めていた。



昼下がりのサロンには、焼き菓子と紅茶の甘い香りが満ちていた。

ロゼッタは真新しい絹のドレスをまとい、指輪を光らせながら優雅に微笑んでいた。


「ええ、うちのルーカスがね。新しいパン工場を建てているの。

 “ロゼッタ・ブランド”って言うのよ。素敵でしょう?」


「まぁ……奥様ご自身のお名前を? なんてお洒落なの」


「だって私、パンが大好きですもの。

 香りの良いものを広めるって、素敵なことですわ」

「この前の“ハニー・ブリオッシュ”、とっても美味しかったですわ」

「あら、そうでしょう? あれ、私の発案なのよ」

取り巻きの令嬢たちが一斉に頷き、口々に賛辞を送る。

「羨ましいわ」「やっぱり見る目が違うわね」

ロゼッタは満足げに紅茶を口にした。


「でも……最近、市場では麦の値が上がっているとか?」

一人の令嬢が、紅茶をかき混ぜながらこぼした。

「うちなんて、取引先が困ってるって夫が嘆いていましたの」


ロゼッタは扇を軽く振り、笑顔で言い切る。

「まぁ大変ね。――でもうちは大丈夫ですの。

 東の大商会と長いお付き合いがありますのよ。

 多少値が上がっても、優先して分けてもらえるの」


「さすがですわ、奥様」

「やっぱり立派なお家は違いますわね」


ロゼッタは紅茶を一口飲み、満足げに微笑んだ。

そのとき、別の令嬢が話しかけた。


「そういえば最近、庶民の間で“香草パン”が流行っているんですって。修道院の前で行列ができるとか」


ロゼッタは一瞬だけ眉を上げ、軽く笑った。

「あら……香草? まあ、田舎くさい香りですこと。庶民らしいわね」

取り巻きたちが、同調するように笑い声を立てる。


背後の別卓では、かすかに別の話題が上がっていた。

「……南の港が荒れてるんですって」

「ええ、輸送が滞ってるとか」

けれどロゼッタはそんな声など耳に入らなかった。


笑い声が高く響くサロンの外では、

いつの間にか風が強まり、雲が陽光を覆い隠していた。



南の嵐の影響か、王都も連日の雨。

じめっとした空気が、回廊の石壁を湿らせていた。


厨房の奥でパンを焼いていた私のもとに、修道女の一人が駆けてきた。

「サラ姉妹、お客様が……外でお待ちです」


「お客様?」

聞き返すと、修道女は困ったように目を伏せた。

「……ご実家の方々です」


一瞬、手の中の木べらが止まる。

けれどすぐに、私は静かにうなずいた。

「わかりました。すぐに行きます」


──回廊に出ると、朝靄の中に三つの影が立っていた。

父、母、そしてロゼッタ。


父の顔は青ざめ、母は泣き腫らしたような目をしている。

ロゼッタは、上等なドレスの裾を握りしめ、唇を噛んでいた。


「……久しぶりね」

私の声は穏やかだった。


「サラ……頼む。家はもう持たない」

父の声は震えていた。

「麦の輸入が止まり、工場は稼働できん。

 湿気で焼いたパンもすぐにカビる始末だ。

 お前が修道院で扱っている麦を……少しだけでいい、譲ってくれないか」


私は静かに首を振った。

「申し訳ありません。その麦は修道院の所有物です。

 私の判断では動かせません」


母が縋るように言葉を重ねる。

「あなたがお願いすれば、分けてもらえるでしょう? 家族を助けると思って」


「いいえ。修道女が私的な願いで財を動かすことは、罪になります。

 私は、もう家の娘ではなく、修道院の一員です」


「サラ!」


ロゼッタが叫ぶように声を上げた。

「お願い、お姉様!香草パンをちょうだい!

 庶民の間では“腐らない奇跡のパン”って呼ばれてるの!

 あれを家の名前で売れば、工場も助かるの!」


最初は涙声で取り繕っていたロゼッタの口調が、じわりと上ずり、語尾が尖っていく。


私は静かに首を振った。

「あれは修道院の名で焼かれているパンよ。

“家の利益”のために名を使うことは、許されないの」


父が顔を歪める。

「お前は……それでも家族か!」


私は一歩だけ後ろに下がり、深く礼をした。

「家族だからこそ、私はあなたたちの“欲”を助けることはできません。

 神に誓った道を汚すわけにはいかないのです」


ロゼッタの瞳が揺れ、声が震える。

「……ずるい。姉様ばかり……!」


私は微笑んだ。

「ロゼッタ、残念ながら、もう譲れるものがないのよ。譲れるものは全て渡してきたでしょう?」


「なら戻ってきなさい!」

父が一歩踏み出す。

「修道院なんぞ捨てて、家を立て直すんだ!」


私は一瞬だけ目を閉じ、

そして、ゆっくりと首を横に振った。


「……戻ることもできません。誓願の期間は三年。

 そのあいだ、私はこの門を出ることを許されていないの」


その声に、門の外で控えていたルーカスが動いた。

「そうだ……サラ嬢。家族なら助け合うべきだ。君が戻ってくれれば、俺たちは――」


彼が門を押し開けようとした瞬間、

その前に修道女達が立ちはだかった。


「お下がりください」

低く、しかし揺るぎない声だった。

「ここは聖域です。俗世の者の立ち入りは許されません」


「だが俺達は家族なんだ――!」

「お帰りください」


鐘の音が響いた。

私はその音に合わせて、静かに祈りの姿勢を取る。

もう、誰の言葉も届かない。


ロゼッタが泣き崩れ、父と母が立ち尽くす。

門の向こうで、私は目を閉じ、

胸に手を当てた。


(…ようやく、本当に自由になれたのね…)


門が閉ざされ、

修道院の鐘がもう一度鳴り響いた。



修道院の鐘が鳴る頃、私はすでに旅支度を整えていた。

誓願の期間を満了し、教会の推薦と還俗の許可を得て、

遠方の港町へ移ることになった。


――実家の手から逃れ、なお教会の保護のもとで生きるために。

あのあと、商会も工場も立ち行かなくなり、家はすべて手放したと聞いた。

けれど、もう悲しみはなかった。


「ルイ、準備はできた?」

「もちろん」

「ふふ、ありがとう。新しい土地に向かうなんてワクワクするわね」


馬車の車輪が回り始める。

修道院の白壁が遠ざかるにつれ、胸の奥にあった重しが少しずつほどけていく。



嵐の夜、修道院の門を叩く音が響いた。

「開けろ! サラを出せ!!」


怒鳴り声とともに、泥にまみれた馬車が止まる。

手綱を握るのはルーカス、その後ろでロゼッタが金切り声を上げていた。


「お姉様は修道女をやめたはずよ! ここにいるんでしょう!?

出しなさいよ!!」


雷鳴が轟き、門前の灯が一瞬ゆらめく。

その光の中で、修道兵たちがすでに整列していた。


黒衣に銀の十字。

剣の柄に手を添えたまま、誰ひとり動かない。


そして奥から、白衣の修道女が静かに歩み出る。

雨粒がその肩を濡らしても、瞳はまっすぐだった。


「――お探しの“シスターサラ”は、もうおりません」


「はぁ!? どこへ行ったのよ!」

「神の導きにより、新たな地へ。お答えする義務はありません」


ロゼッタがヒステリックに叫び、門を蹴りつけた。

「ふざけないで! レシピを寄越しなさいよ! ――お姉様の物は、最初から私の物なのよ!」


その瞬間、修道兵が一歩前に出た。

剣がわずかに抜かれ、刃が月光を反射する。


「――聖域を汚す行為。背信および暴行未遂として、拘束いたします」


「なっ……何よそれ! 私を誰だと思っているの!?」

「神の前では皆平等ですよ」


修道女が静かに微笑んだ。

「違うのぉ! 私は特別なの!!」


「手遅れになる前にお連れください」


鉄の鎖が鳴り、修道兵が淡々と拘束する。

泣き叫ぶロゼッタ、蒼白のルーカス、崩れ落ちる父母。


馬車の扉が閉ざされ、車輪が軋む。

雨脚だけが強まり、泥の跳ねる音が夜気に吸い込まれていく。


修道院の上空では鐘が鳴り、

その音に合わせて修道女が祈りを捧げた。


「神よ、彼らに悟りを。――遅すぎたとしても」



穏やかな風が吹くその町に、私は小さな店を構えた。

白い壁の外に掲げられた看板には、

『麦と風の店』――と、金の文字で記されている。


朝早くから焼きたての香りが漂い、

通りを歩く人々が次々と立ち止まる。

窓の奥では、ルイがオーブンを覗き込みながら笑った。


「今日のパンも完売ですね」

「ふふ。でも次はリンゴのパンを焼こうかしら。季節の果実を使ったほうが喜ばれるもの」


「ほんと、サラさんは休まないなぁ」

「当たり前よ。…職人らしくていいでしょ?」


ルイが頷き、カウンターに並ぶパンを見やる。

そこには香草パンもあったが、隣には

木の実の入った黒パンや、海辺で採れた塩を使った丸パンも並んでいた。


「香草パンがきっかけだったけど、今は全部人気ですね」

「ええ。きっと“香り”じゃなくて、“想い”が届いているのよ」


私は柔らかく微笑み、焼きたてのパンを窯から取り出した。


「ねえ、ルイ」

「はい?」

「……あの頃より、うまく焼けてるでしょ?」

「ええ……それは、サラさんの笑顔が、あの頃よりずっと輝いていますから」


潮風がカーテンを揺らし、遠くで鐘が鳴る。

それは祈りの音ではなく、始まりの音だった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

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◇ロゼッタ・ブランドの後日談です(笑)

『地味妻扱いしたマウント夫人が勝手に自滅しました』

https://ncode.syosetu.com/n6558lf/



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― 新着の感想 ―
ヒロインが金と権力のある男とくっついてその男の力で無双するとかじゃなくて、真面目に修道院に仕えて元はそこそこのお嬢様なのにかなり下の部下だった男と誠実な愛を育むというのがすごくよかったです。 実家は食…
サラ姉妹って呼び方、エホバですか?
仮に修道院から小麦を融通してもらっても、それを持ち帰ったら結局同じ事になるのが分からないのだろうか。 よく今まで破綻しなかったなぁ…
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