変わるものと、変わらないものと
めでたいことがあった。
……他人に。
正確に言うと、友人に。あるいは、親友と言っていいのかもしれない。
その関係に特別性を感じることが許容されているのかについては、特段の意識のすり合わせをしている訳ではないので、厳密には分からない。それでも、関係性にしろ、他の何かしらの縁にしろ――およそ個人の感じ得る万象というものは、あくまでもその個人にとって感受された現象の範疇にのみ生じる解釈であり、故に相手の意思とは本質的に関係なく、私が只そう思うならば、彼は私の『親友』と呼んで差し支えなかった。
といったわけで、当の彼が私のことをどう思っているのかについては、敢えて語弊のある言い方をする限り、比較的にどうでもいいと考えている。
それはある種の信頼を示し、要するに
「憎からず思われてはいるだろうし、少なくとも嫌われてはいないはずだ」
という強力な前提が、相手の顔色を逐一気にする理由を奪い去っている……そういう感じの「甘え」がそこにある、ということだ。無論、それによって失われる配慮もまたそこにはあるだろうし、当の彼にとっては迷惑極まりない話ではあるのかもしれないが。嫌われる理由が無かった、とも断言は難しいし。
兎も角、その『親友』が、今日結婚式を挙げた。
有り難くも結婚式に招待され、一つの節目に立ち会う光栄をくれた、そういうこと。
結婚式にしろ、ついこの間(と言っても半年ほど前になるか)の北海道旅行にしろ、この世のあらゆる「予定」にあたる概念は、究極出不精であるところの私にとっては、それがどれだけ楽しみなことであってすら、一定程度は憂鬱な気掛かりである。要は「準備が要るのが面倒だ」という話なので、純粋に私の不出来のせいであり、関係者諸君はそのへんは気にしないでほしい。
まぁ、「気にしないでほしい」のであれば、最初から言うべきでもない。
それは分かってはいるのだが、実践が出来たことは殆ど無い。時と場を選べば、合理的規範に反する振る舞いを採ってもいいじゃない。人間なので。
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勿論、「人」は好きでも「人間」は嫌いだと公言しているようなやつの「人間なので」といった諦観、あるいは侮りに関して、これを真に受けるのはあまり妥当ではないのだけれど。
世の中には引くほど大量の人が跋扈しているわけで、私個人の目で見える範囲のそこそこの人より、感覚で知り得る見も知らん誰かの数が、それこそ比にならないほど多く居るのは間違いない。故に、大多数の人が悲観するほどに悪徳を良しとしているわけでもないのに、ごく一部の極彩色の如き存在感を放つ化物が、楽観するほどの悪徳なんかでは済まないから、
「人間ってのはァ! 所詮はそういう薄汚い存在なんだよッッ!」
みたいに解釈をしてしまうのも、あるいは無理からぬことであるような気がする。
そうであれば、そういった人間の好ましくない属性や特性にだけ目を向けるよりも、むしろ好ましい人の好ましい所以についてこそ、これを正しく見据えるほうが良いに決まっている。他者を愛するべきだという直感や規範に、いま一度説得力を持たせるために。実感のない空虚な道徳心ではなく、心底から願う望みとして。
そんなことは本当にどうでもよくて、果たして結婚式は終わったのである。
……なに? そこをちゃんと描写しろ?
はは、難しいことを仰る。私は事実を装飾して語る行為を、未だに苦手としている。そろそろ練習した方がいい気もするが、じゃあ例えば披露宴でいただいた大層美味しかった諸々の飯だって、
「美味しかった!」
以外に書けないような、あるいは書かないような感受性のものに……
などと諦めていては、出来るものも出来はしないな。どんなことだって、最初は出来ないことであったとしても、やるうちに出来るようになる、こともある。研鑽は、出来ないうちから積み上げる努力なのだから、出来るようになったらやるのでは、あまりにも遅い。そうであれば、やる必要もないと言えるし。
どちらにせよ、今回果たすべき描写は食事の話でもなく、飯がどう美味かったのかを話す必要は別にないのである。してもいいけど。
その一方で、ではそこにあった事実を列挙しながら、それぞれに感想を述べるような文章でいいのかと問われれば、やや首を捻らなくもない。そういう記録にもまた価値はあるのだし、価値の大小に関して言えば、事実と感情を基礎にして延々とくだを巻くような、さながら居酒屋で酔いながらする無駄話の如き駄文より、淡々と事実を記録するような記録の方が高価値であるのではないか、と思いもするが。
まぁ普段から価値を重視して文章を書いているわけでもないですし。うん。
とはいえ、そればかりでは芸が無い。山もないし、落ちもないし、意味もない。
ないない尽くしの文章よりは、一欠片でも輝くものがあれと願う、そういう儚い祈りを形にする。それが、私の生き方なのだと。
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近年では晩婚化だの少子化だの、未来に関してあまり前向きな話題は出なくなって久しい感じもある中で、めでたく結婚式を挙げるにいたり、知る人も知らん人も、多くの人々が『親友』を祝っていた。
それは一つの節目に過ぎなくとも、彼の生きた三十有余年のゴールであったと、そういう風にも思う。……いや、人生は結婚で終わりだよとかそういう話ではなく。そうであることを求め、紆余曲折の果てに事実そのように在ったということの、願いの結実。本当に、めでたいことだ。
思えば、色々とあったように思う。時間というものは意図に依らず勝手に流れていくものであり、故に意識して初めてそこに過去は生じるのだ、とも解釈出来るだろうか。
特段の意識も持たぬまま、強い力に流されて、巻き込まれ――否、便乗して。独りでは何者でもありえないような儚きものを、導いてくれた親友へ。それもまた私の選択であって、全てが誰かのおかげでも、あるいは誰かのせいでもないとは思いながら。
貴方がそうであったから、私もまたこうであることを、誇りに思う。
具体的に、何を誇ることがなくても。誰かと比較して、不出来を恥じることがあろうとも。誰かが肯定してくれている何かを、自分だけは決して信じられなかったとしてすらも。
本質的には、あるいは誰かが代わりでも良かったのだろうけれど。その過程に、私が関わりを持っていた事実を、誇りに思う。その縁に、意味や価値を見出している。
色々あったはずの思い出も、思い返してすぐに当たるのはだいたい摩訶ダミアナッツの件(※)だったりする。そういう心底どうでもいいような、馬鹿げた話が人生を彩るのかもしれない。今日のように大きな催事も、日常の些細な事情も、きっと大事な思い出になるものだ。
余程の不幸な展開がない限り、基本的にはある程度長いだろうと楽観出来る、人生において。それでも、生きている限りはなんだかんだで順風満帆とまでは行かないんだろうけども。
その道行きに、過度な不幸がないことを。そして、多幸のあることを願います。
人生の正解なんて、あるかどうかも分からないし。
いつかは必ず終わってしまう、その生き様に。幸福もそうだけど、何よりも納得があることを願います。
どうか幸せに、なんて言葉は無責任な感じもするけれど、それ以外に言うことはない。
……ないか? もしかしたら、あるかもしれない。ちょっとだけ真面目に探すか。
門出に、説教は要らない。
祝福に、悲観は要らない。
未来に、絶望は要らない。
必要なのは、やはり祝いの言葉のみ。
であるならば、なんかこう……独自性に溢れる言葉で。
きっとなんとかなるし、万象なんとでもなるよ。
そのうえで、目的を見据えてしっかり頑張れば、たぶん報われるに違いない。
でも、無理なこともあるかもしれない。そういうのは天に任せよう。それがいい。
以上。この度は、ご結婚おめでとうございます。誠に。誠に。
披露宴、面白かった。凄いって思った(語彙力)
※摩訶ダミアナッツ:『長月の長閑けき暮に望郷を』にて、微妙に詳しく語られている。興味があれば……そんなやついるか? そういえばそっちもこの結婚の話題にちょっとだけ関係あったね。