妄想にお付き合い下さい 5 異世界転生
「異世界転生モノ」というジャンルがある。活字離れが叫ばれる昨今でも、多くの書店の文庫やソフトカバーの棚をカラフルに彩り、読書の楽しさを思い出させ、煌めく時間を提供してくれる、売れるジャンルの筆頭と言えるだろう。
何らかの切っ掛けで、別の世界線を経験する――現状にどれだけ満足していても、そう思い描く人は多いことだろう。それを都合のいい空想、あるいは現実逃避として片付けることは簡単だが、もしかしたら、もう少々根深い問題かもしれない。
現在の秩序が通用しない世界とは、ある種、自らの暮らしている社会の崩壊と同義だ。実際に、当たり前の日常は一夜で姿を変えてしまうことがある。現在とまるで違う世界を想像するということは、もしかしたら、崩壊した社会を生き抜く為の予行演習として、予め人間の脳に組み込まれた危機管理システムの一環なのかもしれない。ならば、「異世界転生モノ」に感じる魅力に抗うことは難しい。それは、生きるという意志の延長線上に存在しているからだ。次から次へと生み出される様々な世界に魅了され、テスト勉強や明日の会議を忘れて活字に溺れてしまうのも致し方なし、である。
それだけに、作品をどれだけ差別化出来るかは重要だ。書店、読者に、一目で「この作品は違う」と思わせる必要が生じる。表紙の美しさ、帯のあおり、カバーに書かれるあらすじ、勿論それらは大事な要素だ。しかし、真っ先に読まれるのは、恐らく「タイトル」だろう。
どんな舞台で、どれだけ魅力的な要素が描かれているのか、恋愛、魔法、立身出世、主人公の目的はなんなのか、それらを端的に伝えるタイトルが、読者の手に取られ易いのは当然だ。その結果、書店に貼り出される「発売予定表」が、ルーペを使っても判読出来ない程小さな文字で埋まることになる。そして、目を眇めて読んだそれらの発売日を、首を長くして待つ間すらも楽しいものなのだ。
とは言え、余りに世界に入り込んでしまうのも考え物ではある。
空に浮かんだ男は困惑していた。
男の足元で、脚立と、頭から血を流しピクリとも動かない己の肉体が横たわっている。
彼の身体は鼻から一筋の血が流れ、首もおかしな角度で曲がっているではないか。
(あーこれ、完全に死んでるわ)
一瞬の出来事だったせいか、痛みを感じる暇も無かったのは幸いだった。
覚えているのは、浮遊感と衝撃。
普通はもっと慌てたりするものなのかもしれないが、男は己の死を冷静に受け止め、軒先の鳥の巣を覗き込むと、胸をなでおろす。巣の中にはもうすぐ巣立ちを迎えそうな雛が数羽、もぞもぞと羽を動かしていた。
ほんの数分前のことだ。
小動物が暴れるような音と鳴き声の尋常じゃない響きに目覚めた男は、布団から這い出しカーテンを開けた。昼近くの抜けるような青空に顔を顰め、陽光から逃れる様に地面に落とした男の視線の先で、何やら小さな塊がばたばたと藻掻いている。どうやら、軒下に営巣されたツバメの巣から雛が落ちてしまったようだ。近所には野良猫も多く、このままでは、雛は遠からず命を落とすことになるだろう。
男は溜息を吐き、数年前に購入したビニールの使い捨て手袋を二枚重ねで手に嵌めると、クローゼットの隅に立てかけてあった脚立を引っ張り出した。彼の住む部屋はアパートの一階の角部屋で、玄関を出て左に回り込めばツバメの巣のある軒下だ。
玄関を開けると、雛の声が一段と大きく聞こえる。それに釣られたのか、アパートの塀の上をこちらに向かってくる猫が男の目に入った。男は慌てて鳥の巣に向かい、抱えていた脚立を地面に下ろすと、落ちている雛をそっと拾い上げた。幸い、雛には目に見える怪我はないようだ。大人しくなった雛の、ほんのりと温かい身体をおそるおそる撫でてやると、雛は小さな頭を男の掌に擦り付けた。
男は雛を載せている手と反対側の手で脚立を拾い上げ、暫く使っていなかったせいかヒンジが固くなっているそれを、片手と脚で無理矢理開く。足を掛けると少しぐらついたが、深く気にせず雛を巣に戻し、地面を振り返ろうとしたその時、脚立が大きく傾いた。
僅かな浮遊感の後、男の意識は暗転した。
(こんな死に方は想定外だなぁ)
「案外、人生なんてそんなもんさ」
空にぷかぷかと浮き、これからどうしたものかと思案する男の耳のすぐ脇で、美声が聞こえた。
「うわっ!」
「えっ、なになに、どうした? あ、ボクか」
男は左肩の辺りから聞こえてきた声に、首を巡らせた。角度の関係でよく見えないが、どうやらそこには光り輝く小鳥が止まっているようだ。
(まさか、鳥が喋ったのか? ていうか、心を読まれた?)
「そりゃ、表層心理程度なら読むさ。ボク、妖精さんだから。さっきはツバメの子助けてくれて、ありがとうな。鳥の妖精として、ちゃーんとお礼しないとなぁ」
輝く小鳥は、深みのある渋い声で男に囁いた。
男は困惑した。妖精を自称する小鳥なんて、完全に面倒に巻き込まれるフラグではないか。死んでしまったのはまあいいとして、平凡で、ドラマなど何も起きなかった人生の最後に、こんな生き物(?)に話しかけられるとは、前世でどんな業を背負ったというのだろう。
小鳥は目に見えない地面でもあるかのように空中を数歩跳ね、やるせない思いで遠くを見詰める男の視界に無理矢理割り込んだ。
「んじゃ、行こか」
男は首を傾げた。行く、とは、何処にだろう。男が今理解出来るのは、小鳥が眩しすぎて目が痛いということだけだ。光から顔を背ける様に俯けば、地面に転がる己の死体が嫌でも目に映る。
「眩しかったか? 済まんな」
小鳥が光度を落としたのを感じ、男は顔を上げた。
「スズメ……」
「じゃないですぅ~、鳥の妖精さんです~。さっき名乗っただろ、何度も言わすなって。これはあれだ、世を忍ぶ仮の姿ってやつだ。スズメ目は鳥類の半数以上占めてるんだ、言ってみたら、この姿は鳥の代表みたいなもんだな」
本人……いや、本鳥の言う通り、スズメではないことは男にも分かる。普通のスズメはこんな厳つい声で喋ったりしないだろうし、勿論、翼を畳んだまま空中に静止することもない。だが、片手に収まりそうな小さな体、茶色い背中、目の周りと頬の黒い模様、忙しなく首を左右に捻る仕草は、完全にスズメのそれだ。男はただ妖精を見詰めることしか出来ずにいた。
男のリアクションが期待通りではなかったのか、妖精は首を捻った。
「おっかしいな、結構人間語喋れてると思うんだけど。Do you understand what I am trying to say?」
英語に切り替えられそうになって、男は慌てた。
「あ、日本語でお願いします……」
「やっぱり伝わってるじゃん、君、ノリ悪いって言われない? まあいいや、折角のこの機会、男なら潔くバーンと行ってみようや」
とりあえず、自称妖精からは悪意は感じられない。どちらかと言うと、親し気というか、馴れ馴れしいというか、居酒屋で絡んでくる酔っぱらいのおっさんの様な面倒臭さを漂わせている。
「失礼ですけど、そもそも貴方、本当に妖精さんなんですか?」
妖精は「敬語なんて他人行儀は無し無し」と、器用に右羽を首の前で振り、胸を張った。
「ボク、これまでもたまーにこっちの世界に来てたんだ。まあそんな訳で、こっちの事を全く知らないでもないんだよな。いやー、最近のこっちの世界は面白いな。ネットっての? 何でもすぐに分かるのな。あ、そうそう、お前さんのPCと携帯電話の履歴も、ちょろっと覗かせて貰ったで」
「ちょ……」
慌てる男に、妖精はウインクした。
「大丈夫大丈夫、時間無いし、軽ーくさらっただけだから! ちなみにボクは、お気に入りに入ってた『教えて先生~グラマーの先生はグラマラス~』より、『真夜中のメイド・ご主人様、馬におなり下さいませ』の女優の方が好みだった」
「おい!」
男のプライバシーは考慮されなかったようだ。確かにこんな図々しい存在に、敬語を使う必要は無いだろう。それよりも気になるのは、スズメ、いや、妖精さんとやらの先程の科白だ。自分はこのままどこかに連行されてしまうのだろうか。
「どっかに行くっていうか、分かり易く言うと、異世界転生するってことだな」
またもや男の心を読んだらしい妖精が、これで納得だろうとばかりに胸を張る。
しばし見詰め合う、一人と一羽。
沈黙を破ったのは男の方だった。
「もしかして、ツバメの雛を助けたから選ばれたってこと? 別に気にしないでいいのに。それより、成仏の仕方知ってる?」
妖精は首を傾げた。
「あれー? だってお前さん、異世界転生モノ、メッチャ読んでるっぽいじゃん? 本棚もラノベやら世界の神話やらの本だらけだし。何で『やったー、異世界転生してチート人生だー!』みたいにならんの?」
左右に首を捻る妖精の仕草は増々スズメ感を増し、最早只の可愛い小鳥だ。その仕草にほっこりはしたものの、やはり男の胸にそれ以上の感慨が湧くことはない。
容姿も頭脳も優れてるところは無い。スポーツに打ち込むでもない。念願だった仕事に就いても何とか生活するのがやっとの稼ぎで、プライベートでは親しいと呼べる相手も居ない。当然、恋人どころか、胸焦がす相手すら居ない。離れて暮らす家族とも微妙な仲だ。ギャンブルにドはまりすることもアルコールに溺れることもなく、代わり映えしない日々を繰り返すだけで、それを不満に思う気力も無い。
そんな、ないない尽くしの人間が、例え不思議な力で異世界に転生しても、心躍る冒険や輝かしい未来が待っているとは思えない。
「……っかー、寂しい、寂しすぎる! お前さん、まだ若いんだ。新しい人生踏み出してみてもいいんじゃない? あ、そうだ、ハーレムモノとかどうよ? それともやっぱ、魔法と冒険の血沸き肉躍るカンジがご所望? 最低スキルでの成り上がりとか? それとも下級貴族からの下剋上? いっそ、BLモノとかで新しい扉開いちゃう?」
最初こそ、必死で説得する妖精に多少の感謝の念を抱きもしたが、次第に親切以上の何かを感じ始めた男の胸の内で、警報がウーウーと鳴る。
(罠だ。罠のにおいがする)
「何言ってんの、そんなこと無いって。気のせい気のせい」
男の表層心理を読んだ妖精が、首を左右に振りながら屈伸し始めた。明らかに挙動不審だ。
「じゃ、なんでそんなに必死なの。あ、もしかして、転生先は人間じゃなくて、鳥だとか?」
「成程、それもあり……いや、大丈夫、ちゃんと人間属だから! あ、勿論希望するなら、オークとかゴブリンとかでもいいけど」
「何でそのチョイスなの、エルフとかにしてよ! いや、そんな大それたことは言わない、せめて、ケットシーとか、他にもこう、モンスターでも色々あるでしょ?」
妖精が大きく羽を広げ、小さな脚を片方、たしっ、と踏み出した。
「それだと、意外性が……」
「意外性って、どういうこと?」
男が顔を寄せると、あ、いや別に、と妖精が顔を背ける。そっぽを向いた妖精に、男がまた顔を寄せる。妖精は男と反対側に首を回す。どの角度に顔を向けても無言で顔を寄せ続ける男に、とうとう妖精が根負けした。
「……スイマセン。あわよくば、小説のネタにしようと思ってました……」
「ネタって、どういうこと?」
「ボク、人間界に引っ越したいんだよ。ボクの住む世界じゃ、小鳥の妖精なんて最弱の存在で、毎日がサバイバルなんだ……」
溜息を吐き、妖精が語り出した。
肩身の狭い妖精界から人間界に移住し、豊かな自然の残る山をいくつか買って、悠々自適にのんびりと暮らしたい。その為にも一山当てたいが、鳥の属性の飛翔能力を活かし妖精界と人間界を行き来することと、「鳥の為に自らを捧げた」者の望みを一つ叶える能力しか真面な能力は無い。鳥の妖精として至極まっとうな能力だが金に結び付くものではなく、他者の極浅い意識を読む能力を利用しようにも、用心深い相手だとそれも覚束ない。どうしたものかと人間界を放浪していた折、廃品回収に出されていた雑誌の山が妖精の目に留まった。何の気なしに一番上の雑誌のページを捲った妖精の羽毛に電流が走った。
これしかない、と。
「ラノベっての? ガチ妖精界出身のボクなら、簡単に書けるんじゃないかと思ってさ」
雑誌を一通り読み終え、その後は、荷物に紛れインターネットカフェに潜入して情報収集したり、こっそりウェブ小説を読んでいる電車待ちの学生等の頭上から画面を覗いたりと、妖精はここ一、二か月をラノベを読んで過ごした。
その結果得られた、自分の住む世界は思った以上にこちらの人間に受けが良さそうだ、という確信は、妖精に夢と希望を与えた。小説家なら正体を明かさずに稼げるかもしれない。もしも作品がアニメ化でもされれば、一気に大金を手にすることも出来そうだ。
問題は、何がこっちの世界で受けるのか、今一つぴんと来ないことだ。
「自分の当たり前が、他人にも当たり前かって言ったら、そうとも限らないじゃん? その逆だって同じことだし」
妖精はサンプルを求めることにした。簡単に丸め込めそうで、鳥の為に身を捧げるような人の良い魂、そういう人材を異世界に放り込み、経過観察をドキュメンタリー風に書けば、それなりの物が出来上がるのではないだろうか。
妖精はちゅんちゅんと笑った。
「そんな都合のいい人間なんてそうそう出くわす筈が無いと思ってたんだけど、探せば何とかなるもんだなぁ」
「……なめるな……」
「え?」
「なめるな!」
男の怒号に、妖精は慌てて言い訳を始めた。
「いや、決してお前さんを馬鹿にしてる訳じゃないって。まあ、色々黙ってたのは申し訳ないと……」
「そんなことはどうでもいい!」
「ええ?」
妖精は男の表層意識を読もうと試みたが、相手の感情が強すぎて上手くいかない。こんなに腹を立ててる人間に会うのは初めてのことで、おろおろと右往左往する妖精は、いたずらにスズメ度を上げるのが精一杯だ。
男が妖精に顔を寄せた。
「いいか、良く聞け」
「へ、へい……」
「ラノベの世界は奥が深いんだ。お前が言ってたようなジャンルは、それこそ既に出尽くしている。ハーレムものも、冒険ものも、何ならオークとゴブリンのBLものだって、探せば何処かにあるだろう」
「マジで?」
驚く妖精に、男は頷いた。
「人の想像力は無限だ。誰にでも書けそう、楽して金儲けイェーイ、みたいな簡単な気持ちで踏み込んでいい領域じゃないんだ。『魔界で魔王を倒すまで帰れないって言われたけど、帰りたくないから魔王と友好関係を築くことにしたら、いつの間にか俺が魔王になってた。これから世界征服に向かいます』。これをどう思う?」
「は?」
「は? じゃない。今のタイトルをどう思う?」
「あ、タイトルだったんだ、それ。けど、そんな内容まるわかりのタイトルだと、わざわざ中身読もうと思わなくない?」
「馬鹿野郎!」
「ひい!」
男の剣幕に妖精の羽毛が逆立つ。身体を膨らませてぷるぷると震えるスズメに、男は容赦なく続けた。
「先に情報を提示するというのは確かにリスキーだ。だが同時に、世界観の共有と、落ちへの期待を読者に与えるということでもある。即ち、それだけ読ませる自信があると言うことだ。覚悟の表れ、と言ってもいい。お約束と秀逸なエンディング、そして、その過程で繰り広げられるドラマチックな展開はタイトルだけじゃ分からない、寧ろ……」
「その話、長くなる?」
妖精の言葉を無視し、男の講義は続く。そして、三十分も経った頃。
「……つまり異世界転生モノとは、不自由の中の……」
「あの、もうそろそろ……」
「キャーッ」
辺りに悲鳴が響いた。我に返った男と妖精の足元で、顔面蒼白の女が、大きく見開いた目で地面に転がる男の身体を凝視し、手にした竹箒に縋り身体を震わせている。
女は男の住むアパートの大家で、隣の敷地に居を構えている。偶々アパートの手入れに来て、運悪く男の死体に遭遇したのだろう。無論、男の魂も妖精も彼女には見えている様子はない。
「やだ、ちょっとアナタ大丈夫? ねえ、まさか、死……だ、誰かー! 誰か来てー! ウチのアパートが事故物件になっちゃうわー!」
どこかに向かって駆け出した女の後ろ姿に、男は顔を顰めた。
「事故物件って……まあでも、大家さんからしたら大問題か。そう言えばさっきは聞き流したけど、妖精さんは『鳥に身を捧げた者の願いを一つ叶える』ことが出来るんだろ? どんな願いでも叶えられるの?」
「あ、ハイ」
「じゃあ、生き返らせて」
妖精はがくりと肩を、いや、翼を落とした。
「あーあ、そう来ると思った。そう言いだす前に招致したかったのに……」
「この期に及んで、まだ僕のこと異世界転生させようと思ってんの? 君は、綺羅星の如く輝かしい才能達が犇めく業界で、やっていく覚悟があるって言うのか?」
「いやいや、もう全然です! 自分浅はかでした、サーセン!」
妖精は慌てて首を振り、また翼を落とした。
「いい案だと思ったんだけどな……ああ、どうやって金稼ごう……」
妖精の落胆ぶりに、男も流石に哀れを覚える。
「君の世界、妖精界だっけ? そっちにも読書を楽しむって概念はあるの?」
「? そりゃあるさ。お堅い本ばっかだから、最近の若いヤツ等は活字離れが進んでるみたいだけど」
それがどうしたと言いたげに、妖精が首を傾げた。
「なら若者向けに、君がこっちの世界の事を書けばいいじゃん。妖精界のラノベのパイオニアになれば?」
男の言葉に、妖精の顔が輝いた。
「そうか! あっちならまだライバルが居ないジャンルだ、上手くすりゃお大尽暮らしだって夢じゃない」
妖精は興奮して羽をばたつかせ、地面に横たわる男の身体に飛び乗った。
「よっしゃ、そしたらお前さんの事、さくっと生き返らせたる。折れた首はサービスで治してやるからな。いいこと教えて貰った礼や」
「あ、うん。そもそも、このままだと生き返れなさそうだしね」
妖精の身体が光を帯びた。
「ちゅんちゅん、ちゅちゅちゅちゅちゅん、そーれ☆」
ぷり。
妖精は気合いを入れて尻から光る何かをひり出し、それを死体の首元に落とした。
「え、ちょ、なんで急に人の死体にう〇こしたの、汚ないなぁ! いや、もしかして、妖精だからう〇こなんてしな……」
「大丈夫、ボクの糞は治癒効果があるから」
「ガチう〇こじゃねぇか!」
「う〇こう〇こ五月蠅いな、ほら、ちゃんと治ったよ。美肌効果で首の皺もこの通りぴんぴん、まあ、ウグイスの糞みたいなもんだよ」
「首の皺なんて元から無いよ」
妖精の言う通り、さっきまで不自然に曲がっていた首は自然な角度に戻っている。男は瞠目した。
「小説より、う〇この方がよっぽど金儲け出来そうだ」
「量産出来ないし無理だな。さ、後は……」
妖精は、自分の死体を見下ろす男の背後にぴょんぴょんと回り込んだ。
「お返りなさい、オラァ!!」
「がふん!」
小さな身体からは想像つかない力強さで、妖精は振り向きざまの男の頭頂部に踵落としを食らわせた。
ざわざわとした気配に、男は目覚めた。目に飛び込んだのは、こちらを覗き込む救急隊員、抜けるような青空、そして、何処かへと飛び去るスズメの後ろ姿。
「大丈夫ですか? ここが何処かわかりますか? お名前言えますか?」
思いの外しっかりと受け答えをする男を、救急隊員達は手際良く担架に乗せ、救急車へと運ぶ。男達を遠巻きに窺うギャラリー達の中には、「首が、首が曲がって」と必死に訴えている大家の姿があった。
運良く搬送先の病院がすぐに決まり、男を乗せた救急車は走り出す。
「どこか痛む所はありますか? 吐き気はありますか?」
救急隊員に問われた男は、何となく頭頂部に感じる違和感に先程妖精から受けた仕打ちを思い出し、不機嫌に答えた。
「……気持ち悪くはないけど、気分は悪いです」
「えっ?」
「いえ、何でもありません。大丈夫です」
男は鼻の下にむず痒さを覚え、何気なく手で擦った。べとりとした感触に思わず顔を顰め、手の甲を見ると、乾きかけの血液で赤黒く染まっている。救急隊員が「急に動かないで」と注意しながら、除菌用シートで男の手と口元を拭ってくれた。
(これ、本当に脚立から落ちた時のか? あいつに脳天決められたせいで出たんじゃないの?)
文句を言うべき相手は既に何処かへと飛び去っている。それでも無事生き返れたらしい事実に、男は感謝もしていた。
(別に、生きててもいいことある訳じゃないけどさ)
モブが異世界に行った所で、第二のモブ人生を歩むだけだ。二倍も退屈な人生を過ごす位なら、今の生活を全うする方がまだましだ。
病院では幾つかの検査を受け、ダメージは軽い打ち身だけと分かると、男は翌日には退院することが出来た。アパートの自室に帰り着き、男はつい今しがた大家から預かった合鍵を机に置いた。
(合鍵を返す時に、菓子折りでも持って行った方がいいよな)
救急車で運ばれた男の為に、大家が合鍵で戸締りをしてくれていたのだ。敷きっぱなしの布団と本棚、机とその上のデスクトップPCだけの、盗られるものなど大して無い部屋だが、心遣いがありがたかった。大家宅を訪ねた際に「首は……」と胡乱な目で見られた事と、事故物件云々の件は忘れることにしよう、と男は一人頷く。
男は、大家へのお礼を買いに行くべく机の上に並べられた携帯電話と財布に手を伸ばしかけ、ふと動きを止めると身体の向きを変え、本棚と壁の間の五cm程の隙間に手を伸ばした。
(そう言えば妖精さん、こっちには気付かなかったみたいだな)
男が手にしたタブレットは、彼の仕事に欠かせない相棒だ。安堵の息を漏らした男の携帯電話が鳴った。
「もしもし」
「あ、良かった、繋がった……もしもし、伊藤です。昨日はどうしたんです? 全然連絡つかないから心配したんですよ」
「あ、スイマセン、実はちょっと病院に行ってまして……」
「えっ、ちょっと、大丈夫ですか?」
電話の相手は男の担当編集者だ。デビューして以来、三年程の付き合いになる。
「大丈夫、大丈夫、ちょっと転んだだけなんで。頭部の精密検査なんて初めてだから、結構面白かったですよ」
伊藤は溜息を吐いた。
「まあ、無事だったら良かったですけど。ところで、もうすぐ締め切りですよ。まあ、今まで締め切り破られたことはありませんし、信用してますけど」
「勿論ですとも。僕なんて、締め切り守る位しか取り柄ありませんしね」
「その科白、ファンが泣きますよ」
男がラノベ作家としてデビューして三年目、未だ広く愛される作品を生み出すことは出来ていないが、独特な作風には熱烈な固定ファンもついている。
五分程で、業務連絡に一区切りがついた。
「……では、次回の話はそんな感じでお願いします。改めてメールしますね。ところで、以前からお伝えしてる通り、弊社で来年創設予定の賞のことなんですが。今迄の作風と少し違うとは思いますが、どうでしょう、新境地ということで、応募用に一本書いて頂く訳には……」
「はい、よろしくお願いします」
変化を好まない男の意外な程あっさりとした受諾に、編集者は拍子抜けした。
「絶対断られると思ってました。いや、嬉しいです! 編集としても、私個人としても。何か心境の変化でもありましたか?」
「罪滅ぼしです」
「え?」
「いえ、何でもありません。それじゃ、その応募用の要綱も、メールして頂いてもいいですか?」
勿論です、と編集者の力強い返事で、電話は切れた。
窓の外から聞こえるツバメの声に記憶が刺激され、スズメにそっくりな妖精の姿を思い出す。
(悪いね、これ以上、ライバルを増やしたくなかったからさ)
生き返る目があるなら、新たなモブ人生より、現状維持の方が余程良い。序に、ライバルになるかもしれない新たな芽を摘めるなら尚良い。いや、業界の右も左も分からない妖精の夢など、寧ろ諦めさせてやった方が親切と言うものだろう。それだけじゃ食っていけない人間なんて、掃いて捨てる程いる業界だ。
男の口元に笑みが浮かぶ。この業界で生き残るには、才能や努力だけではなく強かさが必要だ。ライバル候補を出し抜き、あらゆる体験を活かせる強かさが。
(早速、構想練らなきゃ。タイトルは、そうだな『自称妖精の小鳥に拉致された異世界を口八丁で乗り切って、おうちに帰るまでが遠足です』ってところかな)
沢山のタイトル達は、今日も書店の平台や棚差しされた図書室の一角で、或いはデジタルの海で揺蕩い、サルベージされるのを待っている。その一つ一つにダイブし心行くまで浸る愉しみは、何物にも代え難い。没頭するあまり、親やパートナーの声が耳に入らずに怒られた経験のある人も多いだろう。本能に根差す欲求を抑える労力よりも、甘んじてお叱りを受ける方が簡単に思えてしまうのだ。だが、注意と覚悟も必要だ。程々にしておかないと、本来の自分の世界に居場所がなくなる可能性は十分にある。帰る場所あってこその旅なのは、間違いないのだから。