鳴かない文鳥
「チュン、チュン、チュン、チュン」
鳥籠の中で鳴いている。
黒と、灰色の羽。白色の身体。ピンク色の嘴。
僕はその美しさに惚れて、2週間前、ペットショップで文鳥を買ってしまった。
毎朝起きると、鳥籠の黒いカバーを外す。すると、チュン、チュン、と鳴きだす。
一人暮らしで恋人もいない僕にとって、文鳥の存在は大きかった。守るべきものができた、という感じだろうか。
可愛らしいものだ。鳥籠の中で、パタパタと羽ばたく姿を見ながら、僕はにやけてしまう。しばらく見て満足すると、朝ご飯を食べ、会社に行く支度をする。それが毎朝の習慣だ。
就職して3年目。そろそろ恋人でも欲しいな、と思っていたが、残念ながら恋人ができる気配はなかった。色々と試してみたけど、付き合いたいと思える人には出会わず、僕は恋人探しを諦めた。その代わり、文鳥を飼った。
文鳥は良い。面倒を見るだけで、癒される。それで不足を感じないのであれば、わざわざ恋人を作る必要なんてない。
「ね?」
「チュン、チュン、チュン、チュン」
―――ああ、そう思っていたのに。どうしていつもこうなるんだろう。諦めた、と思うと、途端に一筋の光が差してくることがある。
文鳥を飼うようになってから、餌を買うために定期的にペットショップに行くようになった。行くと言っても、2か月に1回程度だが、それでも、ペットショップにいる店員を覚えてしまい、その中の女性店員の一人と仲良くなってしまった。彼女は文鳥の飼育を担当していて、籠の中に何を入れたらいいか、とか、文鳥が元気ないときどうすればいいか、とかを教えてくれた。
その女性はスズさんと呼ばれていた。僕と同じ26歳だった。背が低く、少し太っていて、申し訳ないけど外見でハッと惹かれるようなところはなかった。でも話してみると気さくな人で、明るい人だった。
それで仲良くなって文鳥以外の話もするようになり、今度一緒にご飯でも、という話になった。そしていまや、毎日連絡を取り合うようになっている。これまで彼女ができたことなんてなかったから、本当に、毎日、にやにやが止まらない。携帯を見るたびに、彼女から連絡が来ていないかとメールを確かめてしまう。これも全て文鳥を飼ったおかげだ。恋のキューピッドだ。なんて素晴らしいんだろう。
「ほんと、お前には感謝しているよ」
「チュン、チュン、チュン、チュン」
僕はしょっちゅう、文鳥の写真を撮り、彼女に送った。2人とも文鳥が好きだから、必ず盛り上がる。2人の間を繋ぐ架け橋になっている。
ある朝、僕がいつものように鳥籠のカバーを外して、おはよう、と声をかけたとき、ちょっと気になったことがあった。文鳥のピンク色の嘴に、小さく、何か白い膨らみのようなものができていた。
「あれ、どうしたんだろう?」
「チュン、チュン、チュン、チュン」
「なんか、腫れみたいなのができてるね」
「チュン、チュン、チュン、チュン」
「スズさんに相談かな・・・」
写真を撮って、スズさんに送信した。彼女からは、すぐに返信が返ってきた。
『あー、感染症かもねぇ』
『感染症?』
『うん、一度、病院で診てもらった方がいいかも』
『え、そんなにひどいの?』
『私も専門家じゃないから、ちょっとそこらへんはわかんないんだけどね。一応、診せに行った方が良いと思うよ』
『今週の土日、見に来てくれない?』
『いいよー』
『有難う!大好き!』
『私も!』
改めて思うと馬鹿みたいなカップルだけど、まあ、大好きなんだからしょうがない。それでその週、彼女に家に来て見てもらったが、やっぱり病院に一度診せに行った方がいいということになった。面倒がかかるものだ。
翌週の土曜日、病院に診せに行った。先生は、「まだ感染症かどうかはわからないね」、と言った。「ちょっとしばらく様子を見ようか。また2週間後に、もう一度診せに来てくれるかな」、と言われた。
様子を見る、と言われると、いつまでも気になってしまう。処置できるなら、早く処置してほしい。でもまあ、専門家の言うことだ。大人しく従っておこう。
これまで通り世話を続けた。そんなある日、スズさんと一緒にショッピングセンターに行った。スズさんに、洋服を買うから付き添ってくれと言われたのだ。僕はファッションに無頓着だから、「これ、どう?」と聞かれても、「うーん、良いと思う」、と半ば適当に返していた。僕なんかよりもスズさんの方がお洒落だと思うし、僕になんか聞かなくて良いと思うけどな、と思っていた。
彼女はそれでも試着しては、「これどう?」、と聞いてきた。彼女は2時間ぐらいかけてようやく気が済むまで買い物ができたようで、2人でフードコートへ休憩に行った。甘いものが食べたい気分だったので、2人でソフトクリームを買い、食べた。幸せだった。幸せだと思っていた。
スズさんがコーンを齧っていたとき、僕の方を見もせず、遠くを眺めながら言った。
「別れよっか?私たち」
「え?」
僕は口に入れたものを吐き出しそうになった。
「え?いま、なんて言った?」
「別れよっか?」スズさんは僕の顔を見て言った。彼女は真顔だった。
「冗談だよね?」
「ううん」スズさんは首を振った。
「どうして?なんかあった?」
「ないよ」
「じゃあ、どうして?そんな突然に言われても困るよ」
「・・・なんとなく」
「そんな適当な理由ないでしょ?僕のこと、嫌いになった?」
「ううん」
「じゃあ、何で?」
スズさんは何か言いたいことがあるように見えた。でも、それを抑え込んでいるように見えた。
「もう充分、幸せだったから。ここで止めたいの」
「どういうこと?これからだって・・・」
「私、幸せになっちゃいけないの。そういう人間じゃないの」
「意味わかんないよ」僕は頭が真っ白だった。
「ごめんね、楽しかったよ。洋服付き合ってくれて、ありがとね」
「ねぇ、ちょっと待って。ここで別れるつもり?」
「そうだよ」
彼女は立ち上がった。こんな一方的な別れ方ってあるか?もうちょっと相談とか、そういうのはないのか?あまりに突然で、頭がうまく働かなかった。
「ねぇ、せめてもうちょっと待ってよ。一度、ちゃんとした場で話合おう?不満があるなら言って」
「ないよ。大好き。だから別れるの。一番幸せなときに、別れたいの。自分への罰として」
「自分への罰って・・・」
「ありがとう」
スズさんは背を向け、洋服の入ったバッグを持って、歩いていった。僕はそれを追いかけることができなかった。スズさんが怖かった。僕が知らない、スズさんだった。
テーブルに座り、1時間も2時間も呆然としていた。ソフトクリームはとっくに溶けた。意味がわからない。本当に、意味がわからない。何がどうなったっていうんだ。どうしてこんなところで、突然別れ話を切り出されたんだ?どうして僕の気持ちを全く聞いてくれなかったんだ?
怒りも、悲しみも、驚きも、全部ごっちゃだった。どうすればいいんだ?どうすれば・・・?
どうしようもなかった。ドロドロに溶けたソフトクリームを捨て、家に帰った。帰ると、文鳥が鳴いていた。その鳴き声に癒されることはなかった。彼女を思い出し、余計辛くなった。ベッドで横になった。
心臓がはちきれて、身体中から血が飛び出そうだった。ベッドが水びだしになるほど、泣いた。ただただ、やりきれなかった。
失意の中、日が過ぎていった。文鳥の声をもう聴きたくなかった。それでも世話をしないわけにいかないから、毎朝カバーを外し、餌をやり、水を取り替えた。でも相変わらず文鳥の世話をしていると、スズさんのことが思い出された。僕は彼女のことが好きだった。彼女にまた会いたかった。
だが僕は使うペットショップを変えた。わざわざ電車に乗って遠くへ行き、餌を買いに行った。
恋愛って、こんなに辛いものか?幸せだから別れたいなんて、聞いたことがない。もう二度と、するものか。もう、二度と・・・
「チュン、チュン、チュン、チュン」
文鳥の嘴にできていた膨らみは、どうしてかはわからないけど、いつの間にか消えていた。医者にも診せに行ったが、消えたのなら問題ない。また気になることがあったら、診せに来てくれと言われた。
起きたら文鳥の世話をし、会社に行く日々が続いた。そんなある日の会社帰り、道を歩いていると何か気になるものを見たような気がした。僕は横を振り向いた。車道を挟んだ向う側の歩道を、2人の男女が歩いていた。女性の横顔に、見覚えがあった・・・
スズさん?
間違いなかった。もう一人は、知らない若い男だった。僕はつい身体が自然に動き、横断歩道を渡って2人の前まで行った。
スズさんが唖然とした顔で僕の方を見ていた。
「どうして・・・?」
「そういうことだったんですね」僕は言った。
背が高くて、眼鏡をかけた、いかにも頭の良さそうな男だった。スズさんは僕の方へ寄ってきた。
「・・・ごめんね」
「ごめんね、じゃないですよ。説明してください」僕は怒りに震えながら言った。
スズさんの目に涙が溢れていた。
「私、婚約していたの・・・」
「え?」
スズさんの手を見ると、指輪がはまっていた。若い男の方を見ると、男の薬指にも同じ指輪がはまっていた。
「最初から?僕と付き合ったときから?」
スズさんはコクリと頷いた。
「そんな・・・」
「ごめんなさい!」彼女が頭を下げた。僕はその姿を呆然と眺めていた。
「・・・なんで?どうして?」
スズさんはずっと頭を下げたまま、上げなかった。
「好きだった。ほんとに大好きだった。なのに・・・」僕はまた頭の中が真っ白になった・・・。彼女はいつまでも頭を上げなかった。
家に帰ったとき、僕は魂の抜け殻みたいになっていた。初めての恋人に、実は彼氏がいた。僕は、遊ばれていた・・・。
彼女は僕のことを好きじゃなかったんだろうか?全部、演技だったんだろうか?心の中で、嗤っていたんだろうか?
「なんで、なんでだよ」
僕は近くにあったゴミ箱を壁に思い切り投げつけた。
「チュン、チュン、チュン、チュン」
「何でだよ!何で僕はいつもこうなんだよ!」
「チュン、チュン、チュン、チュン」
「うるせえよ、チュン、チュン、チュン、チュン。黙ってろよ!お前も僕を嗤ってるのか?」
「チュン、チュン、チュン、チュン」
「ああ、もう!」
僕は玄関の方へ行った。鳴き声を聞きたくなかった。玄関でうずくまり、泣いた。胸をかきむしるように、泣いた。慰めてくれる人はいなかった。
翌朝起きて、世話をしないわけにはいかないから文鳥に餌をやり、水を取り替えた。文鳥は鳴いていなかった。朝食を食べ、会社へ行った。仕事は、プライベートの煩いを忘れさせてくれた。仕事があることをこんなに有り難く感じたのは、入社以来初めてだった。会社から帰ってくると、冷凍してある夕食を食べた。仕事をしていないと、とたんにスズさんのことを思い出す。彼女の困惑した顔。薬指の指輪。何もわかってなさそうな、男の顔・・・。
だから人間は嫌なんだ。もともと料理は得意じゃないが、さらに不味く感じられた。皿を洗い、風呂に入り、文鳥にカバーをかけようとした。そのときふと、今日、文鳥の鳴き声を一度も聞いていないことに気づいた。じっと文鳥を見たが、特に何か気になるところはなかった。嘴の膨らみもなくなっているし、弱っているということもなさそうだ。ただ、鳴かないだけだ。まあ、そういうこともあるだろう。そう思い、カバーをかけた。
次の日、またいつものようにカバーを外したが、文鳥は止まり木の上に静止したまま、全く鳴かず、僕の方を見ていた。
「どうしたんだよ?いつもみたいに鳴いてくれないのか?」
「・・・・・・」
「おかしいなぁ」
僕が籠を軽く叩くと、文鳥は籠の中でパタパタと羽ばたいた。でも、鳴くことはなかった。
今週また病院に行った方がいいか?スズさんに相談したい。でもそれは勿論不可能だった。木曜日、金曜日、と朝夕、様子を見たが、鳴くことはなかった。突然、声を失ってしまったかのようだった。
土曜日の午前、また病院に連れていった。医者は鳥籠に入れた状態でちょっと叩いてみたり、手にとって嘴を確認したりしていたが、どうやら原因はわからないようだった。
「うーん、健康状態に問題は無さそうに見えるね。突然、鳴かなくなるっていうのは、よくある話ではあるんだよ。だいたい、環境の変化とか、ストレスが原因だね。何か、心当たりみたいなのはない?」
「ストレス・・・。ずっと同じ場所で飼っているので、環境の変化とかはないはずなんですけど」
「そうか。うーん、なんだろうね」医者は考え込んでいた。
「・・・あの、強いて言うと思い当たるのは、ちょっと、僕が嫌なことがあったとき、部屋で物を投げてしまったときがあって・・・」
「なるほど」
「それが原因ですか・・・?」
「うーん、それはちょっとわからないけど、可能性はあるかもね」
「・・・どうすればいいんですか?」
「見守るしかないよ。今まで以上に愛情をもって世話をしてやりなさい。地道に世話を続けていれば、いつか突然、治るかもしれないから」
「そうなんですか?」
「私も確信をもてるようなことは言えないけどね、きっと君の態度にかかっているんじゃないか、という気がするよ」
「そうですか」
「大丈夫。この子、君のことをよく信頼しているみたいだから。さっき私が触ったときは暴れかけてたけど、君が触ったときはすごく大人しかったからね。私も文鳥に触るのは慣れてるんだけど」
「・・・わかりました」
僕は文鳥を持ち帰り、これまで以上に、愛情をもって接するように心がけた。朝起こすときは必ず、おはようと明るく声をかけ、こまめに掃除もしてやった。
しかし、1か月、2か月、経っても、鳴き声が戻ることはなかった。もうもしかしたら、一生このままなんじゃないか・・・?
見た目には、特に何も問題は無さそうに見えるし、餌も食べてるし、水も飲んでいる。動きも弱っているようなところは見えない。声だけが無い。そんなに気にすることじゃないのかもしれないし、本人が苦しんでいるのかどうかもわからない。
あのとき、僕はスズさんが結婚をしていたことを知り、動揺していた。文鳥は何も悪くないのに、文鳥に向かって怒鳴っていた。
「ごめんね・・・」
鳥籠の中で餌を食べている彼女に話しかけた。彼女は嘴の端に餌の欠片をつけたまま、餌を突いていた。
夕食の支度をした。もう彼女の声は戻らないかもしれない。彼女にとって、声が出せないのが苦しいのか、苦しくないのか、僕はわからないけど、僕は彼女が死ぬまで一生面倒を見なければならない。僕にはその責任がある。いつか彼女が声を取り戻し、あの明るい鳴き声を聴かせてくれると信じて・・・
*文鳥の描写など、事実とは異なる記述が含まれる可能性があります。ご承知ください。