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幽霊劇場  作者: ぶちくそ
9/9

第九話 普通の少女

合同祭公演を無事成功に収め、劇団の団結力もますます高まったと思われたが、翌日のレッスンで桜子は慧の様子がおかしいことに気づくのだった。

 合同祭の翌日。私たち四人はレッスン室に集まって支配人の録画したDVDを見ていた。

「あ、京香さんのシーンですよ!」

オーディションで選ばれた京香さんの演技は、あの時に見たものよりさらに磨き上げられ、本当に女神が憑依しているかのように見えた。

「自分で自分の演じているところ見るのも新鮮でいいわね。久しぶりだったけれどこうして見ると、案外演技力も衰えてないみたい。」

「京香の演技もそんなに悪くはないわね。全体を通してみれば、結構物語のイメージともかみ合ってるし。私に勝っただけのことはあるんじゃない?」

「あら、今日は珍しく褒めてくれるのね?ありがと。」

「か、勘違いしないでよね!あくまで全体評価なんだから、細かく見たら粗なんていくらでもあるのよ。…ほら、ここのところ、動きとセリフが微妙に合ってない。」

ニヤニヤしながら言う京香さんに、明衣ちゃんは慌てて指摘を入れる。細かすぎてほとんど気にならないことばかりでも京香さんはしっかりと聞いていた。出会った頃では考えられないくらい、腹を割って話せるようになった二人を見て私はうれしくなった。

 私たちの舞台が終わり、二番手の翼さんたちの舞台が始まった。ほかの劇団の舞台を見るのはこれが初めてだ。直接会った時と同じような凛々しい姿で堂々とした演技を見せる翼さん。かっこよさと美しさが両立するその存在感は見る者を一気に虜にする。さっきまで話し込んでいた二人もその演技を黙ってみていた。

「翼さん、やっぱりすごいなー。ね、慧ちゃんもそう思わない?」

同意を求めて慧ちゃんのほうを向くと、真剣なまなざしで瞬き一つせず、モニターを見つめていた。私の言葉も耳に入ってないみたい。

「…え?何か言いましたか?」

「あぁ、いや別に。なんでもないよ。」

オーディション前に言ってくれたように、上手な人の演技を一秒でも長く見て勉強しようとしているところを邪魔したようで、私は少し申し訳なくなった。

「翼の演技もなかなかのものね。伊達にリーダー名乗ってないってだけの実力はあるようだわ。」

「こういう役をやると翼さんの良さが際立ってて、舞台に立ってるだけで勝手に目で追っちゃうよね。これは翼さんにしかできないなあ。」

私と明衣ちゃんが翼さんの演技について話していると、京香さんがこんなことを訊いてきた。

「二人は下見の時に会ってたんだったわね。普段もこんな様子なの?」

「そうですね。外見もそうなんですけど、話し方とかもかっこよかったです!」

「キザな雰囲気だったわ。あれが素なんだとしたらどんな育ち方したらそうなるのか気になるくらい。」

「そうだ!帰り際にアドレス交換したんですよ。それで、ほら。帰った後で早速メッセージくれたんです。」

「えーっと、『今日は合同祭お疲れ様。一緒に公演を盛り上げられて楽しかったよ。次は桜子ちゃんの舞台に立つ姿を見たいなあ。またいつか会って話そう!今度はお茶でもしながらゆっくりね。』あら、画像付き?」

一緒に添付されていた画像を開くと、こちらにウインクしている翼さんの自撮りが映し出された。

「これはまた…。桜子、気に入られたみたいね。」

「えー?そうですか?」

私は照れてしまって、頭をかきながらでへへと笑う。

「でもこんな写真を送って来るなんて、私ならちょっと引くわ。」

「そうね、プライベートでこんなテンションならついていけない。」

京香さんと明衣ちゃんは引き気味な笑いを浮かべる。

「私はこれでもいいと思いますよ?むしろこういうのがいいというか。」

「そう。本人が言うならいいんじゃないかしら。」

二人はあからさまに身を引いた。二人には翼さんの良さがまだわからないんだ、きっと。

 そうこうしているうちに録画は次の、あさひさんの劇団の舞台に移っていた。会った時はとてもエネルギッシュな女性で、熱血な印象だったけど、ステージの上ではおしとやかな和風美人を演じていた。そのギャップには明衣ちゃんも驚きを隠せないでいた。

「あの人、こんな演技するのね。なかなか侮れないわ。」

「明衣ちゃんもそう思う?」

「うん。そりゃ誰でも意外に思うでしょ。あんなにうざいくらい暑苦しかったのに、これだけおさえた演技ができるなんて私でも想像できなかった。ただの舞台バカかと油断してたからちょっと見る目が変わっちゃうね。」

「この人とも面識があるのね。二人ともコネ作りが早くて頼もしいじゃない。」

「あさひさんとはリハーサルで偶然会っただけですよ。あんまりお話もできませんでしたし。」

「私が有名すぎてあっちから寄って来るだけ。天才にはどう隠しても隠し切れない輝きがあるから、しょうがないわね。」

自慢げな顔で髪をかき上げる明衣ちゃん。その言葉もあながち間違いとは言えない。そんな明衣ちゃんを無視して、京香さんは続ける。

「それで、さっきからずっとモニターに夢中な慧はどうしちゃったわけ?」

「たぶん、他の劇団の舞台を見て勉強してるんですよ。慧ちゃん、勉強熱心ですし、こういう機会も滅多にないですから。」

「それだけかしら。こんなに集中してるなんて、何かほかに理由がありそうだけど。」

「ほかの理由って何ですか?」

「さあ、それは知らない。」

京香さんの言うほかの理由を考えて悩んでいるうちに、三組の劇団のステージは終わってしまった。どの劇団も個性が出ていて、素晴らしい完成度だった。


「お、ちょうど終わってたか。」

レッスン室に支配人が入ってきて、再生を止めてDVDをケースにしまった。

「それ、後でもう一回見ていいですか?」

その様子を見て少し慌てた様子で慧ちゃんが声を上げた。

「あぁ、支配人室の棚に置いとくから自由に見ていいぞ。」

その言葉を聞いた慧ちゃんは少しほっとしたようだった。

「ちょうどみんないることだし、今後の劇場の方針について話しておきたいと思う。いいか?」

「どうしたの、改まっちゃって。」

「そう見えるか?別に重い話でもないからそう構えることもないぞ。次の公演は12月であと一か月以上余裕があるんだが、今回はすぐに準備に取り掛かろうと思う。前からスケジュールについては言われてたしな。昨日の合同祭もギリギリまで調整が終わらなかったのはひやひやした。」

「当日の朝までやるなんてもうこりごりですよ…」

当日、間に合うかどうかの境界線でハラハラしたことを思い出して、少し胃が痛くなった。スケジュールに余裕を持たせてくれるのは、裏方にとって本当にうれしい。

「それと、各公演でこの四人のうち一人にステージに上がってもらう。昨日の公演が大好評でな、一人でも花形がいると注目度がガラッと変わるみたいなんで、通常公演でもそうしてみる。これまではうちの役割を重視して、舞台に立つのは幽霊の子たちだけと決めてたが、舞台の完成度を高めたほうがより最高の舞台を実現できると考えたわけだ。」

「オーディションを次もやるってこと?」

「そうなるな。質を上げるためだから、実力のあるものをステージに上げるつもりだ。」

「じゃあ次こそ私が舞台に立てるってわけね。」

「何言ってるのよ。油断してると次も私が合格しちゃうわよ。」

明衣ちゃんの頭に手を置いて、京香さんが口をはさむ。明衣ちゃんはその手を振り払って、怖い顔をしていた。

「ってことで、来週オーディションやるから前回同様、参加するつもりのやつは後で来てくれ。で、最後にレッスンに関して。これまでは松澤と竹下の二人に任せていたところを、そろそろ梅野と法天院にもサポートに入ってもらう。事務仕事を手伝ってもらえると俺が助かってよかったんだが、やはり劇場の発展にはレッスン強化が必要だろう。公演の中身にこだわってないと、いくら宣伝したって客は離れて行っちまう。」

「わたしが、レッスンのサポートを?」

慧ちゃんはとても不安そうな表情で恐る恐る口を開いた。すかさず私はフォローを入れる。

「大丈夫だよ、私が教えてあげるから。そんなに難しいこともないし。」

「ようやく私に教えを乞うようになるわけね!いいわよ、受けてあげる!」

「明衣は見てるだけでいいのよ。全部私がやるから。」

「はぁ?こういう時くらい素直にありがたく思いなさいよ。前回公演のレッスン、ろくに演技指導できてなかったことあったでしょ。」

慧ちゃんとは対照的に尊大な態度をとる明衣ちゃん、実は京香さんのことが心配でレッスンの様子をちょくちょく見ていたらしい。私が京香さんと話していなかったら、おそらく明衣ちゃんが京香さんを励ましていたんだろう。京香さんも明衣ちゃんの言葉に驚いていた。

「まさか明衣に心配されてるなんてね。驚いたわ。」

「べ、べつに心配なんて…」

「ありがとう。それなら遠慮なく力を借りさせてもらうわね。」

「ふ、ふん!言われるまでもないわよ!!」

京香さんの意外な反応にたじろいで、明衣ちゃんは少し顔を赤くしながらプイっとそっぽを向いた。合同祭以来、正直に気持ちを伝えることが多くなった京香さんには、明衣ちゃんも驚きを隠せないようだった。

「サポートはさっそく今日の夕方から入ってもらう。それまでにきちんと打ち合わせをしておくように。以上だ。」

連絡を終えた支配人は、営業に行くからと部屋の外へと歩き去った。

「じゃ、そのままレッスンの打ち合わせをしましょうか。」

 その後は京香さんが取り仕切って、レッスンの準備を始めた。メニューはいつもと変わらず、前後半でそれぞれ全体とパート別に基礎練習を重点的に行う。まだ次回公演の配役が決まっていないので、上級者コースでもいまは体力作りだ。慧ちゃんと明衣ちゃんはそれぞれ、私と京香さんの下につき、レッスンの様子を見る。最初はレッスンの流れを知ってもらうために見学してもらい、明日以降また話し合って役割分担をするつもりだ。明衣ちゃんはいろいろ意見を言いたそうだったけど、今日のところはおとなしく従っていた。


 夕方になるとちらほらレッスン生の少女たちが入ってきた。今回もまた新しい顔が増えている。合同祭はいつもより多くキャストがいたので、その分空きができているようだった。みんな元気にあいさつしながら入ってきて、私たち四人もそれに応えつつ、準備を進めていた。

 すると、ある一人の少女が入ってきたとき、慧ちゃんがその場で固まってしまった。隣にいた私だけその様子に気づき、声を掛けようとした寸前、京香さんが全体に向けてレッスン開始の号令をかけた。

「今日もレッスンを始めましょう。」

「よろしくお願いします!」

固まっていた慧ちゃんも号令がかかるとすぐ動き、自分の持ち場についた。全体の様子を観察しながらも、さっきの子をチラチラと見ていた。誰なんだろう、知り合いなのかな。

 気になりつつもレッスンは進行し、前半が終わった。その後の休憩時間、慧ちゃんに思い切って聞こうとすると、先にその子のもとへ行って何か話していた。しかし、二、三言葉を交わすとすぐ離れてしまった。その瞬間の顔がどこか思いつめたようだったので、そこで声を掛けるのはためらわれた。

 休憩が終わり、レッスンは後半へ。パートに分かれて私とペアで初級・中級者コースを見ている時も、慧ちゃんはどこか上の空だった。レッスンの途中で話すわけにもいかなかったため、すべて終わった後で話をすることにした。

「慧ちゃん、どうしたの?あんまり集中してなかったみたいだけど。」

「あ、桜子先輩。ごめんなさい、次はしっかりしますから。」

「なんかあった?さっき誰かと話してから様子が変だったよ。」

しばらく答えるのをためらっていたけど、何か決心したように話を切り出した。

「その、実はあの子、私の親友だったんです。顔を見たときすぐ気づいて、休憩の時に話しかけたんですけど…」

「話しかけて、どうだった?」

質問を投げかけるとうつむいてしまい、続きを言うまで少し時間がかかった。

「わたしのこと、なにも覚えてないみたいなんです。幼馴染でちっちゃいころから一緒だから忘れるはずなんてないのに…。おかしいな、親友だと思ってたのわたしだけだったのかな…」

言いながら慧ちゃんは涙声に変わっていた。私はいたたまれなくなって必死にフォローする。

「ずっと一緒にいて覚えてないなんてそのほうがおかしいよ!慧ちゃんはおかしくない。」

「でも、わたしのこと本当になにもわからなかったんですよ?」

「きっとなにか理由があるんだよ。支配人に聞いてみよう!」

二人で急ぎ、支配人室へと向かった。中に入ると、デスクで書類をまとめている支配人がいた。

「どうしたんだ、二人とも。そんなに慌てて。」

「実はさっき…」


 一部始終を伝えると、支配人は慧ちゃんに向き直って、真面目な口調でわけを話し始めた。

「それは、契約霊と普通の幽霊の差のせいだな。契約霊は言ってしまえば、人の世のルールから外れた存在なんだよ。死んだ後に関しては諸説あるが、いずれにしてもこの世に残ることはない。なのにこうしてこの世に残っているからには、相応の反動がある。今回みたいな記憶の改ざんもその一つだ。こっちが覚えててあっちが覚えてないこともある。」

黙って話を聞いている慧ちゃんに代わり、私が質問をした。

「そんな…じゃあ、まだ生きている人も私たちのことは忘れちゃうんですか?」

「それはおそらくない。今回は互いに幽霊だったから起きてしまっただけだ。」

「どうして?」

「わからないか?もしそこで記憶が残ってたら、違和感に気づいていろいろなことに疑問を抱き始めるだろ。毎日、知らない場所で知らない人間と一緒にレッスンしているのはなぜか。家族や友人はどうしているのか。そういう疑問が膨らむほど精神に負担がかかり、一種のパニック状態になる。それで心の制御が効かなくなればやがて自我は崩壊し、ただのさまよう魂になってしまう。そうなればもう俺たちがどうこうできる範疇を超える。」

支配人の言葉には、まるでそうなった実体験があるみたいな説得力があった。

「俺たちは最高の舞台を作って、少女たちの霊を成仏させるために劇場を運営しているんだ。知り合いがいたとしてもその役目は変わらない。」

「じゃあその子にも契約霊になってもらって…」

「それはだめだ。それは、俺でも許すことはできない。お前たちは異例中の異例でここにいることを忘れるな。」

有無を言わせぬ断固とした口調で、支配人は言い切った。今までに経験がないほど本気で叱責され、私はそれ以上何も言えなかった。そして今度は、慧ちゃんが口を開く。

「…わかりました。このことは私の中に留めておきます。説明してくださってありがとうございました。これで納得できました。」

淡々とお礼を述べた後、慧ちゃんはすぐに部屋を出て行ってしまった。私もあわてて後を追った。

「待って、慧ちゃん!」

慧ちゃんは私の言葉も聞かず、足早に歩いて自分の部屋に入ってしまった。私は、どう言葉をかけていいのかもわからず、成す術もなくただ部屋の目に立ち尽くした。

 その日の夕食は冷凍してあったものを温めて食べた。とても味気ないものに思えた。


 翌朝。食堂に行ってみても慧ちゃんの姿はなかった。ほかの三人に聞いてみても昨夜から顔を合わせたという人はいない。

「心配だけど、これは本人が心の整理をつけるまで待つしかないわ。」

「慧ちゃん先輩なら多分大丈夫だよ。いつも口には出さなくてもちゃんと考えてるんだし。」

「昨日は強く言い過ぎたところもあるが、事実だからな。受け容れられるまでこっちから動くことはない。」

みんな考え方が大人で、誰もが出てくるのを待っているようだった。私も、無理やり引っ張り出すよりは待つのがいいとは思うけど、本当に待つことしかできないんだろうか。それが本当に一番良い選択?

 朝食をとり、慧ちゃんを除く四人でミーティングを始めた。慧ちゃんが出てくるまではひとまず、四人で仕事を分担して進めることになり、誰も異論はなかった。昨日、支配人から話があったように次回公演の準備も始まり、オーディションのエントリーもとりあえず私たち三人が名乗りを上げた。

 悲しいことに慧ちゃん一人がいなくても劇場の一日は過ぎていく。ご飯の時だけおいしい手料理が食べられなくて残念がっていたけど、事務作業も掃除もレッスンも滞りなく進行した。

「結局丸一日部屋から出て来ませんでしたね。」

「そうね。」

「やっぱり誰か中に入って説得したほうが…」

「桜子、それはかえって逆効果よ。余計に気を使わせてしまうだけ。おとなしく待ちましょう。」

「松澤の言うとおりだ。もうしばらく心が落ち着くのを待とう。さすがにやばいと判断したら俺が話に行くさ。」

もどかしい思いだけが募り、その日は慧ちゃんと何も話せないまま終わった。


 次の日。朝から、慧ちゃんが部屋を出て、支配人室へ向かったと聞いた私は、すぐさま支配人のところへ急いだ。中へ入ると、支配人と慧ちゃんがデスクをはさんで向かい合い、何やら話をしていた。

「じゃあお前は、契約を解消して普通の幽霊に戻りたいと。そう言いたいわけだな?」

「はい、その通りです。」

「そうなると、これまでの記憶は忘れてレッスン生に戻り成仏することになるが、いいのか?」

「はい。一日考えて、それでいいという結論になりました。」

慎重に質問する支配人に対して、慧ちゃんは冷淡に受け答えをしていた。

「え…どういうこと…?」

私の存在に気づくと、慧ちゃんは一瞬目を伏せただけですぐ私のほうをまっすぐと見て答えた。

「わたし、成仏したいんです。」

「え、ちょっと待って。なんでそうなるの?」

「一昨日、支配人のお話一緒に聞きましたよね。わたしは本来この世に残ってちゃいけない。残っていいのは特別な人たちだけ。京香さんや明衣ちゃん、桜子さんみたいにこの劇場で支配人のお手伝いができるような力を持っている人だけなんです。でも…私にはそんな特別な力はない。だから、ここにいちゃいけないんです。ただの普通の女の子が、間違って残っているだけなんです!」

話しているうちにその声色は、だんだん悲痛な思いのこもった感情的なものに変わっていた。ずっと悩んだ末に絞り出した結論には、慧ちゃんの悲しい叫びが込められていた。

「本当に、そう思ってるの?」

「はい。」

「それで、納得してる?」

「はい。」

「ここでのこと、全部忘れちゃっていいの?」

「もういいんですよ!わたしはこの劇場にとって必要のないものなんです。わたしがいなくても全部回っていくし、わたし一人いなくなっても何も変わらないんですよ!!」

涙目になりながら必死に訴えかけてくる慧ちゃんを見ていると、心がズキズキと痛くなってきた。ここまで思い詰めていたのに私は…。

「そっか、そこまで考えてたんだね。ごめんね、慧ちゃん。」

「なんで謝るんですか…?」

「そんなに悩んでたなんて私全然気づかなかった。自分のことばかり気にしてて、慧ちゃんのことを全く考えてなかった。本当にごめん。」

私が悩んでいた時は、一歩踏み出す勇気をくれたのに、慧ちゃんが悩んでいる時、私は一歩離れたところから見ているだけだった。そんな自分がとても情けない。

「そんなのもういいんですよ。わたしはいなくなるんですから…」

「それはだめ!勝手にいなくなるなんて、私は許さない。慧ちゃんは自分に特別な力なんてないって言ったけど、それは違う。間違ってるよ!」

「どうして…?なんでわかってくれないんですか!」

「わからないよ!慧ちゃんの本心を聞いてないから!ずっと誰かのそばにいて、ずっと私たちを見守って、迷った時には背中を押してくれたのに、肝心の慧ちゃんがどうしたいのか聞いたことはなかった。こうすべき、じゃなくてこうしたいってことを。」

「わたしの…したいこと?」

困惑した表情で胸に手を置いてこちらを見つめてくる慧ちゃん。私に指摘されたことの自覚はなかったようだった。

「そう。最初は舞台のことを考えるのが楽しいからここにいたいって言ってくれたよね。でもその後はずっと、やりたいことじゃなくて必要なことだけを考えてたでしょ。それはもちろん大事なことだよ。私も劇場に来たときは自分の立場を考えて行動してたよ。でもやっぱりこうしてチャンスをもらえたからには、やりたいことの一つでも持ってなくちゃ!ここにいるってだけでもう特別なの。」

私は話している途中で、自分でも知らないうちに慧ちゃんに笑いかけていた。私の視線から目をそらして下を向き、少し考えこんだ慧ちゃんは少しずつ思うことを話し始めた。

「わたし…わたしは、やっぱり舞台に立ちたいです。ここで見てきた舞台はどれもキラキラしてて、未熟なわたしが出てもいいようなものじゃなかったけど、それでもあの舞台から見る景色を一度でもいいから見てみたい。今のわたしにどれだけのことができるのかわかりません。でも、ここであきらめたくない!」

本当の気持ちは私と同じだった。そうだよね、私と同じ、舞台へのあこがれを持った普通の女の子なんだから。

「慧ちゃんならきっと立てるよ!京香さんとか明衣ちゃんよりずっと勉強熱心で、真剣に努力してきてるんだから。今度のオーディション、受けよう!」

オーディションと聞いてほんの少しためらいを見せたものの、すぐうなずいて、

「…はい!やってみます!」

と、強い意志を込めて返事をくれた。

「それじゃ、梅野もオーディションにエントリーだな。」

黙って見守っていた支配人はそう言うと詳細の書かれた書類を慧ちゃんに手渡した。すぐに出してきたので、先にこうなることを予想していたみたいだった。書類を受け取った慧ちゃんは、もう迷いのない、覚悟を決めた顔になっていた。



 その日から慧ちゃんは劇場の仕事に復帰し、私たちはまた美味しい手料理を食べられるようになった。

「うんうん、やっぱり日々の食事はこうでなくっちゃね。」

「味気ない料理じゃ仕事のやる気もなかなか出てこないのよね。」

「慧ちゃん先輩の手料理はいい仕事の原動力になるからとっても大切なんだよ。」

みんな口々に慧ちゃんの料理を褒めていく。やっぱり劇場には慧ちゃんがいないとだめだ。

「でもやっぱ漬物だけは食いたくねぇんだよな…」

「こら!支配人はまたそんなことを言って!」

私が支配人に怒ると慧ちゃんは控えめに笑っていた。その笑顔には、目立つことはなくても明るくその場を照らしてくれる温かさがあった。


 それから数日間、私たちは全員、明日の仕事の合間にオーディションへ向けた準備を進めた。

 今回演じる役は、主人公に命を救われる女の子。最初、支配人は実力のあるものを舞台に上げる、と含みを持たせていたけどやっぱり順番に上げるつもりみたいだ。どう考えてもこの役は京香さんには合わない。もしも合わせてきたら京香さんの実力の高さに驚いてしまう。ストーリーでは、命を救われた女の子は巡り巡って主人公のために奮闘することになるため、オーディションでは前後半二つのシーンを演じる。その区別もきちんと表現しないといけないので結構大変だ。短時間での演じ分け、という難問の思案を重ねてようやく私の思う最善に近い形ができたときにはもうオーディション前日だった。

「みんなもうオーディションの準備できてる?」

夕食の席で私はみんなにこんな質問をしてみた。

「もちろん、私はもう完璧にイメージ通りよ!」

「私は今回は無理そうね。形にはできてても、表現しきれない。というか役のイメージと合わないわ。」

「ま、京香はあきらめるべきね。今度こそ私が役をもらうわ。」

「慧ちゃんはどう?」

「わたしはあとちょっと時間が欲しいですね。二つ目のシーンが未完成で。」

「今回の演技、難しいよね。同じ人物だからあんまり大げさにしすぎるとかえって違和感あるし、かといって大した変化がないとストーリーに合わないし。」

「その微妙な演じ分けができるかどうかが、プロとアマの境界でしょうね。私はその辺慣れてるから、よく見て勉強するといいわ。」

持っている箸で煮物の大根を切り分け、頬張りながら自慢げに語る明衣ちゃん。

「食べながら話すの行儀悪いわよ、プロ女優さん。」

京香さんに食事マナーを注意されて、真っ赤になりながら怒るプロ女優さん。

「ごちそうさまでした。」

みんなより一足先に食べ終えた慧ちゃんは手早く食器を片付けると、最後の詰めをするからと自分の部屋に入っていった。

「すっかり立ち直ったみたいね。」

「慧ちゃん先輩はそんなに心が弱い子じゃないから。」

二人とも安心した様子で慧ちゃんの話をしていた。二人は支配人室でのことを知らないけど、私からは言わないでおこう。

「そうだね。慧ちゃんは芯の強い心を持った女の子なんだから、きっと一人でも立ち上がってたよね。」


 そしてオーディションの日がやってきた。前と同じく、レッスン室に四人が集まって支配人を待っていると、これまた前回同様、きちんと身なりを整えている支配人が登場した。

「あんたそれ、いつもその恰好にしてれば?」

明衣ちゃんが思わず突っ込みを入れると、支配人は軽く咳払いして事務的に答えた。

「法天院さん、オーディション中はお静かにお願いします。」

パイプ椅子に座りなおして、支配人はオーディション開始の号令をかけた。エントリーの早い順に、明衣ちゃん、京香さん、私、慧ちゃんがそれぞれみんなの前に出て演技をする。

 一番手の明衣ちゃんは、一つ目のシーンでか弱い少女を見事に演じ切り、続く二つ目のシーンでは、苦難を乗り越えて立派に成長した姿で主人公に手を差し伸べる。守られる立場から守る立場への変化をきっちりと演じ分け、求められる条件を完璧に満たしていた。

 二番手は京香さん。演技だけに注目してみれば明衣ちゃんに負けず劣らず、役への要求を十分にクリアしていたけど、見た目とのギャップから女の子…とは言い難かった。

 次に私の番が回ってきた。前回注意された、自分の今の感情を乗せすぎないことを意識して役になり切ろうとすると、直前まで思い描いていた理想の形があやふやになってしまった。ばっちり作りこんできたはずなのに。そのもやもやがまた表に出てしまったようで、審査する支配人は途中で目を伏せてしまった。この反応はショックが大きい…。

「ありがとうございました…」

「では最後。エントリーナンバー4、梅野慧さん。」

「はい!…よろしくお願いします。」

 私と入れ替わりに中央へと進んだ慧ちゃんは、ピンと背筋を伸ばし、そしてぺこりとお辞儀をする。この緊張の場面でも自分の足でまっすぐに立っていた。やがてゆっくりと深呼吸すると、前半シーンの演技に入る。


 悪漢に追われて逃げ惑い、絶体絶命の危機に瀕する少女。

「だれか、助けて…!」

目に涙をにじませて必死に助けを求める。その声は決して大きな声ではなく、誰の耳にも届かないように思えた。しかし、その場へ突然主人公が現れ、悪漢を蹴散らす。

「あ、ありがとう。あなたのお名前は?」

窮地を救われた少女は、勇気を出して命の恩人の名前を問う。

 ここで前半は終了。続いて後半のシーンに移る。

 次は、主人公たちが罠にはまり、成す術もなくこのまま死を待つだけかとあきらめかけたその時、

「まだあきらめないで!」

さっきの少女が仲間を引き連れて主人公を助けに来たのだ。その眼にはほんの少しの恐れや不安が残るものの、しっかりと強い意志を秘めている。

「さあ、手を取って!ここから抜け出して敵を打ち倒しましょう!」

差し伸べた手はかすかに震えていた。しかし、その言葉には勇気が満ちていたのだった。

 そこで後半も終了。

「ありがとうございました。」

慧ちゃんは再びお辞儀をして、自分の椅子に戻った。

「では、オーディション結果は明日、書面にてお伝えします。お疲れさまでした。」

支配人は席を立ち、さっと退室してしまった。

「あー、今回もダメダメでした…」

私は真っ先に悔しさを声に出した。前回のことに引っ張られて集中を欠いてしまっていた…。

「今回は明衣と慧の一騎討ちかしらね。でも、慧の演技のほうが真に迫っていたかも。」

「私もそれはちょっと驚いた。あれだけ力量がありながら今まで隠してたなんて、慧ちゃん先輩も侮れないね。」

「そんな別に隠してたわけじゃないよ。今回はたまたまで…」

慧ちゃんは謙遜していたけど、私もその演技に引き込まれて一瞬、物語の中に入ってしまったような錯覚に陥ってしまった。

「そういえば、最後の手の震え、あれは考えてやったの?それとも緊張しただけ?」

私も気になっていたことを京香さんが聞いてくれた。

「あ、はい。昨日の夜、こうやれたらいいなって思ったことができてよかったです。」

その言葉には三人とも驚かされた。慧ちゃんはとても勉強熱心だということは前から知っていたけど、なにぶん舞台経験がほとんどなかった。それなのにこうして考えたことを実際の演技に反映できるなんて…。恐ろしい子…!


 翌朝のミーティングで支配人からみんなに結果が手渡された。だめだろうな、とは思っていてもこの瞬間の胸の高鳴りは抑えきれない。封を開けて中を見ると、案の定、私は不合格だった。

「えっ!わたしでいいんですか!?」

四人がほぼ同時に結果を確認したとき、声を上げたのは慧ちゃんだった。

「あら、やっぱり慧だったのね。おめでとう。」

「まあ、あれだけの演技を見せられちゃ納得せざるを得ないわね。でも次は負けないから!」

あの明衣ちゃんでさえも慧ちゃんのことを認めていた。

「おめでとう、慧ちゃん。これでやりたいことができるようになったね。」

「ありがとうございます。先輩のおかげです。あそこで引き止めてくれなかったらこんなうれしい結果にはなりませんでした。」

「いやいや、これは自分の力で勝ち取ったんだから、自分自身を誇ってくれたらそれでいいんだよ。」

私は慧ちゃんの手を取ってぎゅっと握った。小さくて少し頼りない手だけど、その手にはしっかりと熱がこもっていた。

「オーディション結果は見ての通りだ。こっからは公演準備を本格的に始めていくぞ。演目と脚本はもう決めてあるから、演出その他の調整から入るとしよう。」

結果発表のその日から公演の準備は慌ただしく始まった。合同公演を経験して、みんなには余裕があったようだけど、その分細かい点までこだわりが出てきて、結局ギリギリまで長引くことになりそうだった。舞台製作は一つでもこだわりだすとあれもこれもとどんどん増えていくからいけない。


 準備を進めていたある日のこと。私が京香さんの手伝いで衣装の材料を運んでレッスン室を通り過ぎようとすると、ふと中に慧ちゃんの姿が見えて声を掛けようとしたら、先に誰かと話しているようだった。その相手は、前に慧ちゃんが親友だと言っていた少女。私は物陰に隠れてその様子を窺った。

「そこの演技はもっと声を張ったほうがいいよ。」

「そうですか?じゃ、ここは?」

「そこは、少し声のトーンを低くして。ストーリーの流れを読めば、抑え目のほうがいい。」

どうやら慧ちゃんが演技指導をしているみたいだった。友達みたいに対等な関係ではなく、レッスン生とトレーナーのような立場の異なる人どうしの会話だった。

「ありがとうございました!」

「うん、がんばってね。」

慧ちゃんは少しだけ物悲しいような寂しい目をしていたけど、笑ってその少女を見送っていた。記憶のことをまだ気にしているのかもしれない。でも、そこで声を掛けることはできず、私はその場を離れた。


 そして時は過ぎ、公演当日の朝を迎えた。夏のイベントや合同祭を経て、劇場の知名度が上がったおかげでチケットはすでに完売。開場時刻からたくさんのお客さんが入ってきた。今回は私と明衣ちゃんが受付を担当する。


「私に受付をさせるなんてどういう了見!?」

朝のミーティングで支配人から受付を任された明衣ちゃんは予想通りの反応を見せた。

「仕方ないだろ。今回梅野は出演するし、俺は機材の調整がある。」

「京香は暇でしょう?」

「あいつはほら、愛想がないから…」

「あぁ、そういうこと…。なら仕方ないか。」

その時は偶然京香さんはいなかったけど、もしいたら冷ややかな目つきで二人をにらんでいたことだろう。京香さんににらまれると結構精神に来ると、前に支配人が言っていたのを思い出した。


 私たちがお客さんへの対応をしていると、見知った顔が入り口付近にいた。

「翼さんじゃないですか!お久しぶりです。」

「やあ、桜子ちゃんに明衣ちゃん。久しぶり。」

合同祭以来ちょくちょく連絡を取り合っていた翼さんは、私服姿もよく似合っててかっこいい。

「あら、翼も見に来たの。」

「ああ、今回は桜子ちゃんの可愛い後輩が出演すると聞いてね。見逃してはおけないだろう?」

そう言って明衣ちゃんにウインクした。もうすっかり癖になっているみたい。

「そのウインクするのやめない?見ててイライラするんだけど。」

「そう?怒らせたなら謝るよ。可愛い子を見ると自然にやっちゃうんだよね。」

「はいはい。もういいからさっさと中入ってくれる?」

明衣ちゃんは翼さんの背中を押して観客席のほうへ追いやってしまった。

 お客さんの出入りが少なくなり、いよいよ開演時刻が迫ってきた。最後のお客さんを案内し終わり、明衣ちゃんと一緒に扉を閉める。中の様子を想像しながら、公演の売り上げをチェックしていると、明衣ちゃんが退屈そうに話しかけてきた。

「舞台が終わるまでずっとこうしてるの?中に入ったらダメ?」

「うーん、基本そうなんだけど…こっそり見に行っちゃおうか。」

 仕事を早々に終えて、私たちは二階の関係者席に潜り込んだ。前よりも人が増えていて、なんだかスーツ姿の偉そうな人たちもいたので、私たちは隅のほうで舞台の様子を見る。

 ちょうど慧ちゃんの演じる少女が主人公を助けるシーンで、オーディションのときのような力の入った演技に会場全体が夢中になっている。

「慧ちゃん先輩、本番でもこんなに上手に演じられるんだね。なんで今まで黙ってたんだろ。」

「多分勇気が出なかったんだよ。京香さんとか明衣ちゃんみたいな演技力が自分にはないんじゃないかって臆病になってて、一歩踏み出せなくて。本当は全然そんなことないのにね。」

「勇気、ね。私にはわかんないな。舞台に立つのが当たり前だったし。」

以前感じた通り、明衣ちゃんはやっぱり見ている世界が違う。持って生まれた才能、育ってきた環境、舞台に対する思い、いろんなことが私とも慧ちゃんとも違う。だから同じ役を演じるとしても、私たちとは違うアプローチで役作りをして、全く違う演技になる。でも、そこに生じる違いは悪いことじゃないと思う。それぞれのベストを尽くせば、それぞれに人を感動させる力があるはずだから。こういうチャンスを無駄にしないように日々、ちゃんと自分の長所を活かせる準備を怠らないことが大切なんだ。


 物語が終盤に差し掛かったとき、まだ見ていたい気持ちを抑えて明衣ちゃんに声を掛けた。

「そろそろ受付戻ろっか。お客さんのお見送りもあるし。」

「あ、うん。そうだね。」

集中して舞台を見ていた明衣ちゃんも私の言葉に同意して、階段のほうへ歩き出した。その時一瞬、明衣ちゃんの動きが止まった。関係者席にいた誰かに視線を向けたまま動かない。

「あれ?どうしたの、明衣ちゃん。」

「ううん、何でもない。」

私の声を聞いて我に返り、すぐ何事もなかったかのように受付へ戻っていった。


 それから間もなくして公演が終了。お客さんがぞろぞろと外へ出てくるのを見送り、私たちはお辞儀とともに感謝の挨拶を述べる。途中、翼さんが私たちのところへ来て感想を言ってくれた。長くなりそうだったので、すかさず明衣ちゃんがまた背中を押して外へ押し出してしまった。よっぽど気に入らないみたいだ。

 エントランス付近に人がいなくなると、私たちは清掃に入る。掃除はいつもやっていてすぐに終わったので、舞台裏の片づけに加わった。京香さんや支配人と一緒に片づけていると、慧ちゃんの姿がないことに気づいた。

「あれ、慧ちゃんはどこ行ったんですか?」

「そういえば片づけが始まってから見てないわね。どこいったのかしら。」

辺りを見回してもその姿はない。何か嫌な予感がする。私は劇場中を駆け回って探した。舞台裏にもレッスン室にもいない。まさか、でも、契約霊なんだからそんなことは…。


 私が探し回っているうちに片づけが終わり、レッスン生たちが帰ろうと準備を始めたころになっても、慧ちゃんは見つからなかった。劇場の中にはいなかった。あっ、なら外かも!そう思い辺り、すぐさま劇場の外へ出て敷地内を探すと、レッスン生たちが帰っていく裏門にジャージ姿の慧ちゃんがいた。ひとまず安心して近づこうとすると、その向かいに親友だった少女がいるのに気付いた。二人で何か話している様子。立ち聞きするのも悪い気がしたけど近くまで来てしまったので、話し声が聞こえてきた。

「さっきの演技、良かったね!練習の成果出てたよ。」

「はい、ありがとうございます!先生のおかげです。」

「そんな…あなたの実力だよ。本当に、よくがんばったね。」

言葉を交わすうちにいつしか慧ちゃんは涙を流していた。舞台に立って演じ切り、夢を叶えた少女は消えていなくなってしまう。相手が覚えていなくても慧ちゃんは親友のことを覚えているから余計につらいだろう。

「先生、泣いてるんですか?」

「いい舞台だったからつい感動しちゃって…」

どんどんあふれる涙はぬぐってもぬぐっても止まらない。その様子を黙ってみていた少女は優しい声で話しかけてきた。

「…泣かないで、慧ちゃん。」

「…え?どうして、名前…」

「親友なんだから当たり前じゃん。泣くんじゃなくて、笑って送り出してよね。」

少女はにっこり笑って慧ちゃんのほうを見る。慧ちゃんは涙を拭いて、息を大きく吸うと笑顔を返して、

「ごめんね。わたしいつも泣いてばっかりで。」

「ううん。慧ちゃんが泣き虫なのは昔から知ってるし。私が舞台に誘ったのも、そのほうが慧ちゃん、よく笑ってくれるからなんだよ。だから、最後に笑ってくれたらそれでいい。」

少女が話している最中にも慧ちゃんは泣きそうになるのを精いっぱいこらえていた。

「…じゃ、私そろそろいかないと。」

「うん。またいつか会えるといいね。」

「きっと会えるよ。いつか、どこかで。…じゃあね、慧ちゃん。ありがとう。」

別れを告げるとその少女は消えてしまった。後に残された慧ちゃんはしばらく空を見上げていた。ほおを伝って流れる涙は静かに地面を濡らした。

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