第七話 再燃の競演
ビーチバレー大会を経て劇場の宣伝に成功した劇場に、近くの商店街から合同祭への誘いが舞い込んできた。次は大きな公演になるという支配人の言葉に、桜子は不安を覚える。さらに、次回公演では新たな試みがなされることになり…。
「桜子、すごい焼けたわね。」
ビーチバレー大会の三日後の夜。私たちは四人で一緒にお風呂に入っていた。私の日焼けした肌を見て、京香さんがこう言った。
「そうですねぇ。まさか幽霊でも日に焼けるなんて思わなくて。」
「確かに不思議よね。死んだはずなのに体は普通に日焼けするんだもの。」
「先に言っときなさいよね!おかげで私もこんなに焼けちゃって。紫外線はきれいな肌の天敵なのに。」
大会の日は、はしゃいでずっと太陽の下に出て遊んでいた明衣ちゃんもこんがりと焼けていた。でも肌のことをしっかり気にしているのはやっぱり元女優のプロ意識からだろうか。
「あれ?慧ちゃんは焼けてないね。」
「あ、はい。わたしは日焼け止め塗ってて。」
私たちとは違って、白い肌をキープしている慧ちゃんは抜け目なくあらかじめ日焼け止めを準備していたらしい。
「えー!なんで私たちには言ってくれなかったの?」
「え、えっと、わたしもほんとに日焼けするかどうか確信はなかったから…」
「賢いわね、慧。ライバルを蹴落とすにはそういう戦略も大事よ。」
「蹴落とすなんてそんなつもりは!」
「慧ちゃん先輩、ひどい…」
「ち、違うよ!明衣ちゃん、ほんとにそんなつもりはなくて…」
「騙されちゃだめだよ。それ嘘だから。」
「もー、先に言わないでよ桜子先輩!」
大会以前よりも四人の仲は深まって、こうして冗談を言って笑い合えるまでになった。前は会うたびに何かとぶつかっていた明衣ちゃんと京香さんも、少しだけ距離が近づいてわかり合えるようになってきたと思う。また、大会の宣伝効果により劇場の(主に京香さんの)評判も良くなってきているようだ。外回りに行っている支配人からも確かな手ごたえがあると聞く。
お風呂から上がり、みんなで食堂に集まっておしゃべりをしていると、支配人が通りかかった。
「お、もしかして全員いるか?」
「はい、どうしたんですか。」
「明日のミーティングで言うつもりだったんだが、先にちょっと言っとく。みんな聞いてくれ。」
改まった様子の支配人の言葉に全員が耳を傾ける。
「次回の公演だが、近くの商店街が毎年開催している祭りのステージに上がることになった。関東地区の一部の劇団とか合唱団と合同で作り上げる割とでかい祭りだ。」
「合同?具体的に規模はどのくらいなんですか?」
「今年はうち含めて三つの劇団と二つの合唱団、それに二つの楽団が出演する予定だ。メインステージは、約四千人が入る市民会館の大ホールを借りるそうだぞ。ほかにも商店街全体が祭りの会場になって、絵画教室とか書道教室のイベントも各地で行われるんだと。」
「四千人の会場…!そんなにたくさん…」
「あら、それだけ?私なんて七千人の前で演じてみせたことだってあるのよ。」
「はいはい、自慢はいいわよ。」
「なっ…!」
「それで、公演の開催日は今から数えて40日後。いつもの準備とはけっこう違うから覚悟しといてくれ。今言えるのはそんなとこだ。明日からは公演に向けた、詳しい役割分担を決めていこう。」
支配人が話を締めようとしたとき、明衣ちゃんが目を輝かせて割り込んできた。
「ねぇ!私の役はどんなのにする?やっぱり主役よね。」
「ん?何言ってるんだ。お前は裏方だぞ。」
「はぁ?この私を舞台に立たせないつもり?ありえない!」
明衣ちゃんは憤慨した様子で声を荒げた。
「だってお前は劇場の従業員だろ。役者を支える側だって契約んときも説明したはずだ。」
「聞いてないわよ、そんなこと!」
「身の程をわきまえなさい。私たちは役者じゃなくて契約霊として、劇団のスタッフとしてここにいるのよ。」
厳しい口調で、明衣ちゃんを叱るように京香さんが言った。
「そんなの…認められない…!」
そう言い残して明衣ちゃんは自室へ走って行ってしまった。
「あんなわがまま通るわけないじゃない。」
「でも明衣ちゃん、舞台に立つのをずっと楽しみにしてたみたいなんです。生きてる間は縛られてて、自由な演技ができなくて退屈だったって。」
「役者なんだから、好き勝手な演技なんてできないに決まってるじゃない。いくら演技の才能があったとしても、与えられた役の中で求められる演技をすることがプロの仕事よ。自分の好きな役をしたいなら一人で勝手にやってなさいって話よ。」
京香さんは、プロの女優としての心構えを説いていて、それは至極当然のことに思える。
「でも…」
「とにかく詳しい相談はまた明日。今日はもう休みましょう。」
京香さんも自分の部屋に入っていった。
「京香の言うとおりだ。本格的な打ち合わせは明日から。さっさと寝ようぜ。」
「桜子先輩、私ももう寝ますね。おやすみなさい。」
みんながいなくなった食堂で、私は一人、合同公演への言いようのない不安を募らせていた。
次の日の朝。目が覚めて顔を洗い、食堂へ向かうと支配人と京香さんがコーヒーを飲みながら話をしていた。調理場からは慧ちゃんが料理をしている音がする。その場に明衣ちゃんの姿はなかった。
「おはようございます。今日も早いですね。」
「おはよう、桜子。」
「明衣ちゃんはまだ寝てるんですかね。」
「そうじゃないか。今朝はまだ見てない。」
やっぱり昨日きつく言われたのがショックだったのかな。私が一番最初に出会ったとき、きちんと契約のことを説明しておけば…と自責の念に駆られていると食堂の入り口から人の気配がした。
「おはよう。」
「あ、明衣ちゃん。」
「なに?どうしたの、そんな顔して。」
「いや、昨日のことなんだけど。」
「あぁ、別にもう気にしてないよ。いくら何でも劇団入りたての新人に主役任せるなんて自分でもちょっと思い上がり過ぎてたっていうか…。私も大きな公演って聞いて少し舞い上がってたみたい。どこにいても最初は下積みからだよね、わかってる。」
明衣ちゃんは、昨夜食堂を飛び出した少女とはまるで別人のように、一夜で気持ちを切り替えていた。長く芸能界を渡り歩いてきた経験から自然と気持ちの切り替えも上手になったのだろう。私が心配するまでもなかったみたい。
全員そろって朝食を終えた後のミーティングで合同祭の準備について、詳しい打ち合わせが始まった。
「大体は昨日話した通りだが、今回いつもと違うのはここにいる全員が裏方に回って、準備に取り組んでもらうことだな。梅野と法天院はそのあたり、松澤と竹下にくっついて学びながら進めてくれ。」
「はい。」
「あとは、そうだ。この後、会場に下見を兼ねて打ち合わせに行くんだが、だれかついてきたい奴いるか?」
「私はパス。今日はレッスンのこと考えたいから。」
真っ先に口を開いたのは京香さん。トレーナーとして一大イベントに向けたレッスンメニューを考えておきたいようだ。
「わたしも、残ります。」
続いて慧ちゃんも残るほうを選んだ。
「私はもちろん行くわ。ちゃんと現場の空気を感じておきたいし。」
明衣ちゃんは真剣なまなざしで答えた。
「竹下はどうする?」
「私も、行きます!」
「よし、じゃあついてくるのは二人だな。もうすぐ行くから準備してくれ。残る二人は留守番よろしく。」
移動中の車内では、明衣ちゃんが楽しげに私に話しかけてきた。
「こうやって車で移動してると、生きてるときのこと思い出すんだ。いつもマネージャーさんが運転する車の後ろの席で一人、外を眺めてるだけだった。でも、今はこうして話ができる人が隣にいて楽しい!」
「そうだったんだね。マネージャーさんてどんな人?」
「んーっとね、私の両親の言いなりって感じ。親が決めた仕事を勝手にスケジュール組んで、私の意見なんて全然聞かないの。そのうち私も、言うだけ無駄か、ってあきらめちゃった。ああいう人ってなんか見ててかわいそうに思えてくるの。」
私の周りにそういう人はいなかったから、明衣ちゃんがそう思う理由はよくわからなかった。やっぱり明衣ちゃんとは見てる世界がけっこう違うのかもしれない。
「ところで明衣ちゃんは合同祭のことどう思ってる?」
「楽しそうじゃない?いくつかの劇団が集まってやる公演なんて私も経験ないし、わくわくする!」
「不安はないの?」
「全然ないよ。桜子さんは不安?」
「うん。これまではうちだけの公演だったから良かったけど、合同ってなるといろんな人たちと比べられちゃうし、ちょっとでも失敗したらそれだけ目立っちゃうし。」
「失敗した時のことなんて考えなくていいよ。ずっとこの仕事やってて思うんだけど、演じる人が少しでも不安とか悩みを抱えてるとそれがそのまま演技にも表れてくるんだ。それが良く影響することもあるけど、ほとんどは邪魔なものにしかならない。よく見てる人はそういうところにかんたんに気付いて、露骨にがっかりされちゃうこともあるの。…まあ、でも今回は裏方だから関係ないかもなんだけどね。」
明衣ちゃんは照れくさそうに、にっと笑った。目の前にいる天才子役は、ただ才能が秀でていただけじゃなくて、きっと私の何倍、何十倍も努力して芸能界を渡り歩いてきたんだ。お仕事で得た経験をどんどん自分の糧に変えて、こうして自分のものにして成長してきた。
なら、今の私はどう?明衣ちゃんと比べてもどうしようもないことはわかってるけど、それでも考えずにはいられない。まだ片手で数えるくらいしか公演の経験がないけど、その数回で本当に成長できてるんだろうか。
明衣ちゃんの笑顔に対して、私はあいまいな表情でしか返せなかった。
劇場を出て車で移動すること20分。会場となる市民会館に到着した。私たち三人は中に入り、関係者のネームプレートを受け取ってから、メインステージとなる大ホールへ向かった。
「わぁー、すごく広いですね…」
「うちの四倍くらいはあるな。照明とか音響もばっちり整ってるみたいだ。」
「ふーん、悪くはないかな。」
「じゃあ、俺は実行委員の方々と最初の打ち合わせがあるから、お前らは中を自由に見てていいぞ。帰るときになったらさっきの入り口に集合な。」
そう言って支配人は一人で大ホールを出て行った。
「自由に見ていいって!ステージに上がってみましょ!」
支配人が去った後、明衣ちゃんは堰を切ったように私の手を引いてステージに引っ張っていく。本心では大きな会場に興奮しているみたい。
ステージに上がり、明衣ちゃんが舞台の中央に立つ。こうしてステージに立つ明衣ちゃんを見ていると、本当に舞台女優の法天院明衣がここにいるんだ、と感慨深くなってきた。すると突然、
「嗚呼!私はいま、ここで息絶え、生涯の夢は叶わぬまま、終わってしまうのね…」
明衣ちゃんは急に即興劇を始めてしまった。大きな身振りとともによく通る声で続ける。
「せめてあの子らの願いだけは守って!この世が如何に残酷であろうとも願いが絶えることはないように。」
私のほうへ手を差し伸べながら、即興のセリフを声高に言い切った。そんな、いきなりアドリブを求められてもやったことないし無理だよ!私がためらって立ち往生していると、客席のほうから声が聞こえてきた。
「私ならばその願い、確かに受け取ってみせましょう!」
声の主はさっとステージに飛び乗り、明衣ちゃんのそばにひざまずいた。ショートカットでよく日焼けした肌を持つ人物は、前に一度会ったことがあった。
「私はあなたの騎士。あなたの夢の続きをこの手で守ると誓いましょう。」
明衣ちゃんの手を取ると爽やかな笑顔を見せ、頭を下げた。その姿があまりにも様になっていて、思わずため息を漏らした。かっこいい…。
「あなたは…」
突如として乱入してきた人物を訝しげに見ながら、明衣ちゃんは困惑した表情をしていた。
「やあ、数日ぶりだね。桜子ちゃんに明衣ちゃん、だったかな。」
「…誰だっけ。」
「おっと、これは失礼。改めて、僕の名前は高尾翼。劇団しおかぜのリーダーを務めている。前のビーチバレー大会ではちゃんと自己紹介をしてなかったね。よければ、君たちの上の名前も教えてくれるかな。」
「竹下桜子です。」
「法天院明衣。」
その名前を聞いた瞬間、高尾さんの余裕に満ちた表情が崩れた。
「えっ!あの、法天院明衣ちゃん?」
「はい、そうですよ。」
明衣ちゃんはニコニコ笑って愛想よく答えた。明らかな営業スマイルだった。
「うっそ、ほんとに!?握手してくれる?」
本物とわかってテンションが上がり、握手を求めていた。意外とミーハーなんだ…。
「いやー、光栄だな。あの法天院明衣ちゃんと同じ舞台に立てるなんてね。」
「じゃあ高尾さんたちも合同祭に?」
「翼でいいよ。そう、僕たちも参加する。今日はその下見にね。」
「私たちもです。会場広くって圧倒されてました。」
「そうだね。きちんと発声練習しておかないと後ろまで声が届かないだろう。こういうことは現場に実際来てみないとわからないものだね。」
下見の段階ですぐにこういうところに気づけるのは、やはりリーダーだからなのだろう。経験した舞台もきっと私よりはるかに多いに違いない。
「それにこうして再び君たちに会うことも想像してなかったし、ね?」
翼さんはそう言って私たちにウインクした。そのしぐさに一瞬ドキッとしたけど、こうして落ちる人がたくさんいるんだろうな。
「じゃ、僕たちはそろそろお暇させてもらうよ。次に会えるのはリハのときかな。お互いがんばって最高のお祭りにしよう!」
私たちは翼さんが颯爽とステージを降りて帰っていくのを見送った。
「なかなかすごい人だったね。」
「そう?私の足元にも及ばないと思うけど、共演してみたらけっこうおもしろい舞台になりそうではあるわね。」
その時の明衣ちゃんの目は、プロの舞台女優のものだった。それを見た私はまた、不安な気持ちになり、胸がざわついた。
その後、ステージ裏からホールの端までぐるっと見て回り、支配人と合流して劇場に戻った。途中、ファミレスに寄って昼ご飯を食べた。ここでも明衣ちゃんは、幽霊になって初めてのファミレスでほんの少し落ち着きがなかった。
「あ、おかえりなさい。」
「ただいまー。梅野、留守中は何かあったか?」
「いえ、特には。」
「ん。そうだ、打ち合わせで聞いてきたことを伝えるから、レッスンの後みんなを集めといてくれ。」
「わかりました。」
そして、支配人からの伝達事項を聞き、私たちは具体的な合同祭のイメージをつかむことができた。
「それで、メインステージの最後のプログラムが、劇団による舞台ってことになる。俺たちは三組のうち、その一番手だ。」
「えぇ!最初ですか!?」
「くじ引きだったんだから文句は言うなよ。」
「いいじゃない。最初でいい演技を見せつけてやれば他の二組にプレッシャーをかけられるし。」
「明衣ちゃん、別に競うわけじゃないんだからプレッシャーなんて…」
「桜子さん、三組の劇団が同じ舞台に立つってことは、それだけでお客さんには比べられちゃうんだよ。だから、気を抜いちゃダメ。」
明衣ちゃんは極めて真剣な表情で言った。
「そう、気は抜けないぞ。それに今回みたいな大舞台は宣伝のチャンスでもある。合同祭の誘いだって前のビーチバレー大会に出たから来たんだ。限られたチャンスはたった一回といえど逃すことはできない。そこで、一つ提案がある。」
「提案?」
「昨日は全員に裏方をしてもらうと言ったが、今回は特別に、お前ら四人のうちから一人だけ舞台に上がってもらおうかと考えている。向こうで打ち合わせをする中で、そういうのも面白いかと思ったんだ。その一人を決めるために、近々オーディションをやるつもりなんだが、どうだ?」
オーディション、と聞いて四人の間に緊張が走った。たった一つの枠を手に入れるためにみんなで争うなんて…。
「私はいいと思うわ。そろそろトレーナーだけやってるのも飽きてきたし。」
「当然、私も賛成。舞台に立てるなんて願ったりかなったりよ。ま、やるなら合格するのは私だけどね。」
京香さんと明衣ちゃんは乗り気みたいだ。きっと生前もいろんなオーディションを受けて、自力で舞台に立ってきたんだろう。
「わたしは、オーディション自体はいいと思います。でも参加はしません。わたしには足りないものが多すぎるから。」
慧ちゃんは伏し目がちに意見を言った。経験不足を気にして、自信なさげだ。
「竹下はどうだ?」
「私は…」
すぐに答えられなかった。実際、私は今まで役のオーディションを受けたことがなく、具体的にどうしたらいいのかわからなかった。心の中にあるのは不安な気持ちだけだった。みんなで団結して公演を作り上げることに変わりはなくとも、ライバルとして競い合うことでせっかく深まった絆に亀裂が入るのではないかという不安。参加することで自分の実力を思い知って、みんなに置いて行かれるんじゃないかという不安。この数日のうちにそういった不安が大きくなる出来事が続いて、ここではっきりと形になってしまうと、ただの思い過ごしかもしれない私の不安が現実のものになる気がしてならない。
「参加するかどうかは少し、考えさせてください。」
「そう…か。とりあえずオーディションはやる方向で行くぞ。実施は一週間後。それまでに参加する者は各自、俺に報告してくれ。その時に詳細も伝える。」
「はい。」
私は迷う気持ちが大きくて、しばらくの間答えが出せないままでいた。オーディションに参加して自分がどこまで通用するのか知りたい気持ちもあれば、逆に実力のなさを実感するのが怖い気持ちもある。その間で揺れる時間はもどかしくも過ぎていくのだった。
その二日後、私と慧ちゃん、明衣ちゃんの三人で劇場の清掃をしていたときのこと。
「ねぇ、どうして二人はオーディション参加しないの?」
明衣ちゃんが掃除する手を止めて、私たちに向き直ってたずねてきた。
「せっかく舞台に立てるチャンスなのに、自分からみすみす逃すなんてもったいなくない?」
「それはそうなんだけど…」
私はいまだに結論が出せず、曖昧な返事をしてしまう。しかし、慧ちゃんは違った。
「うん、たしかにこれは絶好のチャンスだと思うよ。でもわたしには無理だとも思うんだ。たとえ四分の一で上がれるとしても、わたしにはいろんなものが足りない。明衣ちゃんみたいなすごい才能もないし、京香さんみたいな努力も足りないし、桜子先輩みたいな舞台に強く憧れる気持ちもかなわない。今はきっと、とにかく舞台を近くで見てたくさん勉強することのほうが大事なんだ。」
最初に会った時と同じように、慧ちゃんは自分の考えをしっかりと持っていた。目立つことはなくても陰ではずっと力を蓄えている。それを自分なりに考えて継続できるのは、慧ちゃんの尊敬できるところだ。それに比べて私は…。
「でも、桜子先輩にはチャレンジしてほしいと思ってます!」
「えっ、どうして私?」
「最近、元気がなさそうだったから、悩んでるんじゃないかと思いまして。」
自分では意識してなかったけど、不安が表にも出ていたらしい。
「先輩はこれまでもいろんなことにチャレンジしてきてますよね。私が来る前のことも支配人さんから聞きました。私じゃ到底できないことでもどんどんチャレンジして、頼もしく成長してるって言ってましたよ。」
「支配人がそんなことを?」
「京香さんもです。初めて会った時は普通の女の子だと思ってたけど、今ではもう信頼のおける仲間だって。」
「京香さんまで…」
「だから、先輩はオーディション参加してください。ずっと悩んでる姿はもう見たくないです。」
普段おとなしい慧ちゃんがここまで強く背中を押してくれて、私は目に涙を浮かべながらも力強く答えた。
「うん、わかった!ありがとう!!もう迷ってなんかいられないね。」
「あーあ、一人ライバルを増やしちゃったかな。でも、私も本気だから覚悟してよね!」
ことの行く末を黙って見守っていた明衣ちゃんはニヤッと笑い、宣戦布告してきた。明衣ちゃんも、彼女なりに私を心配しての行動だったのだろう。本人に言えば否定するんだろうけど、その優しさが表情から理解できた。
そのあとはすぐ支配人のもとへ赴き、オーディション参加の意思を伝えた。
「やっと来たか。待ってたぞ。ほい、これをしっかり読んで準備して来いよ。」
渡された書類には、オーディションの詳細が載っていた。演じる役は、迷いを抱える主人公を導く天の遣い。ストーリーとセリフは決まっていたけど、どんなキャラクターで演じるのかは個人の裁量に任されている。しっかり物語を理解して、自分なりにふさわしい役作りをしていく必要がある。
オーディション当日までの五日間は空いた時間を見つけては、役作りの研究に没頭した。天の遣い、というからにはやっぱり天使?でも主人公を導くとなるとそれなりに貫録を出せるようにしないと…。いっそ誰かに相談を、いや自力でやらなきゃ意味がない。絶妙なバランスを表現するのが難しすぎる…。
悪戦苦闘しているうちにもうその日が来てしまった。迷走はしたけど最終的に、今の私の最善に近い表現のコツはつかんできた。後はそれをやり切れたらいいだけ。オーディション会場のレッスン室へ入るとすでに二人が椅子に座っていた。二人とも精神を集中させているようで、とても話しかけられる雰囲気じゃない。自分の椅子に座ってしばらくすると、ドアが開いて支配人が入ってきて私たちの反対側、窓側の椅子に座る。今日はいつもと違い、ぼさぼさの髪を整え、きちんとしたスーツ姿だった。いつもこうしていればいいのに…。
「時間になりましたので、オーディションを始めます。ではまず、エントリーナンバー1、法天院明衣さん。」
「はい、よろしくお願いします。」
明衣ちゃんが立って、部屋の中央へと歩み寄った。目を閉じて少しの間俯き、そして目を開くと、演技が始まると同時に、周囲の空気ががらりと変わった。
純粋で透き通るような声を響かせ、細い腕を伸ばし、遥か彼方を指さす。その清廉な声は聴く者の心を穏やかにし、その神聖な姿は見る者の心を従順にした。前に明衣ちゃんが言っていた演技のコツ。それは役の人生になってしまうということ。でもこれは人生なんてものではなく、もっと高位の存在になってしまっていた。演技の才能がもしも天からの授かりものなら、こんな芸当もできるのかもしれない、と勝手に納得してしまった。
「ありがとうございました。」
「では次。エントリーナンバー2、松澤京香さん。」
「はい、よろしくお願いします。」
京香さんは一歩前へ出て礼をすると、一呼吸置いてすぐに演技に入った。
慈愛に満ちたまなざし、落ち着いていて芯の通った美しい声、ゆっくりと余裕に満ちたしぐさで主人公の行く末を示す。明衣ちゃんとは対照的に神々しい聖母のような存在感で、そばにいるだけで安らぎを得られるようだ。これまで培ってきた技術と知識の集大成を発揮し、細部に至るまで研究し尽くしているのが見ていてわかる。理想とするイメージへ近づけていくための努力を惜しまず、全力を傾けた結果をこうして見せられると、誰も京香さんにはかなわないんじゃないかと思えてしまう。
「ありがとうございました。」
「では最後。エントリーナンバー3、竹下桜子さん。」
「はい!よろしくお願いします。」
天才の明衣ちゃんに努力家の京香さん。二人の演技の後でとてつもないプレッシャーがあったけど、私は勇気を振り絞って立ち上がり、中央へ進んだ。軽く深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。自分で納得がいくまで準備はしてきた。あとは全力を尽くすのみ!!
「以上でオーディションは終了です。結果は明日、書面にてお伝えします。」
「ありがとうございました。」
オーディション終了。支配人が先にレッスン室を出ていくと同時に、私は椅子の背もたれにぐっと寄り掛かった。極度の緊張状態だったので、終わったらどっと疲れが押し寄せた。
「あーっ、つかれた…」
対して隣の二人はそれほど疲れていないように見える。
「んー、もう少し声に張りを持たせたほうが良かったかなー。」
明衣ちゃんは自身の演技を振り返っているようだ。京香さんは涼しい顔をして目を閉じている。
「二人ともほんとにすごかった。私じゃ全然手が届かないよ。」
「そんなことはないんじゃない?結構よかったと思うわよ。」
真面目な顔をして京香さんは私の演技を褒めてくれた。お世辞でも褒めてもらえるとたすかる…。
「そうだねー、私には及ばないけど桜子さんにしてはなかなかの出来だったんじゃないかな。自分の気持ちが乗っちゃってたのはミスだったと思うけどね。」
「え、演技に出ちゃってた?」
全力を出し切ろうとするあまり、演じている最中にもそれが表れてしまっていたらしい。
「言われてみればそうだったかもしれないわ。今回の役には合わない感情ね。」
「ってことで今回は私の勝ち!」
「何言ってるの、天の遣いってワードから安直に天使を連想して演じたあなたは不合格よ。」
「はぁ?天使の中でも上位天使を微妙な差で演じ分けたのにも気づかないあんたには言われたくないわね。」
私の演技の評価からいつのまにか、二人はけんか腰に移ってきてしまった。オーディションの後でもけんかできるほど元気があるなんて、二人とも本当にすごい。こんな二人と肩を並べていられることが奇跡だ。平凡な私でもこうして尊敬できる人たちに囲まれているだけで力を得た気持ちになってしまう。つい先日まで抱いていた不安は消え去り、私の中には再び舞台に対する熱が戻りつつあった。