第一話 劇場の幽霊
「ワン、ツー、スリー、フォー…」
トレーナーの手拍子に合わせ、少女たちがステップを踏む。見事に統制の取れた動きは、その練習量の多さを物語っていた。
「よし、今日はここまで。また明日も同じ時間から始めます。」
「ありがとうございました!」
レッスンが終わり、それぞれが身支度を整え、部屋を出ていく。最後の一人が出ていった後、トレーナーの女性がレッスン室の片づけをしていると一人の男が入ってきた。
「何か手伝うか?」
「あら、支配人じゃない。どういう風の吹き回し?」
「そんな言い方はないだろ。まあ、次の公演の相談なんだが…」
来月の定期公演の打ち合わせをしながら片づけを済ませた二人は、そのままレッスン室を後にした。明かりが消え、誰もいなくなったはずのレッスン室だったが、ただ一つだけぽつんと青白く光るものが漂っていた。
「ただいま!」
学校から帰宅し、二階へ駆けあがって自分の部屋に荷物を置くとすぐ制服からジャージに着替え、またすぐに家を出る。
「行ってきます!」
私の名前は、竹下桜子。近所の劇団に所属して、日々、舞台の勉強に励む普通の高校一年生。舞台に興味を持ったきっかけは、幼いころに両親に連れて行ってもらった生の舞台。その輝きに感動した私はすぐに劇団に入りたいとお願いした。でも、両親は学業を優先しなさいと猛反対。それでもめげずに食い下がると、家の近くの名門高校に入学出来たら、という条件付きでOKしてくれた。それからは必死に勉強して、なんとかギリギリのラインで無事合格し、念願が叶って充実した日々を送っている。
劇場に着くと、いつも一緒にレッスンを受けてる子たちが先に部屋の中に入っていた。肩を並べて一緒にがんばる仲間であり、演技力を競い合うライバルでもある。レッスン開始時刻までまだ時間があるけど、先に入ってウォーミングアップを始めているみたいなので、私もそれに続く。
数分経って他のみんなも集まり、最後にトレーナーの松澤先生が入ってきた。詳しくは知らないけど、たしかいまは大学で舞台の勉強をしているらしい、とても大人な雰囲気の女性だ。
「みんな、揃ってる?今日はまず、次回公演の話から入るわ。」
公演と聞いて周りの子たちがざわざわと騒ぎだす。私も緊張に思わず体が固まる。
「静かに。じゃ、発表するわよ。」
辺りが静まってから、次の演目、主役に続いて数名の配役が発表された。名前が呼ばれるたびに、喜びの声が上がり、みんなそれぞれに嬉しそうな反応を返す。
「以上、呼ばれた子たちは全体レッスンのあと、残って個人レッスン。ほかの子たちは裏方に回ってもらうから、支配人のところに行きなさい。それじゃあ、レッスンに入ります。」
今回私の名前は呼ばれなかったけど、まだまだチャンスはあるはず。諦めずにレッスンがんばろう!と自分を奮い立たせ、気持ちを切り替える。本番までの3週間はいつもの基礎レッスンに加え、裏方の仕事も覚えなくちゃで大変だけど、実際やってみると案外やりがいを感じる仕事だった。
そしてあっという間に時は過ぎて本番当日。客席は多くのお客さんでいっぱいだ。公演直前の舞台裏は慌ただしく準備が進んでいた。この公演は私が入団してから初めて迎える公演。独特の緊張感に包まれた劇場はとても新鮮に感じた。ふと舞台袖に目を向けると、メインキャストの子たちが視界に入った。みんなそれぞれに緊張の色が見えたけれど、どこか練習に裏打ちされた自信のようなものがあるのもわかった。
「みんな、いい顔になってるじゃない。余計な言葉はいらないみたいね。今日は楽しんでいきましょう!」
松澤先生の声が舞台裏に響き、みんなで円陣を組んで気合を入れ、いよいよ舞台の幕が上がった。
ストーリーに沿って、トラブルもなく進行していく舞台。ラストに差し掛かり、メインヒロインがかつての恋人を思いながら死んでゆくシーンに入る。観客も舞台裏のみんなも見守る中、主役の子がこれまでの集大成といえる感動的な演技を魅せ、そのまま幕が下りる。舞台裏まで聞こえるほどの大きな拍手が場内を包み込み、幕が閉じても尚鳴りやまない。舞台上から戻ってくるメインヒロインの子をみんなで迎えたとき、そこにいた全員が目に涙を浮かべていた。プレッシャーから解放された安心感からなのか、公演をやり遂げた達成感からなのか、それぞれ思い思いの涙を流していた。私も初めて体験する舞台裏に感極まって一緒に泣いていたけど、同時に次の公演では絶対に舞台に立つ!と決意を新たにしていたのだった。
公演があった次の日。私は放課後、いつものように帰宅してすぐ劇場へ向かった。今日は珍しく一番乗りでレッスン室に入り、先にウォーミングアップを始めた。その後、だんだん人数が増え、松澤先生が入ってきた。
「はい、じゃ今日も始めましょうか。」
あれ?この瞬間、妙な違和感があった。何か、おかしい。
それからレッスンの間ずっとその違和感の正体を考えていたが、どうにも思いつかない。そして、気づいたらその日のレッスンは終わっていた。
「ありがとう、ございました…」
挨拶もそこそこに帰り支度を始め、何気なく仲間たちのほうに視線を向けた。その時突然、何がおかしかったのか、ずっと気になっていたことが急に思い当たった。そうだ、昨日の今日でこんなことに気づかないなんて。でも、誰もそれを指摘しないのはどうして?
一人、また一人とレッスン室を出ていく中、私は最後の一人になるまで残っていた。
「さようならー!」
「はい、さようなら。…あら?竹下さん、どうしたの?」
「先生、あの、今日のレッスンなんですけど。あの子たちはどうしていなかったんですか?」
「あの子たち?」
「昨日の公演でメインキャストをやってた子たちです。みんな上手だったし、全員急に辞めるなんて不自然ですよね?」
先生はすぐには答えてくれず、しばらく腕を組んでなにやら考え込んでいた。
「あの子たちとは昔からの知り合いだった?」
「いいえ、ここに来てから仲良くなりました。」
「なるほど。…。わかったわ、ちょっと私についてきて。」
疑問は解決されないままだったが、おとなしくその言葉に従った。
先生の後について行った先は、劇場支配人室だった。入団のとき以来、ほとんどなじみのない部屋で、これから何が始まるのかと不安になった。部屋の中に通され、来客用と思われるソファに腰掛けて待っていると、しばらくしてドアが開く音がした。振り返ると、30代くらいの男性の姿があった。髪はぼさぼさで目の下にうっすらクマができていて、少しくたびれたシャツを腕まくりして着ている。
「待たせたな。君か?問題の子ってのは。」
問題の、と言われて少しむっとしたが、表には出さず返事をした。
「昨日の公演で舞台に上がった子たちのことを知りたいらしいな。んー、じゃあまずいくつか質問するので答えてくれ。」
「わかりました。」
「君は 幽霊 を信じる?」
「ゆうれい?いきなり何言ってるんですか?」
「答えてくれ。」
「信じません。そういうのは昔っから信じてません。」
「ふむ。なら、もう一つ。君は今日、学校で何をした?どんな些細なことでも構わないから教えてくれ。」
「学校で?なんでそんな質問を?」
「いいから。答えてくれ。」
「ええっと…?」
おかしい。記憶をどんなに探ろうとしても今日の放課後からのことしか思い出せない。
「どうした?」
「いや、よく思い出せなくて。」
「そうだろうな。学校には行ってないはずだから。」
「え?」
「実を言うと、君はもう死んでる。いまの君は幽霊なんだ。」
「…???」
「この劇場にいる人間は俺を除いてみんな幽霊で、この世に未練を残して死んでいる。あの子たちは自らの夢を叶えて成仏したからもういない。」
急に言われて事態を飲み込めず、開いた口がふさがらない。そんな私のことはお構いなしに支配人は話を続けた。
「レッスン生が成仏した子たちのことを覚えている、なんてのは今までほとんど類を見ない珍しいケースでな。ちょっと今すぐには対応できない。だから、今の話は一旦ここだけの内緒話にして、少しの間待っててくれるか?」
突然言われた話が衝撃的すぎて、それにどう答えてどう帰ったのかは覚えていない。そもそもその日、家に帰ったかどうかも定かではなかった…
翌日。レッスンの前に、トレーナーの松澤先生から支配人室へ行くよう指示された。そこには昨日とほぼ同じ姿で支配人がいて、デスクで何かの書類をまとめていた。
「来たな。それじゃさっそく。単刀直入に言うと、君には二つの選択肢がある。一つは、すべて忘れてこれまで通りレッスンに励み夢を叶えて成仏すること。そしてもう一つは、契約をしてこの劇場で従業員として働くことだ。ちょうど人手が欲しいところでな…」
「待ってください!私、まだ自分が幽霊だなんて信じてません。」
私の言葉に支配人はとても意外そうな顔をしてこちらを見ていた。
「証拠がないじゃないですか!こうして私はここにいるし、死んでるなんて思えません!!」
そう叫んで私は支配人室を飛び出した。劇場の外に出て振り返らず、無我夢中で走った。気づくと家の前に来ていて、そのまま中に入り、自分の部屋にひきこもった。落ち着こうとベッドに横になって目をつぶってみても、どうしても昨日からのことを考えてしまう。しばらくそうしていたら、不意にドアが開いた。そこには私のママの姿があった。
「ちょっと、ママ!ノックぐらいしてっていつも言ってるでしょ!」
そんな私の声がまるで聞こえていないかのように、勝手に部屋の中に入り込んできて私の勉強机の上に手を置いた。
「ねえ、聞いてるの?!」
その瞬間、ママにふれようとした手がそのまますり抜けて空を切った。何度もふれようと手を伸ばしても、何もふれられずただ通り抜けていく。私は何もできず、ただママのそばに立ち尽くしていた。
「…どうして死んじゃったの。こんなに早く…。」
いつも明るくて笑顔だったママが悲しみに暮れた表情で言った。よく見ると机に置いた手が震えている。
「どうしてなの…うぅ…」
そのまま床に座り込んで泣き出したママに、私は何もできなかった。
「ママ、またここにいたのか。」
ドアのほうに目を向けると心配した様子のパパが立っていた。ママのほうに歩み寄ると、やさしく包み込むようにママを抱きしめて、
「本当につらいことだけど、受け入れるしかないんだ。受け入れるしか…ない。」
そう言っているパパの表情もまた悲しげで心の底からつらそうだった。私はいてもたってもいられず、その場から逃げ出すように走って家を出た。
どれくらい時間が経っただろう。家を出た私は近所の公園に来ていた。辺りはもう暗くなり、外灯がぽつぽつと灯り始めている。居場所をなくして途方に暮れてブランコに座っていたとき、背後からいきなり聞きなれた声がした。
「こんなところにいたのね。」
「…先生?どうしてここにいるんですか?」
「さあ?どうしてでしょうね。隣、いいかしら。」
松澤先生は隣のブランコに腰掛け、しばらく何も言うことなく星空を眺めていた。
「…幽霊だってことまだ信じられない?」
「いえ、もう信じてます。さっき家に帰った時、ママにさわれなくて声も届かなくて…本当に私死んじゃってるんですね。」
「ええ、そうね。」
「支配人に言われた話、私は成仏するほうがいいと思うんです。つらいことは忘れてさっさと成仏したほうがいいに決まってます。」
「…それで本当にいいの?」
「えっ?」
「ここ数日のことを忘れて自分が死んだことにも気づかず成仏していくのもありでしょうね。確かにそのほうが楽だし、悲しくなることもない。でもそれでいいの?それで満足?まだまだこの先見たことのない景色があるはずなのにそこで終わってもいいの?」
「…。」
「あなた、この前の公演のときよく個別レッスンのほう覗いてたわよね。自分も舞台に立ちたいって気持ちはだれにも負けないほど強いんじゃない?それをたった一度の舞台で終わらせてしまったらもったいないじゃない。あなたの夢はその程度のもの?」
「そんなことないです!でも、しょうがないじゃないですか。私はもう死んでしまったんです。私の夢はここで終わりなんですから。これ以上望むのはおかしいんです。」
「おかしくなんてない。ここで終わりなんだったらどうしてあなたは今つらい思いをしているの?普通の子なら何も気づかないのにあなたは違った。これはチャンスなのよ。もう一度夢を叶え続けられるかもしれない、あなただけのチャンスを自分から手放すつもり?」
「それは…いやです!たった一回きりの舞台なんていやです!もっともっと舞台に立ち続けたい。幼いあの日に見た舞台みたいな感動をもっとたくさんの人にも伝えて知ってもらいたい!」
気づけば私は立ち上がっていて、泣いて真っ赤になった眼を先生に向けながら叫んでいた。
「いい目になってるじゃないの。なら私と一緒にいきましょう?」
先生は私の決意に満ちた表情を見て微笑むと、私に手を差し伸べた。今度は空を切ることなく、私はその手を強く握った。
その後は一緒に劇場の支配人のところへ行った。部屋に入る前、先生は一言、
「今の気持ちをそのままぶつけてきなさい。」
と力強く背中を押してくれた。
「失礼します!」
「どうぞ、座って。待ってたぞ。それで心は決まったか。」
「はい。いろいろ悩んで成仏することも考えたんですけど、やっぱりまだまだやりたいことがたくさんあって、自分の目で見たいものがたくさんあるんです。だから、ここで働かせてください!できることならなんでもやります。少しでも長く舞台をそばで見させてください!お願いします!」
「よし、よく決心してくれた。答えはもちろん、イエスだ。すぐ契約に入ろう。」
支配人はデスクの上にあった紙を一枚、私のほうに差し出した。
「幽霊雇用契約書?」
「ああ。この世にとどまってる幽霊はちゃんと契約を結んでおかないと除霊されちまうんだ。こうやって正式に手続きを踏んで、この世できちんと働いている証明をしとかなきゃならん。中身を読んだらここにサインして、印鑑…はないから拇印を押してくれ。」
契約書にはまず、契約霊としてやってはならない禁止事項が書かれていた。
『一、現世および雇用主を除く現世の人間に関与してはならない。
二、定められた区域外に単独で外出してはならない。
三、他の幽霊に対して危害を加えてはならない。』
またほかにも、禁止事項にふれたらすぐに除霊されること、ルールを守っていれば様々な権利が保障されることなどがあった。一通りすべてを読み終わり、サインをした後、拇印を押そうとして机の上の朱肉を手に取りふたを開けると中身がなかった。
「これ、空っぽですよ?」
「あぁ、それ普通のインクじゃなくて目には見えない特殊インクを使ってるんだ。ちょっとつけてみればわかる。」
中をさわってみると確かに指になにかが付く感触があった。親指にしっかりつけて、書類に押し付けると見えなかったインクがはっきりと浮かび上がってきた。
「…すごい。うわ!?指に変な印が付いた!?」
「それは契約霊のしるしだ。イカしてるだろ?特殊なもんだからもう消えないぜ。」
拇印を押した親指の腹に変なぐるぐるマークがついた。なんか恥ずかしい…
「じゃ、無事契約成立!今日はもう遅いし、よく休んで明日から働いてもらおう。部屋は松澤に案内してもらってくれ。」
支配人室を出ると松澤先生が待っててくれた。
「改めてよろしく、竹下桜子さん。レッスントレーナーの松澤京香よ。」
「はい!よろしくお願いします!」
それから階段を三階まで上がって私の新しい部屋に案内してくれた。
「この部屋なら自由に使ってくれていいから。私物はもう持ってこられないけど必要なものがあれば言って。手配するわ。あと、私の部屋は二つ隣だから何かあれば来なさい。じゃ、おやすみ。」
「はい、おやすみなさい。」
こうして、舞台少女の夢が集まるこの劇場で、私の新たな幽霊ライフが始まったのでした。