朝の日課
エナルが目を覚ましたのは、まだ夜も開けきっていないような早朝だった。
「昨日早くに寝たせいか、思いの外早く起きちゃったわね」
静かに呟いて、ベッドから出た。
商家の村を出て以来、皇女二人はおじさんが綺麗にしてくれた船室で寝ているのだった。
「寒っ」
昼間は汗ばむほどの気温だが、流石に日も満足に出ていないと涼しかった。
エナルは箱船からは出たものの、ガウンを取りに戻るのか、Uターンした。その時だった。
ひゅっ。
何かが空を切る、そんな音がする。
荒い人の息と地面を蹴る音も。
「誰?」
イヴかカナルがはたまた敵襲か。
エナルは身を固くしたのも束の間、ちらりと覗いた少年の顔に、ホッと胸をなで下ろす。
「イ……」
声をかけようとして、やめた。
振り上げて、くるっと回って、跳んで、着地して。
いつか宮でみた踊り子よりも、あんまり簡単そうにこなしていくイヴの型の方がずっと綺麗だった。
ひゅっ。
逆手に握られた短剣が空を切る音はするのに、回った音も跳んだ音も聞こえない。
そこだけ音が切り取られたような、不思議な感覚だった。
「よっと」
ひと言そういうと、イヴは驚くほど高く飛び上がった。高くに茂った木に隠れてしまう。
とんっ。
イヴの体重なんて感じさせない軽い着地音が聞こえてそちらを見ると、もうイヴはいなかった。
「え?」
エナルは思わず声を漏らして、きょろきょろと辺りを見回した。
「全然違うなぁ。どこ見てるの」
後ろから声がかけられて、エナルが振り向く。
ニヤニヤしたイヴが立っていた。
「俺の足の速さ舐めんなよ!」
短剣をしまいつつ、楽しそうに笑うイヴ。
エナルはうんと背伸びをして、それから言った。
「邪魔しちゃってごめんなさいね」
「お気になさらず。珍しく朝が早いね」
「うっかり早く起きちゃったわ。もう少しお布団と仲良くしてくるわね」
イヴはエナルが驚くほど優しく微笑んで、
「おやすみ」
とだけ言った。
「また後で」
エナルはちょっとだけ照れて、そそくさとその場を離れていった。
イヴはそれを見送ると、また地面を蹴る。
「ほっ!」
次の瞬間、イヴの目に写っているのは、広々と続く森の緑。安定しない木の先っぽに真っ直ぐと立っているのだった。
「身体能力だけは暗殺者向きだよなぁ」
エナルの驚いた顔を思い出して、イヴは自嘲気味に笑う。
ふと手のひらを見ると、じくじくと赤く血が滲んでいた。
「やべ、またやりすぎた」
不安になった時、怖くなった時、寂しくなった時。
どうしてもイヴには、マイナスの感情を鍛錬に当て付ける癖があった。
朝からやって、日が落ちるなんてこともザラで、血が滲んでも大抵は気づかない。
「そろそろやめないと」
イヴは無音で地面に着地すると、川に向かって駆け出した。
ずっと川沿いを移動してきてはいるから、常に近くに水辺はある。そこでイヴは傷を浸しつつ、軽く当て布だけをした。
「そろそろウチのお姫様方を起こさないとな」
呟いて、箱船の方へ走り出した。
イヴの走った後には、つむじ風だけが残っている。
「あ、おはよう、イヴ。鍛錬やめちゃったの?」
箱船の入り口に、カナルが残念そうに立っていた。
「なんで鍛錬してるって知ってるんだよ」
「エナルから聞いた」
ああ、とイヴは軽く頷く。
カナルはまだ寂しそうな顔を言う。
「起こしてくれるんじゃ、なかったの?」
「あ。ごめん、完全に忘れてた。そうだ、短剣の使い方教えるって……」
「エナルは寝ちゃったけど」
カナルはニヤニヤいたずらっ子のような顔をイヴに向ける。
「はいはい。仰せのままに、皇女様」
イヴは足元から手頃な棒切れを拾って、カナルに手渡した。
「最初はそれで型を覚えるところから」
カナルは得意げに渡された棒を弄んでいる。




