能力の代償
慌てるエナルに従って、カナルはゆっくりと手を挙げた。ティフの高度があがる。
「うおっ!?」
瞬間、がくんと振られるような衝撃が一同に走った。
ティフは上に行こうと必死に飛ぶが、じわじわと地面が近付いてくる。
「なにこれ?」
「だから上げないと死ぬって。多分アレ、空白よ」
空白。
知らない人の方が多いだろう。近年、ベル・スフィアスやエル・グランデを困らす現象の名前だった。
「空白?」
「そう。原因は不明だけど、木々の間に突然現れて、光すら吸い込んじゃう黒い靄」
なぜか周りにある木は吸い込まないし、そのうちすうっと消えるので、いつどこで発生しているかなんて分からない。
「じゃあ今、俺らは吸い込まれる対象ってこと……?」
「そうなるわね」
「ティフ! もっと頑張って高度あげてよ!!」
どくん、どくん。
限界まで頑張っていると伝えるように、ティフの心臓の弾みがエナルたちに響く。
「きゃっ!?」
またぐいっと縦に振られる。
空白が近付いてきていた。
「待って、もうティフもこれ以上は……」
そんなことエナルにも分かっている。
エナルは勢いよく手を挙げると、固く目をつぶった。
(風に、木々に、ツタたちに。我の願いを届け伝えよ)
口の中で転がすように呟いた。
ぐおんと暴風が駆けて、ティフの腹を押し上げる。狂った蛇のようなツタが空白に覆い被さって、木々は葉をのばす。
「さっすがエナル!」
鞠のように飛ばされるティフの上で、カナルは指を鳴らした。
「こんな簡単に封じられるんだったら、もっと早くやればよかった……ってエナル!?」
「カナル! これ水で濡らしてきて!」
イヴが慌てて腰元に縛った手拭いを放り投げる。
カナルもバタバタと走った。
「エナル、大丈夫?」
(大丈夫じゃないよな……)
エナルはティフを弾くと共に、床に崩れ落ちた。この一瞬で尋常じゃないくらいに汗をかいて、頬を火照らせている。
どうにも大丈夫じゃない状況に、イヴはぞわぞわとした。
「濡らしてきた!」
カナルが握る濡れた手拭いを、半ば強奪するようにしてイヴは受け取った。
広げて、エナルの首元に巻く。
「カナル、よく聞いて。俺がエナルを船室に運ぶから、そこで看病してほしい」
「分かった!」
「首、わきの下、足の付け根。今渡す手拭いを濡らしてきて、その三つを冷やして。替えの手拭いは時々渡すから」
グッと構えて持ち上げたエナルは思ったより、ずっと軽くて、よろついてしまった。こんな軽い身体で、よくあんな暴風を起こしたなと思う。
船室に潜り込んで、埃っぽいベッドに寝かせて、あとはカナルに任せた。
ふわふわと浮いている気がして、エナルはぼんやりと虚無を見る。
お姉ちゃん!
懐かしいような、馴染みのような、そんな声が耳に響く。
ああ、カナルだと思った。
お姉ちゃん!
今度は泣きそうな声だった。
昔、エナルが流行り病になった時に、ずーっと側で離れなかった。結局移って二人で寝込んだっけ。
お姉ちゃん!
いつからカナルはエナルのことを姉と呼ばなくなったんだろう。
勉強をしても、運動をしても、愛想の良さですら、カナルの方が勝っていると気付いた辺りだろうか。
「お姉ちゃん……」
エナルはハッと目を開けた。まだ頭につく夢見心地を振り払うと、埃臭いマットレスがきしきし鳴いた。
「カナル、起きなさい」
横に突っ伏して、くかくか寝息を立てるカナルを、エナルは軽くゆすった。
むくりと起き上がると、冷たい手拭いが額から落ちた。
「んあ、お姉ちゃん……? もう熱下がった……?」
「いつに夢見てるのよ、カナル。熱なんてなさそうよ」
まだ違和感のあるような膝がきゅっとした。どうにも熱があったような、病み上がりのような。
「よかった。あんまり能力を使いすぎちゃダメだよ、エナル」
寝ぼけてでもお姉ちゃんなんて呼んだのが恥ずかしかったのか、カナルは戒めるように言った。
「あら、目が覚めたのね! 具合が良さそうならご飯を食べにいらっしゃい!」
歌うような声が、エナルたちにかけられる。
エナルには聞き覚えにない声だったけれど、カナルは親しそうに答えた。
「今行きます、ミーナおばさま」
どうやらここは、イヴが話していた商家の村らしい。




