クルトの過去~麗しき母~
朝は常に5時に起きた。
カーテンを開け日の光を浴びながら、ストレッチ。朝食を食べずにジャージへと着替えて毎朝10キロのランニング。自宅へと帰ればシャワーを浴び、身支度をしてようやく朝食を食べる。食べ終えれば前日の内に準備しておいた学校の指定鞄を持って再び走る。
学校では授業を受け、ノートには授業の内容は勿論、先生の話す有益な一言一言も逃さず書いている。その上、見返しとき自分が理解しやすいような工夫をしている。
そのようにして書かれたノートはびっしり文字や数式で詰まっていながらも非常に見やすく作られていた。
昼食では片手に単語帳、もう片方の手で弁当を食べている。余った休み時間は全て寝ることに費やした。
放課後は直ぐさま自宅へと赴き、二時間ほどでその日の復習と予習、宿題を済ませる。
そして、夕食でいつものように父から虐待を受けた後、残りの数時間を使い、母との立ち合いを延々としていた。
立ち合いと言っても、剣術だけで無く格闘術、暗殺術などお互いが持ち合わせる全ての技術を用いており、最早傍から見れば殺し合いのようにしか見えない代物になっていたが。
そんな毎日を続けて8年、私は13になっていた。
母は既に40近くとなっていたが、それでも美しさが、腕が衰える事は無かった。
そんないつもの日常のある日のことだった。
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「はい、ここまで。強くなったわねクルト。」
「はぁ…はあ…ぐ、具体的に…どこ、がですか?…お母様。」
「それを考えるのも貴方の仕事です。…ふふっ。」
この頃になると母親業も板に付いてきており、たどたどしかった会話も今では普通に交わせるようになっていた。
(また勝てなかった。)
悔しさを噛み締めて、敗因を考えながらノートに今日の日付と黒星を書き、通算3189敗0勝と付け加える。
その姿を、母は口に手を当て微笑みながら見つめてくる。
いつもそうだった。この立ち合いの時間が私にとって一番幸せだった。学校でも返事でも、旅行でもなく、この立ち合いが。
道場という母と二人だけの神聖な場所で、母と剣を交えて、母と言葉を交えて、母の愛を受けて、この時間だけ私は笑えた。
「…寝よっか。」
「…そうね。」
お互い名残惜しい表情になる。
でもまた明日、同じ時間同じ場所で会えるからと言い聞かせる。
胴着を脱ぎ、シャワーを浴びてから寝間着へと着替え、屋敷へと戻る。
厄介な事に屋敷は広く、母と寝る場所が真逆のため、途中まで一緒なのにあるところで急に別れるような道順で余計に寂寥感が募る。
「…ところでお母様。」
「なに?」
「『剣聖』であったお母様が何故格闘術や暗殺術を身につけているのですか?」
私達の立ち合いは基本何でもありだ。格闘術、暗殺術、剣術他、多岐にわたる。そして母はその全てに長けている。もちろん私もある程度は心得ている。だからこそ、疑問だった。自らの剣に誇りを持たないような、そんな立ち合いは。
何故今になって聞いたのか、理由は無い。ただ何となく聞いてみた。そう、何となくだ。特に他意は無い。ただ、私の感がここでしかもう聞けないような気がしたのだ。
「う~ん。…秘密!じゃあ、また明日ね。」
「ちょっ…!お母様?!…………はぁ。」
(何だかしまりが悪い。今日は寝付きづらそうだ。)
そう思いながら自室へと行き、眠りについた。
――――――――ゥゥゥゥウウウウ
獣のうなり声のような音が響いていた。
「………んぅぅ?なに?」
あまりの大音響に目が覚める。まだ眠く、まぶたは上がりきらないでいる。
少しずつ目が覚めるとだんだん音がクリアに聞こえてくる。
―――パチ――パチパチ――パチ――
―――ぃやぁあ…!――う―わぁぁあ…!――
―――…なんして…!…はや――あっ――
何だろう。夜中だというのに騒がしい。
(…もしかしたら朝になっていて寝坊しているのでは…!)
閉じたカーテンを開けた。
「…は?」
そこには真っ黒な夜空を染め返すほどに紅に染められた街があった。
そう、あれはサイレンだったのだ。空襲の。
「どこ?!お母様はどこ?!」
侍従に叫んでも返事は来ない。それどころか屋敷に人の気配すら感じない。
「くっ…!」
寝間着と一本の刀を持って屋敷中を駆け回る。だが、探せど探せど母はおろか侍従一人見当たらない。
(そうだ…!道場、道場なら…!)
急いで駆け出す。いつまた空襲が来るか分からない。
道場までの石畳の道を駆ける。素足で足に石が食い込むがまるで気にならない、むしろこの痛みこそが自分がまだ現実にいることを知らせてくれる。その痛みが今はありがたかった。
母と別れた場所、その石畳までたどり着く。
――――――そのときだった
ドゴォォォオ!!
私は余りの衝撃波に吹き飛ばされた。時同じくして二度三度同じ轟音が鳴り響く。うつ伏せた状態から思考のまとまらない頭を抱えながら、顔を上げる。
目の前の道場は最早原型すら留めていないほどにスクラップと化していた。
「あ、あぁぁあ…。あぁ、あぁぁ…!」
直後、火の手が上がる。一カ所、二カ所、三カ所。パチパチと音を立てながら、その家屋にススを被せていく。
母との思い出が、唯一の幸せが、人生そのものが、音を立てて崩れてくる。
「嫌…嫌だ。嫌だよ、やだよぉ…!行かないでよ…お母さん…!」
這うように道場へと向かう。その燃えさかる炎に手を伸ばす。何か掴める筈もなく、ただただ虚しさだけが手に残った。
手を伸ばしていると、ガス管にでも触れたか、大きく爆発が起きて、手が熱風に晒された。小さく火傷して、私は痛みに手を引く。
再び、大きく爆発が起きる。もう、私は怖くなってしまっていて身を屈めているだけだった。すると、近くでジャリッと何か大きな物が落ちる音がした。
「…お母、さん…。」
見ればそこには母の形見の刀が落ちている。
我に戻った私は、刀に駆け付けて私のものと一緒に抱える。最後に一瞬だけが道場を見たが、やっぱり見ていられなくて、目を背けた。そして、私は急いで出口へと走り出した。
(お母様が刀を置いていく何てあり得ないッ!)
そう言い聞かせながら。
大通りへと出れば、そこは阿鼻叫喚の嵐。燃えさかる炎の中、泣きじゃくる子供が、殴り合う若者が、死期を悟り祈りを捧げる老人が、瓦礫に埋もれた体を引きずり出そうと必死に手を引く青年が、母親が、父親が。私はそれを一瞥することも無く、真っ直ぐに避難シェルターへと向かう。
一カ所、定員オーバー。二カ所、孤児と疑われ疎まれる。三カ所、人波に押し戻され、入ること叶わず。
(避難シェルターは無理だ。何処かに逃げられる場所は…)
悩んでいたとき、それが目に入る。
青々と草木が生い茂り、街が紅に包まれてなお、その美しさを保ち続けるそれが。
いつもトレーニングで駆け上る山だ。幸い、火はどこからも上がってない。一時的とはいえ避難することは可能だ。それにあの山はかなり険しく、慣れている人でも無い限り駆け上るのは厳しい造りになっている。
(ちょうど良い。)
私は山へと再び駆け出す。
着いた頃にはもう街は灰燼となっていた。荒い呼吸を整えながら私はその光景から目を話すことが出来なかった。
「はぁ…これが、…これが私達の街…?」
先程から愕然として腰が抜けたままだ。ただ、母の刀だけはちゃんと握っていた。
「お母様…。」
縋るように刀に抱きつく。そして願った。目を開けたとき、この刀がお母様でありますようにと。だが、目を開けてもそこには一際鋭利な刀があるだけだった。
しかし、時間は唐突に動き出した。
「……貴様が何故ここに居る。」
「…え?」
振り返れば、そこには父親の姿があった。