PART6 家庭教師
月曜日、涼花さんは朝から目に見えて緊張していた。彼女は、車の運転は久しぶりだという。詳しく聞いたら、久しぶりどころか、ほとんどペーパードライバーだった。いや、話にならないんじゃないの、それ。
「でも大丈夫」と、涼花さんは軽く引きつった笑顔で強がってみせる。その笑みは余計に恐怖を増幅させ、同乗させられる方の私は不安ばかりを膨らませた。
実際のところは、全然大丈夫ではなかった。走りだそうとして、すぐエンストするわ、急ブレーキを踏みまくるわで、私は気分が悪くなりそうだった。車線変更も危なっかしい有様だったので、助手席に座りながら、せっかく生き残ったのにこれで死んだら意味ないなあ、などと私は呟いていた。
幸い、まだ命を捨てずに済み、車は無事に島崎高校の校門前にたどり着いた。神様は今でも、私を愛してくれているらしい。
教室まで送っていくという涼花さんに対して丁寧に断り、デイパックを背負った私は、松葉杖をついてゆっくり進んだ。校舎を視界に捉えながら、毎度の記憶の確認をする。結果はいつもの通り〝NO〟だった。そりゃそうよね、と思う。住み慣れた我が家を前にしても何も思い出さないのに、二ヵ月程通った高校を見たぐらいで、記憶が戻るはずがない。
歩いていると、周囲からそれとなく視線が集まるのを感じた。初めは怪我人が珍しいのかな、と勘違いしたが、そうではないようだ。私は有名人だったことを思い起こした。そうか、しばらくは好奇の目に晒されつづけるんだ、と少しげんなりした。
愛子たちから、教室の位置などは聞いている。私は一年三組だった。一階なので、通うのはなんら問題ない。私は下駄箱に貼られている自分の名前を探し、お尻を簀子に落としてなんとか右足だけ上履きに履き替えてから、廊下を歩いた。
なんとなく気後れしながら教室に入ると、空気が変わったように感じた。今度はまったく遠慮のない視線が一度に集中する。圧力みたいなものを感じて立ち止まると、深雪を含めた、七、八人の女子生徒が駆け寄って来て私を取り囲んだ。
「わあ、退院早かったんだね」
「おめでとう」
いっぺんに声をかけてくるので、返事ができなかった。皆は笑顔で、私を教室の中央付近にある机まで案内してくれる。なんだか、ほっとした。見舞いに来てくれた時も感じたことだけれど、誰もが暖かかった。私はイジメを苦にしての自殺、という可能性も一応考えていたのだが、どうやらその線はなさそうだ。
「結構元気そうやんか」
長い髪を中央で分けた女の子が、私に顔を近づけてきた。この子は誰だろう。そうだ、早くクラスメイトの名前を覚えなければ。
「記憶はまだ駄目なん?」
「うん。さっぱり」
「そっか。残念やな」
「ほな、私が貸した一万円は?」
狙っていたのだろう。深雪がすかさず横から、病室でついた嘘と似たようなことをいった。頼子さんによると、こういうふうに同じギャグを重ねる手法を「天丼」というらしい。
「金額、増えてるじゃないの」
私はちゃんと右手を上げて、つっこんであげた。深雪は、楽しそうに声を上げて笑う。遅れて、周囲に笑い声が湧いた。
「ふふ、なんか安心したわ。前みたいに明るいし」
「そうやね」
女の子たちはうなずき合う。
「脚はどう? 痛くないん?」
左横にいた女の子が腰を折り曲げて訊いてきた。「それは」と答えかけた私は、深雪の「天丼」のお蔭で、頼子さんの教えを思い出した。
大阪では、女であっても笑いをとれなければならない。
「心配ないよ。ぜーんぜん平気」
私は拳をつくって、ギプスを上から三回叩いた。いや、本当に叩くと響いて痛いので、力を入れているようにみせかけて、実は軽く当てただけだ。
「わあっ!」
「止めてよ!」
皆が一斉に慌てふためいたので、私はきょとんとする。せっかく身体を張ったのに、これは笑えなかったようだ。
やがてチャイムが鳴り、担任の広川先生がやって来て、ホームルームがはじまった。彼女は私に気づき、「もう大丈夫なの?」と声をかけてきた。それから「皆、知っていると思うけど」と前置きして、私の記憶喪失について話し、授業など、色々と大変なことが多いだろうから、できるだけ助けてあげてほしいといった。
クラス中の注目を浴びるとなると、どうしたって緊張する。振り返る男子の視線を意識しながら、私は真顔を保ってぴんと背筋を伸ばしていた。
広川先生は涼花さんと同様に、私の自殺を事故だと決めつけているらしい。私の話を一般論にして、クラスの子たちに向かって普段から車などに気をつけるように、と訓示を垂れた。なんだかダシに使われているようで、これには、あまりいい気はしなかった。
先生が去り、次いで一時間目の授業がはじまった。いきなり、恐怖しかない数学の授業だ。日曜を間に挟んでいたにもかかわらず、面倒くさがって勉強を怠った私は、当然まったくついていけなかった。二次方程式だの虚数解だのいわれても、目が点になるばかりだ。
焦燥が、一気に広がる。このままだと落ちこぼれてしまいそうだ。いっそ今から理系科目は捨てて、文系に絞ろうか。教科を減らせば、追いつくのは比較的簡単だろうし。
いや、それとも。
頼子さんのいう通り結婚を目指してみようか、と私の思考は高校生らしからぬ方向へと飛躍した。確かにまだ若すぎるが、一向に景気が良くならない現今の状況下では、悠長に構えていられないみたいだし。私は、自分が人妻になった姿を想像してみた。まずは朝早く起きて、旦那様のご飯とお弁当をつくり、仕事に送りだす。そのあとは食事の後片づけをし、掃除をして、それから……休憩かな。テレビを観て、午後になったら買い物に行く。そのうち赤ちゃんが出来るだろう。となると、育児だ。うん、これは結構大変かも。
大体、まだ十代なのにいきなり家庭にこもったら、未練が残るのではないだろうか。遊びたいのであれば、やはり短大ぐらいは行っておいた方がいいかもしれない。それに、本当に専業主婦になりたいのか、まだ私は自分の心がきちんと把握できていなかった。
悩みだすと、思考があちこちをさ迷ってきりがない。記憶を失ったせいで、私は人生の岐路に立たされてしまったのだった。
両手で頬杖をつき、授業は一切聞かずに、私はいつまでも深刻に考えつづけた。
※ ※ ※ ※
選択に困った場合は、結論を先送りにすればいい。私は決断を回避するために、勉強しようと心に決めた。
涼花さんはどうやら成績のいい私に期待をかけていたらしく、大学にも行かせてくれるつもりのようだった。だったら、進学しない手はない。その間に、進路についていくらでも考えられるだろう。大体、公務員や医者との結婚を目標としたところで、うまくいく保証はない。それよりも、きちんと自立できる術を確保した方が、まだ安全なように思えた。
決めないことを決めた私は、まずは友達に甘えることにした。学業においても、私は脚の骨を折ってしまったようなものだ。何か支えがなければ、一歩も前に進めない。なので私は、深雪に個人教授をお願いした。彼女の成績についてはまったく知らないし、はっきりいって、あまり優秀でもなさそうだが、曲がりなりにも島高生なのだから、標準は越えているはずだった。少なくとも、今の私よりは遥かにましだろう。
休み時間に机に手をついて頭を下げると、深雪はちょっと悩んでから快諾し、早速今日から、ウチに来ると約束してくれた。
道筋をつけると、かなり安心できた。すると意欲が出てきて、涼花さんに車で家まで運ばれ、二階に上げてもらうと、私は自ら勉強にとりかかった。けれど……やっぱり何から手をつければいいのかわからない。結局、本棚から見知らぬ漫画を取りだし、読みふけってしまった。人は易きに流れるのだなあ、と感慨に浸りはしても、ちっとも止められない。こんな調子だから、外側から強制してもらうしかなかった。
ドアベルが鳴り、次いで涼花さんの話す少し高めの声が響いた。来着を悟り、待っていると、やがて階段を昇る足音が聞こえた。私は深雪を迎えるべく、椅子を半回転させた。
「やっほー。お待たせ、亜希」
深雪は、いつものように笑顔で元気よく登場した。そんな深雪に微笑みかけた私は、すぐに表情を凍りつかせた。彼女の背後に立つ人影に気づいたからだ。
「ちょっと。どうなってんの」
思わず低い声が出た。深雪はわざと鈍感を装っているのか、笑みを張りつけたままだ。
「ん、どうかした? 家庭教師を連れてきただけやけど」
すっとぼけた口調で応じ、つっ立っている大和の腕を引っ張る。バランスを崩した大和はたたらを踏んだ。彼は困っているのか、私を見たり、深雪に目をやったりしていた。
そういうことだったか。
怒りが、徐々に下腹から湧き上がってくる。個人教授を依頼した時に、答えに間があったのは、実は頭のなかで策を立てていたからだったのか。
「私は、ユッキに頼んだんだけど?」
「いやー、私は人に教えるの下手やからさ。その点、阿久津君やったら大丈夫。逸材揃いの島高でも、トップクラスやし」
どうせ適当に出まかせを喋っているんだろうと思い、私は腕を組んだ。
迂闊だった。私と大和との仲を取り持ちたい深雪が、何か画策する展開は事前に予測できたはずなのに。家庭教師は、愛子に依頼するべきだった。いや、今からでも遅くはない。
「悪いけどさ、帰ってくれる? アイに頼むからいいよ」
「ちょ。まぁ、待ちいな」
深雪は慌てて駆け寄ってきて、私の肩に手を置いた。
「アイは美術部で忙しいんやから、無理させたらあかんって」
「あの人は部活してないの?」
「いや、阿久津君も美術部やけど」
「だったら、条件同じでしょうがっ」
「まま、待ってえや」
深雪は必死の面持ちだった。
「ほんまに阿久津君は教え方うまいんやから。もう付き合う気がないのは、知ってる。だから、あくまで家庭教師。勉強教えるだけ。それやったら、ええやろ?」
深雪は、一息にまくしたてる。一方、私は唇の両端を下げてへの字にした。どうせ深雪は、一緒の時間を過ごしていれば、そのうち自然に元サヤになると踏んでいるに違いない。彼女の魂胆は見え見えだった。
こうまでしつこいと、本当に友情ゆえの行動なのか、疑いたくなる。ただ単に、この子は人の世話を焼くのが好きなだけなのではないだろうか。
また、何度も拒否しているのに、こうして性懲りもなく姿をあらわす大和にも腹が立った。「そんなんだと、本当に嫌われますよ?」はっきりと言葉にして、そういってやろうかと思った。
けれど……少し、考え方を変えてみた。それならば、こちらは強く心を保っていればいいだけの話だ。タダで個人教授を受けようなんてはっきりいって厚かましく-、私にとっては負い目でしかない。しかし、相手に元の関係に戻りたいなどという不純な動機があるのなら、何も負担を感じなくていいというメリットもあった。
私は、大きく息を吐いた。
「ああ、面倒くさい。じゃあ、いいよ」
「え、ほんま?」
深雪は意外だったのか、目を丸くした。今まで、大和に対して頑なな態度を貫いてきたから、半分ぐらいは断られる覚悟だったのかもしれない。
苦い口調で、私はつづけた。「その代わり、条件をつけさせてもらうから」
「ん、何?」
「絶対に。絶対に、過去の話はしないこと。私は昔の自分とは決別したいんだから。何も思い出したくないの。いいですか、阿久津君?」
最後は深雪越しに、大和に向かっていう。私は、わざと眉間を険しくしていた。しかし、居心地が悪そうだった彼は、話しかけられたせいで、落ち着きを取り戻したようだ。
「うん、わかった。でも、だったら、こっちも条件つけていいかな?」
「何ですか?」
「これからは、お互いタメ口で話すこと。それぐらい、いいだろ?」
真っ直ぐに私と目を合わせながら、大和はいった。
その瞬間、かっと頬に熱を感じた。穏やかな彼の口調が、私に、自分の子供っぽさを強烈に意識させたからだ。もしかしたら、もう彼は私に気がないかもしれないのに。なのに、懸命に大和との間に壁をつくろうとして、これではまるで独り相撲だった。
恥ずかしさを隠すために、私は小さく空咳をした。
「わかったよ。これでいい?」
極力平静を装いつつ答えると、大和は微かな笑顔に変わった。
※ ※ ※ ※
その日から、記憶喪失者の学力回復のために、大和は毎日部屋に通って来るようになった。なんと毎日、だ。週に二、三度でいいと私は断ったのに、彼は「早く追いついた方が楽だろ?」と主張して聞く耳を持たなかった。確かに、理解できない学校の授業には苦しめられてばかりだったから、彼の親切を、私は素直に有難がるべきだった。
それにしても、毎日だなんて、大和の方も大変だろうと思う。でも彼は、ウチは、ここから歩いて十分ほどの距離だから問題ないといって、笑った。
ということで大和の家庭教師がはじまったのだが……彼は指導モードになると、相当なスパルタだった。大和はまず中学生用の参考書を一通り私にやらせ、記憶がどの程度失われているのかを探った。そうやって、土台がどんなものか見極めると、そこから急ピッチで私の学力の修復に取りかかった。毎日大量の宿題を出され、サボるとものさしで叩かれた。それでも元カレかと、憎悪を抱いたほどだ。
彼は本当にふっきれたのか、恋愛感情などおくびにも出さず、ひたすら私をしごいた。こうなると、少しぐらい優しくしてよ、と文句のひとつもぶつけたくなる。我ながら、勝手なものだ。
「あのさあ」大和はほんのたまに、苛立ちを声に出した。「因数分解ごときで躓かないでくれよ、頼むから」
「わ、わかってるよ。ちょっと焦って間違えただけ。ケアレスミスだよ」
「本当に? じゃあ次の問題解いて」
大和は綺麗な指で数学の参考書をとんとん、と叩く。そんな彼を見ながら、この人のどこを好きになったんだろうと、私はつい余計な思考に入りこんでしまう。
そんなに不思議な話ではない。大和はルックスは悪くないし、清潔感もある。時間を割いて、熱心に勉強を教えてくれるのだから、性格もいいのだろう。たぶん、それらすべてをひっくるめて好きになったのだ。いくら記憶がないとはいえ、人が変わったわけではないのだから、拒絶する気持ちはあっても、さすがに彼を完璧に嫌うのは無理だった。
「ちょっと。ぼうっとしてないか? 聞いてる?」
大和が私の顔を覗きこんできた。その近さに、身体中の神経が激しく騒ぎだす。不快なのか嬉しいのか、その辺はよくわからなかった。
「あ、うん。もちろん」
「そう? だったら、いいけど」
ともすれば過去をほじくり返したくなるのは、私が恋愛脳だからだろうか。いや、失った記憶を知りたいと思うのは、人として当然の欲求だろう。しかし、どんなに興味があっても、昔の話を御法度にした以上、こちらから訊くことはできなかった。
それに、愛だの恋だのといった話をする雰囲気は、今の彼にはかけらもなかった。一体、大和は今、私に対してどんな想いを抱いているのだろうか。もしまだ愛情があって、それを隠しているなら大したものだ。それほど彼の態度はつれなく、厳しかった。
そのうち、ついに私は音を上げはじめた。そりゃあ、こちらは教えを乞うている立場だ。けれど、彼は夕食を挟んで一日四時間、みっちりと私に勉強させた。こんなに根を詰めたら、辛いに決まっているではないか。リハビリだって、いきなり全力を出させたりはしないだろう。彼には、そういった配慮が足りないのだ。
あまりに厳しく鞭を振るわれると、反発せざるを得ない。私は隙あらば、怠けようとしてあがくようになった。
「ねえ、休憩しようよ」
度々、私はシャーペンを放りだしてそんなふうに訴えた。こんな時、声に媚びが滲むのが、ちょっと浅ましい。でも私は内心必死だったので、自己嫌悪とは無縁でいられた。
以前は彼氏だったのだから少しは効果があるだろうという期待は、すべて大和の冷たい目によって叩き潰された。
「ちゃんと一時間おきに休んでるだろ?」
「たった十分じゃない。きつすぎるよ。せめて、十五分にして」
「そんな必要はない。君ならできるはずだ」
「だって、本人ができないって──」
「君ならできる」
みなまでいわせず、大和は強い調子で言葉をかぶせてくる。その一切妥協を許さない態度に、私は肩を落とした。
幾度も敗退し、ようやく正面突破が不可能と知った私は、次は搦め手から攻めようとした。なんとか雑談に持ちこみ、なし崩しに勉強を回避しようという、なんというか、みみっちい作戦だった。
「ねえ。付き合うきっかけってさ、何だったの?」
ある日、私は、今までタブーとしてきた質問をぶつけてみた。彼の興味を引かなければ話を断ち切られるから、この際、過去には触れたくないなどといってはいられない。
私が訊くと、大和は困惑の目でこちらを見つめた。でも彼は、つまらない話は止めろ、とはいわなかった。
「……中二の時に君の方からいってきたんだ。付き合ってほしいって」
「ああ、そうだったんだ。それまでは友達だったの?」
「そうだね」
「告白されてどうだった? ま、こいつならいいかって感じ?」
「いや、君のことは以前から好きだったんだよ」
「へえぇ、相思相愛だったのかぁ。いいね、そういうの」
私の声は一気にはね上がった。時間稼ぎが目的とはいえ、こういう話題だと自然とテンションが上がる。
「それから、それから? デートとかした?」
「うん、君がいつも夜景を見たがったからね。かなり苦労して探してまわったよ。あと、東京にも行ったかな」
「え、東京?」
「そう、高校の合格祝いにディズニーランドへ」
「うわあ」
行ってみたいとうっかり口に出しそうになって、私は慌てて唇を噛んだ。それでは、誘っているみたいだ。誤解を招く発言は慎まなければならない。
「で、私のどこを好きになったの?」
「ん?」この問いには答え難かったらしく、彼は視線を避けるように首を横に向けた。「そんなの、一口じゃいえないよ」
「じゃあ、私の良いところ、五つ挙げてみて」
「あのなあ……。いいから、早く問題解いて」
会話を打ち切られ、無駄話で勉強を回避する企みは終了した。照れさせちゃ駄目なんだな、と私はひとつ学習した。
こんな調子で相手の反応を確認しながら、私は大和との雑談をできるだけ長引かせようとした。だがこれは、我に返ると情けなく、ひと言でいえば、幼稚だ。とはいうものの、彼と何度か話した結果、幼稚ではない疑問も大きくなった。私が自殺した理由についてだ。
話を聞く限りでは、大和と私の間に問題はなかったようだ。ではなぜ、私は自ら死を選んだのだろうか。どんなに仲が良くても、男は他の女に心を動かしてしまう生きものだから、つい目移りして……というのが真相か。確かに親密であればあるほど、裏切られたら相当なショックだろう。その結果飛び降りたとしても、充分に納得できる。
私は雑談のついでに、遠回しに探りを入れることにした。好奇心というものは、実に厄介だ。私は傷口の周辺を押して痛みを確かめるように、注意深く尋ねてみた。
「大和ってさ、どういう女の子が好み?」
「うん? 好み?」大和は顔をしかめた。
「そんなの訊かれてもなぁ」
「たとえば、ルックスは? 芸能人でいえば、誰」
「ああ。ええと、そうだな。南出慶子とか?」
「ほうほう、なるほどねぇ」
南出慶子はテレビドラマでよく見かけるから、記憶喪失の私でも知っている。モデル出身の美人で、派手な顔立ちだ。私とはまるでタイプが違った。
「じゃあ、私と付き合ってる時に南出慶子があらわれて、誘惑されたらどうする?」
「なんだよ、その漫画みたいなシチュエーションは。どうもしないよ」
「どうして? 悩まないの?」
「当然だろ。いくら見た目が好みでも、それだけで人を好きになったりしないって」
そうかなあ、と私は首を傾げた。ルックスは、かなり重要な要素だと思うのだけれど。
「人は中身ってわけね。でもそれだと、どうして私なんか好きになったのよ。こんな怠けたがりの駄目人間なのに」
「すぐに、お喋りで時間を稼ごうとするしね」
大和は笑みを頬に刻んだ。あ、と私は顔を強張らせる。どうやら、すべてお見通しだったらしい。では、こちらの意図を察しながら、それでも大和は応じてくれていたのか。
「ねえねえ、どうして私を好きになったの?」
ばれているなら、もう隠す必要はない。私は開き直ると、強引に雑談を引き延ばした。
「また、その話か」
大和はため息をつき、いったん目を閉じた。やっぱり答えないのかなと思ったら、彼は口を開いた。
「君は駄目人間じゃないよ。真面目で、いつも一生懸命で、純粋な人だ。君を知れば知るほど、僕は好きになったよ」
「……」
まさか、ここまでストレートな答えが返ってくるとは思っていなかったので、すぐに私は顔が熱くなるのを感じた。こうも過剰に褒められると、さすがに照れる。なるほど、こんな台詞、できればいいたくなかっただろう。聞いているこちらが恥ずかしかった。
ただ、嬉しいかどうかは微妙だ。大和が褒めているのは、記憶を失う前の「亜希」であって、今の私ではない。大和が語る女の子はまるで彼の理想のようで、とても私と同一人物とは思えなかった。
それはともかく……と、私は真顔に戻った。
彼の真摯な口調は、決して演技ではない。牧瀬亜希に対する愛情は本物であったと、彼の言葉から十二分に察することができた。大和は、私をかなり好いていたらしい。となると、浮気の線は考えにくいのではないか。
では私は、なぜ自殺したのだろうか。