PART4 入院生活
牧瀬亜希には仲の良い友達が二人いた、らしい。高須愛子と矢口深雪という、同学年の女の子だ。彼女たちは広川先生と一緒にやって来たクラスメイトのなかに紛れていたのだが、私はまったく覚えていなかった。けれど、翌日から二人は毎日のように病室に来てくれたので、それで私は彼女たちが亜希の親友であることを知ったのだった。
愛子と深雪は私が記憶を失ったことをとても悲しみ、私の身体を心配してくれた。どちらも素直な性格の子で、二人と再び友達の関係を築くのは、すごく簡単だった。私は怪我人の特権を活かして、愛子と深雪に気兼ねなく甘えた。覚えのない両親にはどうしても遠慮の心が働くのだが、友達だとそれがなく、楽だったのだ。
「すごいなあ。亜希は今、有名人やで」
椅子に座り、ベッドに寄り掛かった深雪が笑顔でいった。黒髪を長く伸ばした彼女は清楚な雰囲気で、黙っていれば、どこかのお嬢様のように見える。けれど、元気一杯の彼女は喋りだすと止まらないところがあり、すぐに化けの皮が剥がれてしまうのだった。
「いやあ、お恥ずかしい」
私は頭に手を当てた。自殺に失敗し、記憶を失った女の子はやはり珍しいようで、学校では私の噂でもちきりだという。ネットにニュースが載ったそうだし、マスコミから取材の申しこみもあったようだ。幸い、涼花さんが断ってくれたのだが、それは非常に助かった。これ以上、晒し者にはなりたくない。
「まぁ、心配しなくてもすぐ静かになるよ。人の興味なんてすぐ他にうつるから」
愛子が心持ち低い、落ち着いた声でいう。深雪とは高校で同じクラスになってからの付き合いだそうだが、彼女は中学時代からの友達だという話だ。愛子は私を介して、深雪とも友達になったらしい。高校ではクラスが違うのだけれど、先日は深雪に誘われて、広川先生たちと一緒に見舞いに来てくれたそうだ。
愛子はふわりとしたボブカットの、少し大人びた雰囲気の女の子だ。二人を見ていると、私は友達とどんなふうに接していたのかなと思う。だが、それを彼女たちに訊くのは止めておいた。私は生まれ変わったのだから、過去など気にする必要はない。新しい友達ができた、そういうふうに考えていれば問題なかった。
「そやけど、私たちまで忘れるなんて、ひどいなあ」
「うん、ごめん」
「もしかして、私が貸した五千円も忘れてしもた?」
「えっ、えっ?」
「本気にしたら駄目だよ」
慌てていると、愛子が普通のトーンでいう。それで、私は冗談だと気づいた。深雪は、ちろりと舌先を覗かせる。
「あかんかったか」
「あのねえ」
私は苦笑を頬に浮かべた。記憶がないという引け目があるから、こんな嘘でも、簡単に引っかかってしまうのだ。
「ほんまに、なんも覚えてへんねんなあ」深雪が、感心しているような調子でいう。「まぁ、マンションの屋上から落ちたんやから、しゃあないか」
「うん……、よく助かったよ」
愛子は小さな声でいった。一見クールだが深雪によると、私の無事を知った時、愛子は大泣きしていたそうだ。そういう話を聞くと、亜希はいい友達を持っていたんだなと思う。
誰よりも亜希と親しかった二人だけれど、それでも、彼女たちは私の心の深い部分までは知らない。愛子も深雪も、私が事故で落ちたと勘違いしているようだった。亜希が自殺に走るなんて、二人には考えもつかないことらしい。
警察の見解は、まだ固まっていないようだ。事故だとするなら屋上に上がった理由がわからないし、私の悲鳴を聞いて、部屋から飛びだした人が多かったにもかかわらず、不審人物の目撃情報は出て来ないし、私の周囲の人間は、自殺の兆候などなかったと一様に証言する。現段階では、まだ結論が出せないのだと、もう一度病室に来た刑事が説明した。彼は、あなたが思い出してくれればいいのですが、と穏やかにいったが、確かに警察にしてみればそれが一番手っ取り早いだろう。下手に判断を下した後に、私が記憶を取り戻してひっくり返されたら沽券にかかわるから、彼らは慎重になっているのかもしれない。
「あと、どれくらい入院せなあかんの?」
深雪が私の顔を下から見上げながら尋ねた。
「一週間ぐらいかな」
「そっか。まだ長いなあ」
「まあね。でも貸してくれた本で、時間潰せるから」
深雪はミステリーが好きで、かなりの読書量を誇っている。私は彼女に頼んで、オススメのミステリーを選んでもらい、借りて片っ端から読んでいた。
「今日は『記憶の楔』読み終わった。面白いね、あれ」
「そおやろ?」
深雪の顔がぱっと輝く。
「なんせ、一昨年のミステリー大賞受賞作やからね。クローズドサークルと記憶喪失ものの組み合わせっちゅうところが斬新で──」
「あ、ごめん。そういうのいらない」
私は、さっと手のひらを突きだす。
「なんでえな!」深雪は悲鳴のような声を放った。「ちょっとぐらい、語らせてやぁ。文芸部にすら、ミステリー好きがおらんのやから」
「いえ、お断りします」
「ひどい!」
私と深雪のやり取りを聞きながら、愛子は黙って微笑んでいる。
「うう、亜希、変わったわ。前はちゃんと聞いてくれたのに」
深雪は、目頭を押さえて訴える。もちろん、嘘泣きだ。でもその言葉は思いのほか、私の胸に深く刺さった。
人が記憶をなくして、性格まで変わるような事例はあるのだろうか。よくわからないけれど、社交性とか、感情の動きとか、そういったものは変わらないような気がした。けれどもしそうなら、深雪が「変わった」と主張するのは、なぜなんだろう。
たとえばこの場合、私は深雪の頼みを断ったが、長々とした説明や自己満足っぽい語りを鬱陶しがるのは、以前の私も今の私も変わらないのではないか。ただ、以前の私は、空気を読んだり、友達だからということで、我慢をする。今の私は、そんな我慢はしない。そのような、ほんのちょっとした違いなのではないだろうか。
基本は変わらなくても、些細な行動で表れ方が違ってくる。そういうことなのではないかと、私は思った。うん、なかなか私、思考力があるじゃないか。やっぱり頭はいいんだ。
「あ、ごめん」
私が黙りこんだので、深雪は何か誤解したのだろう。表情を改めて、謝ってきた。
「ううん、別に。何でもないよ」
私は首を左右に振る。と、愛子が深雪の肩にそっと手を置いた。
「亜希は全然変わらないよ」
愛子は、力強くいう。「前のままの、優しい亜希だよ」
その言葉を聞いて、私はちょっと息を呑んだ。
涼花さんに教えてもらった話が頭を巡る。愛子の妹の絵里のことだ。彼女は現在小学六年生で、白血病のために今年の一月まで入院していたという。私は病院や自宅を頻繁に訪れ、絵里を見舞っていたそうだ。その事実があるから、愛子は今のようにいったのだろう。
正直、記憶を失った今は、妹さんの病気の話を知ってもいまいち胸に迫って来ない。ニュースで他人の不幸を聞くのと、あまり変わらない感じだ。
けれど、基本的な性格は変わらないという考えが当たっているのなら、愛子や絵里ともっと深く付き合えば、自然と私は以前と同じ行動を取るのかもしれない。
「そうやね、変わらへんよね。阿久津君とだって、きっと」
「その話は止めて」
私が鋭く遮ると、深雪の表情が曇った。
「ああ、そやね。忘れてるんやもんね、でも、阿久津君は」
「そう、忘れてるの。もう彼氏じゃないのよ。だから、止めて」
徹底した私の突っぱねる態度に、深雪は言葉を失ってしまった。彼女にしてみれば、友達として、どうにか二人を元のサヤに収めたいのだろう。だが、はっきりいって迷惑だ。
大和を拒絶する心の壁は、なぜかはわからないまま、はっきりと存在しつづけた。これはやはり、自殺の原因をつくったのが大和だからなのだろう。それゆえ、記憶を失っても、離れろという命令だけが消えずに脳に残っている。きっと、そういうことだ。
これもまた、神様の恩寵だと思った。もしこれがなかったら、私は性懲りもなく大和と再び付き合って、また痛い目に遭っていたかもしれない。私は神様に感謝しつつ、絶対に大和とは関わらないと心に決めていた。
深雪も愛子も、何ともいえない表情で私を見つめている。私もまた、何もいえず、黙って窓の方に視線を向けた。
※ ※ ※ ※
涼花さんは毎日欠かさず、病室にやって来た。彼女は一人娘が記憶を失ったことを、とても気に病んでいるらしい。治療法がないかネットで探したり、色んなお医者さんに話を聞いたりしているそうだ。
記憶の回復なんて望んでいない私とは、もはや真逆だった。私が、彼女の努力が無益であることをいうと、涼花さんは驚いた顔をした。なぜ、そんなふうにいうの、と涙混じりの声で詰られたりもした。自殺の原因を思い出してどうするのかといったら、彼女はすぐに聞き飽きた事故説を主張する。会話はいつまでたっても噛みあわず、私は説得を諦めた。
確かに、母親からすれば、娘の記憶をなんとしても取り戻したいだろう。なにせ、私は未だに「お母さん」と呼ばず、遠慮がちな態度をとりつづけているのだから。初日以来、病室に来ない父親の方は顔すら忘れた。娘に親だと思われていないということは、きっと大きな苦痛であるのだろう。
私は、「どうせすぐに退院なのだから、毎日来なくていい」なんてこともいった。母親である実感を持てない女性に陰気な顔で付き添われていても、気が滅入るばかりだったからだ。この言葉はやっぱり涼花さんを傷つけたようだったけれど、彼女は翌日の一日だけ、用事を済ますからといって、病院に来ないでくれた。
私は一人の時間を、もっぱら読書に費やした。私の興味が向くのはどうしても記憶喪失の話で、深雪から借りた本のなかからその手の話ばかり選び、次々と夢中で読んだ。
小説の主人公たちは大抵、記憶を失った状態で放りだされ、そこから手探りで謎を解いていかなければならない。やはり何もわからない、という状況は強烈なサスペンスを生むものだ。どの本も、とても面白かった。私の場合共感しやすいという事情も手伝って、午前中は読書にのめりこんでいた。
そして時々、嘆息した。ミステリーの登場人物たちに比べて、私はなんと面白味のない記憶喪失者なのだろう。せっかくすべて忘れたのに、身元も何もかもすぐに判明してしまっている。わからないのは、自殺の理由ぐらいだ。もし私が小説の主人公だったら、さぞかし地味なストーリーになることだろう。
本当に何もわからない日々がつづいたら、きっと慌てるに違いないのに、入院生活に飽きが来ていた私は、そんな不届きなことを考えたりしていた。
本を読んでいない時は、大抵私は頼子さんとお喋りをした。頼子さんはあけすけで遠慮というものを知らず、時折閉口するけれど、話が面白いので一向に飽きなかった。
たとえば、頼子さんとご主人との、馴れ初めの話だ。
「私は、あいつと一緒の会社に勤めとったんやけどな、ある時私が辞めることになって、課の人たちを前にして、お別れの挨拶をしとったんや。ほしたら、あいつがぼろぼろ泣いとんねん。なんや、そんなに私が好きやったんかと思うて、送別会の時にこっちから声かけて、それから付き合いはじめたんやけどな。あとで聞いたら、なんのことはない、コンタクトがずれて、痛くて泣いとったそうや」
仕事帰りに見舞いに寄る頼子さんのご主人は、髪の大半をなくした、愛想の良いおじさんだ。私はご主人の顔を思い出しながら、声を抑えて笑った。辛い入院生活でもわりと朗らかに過ごせたのは、頼子さんの存在が一番大きいかもしれない。
頼子さんは記憶のない私に、色々と教えてくれた。彼女によると、大阪人は女であっても、笑いをとれなければいけないそうだ。私はそんな大事なことも忘れていたので、話芸を磨かなければ、と心に決めた。
それから、今の日本は景気の低迷から抜けだせないままで、だから女は、できるだけ金を持っている男をつかまえるよう努力するべきなのだという。
「あんたは、顔がええからな。ちょっと頑張れば、絶対うまくいくで」
「どうすればいいんですか?」
「狙うんやったら、公務員やろ。安定しとるし。医者とかも、ええやろな」
「うーん。難しそう」
生々しい話に辟易しつつも、彼女の言葉ももっともだと思ったので、私はその方法を考えた。特定の仕事に就いている男性と結婚したいのなら、出会いの場をつくるようにすればいいのだろうか。たとえば公務員狙いなら、市役所でバイトするとか、医者と一緒になりたいのなら看護師になるとか。
「それから、テクニックのひとつとして、嘘泣きぐらいはできるとええやろな」
「それ、どうするんですか?」
私は、頼子さんに嘘泣きのやり方を教えてもらった。悲しい出来事を想像し、涙を流すという方法だ。
けれど、これはうまくいかなかった。たとえば、肉親の死を想像するというやり方があるが、そもそも私には肉親と実感できる人がいない。これでは、どうしようもなかった。もうひとつ、瞼をずっと開けて目を乾かし、無理やり涙を出すやり方も教えてもらったが、これも、私にはうまく出来なかった。大体、相手の前でずっと目を見開いていたら、簡単に見抜かれるのではないだろうか。
そういえば、悲劇的な小説を読んでも、私はちっとも泣けなかった。案外、私は情の薄い人間なのかもしれない。