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PART3 見知らぬ恋人

 私が意識を取り戻したのは、ストレッチャーで病院の廊下の上を運ばれていく、その途中だった。


 初めぼんやりしていた意識がはっきりしてくると、まず感じたのは激しい左脚の痛みだった。あちこち傷を負っているのだけれど、とにかく脚が痛くて、私は悲鳴に似た呻き声を上げた。しかし、救急処置室で私を取り巻く医者や看護師たちは冷静で、「大丈夫ですよ」などと、声をかけてくる。全然大丈夫じゃないのに、と泣きたかったが、状況がわからずパニックを起こしかけていた私は、何も言葉にできず、ただ呻いていた。


 そのうち、看護師の一人に名前を尋ねられ、私は戸惑った。そんな、ごく当たり前のことが思い出せない。瞬間、愕然として戦慄を覚えた。


 私の異常を知った医者は左脚の様子を診るのを止め、なんやかやと話しかけてきた。両親の名前は? 学校はどこ? 住所は? すべて答えられなかった。質問攻めを受けるうちに、私は段々と事態の深刻さに胸を震わせるようになった。何も覚えていない。これは……いわゆる記憶喪失ってやつなんじゃないだろうか?


 痛む左脚と頭部のレントゲン撮影を済ませ、再び救急処置室に戻されると、そこにはさっきの外科医と、脳外科が専門のもう一人の医者が待っていた。二人は顔を寄せ合い、シャウカステン上のレントゲン写真をチェックした。その結果、脳には異常は認められなかったが、脚は、腓骨と脛骨の両方が折れていることがわかった。


 左脚の状況の説明後、手術が必要であることが告げられた。それから、脳外科の医者が記憶に関する質問を長々と行い、その挙句に彼は「ゼンセイカツシケンボウ」だと診断を下した。漢字で書けば、「全生活史健忘」となる。要するに私は、自分に関するすべての記憶を失っていたのだった。


 衝撃で茫然としていると、外科医の方が経緯を説明してくれた。私は、八階建てのマンションの屋上から転落したのだそうだ。普通なら、当然死んでいる高さだ。ところが、隣が幼稚園で、その敷地内にある木の上に落ち、途中で引っかかって一命をとりとめたのだという。ただ、頭を強く打ってしまったため、こんな怖ろしい状況に陥ったらしい。


 本当は、強運を感謝すべきなのだろうが、私は恐慌を来していたので、それどころではなかった。治りますか、と私は恐怖でいっぱいの胸を持て余しながら訊いた。脚の痛みはひどかったが、それよりも記憶の方が重要だった。


 脳外科の医者は難しい顔で顎を撫でてから、可能性はあると答えた。なんでも全生活史健忘の場合、原因が心因性であることが多いそうなのだ。だから、頭を打ったせいではなく、心の問題であるならば、元に戻る確率が高いらしい。けれど、このまま一生記憶が戻らない場合もあるということだった。


 厳然たる事実に打ちのめされた私は、その後、左脚の手術を受け、整形外科病棟の病室のベッドへと移された。麻酔のお蔭で痛みから解放されたので、私はひたすらぼうっとしていた。自分が誰かもわからないなんて、あまりに悲しく、心細かった。このまま、身内が誰も見つからなかったらどうしようと不安だった。


 幸い、そんな心配は杞憂に終わった。見知らぬ女性が、慌てた様子で駆けつけて来たのだ。四十代前半ぐらいで、乱れた髪と緊迫の色を浮かべた目に、激しい狼狽ぶりが窺われた。彼女はベッドに寝ている私を見るなり、力が抜けたようになって、涙を流しはじめた。


 彼女の名は牧瀬涼花、見覚えのない私の母だった。どうやら、事故の目撃者のなかに私を知っている人がいて、涼花さんはその人から連絡をもらったらしい。


 この時ようやく、私は自分の名前を知った。牧瀬亜希。それを聞かされたところで、何も感想はなく、記憶が喚起されることもなかった。ただ、孤独ではないという事実は、絶望の一歩手前にいた私をほっとさせてくれた。


 彼女から、自分に関する情報を色々と得ることができた。私はこの春、島崎高校に入学したばかりの一年生なのだそうだ。一人っ子で、今まで特に問題を起こすこともない、ごく普通の女の子だったらしい。他にもいくつか話を聞かされ、私は自分の存在が、どんどん肉づけされていくのを喜んだ。空中にふわふわ浮いているしかなかったのに、ようやく地に足を下ろせたようだった。


 涼花さんからかなり遅れて、父親の正樹さんもやって来た。彼は友人と二人だけで衣類の輸入販売をはじめたばかりで、とても忙しいため、すぐには来られなかったらしい。両親に会えて、もちろん嬉しかったが、安心してくると今度は戸惑いを感じた。特に涼花さんが、やたらと泣くので困った。無事で良かったという嬉し涙と、娘の痛々しい姿を悲しむ涙が合わさって止まらなくなったという。その様子を眺めていると、なんだか申しわけない気持ちになり、私は記憶がないのに意味なく反省したりした。


 やがて二人は帰っていき、私は激動の一日の終わりを迎えて項垂れていた。そんな時だった。隣のベッドに寝ていた頼子さんが、声をかけてきたのは。


 専業主婦の彼女は、自宅の二階から階段を転げ落ちて不幸にも両脚を骨折し、入院しているということだった。


 頼子さんはずっと聞き耳を立てていたようだ。記憶をなくした女の子に興味津々で、医者と同じように私を質問攻めにした。そして、こんなことをいった。

「そやけど、良かったやないの」

「え?」


 ここまでひどい状況に置かれている人間に、なぜ「良かった」などといえるのか。私は呆れて、彼女の顔を見つめた。


 頼子さんは平然と視線をはね返し、笑って黄色い歯を覗かせた。

「だって、あんた死のうとしたんやろ? それで命は助かって、死ぬ理由は消えてしもうたんやから。めちゃくちゃラッキーやないの」

「……」

 私は、落雷に撃たれたように感じた。


 そうか。私が落ちたマンションは自宅ではないそうだから、そんな所の屋上にわざわざ上がる理由は、自殺以外に考えられない。事故ではなかったのだ。だが、それならなぜ木の上に落ちたのだろう。死のうとはしたものの、飛び降りる瞬間、恐怖に負けて木に向かってダイブしたのだろうか。それは、確かにありそうだった。


 とにかく、私は生き残り、ついでに死を決意させるほどの忌まわしい記憶を失った。いや、忌まわしい記憶だからこそ、私は一切を忘れ去ったのかもしれない。なるほど、これは頼子さんのいう通り、「めちゃくちゃラッキー」だ。詮索好きの、うるさいおばさんではあっても、言葉は真実を穿っていた。


 自分に関する記憶はなくても、死に対する恐怖はあった。今からもういっぺん飛び降りろといわれても、とてもではないができない。むしろ一度でもよく自殺できたな、と感心する。死ななくて良かったと心底思った。これは、神様のお恵みなのかもしれない。


 頼子さんのお蔭で、暗く淀んでいた心が百八十度回転し、光が差したように感じた。何もわからず悲しみの淵に沈んでいた私は、救いだされたのだった。私は、考え方を変えればいいのだと悟った。記憶を失ったのではない。陰鬱な過去を捨て去り、新しく生まれ変わったのだ、と。


 気分が良くなった私は、まだ麻酔が効いていたこともあって、その日の晩はぐっすりと眠った。


※          ※          ※          ※


 翌日から、私は再び痛みに苦しめられるようになった。しかも、骨折の痛みと、手術をしたために生じる痛みのダブルパンチだ。これがしばらくつづくと聞かされ、早くも私は心が折れそうだった。


 この日は面会開始時間の三時から涼花さんがあらわれて、ずっと傍に座っていた。彼女は私が記憶をなくしてしまった事実がまだ信じられないのか、「本当に思い出せないの?」と何度も訊いた。それから、家族旅行などの楽しかったエピソードを二、三例に挙げ、覚えていないか尋ねてきたけれど、私は否定の返事をするしかなかった。


 いくら努力しても無駄だと知った涼花さんは悲しそうだった。そして、「どうして、こんな目に遭わなくちゃいけないのかしら」と、呟き声で嘆いた。涼花さんには、突然娘の身に生じた不幸が、理不尽に感じられてならないらしい。 


 けれど、そんなことは私にだってわからない。記憶喪失なのだから、仕方のない話だ。だから、濡れた恨みがましい目で責めるのは止めてほしい。本人には、責めているつもりはないのかもしれないけれど。でも私には、そう感じられてならないのだった。


 大体、私はまだ彼女が母親であるという実感を持てないでいる。文句なら、あなたの娘にぶつけてよ、といいたかった。


 私が涼花さんを肉親だと感じていないことは、遠慮がちな態度から彼女にも伝わるらしい。だからだろう、涼花さんは再び昔話を語りはじめた。記憶がないのなら、新たに上書きすればいい、というわけだ。私は、仲が良かったお隣のみいちゃんとの思い出や、小さい頃夢中になっていたアニメのタイトル、中学時代に入っていた手芸部の話などを聞かされた。それらはなかなか興味深かったけれど、徹頭徹尾、他人の人生を教えられているようだった。いきなり大量の情報をあたえられても、何の効果もないことを、涼花さんは理解していないのだ。


 ほぼ「牧瀬亜希」の生い立ちを把握する代わりに、ひどく疲れてきた頃、涼花さんは唐突に、聞き捨てならない事実を明らかにした。

「え、彼氏?」

 私は驚きのあまり、一瞬、脚の痛みを忘れた。


「そう。阿久津大和君っていってね、あなた、その子と付き合ってたの。あなたが落ちたのは、阿久津君が住んでるマンションなのよ」

「……」

 私は二の句が継げなくなった。彼氏がいたこと自体は、別に大した話ではない。高校生なんだし、むしろ普通だろう。だが、その後が問題だ。


「それじゃあ、私の自殺の原因は、決まったようなものじゃない」

「え……」

「その阿久津君との間がこじれて、私は死のうとしたんでしょう?」

「そんな、決めつけちゃ駄目よ」

「だってそうじゃない。でなきゃ、彼氏の住むマンションで飛び降りるわけないでしょ」

 あくまで事故説を主張する涼花さんに対し、私は頑なだった。もしそうなら、なぜ私は屋上に上がったというのか。納得のいく説明など、誰もできないだろう。彼女がいくら阿久津大和という人を信用していても、そんなの、何の証拠にもならない。


 しかし、では一体、二人の間に何が起きたのだろう。たとえば、別れ話を切りだされたとか? いや、それぐらいで死ぬなんて、少し繊細過ぎる気がする。どうも私はそんな性格ではなさそうだから、もしかしたら……大和が二股をかけたとか、何か手ひどい裏切りをしたせいで、激しく傷ついたのかもしれない。それで発作的に飛び降りたのかも。遺書はなかったようだし、その可能性が濃厚ではないかと思った。


 視線が、サイドテーブルに置いていたケータイを捉えた。どうやら私は使い方を忘れ去ったらしく、どう扱えばいいのかわからない。なので、ずっとほったらかしにしていたのだけれど、いつまでも触れずに済ますわけにはいかない。私は意を決し、ケータイの電源を入れた。迷いながら操作し、どうにか新着メールの受信に成功する。


 大量のメールが来ていたので、私は驚いた。ほとんどが女の子からだ。たぶん、高校のクラスメイトだろう。私は画面をスクロールし、大和の名前を発見した。


 文面を見ると、「大丈夫か? 今日は無理だけど、明日は必ず見舞いに行くから」とある。昨夜の十時着信だ。私は、過去のメールを遡って読んでみた。喧嘩をしている様子は、どこにも見当たらなかった。


 どうしよう。ケータイを元の場所に戻して、私は悩んだ。彼は今日、病院に来るつもりだ。会うべきだろうか。自殺の原因をつくったであろう男の子に。せっかく記憶が消えて、死ぬ理由がなくなったのに、また暗い話を蒸し返すのは馬鹿みたいだけれど。


 しかし、怖いもの見たさ、とでもいおうか、理由を知りたい気持ちも少しあった。たとえ大和に裏切られたのだとしても、今の私は彼を知らない。真相を知ったところで、ショックを受ける心配はなさそうだった。


 いや、待った。話を聞いたら、それをきっかけに記憶が戻ったりするかもしれないぞ。それは、困るな……。


 思考はあっちとこっちを行き来し、結論が出ないうちに時間は経過していった。そのうち、背広を着た二人の刑事があらわれた。中年の男と、二十代の若い男だ。どちらも目つきが鋭いが、私に配慮したのか、二人ともとても愛想が良かった。


 彼らはすでに、同じマンションに私の彼氏が住んでいる事実を把握していた。なので質問の中心は、大和に関することだった。それに対して私は、「覚えていないんです」と繰り返すしかない。悲しくなるぐらい、何ひとつ答えられなかった。


 結局、刑事たちの収穫は私からとった指紋だけだった。悪いなとは思ったものの、これはもう仕方がない。次は大和が来るかと、私は心のなかで身構えた。でもまたすぐに、別の来客があった。担任の女性教師が女の子を十数人引き連れ、見舞いにやって来たのだ。


 ぞろぞろと女の子の集団があらわれた時には、私は目を見張った。バラの花束を抱えた教師はまだ若く、童顔で、かなりスレンダーだった。彼女の名は広川というらしい。広川先生は心配そうな表情で、「牧瀬さん、大丈夫?」と声をかけてきた。


 記憶喪失の件は涼花さんが広川先生に伝えていたので、彼女たちはとうに知っていた。だから、私が元気だとわかって安心すると、口々に「私を覚えてへん?」と尋ねてきた。私は全員の顔を一人ひとり見たけれど、やはり誰も頭には残っていなかった。


 申しわけない気持ちに陥る私に対し、彼女たちはむしろ喜んでいた。ドラマなど、お話でしかお目にかかれない記憶喪失者を前にして、感激して騒いでいる。沈痛な表情をしているのは、広川先生だけだった。クラスメイトたちは、好奇心を露わにしてやかましく話しかけてきた。あまりにうるさいので、私は周囲に気兼ねしはじめ、終いには、早く帰ってくれと胸の内で祈るようになっていた。


 ようやく皆が帰って行き、席を外していた涼花さんがガラス製の透明な花瓶を持って戻ってきた。看護師さんに頼んで、借りてきたらしい。彼女が色とりどりのバラを活けているのを横目で見ながら、私はクラスメイトたちが持って来てくれたノートのコピー束をめくった。そしてすぐに、絶望に捉われた。書いている内容が、全然頭に入ってこない。数学などちんぷんかんぷんで、私は早々に理解を諦めてしまった。


 まぁでもこれは、記憶を失ったせいに違いない。島崎高校は偏差値の高い進学校だそうだから、私の頭だって元々はそう悪くはないはずだ。今日は六月一日。ということは、入学してからまだ二ヵ月しか経っていない。それならば、退院してから勉強を頑張れば、きっと遅れを取り戻せるだろう。


 やっぱり記憶喪失って、いいことばかりじゃないのね。ため息を零しながら、私はコピーの束をうちわみたいに振った。と、涼花さんの「あら」という声が聞こえた。私は顔を上げ、扉の前に立っている男の子を発見した。


 身長は、一七十センチくらいだろうか。白いシャツの上にデニムジャケットをはおり、カーキ色の綿パンを穿いていた。中肉中背の身体の上にある端正な顔は、不安げな表情で覆われている。二、三秒、彼を見つめてから、私ははっとして気づいた。


 この男の子が、私の彼氏だったという阿久津大和なのか。


「こんにちは、脚の具合はどう?」ベッドに歩み寄ってきた彼は、おずおずと話しかけてきた。「記憶喪失だってお母さんに聞いたけど、やっぱり、僕も覚えてない?」

「……」


 私は返事ができなかった。呼吸すら、忘れていた。記憶から削除された男の子をいくら眺めてみたところで、まったく何も思い出せはしない。けれど、不思議なことに胸のなかでひとつ、強烈な感覚がうごめいていた。


 この人に、近づいてはいけない。


 目の前の男の子に、愛情もなければ、憎悪もなかった。ただあるのは、見えないクッションに弾かれるような反発の感覚だ。理由はわからない。が、とにかく、私はこの人の傍にいてはいけないと強く感じた。


「名前も忘れちゃってるんだよね? 僕は大和……」

「止めて!」

 知らず、鋭い拒否の言葉が口をついて出ていた。話をしてもいいかな、なんて気持ちは完全に吹き飛んでいた。涼花さんも大和も、驚いた表情で固まっている。


「どうしたの?」

「……すみません。あなたを、全然覚えてないんです」私はどうにか落ち着きを取り戻し、息を整えていった。「だから、お願いです。私のことは忘れてください」

「え?」

「記憶がないのですから、あなたとは付き合えません」

 私は極力感情を薄め、他人行儀にいった。大和は、とるべき対応がわからない様子だ。


「そんな、でも」

「お願いです。帰ってください」

「……」

「すみません。帰ってください」


 大和は打ちひしがれたような顔つきに変わった。こんな展開は予想していなかったのだろう。彼はどうにかして、修復を図ろうとした。一方、私は頑なに「帰ってください」と繰り返した。とにかく、早く彼に離れてほしかった。


 やがて大和は悄然と去って行き、涼花さんがまた、私に悲しげな目を向けた。

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