PART2 病室にて
信じていた人が犯人だと知った主人公は、その精神的なショックのせいで記憶を取り戻し、恋人と再会を果たした。そして、熱い抱擁を交わして、小説は終わった。
うん、お話はやっぱりハッピーエンドがいい。バッドエンドなんて、どこが面白いのだろうか。けれど、深雪が貸してくれる本は、絶望的な終わり方をするものが少なくないので、油断ならなかった。彼女の趣味は、私にはいまいちわからない。
今回は話自体の出来も良かったので、満足度は高かった。本を閉じ、固まっていた首を曲げてほぐす。入院してから、私は一体、何冊読破しただろう。いくら読んでも大して疲れないから、以前の私は結構、読書家だったのかもしれない。
「もう読み終わったんかいな?」
右隣のベッドにいる頼子さんが顔を向けてきた。話しかける機会を窺っていたのかもしれない。大体、入院患者は、暇を持て余して困っているものだと相場が決まっている。
「はい。読みます?」
頼子さんがうなずいたので、私は横着して文庫本を放り投げた。ぽすんと胸の上に落ちた本を彼女は取り上げ、表紙を眺めた。
「『死を招く輪舞』……大層なタイトルやな」
「ですかね」
「なんや、また記憶喪失ものかいな」
裏表紙に書かれているあらすじを目で追いながら、頼子さんは笑みを含んだ声でいった。私もまた、愛想笑いを浮かべる。
「やっぱり興味があるから。すっごく感情移入しちゃうんですよね」
「なるほどなぁ」
頼子さんは、感心した口調でいった。彼女は、いつも私に多大な関心を寄せている。たぶん、珍獣でも眺めるような感覚なのだろう。
「でもすごいよなぁ、記憶喪失って。そんな人、初めて会うたから、びっくりやわ」
「私もびっくりです」
「本当に、全然覚えてないん?」
「人間関係はさっぱりですね。親の顔もわかりませんでした」
「他のことは? テレビのタレントとか」
「どうですかね。すぐに思いつくのは、二、三人ですけど」
「『やすきよ』はどうや?」
ぱっと嬉しそうな顔になり、頼子さんは訊いてきた。私は頬に指先を当てる。
「それ、何でしょう。売店ですか?」
「ん? ああ、安いキヨスクか。なるほどなあ……って、あかん。おもろない!」
「すみません」
別にボケたつもりはないのに、謝るはめになった。頼子さんは、笑いに関してはとても厳しく、寒いギャグを決して許してくれない。
「そら、あかんわ。『やすきよ』がわからんちゅうのは、日本人として恥ずかしいで」
頼子さんは、下手な役者のように大きく首を振った。どうやら『やすきよ』は、超がつくほどの有名人で、誰でも知っているのが当たり前であるらしい。
「ほしたら食べ物はどや? 好きなものとか覚えとるか?」
「うーん。特には」
「今どきの若い子やったら、クレープとかかな?」
「知ってはいますけど……」
私はいい淀んだ。形は頭に浮かんでも、肝心の味が思い出せなかった。
「ハンバーガーとか」
「覚えてます。けど、別に好きってわけでは」
「ほな、たこ焼きはどや?」
こちらに向けて上半身をねじり、頼子さんは勢いよく尋ねてくる。
「たこ焼きは、あんまり……」
「なんやて! あんた、それでも大阪の子か!」
また怒られてしまった。けれど、たこが嫌いなのだから仕方がないではないか。あのグロテスクな姿を脳裏に描くだけで、食欲がどこかへ消えていく。あれは、人が食べてはいけないものだと思う。
ああ、でもこんなことは覚えているのに、なぜ私は親の記憶すら思い出せないのだろう。
「あ、そうだ」
私はひとつ思いついて、いった。「アイスは好きです」
「アイスかあ。それはええな」
感情のこもった声でいい、頼子さんは私が渡した文庫本をサイドテーブルに置いた。
「ハーゲンダッツが食べたい。あれ、いくらぐらいでしたっけ?」
「二五十円かな。うん、私も食べとうなってきたわ」
と、左隣のベッドにいる玲奈さんが松葉杖を突きながら、前を通り過ぎようとした。頼子さんは声をかけ、彼女の目的がコンビニだと知ると、アイスを買ってきてくれるよう頼んだ。玲奈さんは愛想よく応じ、頼子さんがお財布から出した硬貨を受け取った。
「良かったな。アイス、食べられるで」
「はい」
「でも、奢るんちゃうからな。金はちゃんと払ってや」
「あ、ですよねー」
私は頭に手を当て、苦笑を浮かべた。
ちょっと会話が止まる。私は顔を、正面に戻した。静かになると、洩れ聞こえてくるラジオの響きが意識された。六人部屋の病室のベッドはすべて埋まっていて、私たちの向かい側のベッドは、三つともカーテンで隠されている。私はぼんやりと、どこから聞こえてくるのかなと考えた。
「でも、誰も覚えてへんっちゅうのは、悲しいわな」
ふいに、今までの会話とは口調を変えて、頼子さんがそんなことをいう。
「え、はい」
「親とか、彼氏とか、忘れたらあかん人を忘れてるんやもんなぁ」
彼氏、という単語に、私の肩が反応して揺れる。
「あの子、名前なんていうたかな?」
「阿久津君ですか?」
「そうそう。あの子、何度か来てたやんか。あんた、追い返してたけど」
「……」
昨日見た、大和の悲しそうな顔が頭に蘇った。胸が、針で刺される心地がする。あれだけはっきりと拒絶したのだから、さすがにもう、病院に来るのは止めるだろう。
少し可哀想だったかもなあ。いや、駄目、駄目。同情なんてしてる場合じゃない。そんなんじゃあ、きりがない。
「よりを戻す気はないんかいな?」
意外なほど優しい声で、頼子さんが訊いてくる。
「戻すも何も、覚えてないですし」
「なんか、痛々しかったからなぁ。一からまた、はじめてあげたらええんちゃうの? あの子、なかなか男前やったやない」
「いえ、それはないです」
「絶対?」
「はい。絶対」
それやったらしゃあないなぁ、と呟いて、頼子さんは天井に視線を向けた。
せっかく埋めていた嫌な記憶が顔を出し、私は少し落ちこんだ。舌が苦みを訴えるので、戻ってきた玲奈さんからアイスを受け取ると、早速口直しをした。
冷たいバニラが舌の上で溶けていくのは、快感だ。何口か匙で運んでいるうちに、私は大和のことを完璧に忘れ去っていた。