PART1 うしなわれた記憶
私は想像する──
瞳に濡れた感覚はなかったから、たぶん泣いてはいない。あまりにも大きなショックのために、涙も出なかったのだろうか。とにかく、私は絶望し、階段を駆け上がる。扉を開ければ、広がるのは夕陽の光が覆う世界だ。それを見て、私は何を思っただろうか。最後に目にする光景の美しさに息を呑んだのか。それとも、そんなことにすら気が回らず、がむしゃらにフェンスを乗り越えたのだろうか。
私は、死に直結している場所に立ち、深く息を吸う。いや、あるいはフェンスを越えた勢いそのままに、身を躍らせたのかもしれない。けれど、ぎりぎりの瞬間に迷いが生じる。だから、目に入った樹に向かって飛んだ。枝に全身を打たれ、痛みのために私は途中で気を失ったのかもしれない。緑の葉を揺らし、途中何度も枝にひっかかりながら落ちていき、ついには地面に叩きつけられる。そして、通行人に発見される──
すべては想像だ。私は自分の身に生じたことを推測する以外、方法がない。
なぜなら、私は何も覚えていないから。
※ ※ ※ ※
私は鏡を覗きこみ、右の頬に大きな絆創膏が貼られている顔をしげしげと眺めた。
鼻は低いけれど、まぁ許容範囲内だろう。高すぎてハーフ顔になってしまったら、バランスが崩れそうな気がする。唇はぷくんと膨らんでいて、これは可愛らしい。眉は手を入れてないので太いが、綺麗な弓なりの形をしている。二重の目も、特に問題はない。総合の評価は客観的に見て……七二点といったところだろうか。
初めてこの顔と対面した時には、まだ動揺が残っていたから、冷静に向き合う余裕はなかった。これが私なのかと、ただ茫然としていた。今はもの珍しいというか、ちょっと面白い。だから私はトイレに来ると時々、こうして鏡と睨めっこをしている。
にっと笑ってみたり、豚鼻にしたりして遊んでいると、女性が入って来たので、私はストレートの髪を手櫛で整える振りをしてからトイレを出た。
両脇に挟みこんだ松葉杖を、前方につく。それから、身体を前に移動させる。最初は怖くておっかなびっくりだったが、今は慣れたものだ。それでも、調子に乗って転んではいけないので、私は常に「ゆっくり」を心がけている。
私は、膝を曲げて浮かせている左脚のギプスに目をやった。医者によると、治るのに大体三ヵ月かかるそうだ。三ヵ月。気が遠くなりそうな数字だ。その間、私はこのギプスとお付き合いしなければならない。お風呂はどうやって入るんだろうとか、なかが痒くなったらどうするんだろうとか、私はそんな心配ばかりしている。骨折には納豆がいいそうで、涼花さんは退院したらいっぱい食べさせてあげると保証してくれたが、それも悩みのひとつだ。納豆のにおいは、私はちゃんと覚えているのだった。
頭のなかで「もしもし亀よ」と歌い、そのテンポに合わせて歩いていく。と、私はリノリウムの廊下の先に、できれば会いたくない人の顔を発見した。
「阿久津君……」
別に大して良くもなかった気分が、急速に低空飛行になる。胸がざわつき、私は唇を真一文字にした。大和は遠慮がちな空気をまとって立っている。おそらく彼の瞳は、不安に揺れ動いているのだろう。
私は自然と頬が強張るのを自覚し、でもどうしようもないのでそのまま進む。大和は私が近づいてくるのを待って、隣を歩きだした。
「調子、どう?」
曖昧な質問だ。それは、彼の戸惑いを如実にあらわしている。突発的に生じた事態に、彼もまた、慣れることができていないのだ。見ると、彼の顔には言葉同様、何ともいいようがない表情が浮かんでいた。
「どうって……特に変わらないです」
「そう」
沈黙が生じた。次の話題を用意していなかったのか、それとも私のつれない態度のせいで言葉が出て来なくなったのか、どちらかはわからないが、大和は口を閉ざした。でも緊張感は確かにあって、彼の必死な気持ちだけは、はっきりと伝わってきた。
けれど、だからといって、よりを戻すわけにはいかない。
「話、聞いてくれないかな」
私の顔を覗きこむ大和は、両目に真剣な光を湛えていた。細く痩せた、整った顔立ち。心臓がひとつ大きく、鳴った。
安定を欠いてぐらついた胸をなだめ、私は我慢して前だけを見た。
「五分でいいんだ。頼むから」
「嫌、です。私、来ないでくださいっていいましたよね?」
「きっと誤解があるんだよ」
「そうですか? とにかく、メールも止めてください。どうせ読まないんだから」
「じゃあ、どうして着拒にしないんだ?」
「やり方、忘れたんですよ」
視界の端に大和を留めつつ、私は一定のペースを守って進みつづける。
「もしかして、亜希の事故と僕が関係してるって思ってる?」
私は答えない。
「そんなはずはないって」
「そりゃ、そういうでしょうね」
「……」
大和の頬が歪むのがわかった。
「信じて、くれないのか」
「あのう、前にもいったんですけど」仕方なく、私は脚を止める。「そういうことじゃないんです。私はあなたへの愛情とか、一切感じなくなってるんですよ。付き合えるわけ、ないでしょう?」
「……友達でいい」
一瞬、辛そうにうつむいた大和が、顔を上げていった。「前の関係に戻れないなら、それでもいいんだ。亜希の傍にいられたら、それで充分だから」
今度は、激しく心が揺れる。指で突いたやじろべえのように、ぐらぐらと。いけない。私は自分を叱咤する。やじろべえは、すぐに元の位置に戻った。
「友達なら、間に合ってますから」
「……」
「納得いかないって気持ちはわかりますけど、本当に止めてください。迷惑です」
「迷惑……」
「はい」
ここで終わらせなければ。そう決意した私は、大きくうなずいた。「今の私は、過去とは関係を絶ったんです。それで納得してるし、すっきりしてるんだから、邪魔しないでもらえませんか?」
壁みたいにどん、と突き飛ばす態度。大和は、きつく瞼を閉じた。
「亜希を、忘れろって?」
「ええ、私みたいに。お願いですから、今日でさよならにして下さいね」
駄目押しみたいに冷たくいい放つと、大和は微動だにしなくなった。そうだ、未練を残させてはならない。疼く良心を抑えつけ、私は彼を置いて再び歩きだした。
マネキンのように固まっている大和の気配を背中に感じながら、私は禁を破って、急いで松葉杖を使った。