もう一人の住人
イーオットは言う。
「実は、そちらの布に使われている素材は、他の地方では、かなり珍しいものでして。」
「そうなのか。」
ミツルギは、シュッツコイの方を仰ぎ見る。
シュッツコイは、多少警戒の気配を強めている。
「そうだな。魔力を遮断する素材はいろいろあるが、魔剣の魔力を考えると、これほど薄く柔らかいものに加工できる素材は、俺は知らぬ。」
それに、この布には、探知も鑑定も通じない。
力が、かき消されるのだ。
鑑定が通じないはずなのに、この男は、布の素材に、見当をつけている。
この布には、精霊の気配が全く無い。
製法は分からないが、精霊の力が失われているという面では、黒の系統の力を連想させる。
夢魔の一族と共にいたことからも、このイーオットという男は、黒の系統の力に何かの縁があると考える方が自然だろう。
だが、ニングルムの活動全般を通じて、このような男の存在は伝え聞いたこともない。
黒の系統の力を持つ者たちを管理することが、ニングルムの主要な任務であったはずだが、ニングルム部隊長であった自分でさえ知らぬことが、黒の系統には少なくないということだ。
あるいは、今まで帝国内にいなかったか、活動を隠していた。
となると、この男は魔王の手の者で、風穴を破壊してその跡地を占拠している。
その可能性は、どうだ。
危険があれば、魔剣も反応するだろうし、単に我々を殺したり捕らえたりしたいだけならば、ほかにもやりようがあるだろうが……。
「ミツルギ、そんな安請け合いしてしまって、よいのか。
お前さんの師匠はお忙しいし、高位の貴族に求められても、ほとんど顔を合わせようとしないようだが。」
イーオットは、少し意外そうに声を上げる。
「なんと。それほどに、地位の高い人物でしたか。そのような方の紹介をお願いするとなると、謝礼を尽くし、私について信用の証を立てなければならないところですね。」
ミツルギは少し考えている。
「そういうものか。まあ、本人は貴族ではないし、いたって腰も低いのだがな。
そうだ、謝礼というのなら、最初に話した通り、夢魔の一族のことを知りたいのだ。何か知っていることは、ないか。」
「ふうむ。取引、ですね。
お茶が入りましたので、飲みながらのお話といたしましょうか。
お茶菓子に、新鮮な果物は、いかがですか。」
「果物か。そういえば、木立の間に、農場が見えたな。」
「ここにはもう一人、住人がおりまして。
もうじき、戻ってくる頃合いなのです。収穫したての果物は、帝都でも、なかなか口にできないでしょう。
ああ、ちょうどそこに。」
イーオットの目線をたどると、庭園の奥から、作業着の大男がのっそりと現れた。
こちらを見つけても、足取りは変わらず、籠を背負って歩いてくる。
麦わら帽や肩には小鳥が遊び、後ろには子ヤギが付いて来ている。
何とも牧歌的な光景に、シュッツコイはささやかな困惑を禁じ得ない。
先ほど感じた封路の術は、もし力づくで押し通ろうとすれば、かなりの破壊力の攻性防壁が働いたはずだ。
イーオットというこの男、付与術は使えないと言っていたが、それ以外に多彩で高度な術を扱えることは間違いない。
森の中から現れたあの男も、一人で農場を運営しているのなら、魔獣の類を退けて農地を守るだけの心得があるということだ。
お伽話の危険な魔女の家に迷い込んだような気分でいるのだが、一方で、目の前の光景はあまりにも平和で、お茶の香りは嗜みのないシュッツコイでさえ良いものと感じられる。
連れのミツルギはと言えば、およそ諜報活動らしからぬ体で、出されたお茶を飲んでいる。
探知も解毒もした様子はない。
いや、ミツルギにそこらの毒や薬が効くのかも、分からんが。
シュッツコイは、自分の経験や感覚では判断が付かない空間に迷い込んでしまっている、それなのに大した危機感を感じていない自分にも、戸惑っていたのだった。
「シュッツコイ、そんなに緊張することはない。魔剣も、別段危険を知らせてこないぞ。」
「ミツルギ、お前は……。まあ、確かに、身構えていても、仕方があるまい。」
お茶に口を付けると、ふわりと香りが鼻腔に広がった。
美味いだけでなく、心が落ち着く。
「な、美味いだろう。」
「ああ、美味い茶だ。」
「お口にあったようで、良うございました。
ムクチウス! こちらのお客さまに、おすすめの果物をお願いします。」
ムクチウスと呼ばれた男は、黙ったままうなずくと、庭園の脇を通って管理棟の中に入っていった。
「あのように不愛想な男でして、そこはご容赦ください。」
ミツルギは、鷹揚に応じて口にする。
「我らこそ突然押し掛けた身。礼儀のことなど何を言えようか。さて、取引の続きをいたそうか。」