今はもう、動かない
僕は、椅子を引き、腰かけて、鍵盤に手を添えました。
パイプオルガンの椅子も、つがいの魔道具として作られていたようです。
誰にも触れられない年月が長かったのでしょうが、非常に高位の魔道具です。
金属部にも埃ひとつかぶらず、美しい銘木の肌はつややかに、鍵盤は希少な魔獣の鱗から削り出したものでしょうか、燐光を帯びています。
このパイプオルガンを操れるような演者は、帝国の中にも、ほんのわずかにしか存在しないでしょう。
数え切れない勇者達を絶望的な討伐の旅路に送り出していたのは、ひいおじい様の、さらにおじい様の時代であったはず。
勇者蘇生の秘術。
勇者生誕の秘術と対をなす、帝国の秘奥の一つですね。
その存在は広く知られているものの、その本質は固く秘密にされています。
僕の実家の書庫の文献でさえ、表面的なことしか紹介されていませんでした。
でも、おぼろげながら僕には分かっています。
勇者生誕の秘術は、人体の魔道具化。
人を、人の魂と、実体化した精霊の力の融合体に作り替える。
その体は、魔獣から魔石を刈り取って自らの力とし、その成長限界は、人外をはるかに超え、時には神の領域へ至るといいます。
勇者だから、人類を救うための希望となる存在だから、人を殺しても力にはできないなんて説明されていましたが、人間からは魔素が獲れない、それだけなのでしょう。
そして、勇者蘇生の秘術は、その魔道具としての体を、記録し、再生する技術。
心の臓がとまっても、首を落とされても、いえ、肉体のすべてを灰になるまで焼き尽くされたとしても、教会の秘術で、勇者は蘇生されるのです。
神の奇跡、勇者が神の加護を与えられていることの証として、ひろく語られていました。
しかし、勇者生誕が魔道具化の術なのだとしたら、蘇生にも、異なる本質があるのでしょう。
この精霊は、その秘術の本質の一部を、知っている。
それが、このパイプオルガンがわざわざ残された理由であり、その声に陰があることの、理由なのでしょうか。
「このパイプオルガンも、もう、奏でられることはないのでしょうね。」
動かなくなった古い時計の歌を思い出しながら、半ば独り言のように、口にしました。
アラクレイは、ちらりとこちらを見ていましたが、何も言いませんでした。
再び、パイプオルガンの精霊に向けて、語り掛けます。
「勇者達のための響きは、十分に届けられたでしょう。新たな響きを、探しに行きましょう。……剥奪。」
「……わが名は、ザオリスト。そなたの導きに、従おう……」
ふっ、と微笑む顔が浮かんだような気がして、するりと大きな精霊石ができあがります。
魂を引き留め、形を刻んでいた、土と水と光の精霊が、入り混じって美しい模様を作り上げていました。
椅子から立ちあがり、こんどは倉庫全体に向けて、思念を放ちます。
「教会の魂たる精霊は、今ここに、新たな旅を始めようとしています。皆さんも、一緒に旅に出るのはいかがですか。
いかなる主が、依り代が待つかは定まっていません。
意に添わぬ出会いがあるかもしれませんし、想いと反する使われ方をするやもしれません。
それでもよろしければ、あなた方を解き放つ力が、僕にはあります。」
巻き起こった思念の渦は、狂騒といってもよいものでした。