第四話
「心配には及ばず、ひとまず信じていただけましたよ。」マーギスは微笑んだ。
「当然でしょう。」と、セルファ・アデルは頷く。
早瀬家に現れたときの気楽な格好とうって変わって、地味だが仕立てのよい服と、胸元には時計の鎖も見える。癖のある長い茶色の髪は、竜に乗るものの常で首筋で束ねていて、ラグレス家に通じる漆黒色の瞳は、目の前の相手との会話を愉しんでいるようだ。
「この神舎の司教と一族の長に難癖つける度量の持ち主など、ガッセンディーア議会にはいません。」
「それに公安もご一緒でしたから。議会の皆さまが反論する余地はなかったようです。」
薬草の香りがするお茶を供しながら、バセオが言った。
いつもの修士服でなく大工のような作業着姿の彼は、そうしていると寡黙な職人にも見える。しかし彼は神に仕える修士であり、腕の立つ薬師であり、そして目の前にいるマーギス司教とは同郷の、師弟のような関係でもある。
「中庭を手入れしてるんです。」
四十がらみの体格の良い修士は、セルファの視線に気付くと説明した。
「先日の騒ぎで、塔の下の植え込みが荒れてしまったので。」
「公安が突入したときですね。」
まだ記憶に新しいその出来事は、マーギスとバセオが不在のときに起こった。
ルァ神を奉るこの場所に押し入った集団が、祈りの場である礼拝堂を占拠したのだ。それは神話に登場する「神の影」、すなわち闇を信仰する輩であった。彼らは門を閉ざして聖職者達を監禁すると、闇に祈りを捧げるため「呪術」を唱えたのである。
「呪術」とは、言葉の意味と音で大気を変え物に反映させる、まじないのようなもの。かつてこの世界を恐怖に陥れた黒き竜も、呪術によって強大で邪悪な力を持つものになったという。
そのことがきっかけとなり、以来、呪術を使うことも記すことも禁じられた。
しかし呪術は大気が希薄になった今の世に、密やかに、そして連綿と伝えられていた。
彼らの目的は向こうの世界で封じられていた「黒き竜」の魂を解放し、その力を得ることだった。
周到に準備された計画を止めるため、ガッセンディーアに住まう者が一致団結したのは言うまでもない。
竜騎士を擁する一族とガッセンディーアの街の秩序を守る公安、神舎の責任者であるマーギスが策を練った作戦は、竜を繰る者たちが塔の上まで人を運び、運ばれた公安隊が塔より地上に降りて突破口を開くというもの。
作戦は遂行され、神舎は無事解放、不穏分子も公安の手で一人残らず確保された。
しかしつい最近まで検分の名目で神舎内のいたるところに綱が張られていたため、片付けや修理が後手に回っていたのである。
「中庭もやっと立ち入りできるようになったので、畑を作ってるところなんです。」
「もともと自然に任せていた植え込みでしてね。」
マーギスの青みがかった灰色の瞳が笑う。かろうじてこめかみに残る髪は赤く、恰幅の良い体型と気負いのない司祭服と相まって、まさに好々爺という言葉が似つかわしい。
そんな印象を裏切らないたおやかな聖職者である一方、彼はガッセンディーア教区の責任者として多方面から一目置かれる存在でもある。南の小さな集落の出身ながら、この北の州都で司教の地位についたことからもその実力は伺い知ることができる。セルファの父でアデル商会を束ねるボナウン・アデルですら、顧客である彼のことを「敵に回したくない人物」と公言している。
「マーギス司教は権力の使い道を心得てる。そういう点はカズトに似ているかもしれない。」
義兄ながら一目置いている早瀬と、敵にしたくないマーギスが古い知り合いとわかったとき、彼はそんなことを洩らした。
マーギスが早瀬と出会ったのは十四年前に遡る。そのときは互いの名前も知らず、二度目に偶然出会ったとき、「もし三度目の必然があったら互いに名乗りましょう」という約束を交わしただけであった。その直後、早瀬は自分の世界へ戻り、マーギスは南の教区からこの北のガッセンディーアへ異動になる。それから十年以上。ほとんど忘れかけていたその記憶を繋いだのは誰あろう、木島都だった。
それが偶然か必然か、はたまた創造神ルァの思し召しだったのかはわからない。けれど早瀬加津杜と再会したことで、彼は否応なく門ともう一つの世界が存在することを知った。
と同時に、マーギスは彼らが対峙しているものが、自分を苦しめる忌まわしき出来事に通じていることに気づく。それゆえ、共犯者になることにためらいはなかった。
「メルヴァンナ司祭が景観上好ましくないとぼやいていたので、バセオにお願いしたのです。」
「許可をいただいたので、薬草の畑を作ろうと思って。」
「ではご注文というのは……」
「畑に植える薬草の苗を。ガッセンディーアでは手に入るものが限られます。それに貴重な物は薬効のない亜種も出回っていると聞くので。」
バセオは一枚の紙をセルファに渡した。
目を通したセルファは「なるほど」と呟く。
「確かに、どれもガッセンディーアで見ないものです。少し時間をいただいてもよろしいですか?」
「できれば冬になる前に。」
「承りました。」
セルファの言葉に安心したバセオは、まだ作業があるから、と再び外に出て行った。
入れ替わりに、開け放した執務室の窓から白いものが飛び込んできた。
白いものはマーギスの膝に舞い降りると「ぎゃう!」と挨拶するように鳴いた。
「元気そうですね、レイユ。」
「おかげさまで。あの事件のあと、呪術が使われた神舎に連れて戻っていいのか悩みましたが、主人と離れるほうが銀竜にとって辛いだろうとカゥイ先生に言われたので。」
銀竜は竜と同様、大気の変化に敏感な生き物である。たとえば名付けをするとき、人が邪な気持ちを持っていたら決して成就しないことからも伺える。逆に名付けができれば銀竜は主人を絶対的な存在とみなす。
しかしそうして名付けされた銀竜は人より長命なため、主人が亡くして行き場を失うことが往々にある。レイユもまた、そんな銀竜だった。公安に保護されたところを早瀬が譲り受け、偶然、マーギスが名付けたのだ。
連れて帰った当初は戸惑いもあったが、今ではマーギスのみならず神舎の皆がこの銀竜を慈しんでいる。
「しばらく公安が出たり入ったり慌しかったせいで不安そうでしたが、今はもう。むしろ以前よりやんちゃなくらいですよ。」
マーギスが背をなでると、レイユは金色の目を細めて喉を鳴らした。
「そういえばコギンの様子はいかがですか?アデルの坊ちゃんに請われて様子を見に行ったと、ルーヴ親子から聞きました。」
「消耗が激しいので薬を処方してもらいました。ラグレスの家で、ゆっくり回復しているところです。」
「また向こうに戻して、大丈夫なのですか?」
「できればこちらに留め置きたいところですが、さきほどマーギスさまがおっしゃったように、主人と長く離れてるほうが心配なので。それにミヤコも、完全に回復しているわけではありません。」
「共にあるべきだと。」
「ええ。それで彼女から、しばらくこちらに伺えないことをマーギスさまに謝ってほしいと言付かりました。」
「謝る、とは?」覚えのないマーギスは、小さな瞳を精一杯丸くする。
「リラントの瞳……アンリルーラの魂を渡すのが、遅くなってしまうから。彼女はそれをひどく気にしていました。」
まったく、とマーギスは呟く。
「そんなことを気に病むなんて!ではミヤコさんに、こうお伝えください。」
セルファは懐から帳面を出すと、マーギスの言葉を書き付けた。
「ミヤコも安心すると思います。今年の祭りに来られないことも、残念がっていましたから。あんな事件の後だから中止せよと、ガッセンディーア議会が言ったそうですね。」
「そんなことをすれば。ますます皆が不安になってしまうというのに。」
「そう、おっしゃったのですか?」
「私ではありません。」
事件のあらましを州知事と議会に報告したとき、同席した公安のオルフェル巡査長が言ったのだと説明する。
彼はいかつい顔面をますます四角くすると、身を乗り出して言った。
「もし今年の祭りを辞めれば、この先何年も中止せざるを得なくなるでしょう。何度も言うように、今回の事件は成り行きで起こったものではありません。ひょっとしたら連中、何年も機会を伺ってたのかもしれない。となれば今日明日で解明するのは無理でしょうし、事は神舎が絡みます。実際、すでに神舎の専門家にちょいちょい、同席してもらってますがね。」
巡査長はそう言ってマーギスの隣に控えていたバセオをチラリと見る。
「本舎の方から要請があれば公安は無視できません。その手続きが全部終わるまで何年も待てますかね?」
「そんなにかかるのですか?」知事がマーギスに問いかける。
「今の段階ではなんとも申し上げられません。ただ今回の事件、簡単に済むと思えないのは巡査長と同じです。」
うーむ、と知事が唸る隣で議長が聖堂の指導者を見た。
「竜は大気の影響を受けていないんだな?」
「大気はすでに安定しております。」アニエ・フィマージは頷いた。
若干二十代で一族の長を祖父より引き継いだ彼女は、濃紺の服に銀の小さな耳飾、そして指には一族の長である証の指輪……印をつけただけの簡素な装いであった。しかしそれでも彼女の若さ、美しさは隠しようがない。そのせいか知事も議長も最初はアニエを相手にするのをためらっていた。
「驚くというより、戸惑う……というほうが正しいのでしょうな。」と、マーギスはそのときの様子を思い出す。
しかしアニエはそんな不協和音は気にせず、一族、そして竜隊の異名を持つガッセンディーア駐屯分隊の状況を報告した。
「すでに他の分隊、それにガッセンディーア本隊との連携も戻っています。通常業務で竜と共に飛んで、変調をきたしたという報告は一件もございません。」
「しかし祭りとなれば竜の数も多いだろう。」
「それで何百年とやってきたんだ。」オルフェルが鼻の上に皺を寄せる。
「ですが絶対に安全という保障は、確かにありません。」
アニエの言葉に議長は「そうだろうとも」と頷く。
「だが竜がまるっきりいないとなると、むしろ不安に思うだろう。」
「では……」とマーギスが口を開いた。
「こういうのはどうでしょう。」
「飛行の模範演技、ですか?」
ええ、とマーギスは頷いた。
「オーディが教官ついでに行ったとは聞いてますが……」
「呪術の影響が完全に消えて、空も同胞も問題ないと示すにはうってつけでしょう。」
「それで知事は納得したんですか?」
「同席した議員の中に、理解ある方がいましてね。」
その議員がぜひやるべきと主張した上、竜の必要性を改めて説明したのだと言う。
いわく、ガッセンディーアの祭りは夏の訪れを祝うもの。それはノンディーア連合国となる以前から行われてきたことで、当時この地に住んでいたのは聖堂を建てたのは一族、そして神舎に仕える者たち。年月を経たからといってそれをないがしろにするのは、ガッセンディーアの歴史をないがしろにするも等しいと。
「ありがたいですね。」
「ずっとこの地に暮らす人にとって、竜が空にいるのは当たり前だとおっしゃってました。それに今回議会が後手に回った事件をフィマージどのは経験している上、公安や神舎と情報の共有をしている。その実績は動かしようがありませんからね。」
「どうも……」とセルファは苦笑する。
「聖堂の長は思うよりも策士らしいですね。」
「頼もしい限りです。」にっこりとマーギスは微笑んだ。
次回の更新は2017年3月31日(金)を予定してます。