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番外編二 おもかげ

 コトン、と絵筆を置いた。

 身体を引いて、顔を上げる。

「今日はここまでにしましょう。」

 その言葉を合図に、目の前の長椅子に腰かけていた年若い女性が大きく息をついた。

「疲れたでしょう。」

「少しだけ。」そう言って緑の瞳が微笑む。

「拝見してもいいですか?」

 遠慮がちな彼女に、エイモスは「どうぞ」と画架の前を譲る。

 そこにかかっているのは、まだ絵の具も乾いていない肖像画。両手で持ち上げられるほどの大きさのそれは、まだ途中なのでどこか物足りない。

 けれど絵を覗きこんでいる本人を描いていることは一目でわかる。

 背中に垂らした金色の髪に、緑の瞳。十九歳という年頃にしては控え目な服だし、装飾品も銀細工の髪飾りだけだが、絵の中と同様、醸し出す知的な美しさを損なってはいない。

 それをどう描くか?

 そう問答しながら彼女を描き始めてすでに数ヶ月。

「次でほぼ完成ですよ。ネフェルお嬢さん。」

「完成、ではないのね?」

「手直しがありますから。」

「直す必要、あるのかしら?」

 首をかしげるネフェルに、エイモスは絵筆を片付けていた手を止める。

 何気ない仕草だが、やはり似ていると思う。

 と、ネフェルの視線がある箇所で止まった。

「この色……とてもきれい。」

「これは、北の大山脈で取れる鉱石を使った顔料なんです。」 

 エイモスが石の名を言うと、ネフェルもその名を繰り返す。

「面白い名前。ガッセンディーアの古い言葉かしら?鉱石の名前なんて気にしたことなかったけど……」

「顔料の名前、今度書き出してきましょうか?中にはそのまま色の名前になってるのもありますから。」

「本当に?」間髪いれずにネフェルは声を上げる。

 緑の瞳が好奇心でキラキラ輝くのを、エイモスは笑顔で受け止めた。

「お安い御用です。」


 エイモスがこの家に出入りするようになったのは、師匠が病で倒れたのがきっかけだった。

 竜を召喚し、空を飛ぶ一族の肖像画を多く手がけていた彼は、独立したばかりのエイモスにオーロフ家からの依頼を任せたものの、絵の完成を見ることなく息を引き取った。そのとき描いたのは当時十三歳だったこの家の子息で、その絵がオーロフ家に概ね好評だったため、エイモスはその後三十年余、画家としてこの家の家族を描いてきたのである。自身の黒髪に白いものが混じるようになったのだから、その年月の長さは押して測るべし。

 いまだ健在の前当主夫妻に、嫁いだ令嬢。その息子が次期当主としてこの屋敷に来たとき。そしてその彼から新妻と共に描いて欲しい、と注文を受けたのはまだ記憶に新しい。

 その絵が乾かぬうちに、前当主であるデレフ・オーロフから「孫娘を描いてくれないか」と依頼があったとき、エイモスはこの家に孫娘がいただろうか?と首をかしげた。

 しかし杞憂は彼女に対面してあっさり消えた。

「ネフェル・フォーン・オーロフです。」

 そういって挨拶した彼女の金色の髪と緑の瞳を見るなり、エイモスは了解した。

「ご子息の……スウェンの忘れ形見ですね。」

 そうだ、と頷くオーロフの隣で、どこか戸惑うようなネフェルが印象的だった。

「あのときは、まだこの家に来て間もなかったから。それに画家の先生と何をお話していいのかわからなかったんです。」

 しばらくして彼女を描き始めたとき、ネフェルは言った。

「それに自分の姿を描いてもらうなんて、初めてで、なんだか緊張してしまって。」

 率直な彼女の言葉は、エイモスがかつて描いた彼女の父親を思い起させた。

「あなたの父上も、最初の絵を描いたときは緊張してました。もっとも、次からはじっとしてるほうが少なくて大変でしたけど。」

 まぁ!とネフェルは笑う。

「でも私、緊張していた父さまの肖像、気に入ってるんです。一番私に似てると言われるから。」

「では、この絵が完成したら隣に並べていただきましょうか。」

「それはどうかしら?だって父さまが子供で、私が大人なんて不公平。」

「ではネフェルお嬢さんを若く描きますか?」

「それは嫌。」キッパリとネフェルは言った。

「今の私を描いてください。」

 それから数ヶ月。

 街を巻き込んだ災害のような事件で中断を余儀なくされたものの、どうにか完成に近づいてきた。


「今日はお疲れのようですね。」

 いつもと同じように長椅子に座ったネフェルを前に、エイモスは言った。

「昨日まで聖堂にいたものだから。」

「お仕事ですか?」

「まだ仕事と呼べるほどではないけど……」そんなところだとネフェルは言った。

「お疲れがひどいようだったら今日は無理せず……」

 いいえ、とネフェルは首を振る。

「エイモスさんに描いてもらってる時間は、とても愉しいんです。」

「じっとしてろと言われるのは、辛いと思いますが?」

「何も考えなくて済むので……それにエイモスさんとお話してると落ち着くんです。」

「こんな中年が話し相手でよろしければ。」言いながらエイモスは筆を動かす。

 ややあってネフェルが口を開いた。

「……私、本当に聖堂でのお仕事なんてできるのかしら。」

「どなたかに言われたのですか?」

「言われたわけでないけど……本当に先生たちのお手伝いができるのか、もっと適任がいるんじゃないかって思ってしまうんです。」

「他に適任がいなかったからネフェルお嬢さんに白羽の矢が立ったんでしょう。それに誰だって常に自信があってやってるわけじゃありません。」

「エイモスさんも?」

「そりゃあ、もう。」エイモスは笑った。

「お弟子さんに絵を教えてる方なのに?父もエイモスさんに習っていたと聞いてます。」

「たいそうなことはしてません。それにあなたの父上はもともと絵が上手かった。」

 スウェン・オーロフが描いたものをエイモスに見せ、それに対してエイモスが感想を言うのは、当時の彼らにとって挨拶のようなものだった。

 やがてスウェンがこの屋敷を飛び出し、あちこちの遺跡を放浪するようになると、その量が何十枚になることもあった。それはエイモスが見たことのない風景ばかりで、そのときばかりは竜の背に跨って空を翔る彼を羨ましく思ったものだ。

「でも父さまは素描ばかりで、エイモスさんのようなちゃんとした絵は描かなかったわ。」

「ええ。だからこうしてわたしが呼ばれるんですよ。」

「そういえば……そうね。」ネフェルは笑う。

 やっと空気がほぐれたと思ったのか、ネフェルは話し続ける。

「母と暮らしてた家にも父の素描がたくさんありました。遺跡とか村の風景とか。」

 彼女が文字を読む「語り部」で、同業だった母親と南で暮らしていたことはエイモスも聞いている。父親が亡くなった後、その母親も亡くなり、祖父を頼ってガッセンディーアに来たことも。

「その素描は今も?」

「いえ。火事で全部燃えてしまって……」

 エイモスの手が止まる。

「この家にも少しあるけど、花や木ばかりで……あ、でも画帳には神の砦が描かれてます。あれも遺跡といえば遺跡みたいですものね。」

「それも、この家にあったんですか?」

「父さまの知り合いが偶然手に入れて、私に下さったんです。」

 ネフェルは淡々と、その画帳がきっかけで祖父と会うことができ、親友と知り合うことになったと説明する。もちろん端折った話だろうが、それは信じられないほど偶然に満ちた出来事だった。なによりその出来事に遭遇するまでの間、彼女が一人で生きてきたことに驚いた。

無意識に手が止まっていたらしい。

「ごめんなさい。わたし、お喋りしすぎたみたいですね。」

「大丈夫ですよ。もう少しだけ手入れすれば完成します。それは、また今度。」


 数日後、

 エイモスは絵を仕上げた。

 さらに絵具が乾くのを待って、額装する。本来なら弟子に任せる作業だが、この肖像画は自分ひとりで完成させたかった。

 画架に掛け、不具合がないか確かめると「よし」と呟いた。

 その日屋敷にいたのはネフェル本人と前の当主である老オーロフで、二人は絵の完成を待ちかねていたらしく、エイモスが使用人に言付けを頼むと、すぐに作業部屋に飛んできた。

「なんだか凛々しくて、私じゃないみたい。」ネフェルがほーっとため息をつく。

「とても、らしいと思うがね。」と、祖父の感想。

「いずれにせよ、ガッセンディーアで指折りの画家の渾身の作に間違いないようだ。」

 彼なりの褒め言葉を受けて、エイモスは「ありがとうございます」と礼を述べた。

「聖堂での仕事が本格的になれば、描いてもらう時間もなかなかないだろう。それに、ネフェルの留守が多くなれば、お祖母さんが寂しがる。」

「そのための肖像画だったの?」

「我が家の歴史を記録するためだよ。」

「もう一つ、ネフェルお嬢さんの歴史に加えていただきたいものがあります。」

 エイモスはそう言って道具と共に置いてあった紙箱を手にした。本を横にしたような平らな箱は綺麗な布張りで、蓋が開かないようぐるりと綺麗な紐が巻いてある。

 紐を解き箱を開いたネフェルが「あっ!」と声を上げた。

 中から取り出したのは素描画で、描かれているのは……

「……お母さん?」

「その下の絵も見てください。」

 エイモスに促されて取り出したのは、赤ん坊を描いたもの。

「これは……スウェンの字じゃないか?」

 余白に書き込まれた文字を見た老オーロフが、興奮気味に言う。

「ネフェル……じゃあ、これ……私?」

「スウェンが描いた、生まれて間もない頃のあなたです。」

 どうして?

 ネフェルと老オーロフの視線が一斉にエイモスに問いかける。

「スウェンとは、よい友人でした。」

 彼がガッセンディーアの聖堂勤務になると、空き時間に頻繁にエイモスの工房を訪れるようになった。そうやっていつしか画家とクライアントから友人になり、そしてあるとき彼はエイモスに告白をする。

「南に行ったときに恋した女性がいると。どんな女性なのかと聞いたら、これを持ってきて……」エイモスは一枚目の絵を目で示す。

「そのままわたしが預かりました。」

 当時、オーロフの家族はスウェンが一族以外の女性と結婚することを認めず、絵を家に置いておけなかったのだが、今それを言う気はさらさらない。

「個人的に、彼の描くものは好きだったので……」

 預かっているうちに溜まっていき、どうしようかと思ううちに彼が亡くなってしまったと説明した。ずっと保管していた絵の中から、ネフェルと彼女の母親の絵ばかりを選んできたことも。

「聖堂でお役目をいただいた。そのお祝いです。わたしとスウェンから。」

 父親の名を聞いて、ネフェルの瞳が喜びに輝く。

「すごく……すごく嬉しいです!」

 ネフェルは箱をぎゅっと抱きしめた。

「もうこの世にないと思っていたから……父さまの絵も、お母さんの面影も!」

「わたしのほうこそ。友人の娘たるあなたを描くことができて、楽しかった。」

 彼はもういないが、確かに彼女の中にその面影は見え隠れしていた。

 今も。

「私、がんばってみます。」

 ネフェルは真っ直ぐエイモスを見る。

「いまはまだ自信なんてないけど。いつか自信がついたら……私がそう思えるようになったら、そのときまた私を描いてくれますか?」

「もちろん。」

 エイモスは大きく頷いた。

「いつでも、お待ちしてます。」

次回は2018年3月30日投稿予定です。

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