第二十九話
空が広い。
草履の先で芝を踏むと、芽吹き始めた緑のみずみずしい香りが立ち上る。そして見上げれば、空は春らしく少しかすんだ暖かな陽射し。どこからか花の香り。
朝から慌しかったせいか、目を閉じると力が抜ける。
と、
「寝ちゃだめよ。」
「わかってるけど……眠い。」
庭に持ち出した椅子の上で、都は欠伸をする。
まったく、と冴が呆れる。
「だから夕べ、早く寝なさいって言ったのに。」
「だって……いろいろあったんだもん。昨日まで引越し優先だったし。セルファさんが宿題持ってくるし。」「お友達の手紙もね。ま、この先はうるさく言う人もいないんだから……」冴は苦笑しながら手を伸ばし、都の襟元を直す。
「自分で采配しなさい。」
「とか言って、顔合わせたら絶対なにか言うんだから。」
かもね、と冴は笑う。
「リラックスしてるわね。」と声をかけたのは三芳美帆子。
いつものカフェ無限大のエプロン姿でなく、白いブラウスにシルバーグレーのロングスカート、腰にはシザーケースを下げた勇ましい格好。今日の彼女はカメラマン三芳啓太のアシスタント兼、都のヘアメイク担当としてフリューゲルに出張っているのである。
美帆子は櫛を取り出すと、都の髪を再度チェックする。
「うん、きれいよ。われながら上出来。」
美帆子が元美容師の腕を遺憾なく発揮した都の装いは、結い上げた髪に生花を挿し、メイクも大人びて見えるよう仕上げている。それもこれも、都が選んだ訪問着に合わせたのだと、彼女は説明した。
その着物は竜杜の祖母の形見を仕立て直したもので、薄い若草色の着物の裾に向かって、さまざまな花が春霞のように描かれている。帯はめでたい席らしく銀色で、それに春らしい薄い黄色の帯揚げと、帯の中央に堀内老人からもらった翡翠の帯留めをあしらった。
その隣に立つ冴は、やはり自身の母の形見の海老茶色の訪問着に黒地に金糸をあしらった帯。保護者の風格満点な装いである。
美帆子の合図に、スーツ姿の三芳啓太が三脚に固定したカメラのシャッターを切った。
すぐさま確認し、
「堀内さんにも入ってもらって。」
「了解。」
美帆子が、フリューゲルの店内で待機していた堀内老人と堀内葵を庭に案内する。
堀内家から今日のパーティーへの出席が伝えられたのは、彼らと会った翌日だった。家族会議の結果、葵の両親の名代として二人が行くのが妥当、という結論になったらしい。
「こないだは店の中から見ただけだったけど……」
ワンピース姿の葵は庭をぐるりと見回す。
「庭もすごく素敵だね。」
フリューゲルの古い建物を背に撮影しているので、右手に母屋の縁側、左手にはちょうど芽生えた植え込みを眺めることができる。それに三月末の春めいた陽気が加わって、この上なく心地よいのである。
「最初は店の二階で撮るって言ってたんだけど、天気がいいから急遽変更になったの。」
「変更に感謝。」
そんな会話で笑顔になったところを狙って、すかさず三芳がシャッターを切る。
葵のリクエストで、彼女と都とツーショットを撮っているところに竜杜がやって来た。
グレーの三つ揃えで、ウエストコートのポケットに懐中時計。鎖の色に合わせてカフスボタンもシルバーというクラシカルなスタイルだ。
彼は堀内と葵に来てくれた礼を述べる。
「こっちこそ、素敵な場所で写真撮ってもらって感謝してます。」
「朝子も……都の母親も見たかっただろうに。」
「お祖父ちゃん!泣かないって言ったでしょ?」
もーっ、と葵が呆れる。
「昨日から涙腺ゆるくなってるんです。お祝いの席なのに。」
「年取ると涙もろくなるんだよ。」
そう声をかけたのは早瀬だった。
彼はエミリアと、到着したばかりの宮原夫妻を堀内に紹介した。
その様子を離れたところから見ていた三芳が「うーん」と唸る。
「どしたの?啓太。」
「あーいや、早瀬ファミリー存在感あるなぁと思って。」
ああ、と美帆子も頷く。
「エミリアさん、きれいだもんね。」
ごくシンプルな黒のドレスに首筋で髪をまとめた装いにもかかわらず、彼女がいるだけで場が華やいで見えるのだ。それに都や冴と打ち解けているのも、見ていて微笑ましい。思わず足元に置いたカメラを構えて何枚か撮り、声をかけた。
主役の二人と早瀬家、最後に宮原夫妻を入れた全員で集合写真を撮る。
控え室になっている店の二階に引き上げる。椅子に腰かけ一息ついた都の頬に、竜杜がそっと触れた、
「眠たそうだったが、大丈夫か?」
「朝から忙しかったもんね。」と栄一郎も都を気遣う。
「それ言ったら栄一郎さんも一緒です。」
昨日は都の引越しのためにワゴン車を借りて何往復か運転してくれた上、今朝は自家用オフロード車に残りの荷物と冴、都を乗せて役所に立ち寄ってくれたのだ。そこで早瀬親子と落ち合い婚姻届を出すと、早瀬家で荷物と人を降ろし、栄一郎は自宅に戻って着替えてきたという次第。
「うん、でも都ちゃんはセルファさんが持って来た手紙、遅くまで読んでたんじゃないかなぁって。」
「ええっと……そうです。」
やっぱり、と栄一郎は笑う。
昨日、最後に早瀬家の母屋に荷物を運んだとき、着いたばかりのセルファとエミリアに遭遇した。セルファは都にネフェルとリィナからの手紙を渡すと、すぐにルーラと共に向こうの世界に戻ってしまった。返事が必要なのかどうか聞く暇もなく、さてどうしようと考えあぐね手紙を開いたのが運のつき。結局夜中すぎまでかかって読んでしまったのだ。
「読むなとは言わないが、」
明かされた事実に竜杜は苦笑する。
「あまり無理するな。」
「そう竜杜くんに言われると、渡しづらいなぁ。」と言いながら栄一郎が都に差し出したのは一冊の本。
「もしかして栄一郎さんの本?」
「うん。新刊。」
彼と知り合ってから絵本作家・当麻栄一郎の本は何冊かもらっていた。けれど今回は今までの絵本と違って厚さも大きさも一般の書籍に近い。
「都ちゃんに進呈するって約束してたから。」
ページを開くと、栄一郎のイラストと共に、女の子が小さい竜を相棒に知らない世界を旅する話が展開される。モデルは都とコギンだが、それは内緒の話。
「わ、きれい。絵本?」横から葵が覗き込んだ。
「どっちかっていうと童話かな。対象年齢不詳なんだけど、出版社が乗り気になってくれてね。」
「確かに大人でも読めるファンタジーっぽい。」
と、部屋の扉が開いた。
キョロキョロ誰かを探すのは、おろしたてのスーツに身を包んだ波多野大地だった。
「三芳さん!カメラの設置場所のことで下来て欲しいって。」
「おう!」と手を上げて三芳が階下に向かう。
「波多野くん、なんかいろいろごめんね。」
今日のパーティーは会場こそフリューゲルだが、設営は料理を担当するレストランうさぎ亭の若夫婦と、飲み物担当のリカーハタノの親子が行っている。
「んにゃ。がっつり商売させてもらってるんで……ってもう木島じゃないのか。」
「木島でいいよ。急に変えられても、わたし返事できない。」
「竜杜さん的にもオッケーなら。」
「都がそう言うなら問題ない。」
「そういえばさ、竜杜さん、うちの祖父ちゃんと花見したことあるんだよね?」
「何の話だ?」
「祖父ちゃんが言ってた。竜杜くんと見た桜はきれいだったなぁって。覚えてない?」
「大地のおじいさんと会ったのは、うちの祖父が生きてた頃……」
「それたぶん、お祖父ちゃんのお通夜のときだよ。」通りがかった早瀬が言った。
「竜杜が迷子になって波多野さんに連れて来てもらったとき。」
「あーあんたの黒歴史ね。」と冴も会話に加わる。
「笙子先生から聞いたわ。」
「うん。お通夜の席で、気がついたらいなくなって、みんなで手分けして探したんだ。けっきょく、波多野さんが連れて来てくれたんだけどね。」
「なんでそれが花見なの?」と、都。
「竜杜が桜の時期にこの家にいたのは、そのときだけだから。今よりちょっと後の頃だね。」
「早瀬店長!」駆け足で戻ってきた三芳が叫んだ。
「ちょっと来てくれます?波多野くんも、お父さん呼んでる!」
「んじゃ、また後でな!」
波多野がばたばたと去ったしばらく後、うさぎ亭の看板娘、笠木比奈が準備が出来たことを知らせに来た。
店内はテーブルを集めていくつかの島にして、真っ白なクロスを掛け、カトラリーや料理をそれぞれ配している。立食形式なので椅子は壁際に並べ、庭にも出られるよう普段締め切っている掃き出し窓を開けて庭にも出られるようになっている。
夕景を背後にした母屋がいつもと違って見える。
きっとこの光景を、銀竜たちも母屋の窓から息を潜めて眺めているのだろう。
「みゃあちゃん!」
「あ、エリちゃん。」
背中に大きなシフォンのリボンを背負ったエリ・マクウェルは両手で「はい」と小さな花束を差し出した。
都は幼稚園児の視線に合わせて背をかがめると花束を受け取った。
「ありがとう。」
「みゃあちゃん、きれい。」
「エリちゃんもかわいいよ。」
そういうと、エリははにかんで父親の背に隠れてしまう。
「都さん、本当におきれいです。」マクウェルは心底嬉しそうに目を細める。
「ケイが生きてたら、きっと嫁にやらんと言ったでしょう。」
「それはちょっと複雑かも。」
「それに小暮さんも今日は一段と美しい。」
「それ、言葉どおりに受け止めていいのかしら?」
「もちろん。」
「パパ。エリは?」
「もちろんきれいだよ。」
そんな親子のやり取りに冴は微笑む。
「エリちゃん、少しだけ庭に行ってみようか。」
冴がマクウェル親子と連れ立っていくのと入れ替わりに、ドアベルが鳴って招待客が入ってきた。
「うわ、まじ着物だ。」
呆然と立っていたのは冴の事務所スタッフ一番の若手、原だった。
「変ですか?」
「ううん。大人っぽくてきれいよ。おめでとう。」とフォローするのは同じく事務担当の菅原宏枝。
「こないだ高校に入ったばっかりと思ったら、もー、こんなきれいになっちゃって。」年取るはずだわーと呟く。
「でも宏枝さん、全然変わんないし。」
「体力なくなってくのよ。これが。小暮さんは?」
「庭だと思います。」
「ありがと。原ちゃん、所長に挨拶するわよ!」
「うるさくてわりぃな。」最後にのっそり入ってきたのは同じく事務所スタッフの横山だった。
「原の奴、徹夜明けだからテンションおかしくなっててさ。」
「横山さん出張じゃ……」
「早く終わったんで直で来た。都ちゃんにどうしても言いたくて。」
「ほえ?」
横山は長身の背をかがめると都の耳元で言った。
「今まで小暮さんのこと、ありがとな。今だから言えるけど、前の会社辞めて今の事務所立ち上げるまで、けっこう心配してたんだ。」
「わたしも……ありがとうございます。」
は?と横山が目を丸くする。
「お母さんが前言ってたんです。横山さんが冴さんと同じ会社辞めて設立メンバーに来てくれてよかったって。」
「朝子さん、んなこと言ってたの?」
「酒の席だったけど。」
「だよなぁ。そういえばダメ男のこと聞いた?」
「ダメ男……ってもしかして冴さんの元?」
うん、と横山が頷く、
「事務所閉鎖。二度目の奥さんにも逃げられたんだって。」
「うわぁ……」
「竜杜さんはそういうのないから、大丈夫。」
「それ、横山さんの意見ですか?」
「うちのボスの意見。」
「冴さん、そんなこと言ってんだ。」
「ちゃんと素面だったぜ。お、お呼びだって。」
振り返ると波多野が手招きしている。
「そろそろ主役席移動な。あと司会進行、無限大の春香さんがすっから。」
「段取り、全部できてるんだ。と……」
誰か来た、と振り返る。
「おお!いきなり主役のお出迎えだ。」
「えー!波多野くんもスーツ?」
いつもどおり、きゃあきゃあ言いながら飛び込んできたのは友人の清水奈々と樋坂いずみ。
「あのなぁ、制服で出ろってのかよ。」と、応える波多野も教室のノリだ。
「おめでとう。着物、素敵ね。」
と、こちらもいつもどおりクールビューティーな篠原明里。
「振袖じゃなくて訪問着なの?」
「リュートのお祖母さまの。冴さんが仕立て直しに出してくれたの。」
「えー!」といずみと奈々が目を丸くする。
「全然古いものに見えないよ。」
「じゃあこれも?」といずみが示したのは帯留め。
「古いと思う。大叔父ちゃんがくれた、わたしのお祖母さんの形見。」
「素敵ね。ここにいない人にも見守ってもらってるみたいで。」
「ここにいないといえば、西くんの見送りいけなくてごめんね。」
「だってお墓参りだったんでしょ?仕方ないわよ。」大丈夫、と明里は手を振る。
「それに西っち、連休に一度戻ってくるって言ってたよ。」
「それより向こうでお父さんの話、聞けた?」
「うん。お父さんの子供のときの写真ももらった。その話マクウェルさんにしたらお父さんの遺品のアルバムがあって、今度ドイツのお友達が持ってきてくれるって。」
「みやちゃん、なんか凄いね。」
都は頷く。
「自分でも、そう思う。」
次回更新は2017年12月1日(金)です。




