第二十六話
空に向かって竜が飛んでいく。
屈強な羽根に、いかつい灰色の身体。
けれど、ここから見るその姿は小さく、風に乗って空高く飛んでいく姿はとても美しかった。やがて水平飛行に移ると、その姿は点のように小さくなると。
と。
「うぎゃあ!」
「うわっ!」
「ホランジェシ?」
突然の叫び声にカフタは塔の階段を駆け上がった。
明るい午後の日差しの中に飛び出すと、手摺壁と壁の間の狭い床に転がったホランジェシ・マーギスが、楽しそうに銀竜と戯れていた。
カフタはため息をつくと銀竜の名を呼んだ。
「レイユ!」
「ぎゃう!」
「ホランをからかっちゃいけないと、マーギスさまに言われてるだろう?」
「きゅう~」
司教の直弟子に怒られた銀竜は、しおらしく頭を垂れる。
「ホランも、真面目にレイユの相手しなくていいと言われたでしょう。」
「でもやっぱ相手してあげたいって思っちゃうんだよね。」赤毛の青年修士は差し出された先輩の手に掴まって立ち上がる。
「マーギスさまがお呼びです。」
「ここにいるって、伯父さんが?」
「ええ。随分ここが気にいったようですね。」
そりゃあ、とホランジェシは笑う。
「田舎じゃ空に近い場所は山の上だけ。こんな風に街を眺められるのって贅沢じゃないですか。それに……」
と目を向けた先には、今まさに地上に降下しようとする竜の姿。
そんな光景が見られる場所は、世界広しといえどこのガッセンディーアしかない。そして聖堂に赴けば近くで見学することもできるが、空に向かっていく勇姿を見ることができるのは、ガッセンディーアで一番の高さを誇るこの塔しかないのだ。
二人は塔を降りると、その足で司教の執務室に向かった。
扉を開けたのはバセオだった。
彼が示す先を見たホランジェシは「あっ!」と声を上げる。
「塔の上からの景色はいかがでしたか?」
「トラン!」
「久しぶりですね、ホラン。」トラン・カゥイの眼鏡の奥の瞳が微笑んだ。
「レイユも相変わらず元気そうですね。」
「元気どころか、やんちゃで困ってます。」とカフタがため息をつく。
「銀竜が甘えるのは、皆を大切な人と認識してるからです。まぁ度が過ぎるようだったら、ちゃんと怒るべきでしょう。」
それができれば苦労しない、と愚痴を言いながらカフタは仕事に戻っていった。
「塔の上は風が冷たかったでしょう。」バセオが特製の薬草茶を淹れる。
一息ついたところでトランが口を開いた。
「調査団のお役目、大変でしたね。」
「ガッセンディーアで起きたことに比べたら、大したことないです。伯父さんから……」と言ってホランジェシはマーギス司教を振り返る。
「手紙が来たときは、作り話かと思ったくらいだから。」
「ぼくも当事者ですが、あの出来事を手紙にまとめるなんてとうてい不可能ですね。」
「本舎から連絡が行くと思ったので。先回りして状況を知らせただけです。」
実際、すぐに本舎からホランジェシ・マーギスの務める神舎に連絡が来た。いわく、主犯者が本当にかつてノイゼット司祭と呼ばれていた者なのか。もし状況が許すようならガッセンディーアへ赴き、人相を確認せよ、と。
かつてその名の司祭がいた村は、今はもう誰も住んでいない。ある日突然、村にいた全員が死んだのだ。難を逃れたのは村を離れていた者で、薬師見習いとして隣村に住み込んでいたバセオと町の学校に進学していたホランジェシもそのうちの一人であった。
もちろん証言するのは問題ない。しかし祭りが目前。しかもただでさえ人手の少ない田舎の神舎ゆえ、すぐに動くことができなかったのである。
そんな日々をどうにか乗り切ったある日、セルファ・アデルがマーギスからの言付けと、彼自身の用件を携えてホランジェシを訪ねて来た。
その内容は妹、アンリルーラの生死がわかったこと。それ以上の話はガッセンディーアで直に合って説明すること。
そこでやっと、ホランジェシは伯父のマイゼル・マーギスが大変なことに巻き込まれたのだと理解する。と同時に、気になっていたことの答えがそこにあるのでは?と直感する。
「ガッセンディーアで騒ぎがあったのと同じ頃、テマイヤばあちゃんの具合が悪かったんだ。今だから言えるけど、さすがにみんな覚悟したくらい。」
マーギスの叔母、ホランジェシの大叔母、そしてバセオの薬師の師匠でもある老テマイヤは巫女の末裔にふさわしい勘のよさを持っている。今思えば、それは大気を読むことに長けているゆえの不調だったのかもしれない。呪術が乱した大気はガッセンディーアのみならず、連合国全体に影響を及ぼしたと考えてもおかしくないのだから。
「それが、あるとき境にしてあっという間に治っちゃったんだよね。しかも変なこと言ったんだ。ばあちゃんは全然覚えてないっていうんだけど……」
「なんと?」
「やっと帰ってきたね、って。」
「それは初めて聞いたな。」と、マーギス。
「だって昨日まで本舎の人たちもいたし、伯父さんだってアンの魂が呪術に利用されてた……なんて言わなかったじゃないか。」
「公な場で言える話でないよ。」
「わかってる。」
けれどそれを聞くために、ホランジェシは本舎からガッセンディーアに派遣された調査団に同行したのだ。そのことはあらかじめガッセンディーア神舎に伝えてあった。
「ですが、まさか頼んだものを全部揃えて持って来ると思わなかった。本当に助かったよ、ホラン。」
バセオの言葉にトランは首をかしげる。
「きみ、何か持ってきたんですか?」
「テマイヤばあちゃんに分けてもらった薬草の苗。」
「こちらではどうしても手に入らなくて、アデル商会にお願いしたんです。アデル商会がテマイヤから買って、それをホランが依頼を受けて運ぶ。手続き上そうすれば、申請も楽なんだそうです。」
「申請が必要なんですか?」
「ある種の薬草は取引が厳重なんだ。今回は取引相手がガッセンディーアの神舎で、仲介したのがアデル商会。で、運搬するのが神舎の関係者ってことで話が早かったみたい。」
「根付くかわかりませんが、試す価値はあると思ってます。」
「ということは、バセオはこちらで暮らすことを決めたんですね。」
「例の事件が解決するまでは、こちらにいなくてはなりません。」
本舎から来た法律の専門家でバセオの恩師、そしてマーギスの旧友であるエファイ司祭とも話し合った結果、バセオがガッセンディーア神舎での責任者となり、逐一本舎に報告をすることになったのだ。
「ガッセンディーア以外の地域でも担当者を配置して事件の背景を調べるそうです。」
それでも、事件の全容がわかるまで数年はかかるだろうというのが一致した意見だった。
「本舎も、今回件で危機感を覚えたようです。呪術を探し出す方法を考えると息巻いてましたよ。」と、マーギスは言う。
「そういうの、伝承ならいくらでもあるんですけどね。」とトランは苦笑した。
「それで、ホランはいつまでガッセンディーアにいるんですか?」
「明後日まで。」
「明日、私の用が済んだら、バセオも一緒に故郷に赴きます。アンの……姪の魂を両親達と同じ場所に埋葬してきます。」
そうですか、とトランは頷く。
「ぼくもまたテマイヤさんの所に伺うので、お会いしたらそう伝えてもらえますか?」
「え?」とホランジェシが目を丸くする。
「でも、トランはガッセンディーアで大きな仕事があるんですよね?」
「そのことに関連して、聖竜リラントの遺跡を見に行くんです。」
「南にそんなのあったかなぁ?」
「忘れられた遺構があるんです。」
トランは古い記録にそれとわかるものがあることを説明した。それはかつてのハンヴィク家の当主が、遊山の道中に記録した日記にあった。トランは神舎に来る前に久しぶりにハンヴィク家に立ち寄り、その日記の信憑性が高いことを確認してきたのだ。
「今でも残ってるかわかりませんが、調べる価値はあります。」
それがガラヴァルの遺した一族の記録と合致すれば、記録は事実だと照明できるだろう。ただし、それこそ何十年かかるかわからないが、と付け加える。
気の長い数字にホランジェシは目を丸くする。
「トランは凄いなぁ。」
「ホランだって凄いですよ。なんたって大地を歌う巫女の末裔ですからね。」
「オレだけじゃないし。空を歌う巫女と海を歌う巫女の末裔だっているっていうし。会ってみたいけど。」
「リュートなら……空を歌う巫女の末裔なら今夜ガッセンディーアに戻るはず。カゥイ先生と一緒に、花婿の付き添いを命じられてますから。」
「お帰りなさい、リュート。」
竜の背から降りるなり、エミリアの声に出迎えられた。
そのまま竜に待機するよう命じると、荷物を担いでフェスと一緒に家の中に入る。
と、そこにいた亜麻色の髪の中年男性にリュートは驚いた。
会釈したのはガッセンディーアに暮らす薬師だった。コギンの治療を任せて以来、ラグレス家の銀竜を診てもらっているハルエドゥ・ルーヴである。
「銀竜の具合が悪いのか?」
そんな話聞いてない、とエミリアを降り返ったそのとき。
「ぎゃう!」と頭の上から声がして、リュートの肩に銀竜が舞い降りた。
「くぁ!」
「カルル?」
喉を鳴らす銀竜に、リュートは驚く。
カルルは羽根をばたつかせると、ふわりと浮き上がってエミリアの肩に移動した。
エミリアがその羽根をそっとなでる。
「飛べるのか?」
信じられないといった面持ちの息子に、エミリアは頷いた。
「まだ外で飛ぶのは怖いみたいだけれど……」
「いつから?」
「昨日、急に。」
さすがのエミリアも驚いて、慌ててルーヴに連絡したのだと言う。彼は昨夜はラグレス家に泊まり、庭師の手も借りてカルルのことを診てくれたのだ。
「少しずつ時間と距離を伸ばしていけば、また元通りに飛べるようになるでしょう。」
「そうか。」
状況を把握したところに、イーサがやってきてリュートに休憩を勧める。もちろん、ルーヴにも。
「どうせあなたはガッセンディーアに行くのだから、ルーヴさんをお送りしなさい。」
「夜間飛行になるが、構わないか?」
「願ったりですよ。実は、聖堂から正式に依頼が来ました。銀竜の怪我や病気の対処法を教えて欲しいと。なんでも銀竜を保護するための部署を聖堂内に設立するとか。」
そういえば、銀竜のことは誰に聞けばいいのかと、アニエ・フィマージに質問された記憶がある。深く考えずにルーヴの名を出してしまったが、よくよく考えれば彼とて人間の薬師。無茶な依頼が行ったことを、リュートは謝った。
しかしルーヴはいいえ、と首を振る。
「むしろお礼を言いたくて、それもあって来ました。今はまだ、聖堂のお役に立てるほど銀竜に関する知識は自分にはありません。ですが代々薬師の我が家だからこそ、やるべきことだと思ってます。それに倅が後を継ぐと言いだしまして……銀竜の薬師になると言って聞かないんです。」
そのためにはまず人間の薬師にならなくてはいけないと諭したところ、急に熱心に勉強を始めたのだと言う。
「それはもう、妻も驚くほどの変わりようです。」
リュートは都に「贈り物」と言ってショールを差し出した、灰色の瞳に亜麻色の髪の少年を思い出す。
やっと十一になった彼は、少し前にリュートが斡旋した銀竜を肩に乗せ、彼に得意げに報告してくれた。
「リュート!オレ、銀竜の眼、使えるようになったよ!」
銀竜と楽しそうに戯れるあの姿を見ていれば、彼の決断は驚くに値しない。
「きっと、都も応援するでしょう。」
「だといいのですが。倅は……いえ、家族は誰もあなた方の役目を知りません。」
しかしルーヴにはコギンの治療を依頼したときに、以前から付き合いのあるアデル家の助言もあり自分たちの役目……門番であることを明かしている。
「いつか時期が来たら話すことになるでしょう。私は……あの子が家業と違う別の道を選んだとしても、仕方ないと思ってました。けれど、継ぐと言ってくれた。」
それが嬉しくて、どうしてもリュートたちに礼を言いたかったのだと、ルーヴは頭を下げる。
「あのときミヤコがコギンを連れてなかったら、倅もそんなことを言い出さなかったでしょうから。」
「それを言うなら、主人を失った銀竜の拠り所になってくれた。こちらこそ、アルには感謝してる。」
「それに、ミヤコのこちらでの最初の友達ですもの。あの子がこちらに戻ったときには、またアルと一緒にいらしてください。」
「ええ、ぜひ。」
「それまでに、カルルも外を飛べるようにならないとね。」
エミリアの言葉に同意するように、カルルが「ぎゃう!」と鳴いた。
次回の更新は2017年10月30日予定です。