第二十五話
力いっぱい抱きしめられた。
「会いたかったよーっ!都ちゃん!もうー相変わらずちっこっくて、かわいいんだからぁ!」
「って、苦しいよ!葵ちゃん!」
「だって~やっと会えたんだよ!」
「それに、背が伸びなかったの、わたしのせいじゃないし。」
むくれる都の表情が昔と変わらなくて、葵ははとこの頬をむにっと引っ張る。
と、
「その辺にしておきなさい。」
背後から飛んできた声に、堀内葵は渋々、都を解放した。
「まったくよそさまの玄関で何をしてるんだか。お騒がせしてすみません。」
頭を下げたのは上背のある白髪の老人。
「いいえー。」と冴が笑う。
「葵ちゃんも大叔父さまも、昔とお変わりなくて安心しましたわ。」
「寄る年にはかないませんよ。」と、堀内東次郎は笑った。
彼は手にしていた杖を孫娘の葵に預け、玄関の三和土の隅に置かれたスツールを借りて靴を脱いだ。それでも手入れされたジャケットとシャツを見れば、まだまだ現役なのだろうと予想がつく。
居間に入ると、待ち構えていた早瀬親子を都が紹介した。
葵がフリューゲルに乱入した日の夜、堀内老人から冴宛に電話があった。すでに葵に説明したことをなぞるように、けれど葵に言わなかったこと……彼の姪である木島朝子の墓の在り処や、都の今後についての事細かなことを冴は彼に求められるまま説明したのだった。
全てを了解した彼は、大叔父の自分がいまさら口出しするつもりはないが、せめて都の相手の家には挨拶したいと申し出た。冴はもちろん早瀬も異論はなく、竜杜と都の帰宅を待って、この日を設定したのである。
通り一遍の挨拶を交わすと、一同、ダイニングテーブルを囲んで着席する。
「風情のあるお宅ですな。」
今時珍しい、と堀内は庭と店を望む縁側に目を向けた。
折しも時刻は夕暮れ時。
早めに店仕舞いしたフリューゲルの建物が佇む光景は、それだけで絵になる。
他愛ない話が途切れたところで、都が無事高校を卒業したことを報告した。
「おめでとう。それに小暮さん、本当にありがとうございます。」
都の母が事故で亡くなったとき、彼は腰の具合が悪く葬儀に参列することができなかった。代理で顔を出した彼の息子も中座したため、葬儀の場で弟の家族が辛らつなことを言い、都がストレスから過呼吸の発作を起して救急車を呼んだことは知らなかった。そのことを知ったのは一年後の弟の葬儀の席で、しかしその頃には冴の事務所も二人の住まいも転居していたため、連絡がつかなかった。もちろん手段を講じれば探し出すこともできたのに、それを怠ったのは自分の落ち度であると頭を下げる。
「その話は、お電話で済みましたでしょう。」
「しかし……」
「一緒に暮らしてたのは、あたしが都ちゃんといたかったから。」
学生時代からの親友でビジネスパートナーでもあった木島朝子を失ったことは、冴にとっても打撃だった。
「都ちゃんがいてくれたから、事務所のこともがんばれた。あたしこそ、都ちゃんに感謝してるんです。むしろ文句を言いたいのは朝子に対して……かしらね。」
堀内もそれに同意した。
「婚約者のことを、なぜ親友のあなたにも話さなかったのか。」
事情がわかっていれば、親戚との軋轢もなかったろうにとぼやく。
「言ってしまったら、現実だと認めなければいけないから……じゃないでしょうか。」
口を挟んだのは早瀬だった。
「中学の頃、母親を亡くしたばかりの僕もそんなだったと、悪友に指摘されましてね。自分はそんなつもりなかったんですが。」
「なるほど。朝子らしいといえば、朝子らしい。しかし都の父親の件で、こちらのお宅のみならず、他の方にもご迷惑をおかけしたのは面目ない。」
年末の騒ぎのことだ、と、その場の全員が察する。
大変だったね、と葵に言われて都は素直に頷いた。
「最初はわけがわかんなくて……それでみんなに迷惑かけて……。」
「誰かさんが口止めするからややこしいことになったんだ。」
「なぁによう。」
竜杜の言葉に、冴が眉を吊り上げて身を乗り出した。
「あんたが不在だったからでしょ。」
「仕方ないだろう。だいたい話が唐突すぎたんだ!」
あーもうっ!と都が間に入る。
「気が合うのはいいけど、大叔父ちゃんの前だよ!」
「都、認識が間違ってるぞ。」
「そーよ!なぁんで、これと……」
「これと言うな!」
「これで充分!」
ぷっと、葵が吹き出した。
こらこら、とたしなめる堀内も笑いをこらえている。
「ごめんなさい。」と葵は頭を下げた。
「竜杜さんが無愛想って\波多野くんから聞いて、その通りだなぁと思ってたんです。だから漫才みたいな掛け合いが意外で。厳しい小暮さんが二人のこと許したのも、なんかすっごく納得。」
「褒められたにしては、微妙だな。」うーんと竜杜は腕組みする。
「ものすごーく褒めてるんです。」
「今から反対してくださってもいいんですよの。」と冴。
「え?それ、困る。」
本気で困った表情の都に、堀内老人が笑った。
「反対などしないよ。小暮さんともいい関係を築いている、文句のつけようもない彼氏じゃじゃないか。」
「それにこの家だったら安心だね。」言いながら、葵はリフォームを終えたばかりの室内をぐるりと見回す。
「お店もだけど、お家もよい感じ。こういう場所なら、落ち着いて勉強できるかなーって。」
「改めて、早瀬さん、」堀内は姿勢を正すと深々と頭を下げた。
「兄貴……この子の祖父母、それと朝子に代わって、どうかよろしくお願いします。」
葵も一緒に頭を下げたので、早瀬と竜杜もそれに倣う。
「おじいちゃん、あれ。」
そうだった、と堀内は孫娘に預けていた風呂敷包みをテーブルの上で開いた。
中から出てきたのは小さな桐箱と古そうな腕時計。
「都のお祖父さんとお祖母さんの遺品だよ。」
桐箱を開けた都は「あっ!」と声を上げた。
「帯留!」
中にあったのは細工を施した鮮やかな緑の石……翡翠の帯留だった。
「帯留だと、よくわかったね。」
驚く堀内老人に、都はこの家の古い着物と小物を引き継いだことを説明した。
「全部でないけど、解いて仕立て直したんです。どれもすてきなお着物ですよ。」と冴も補足する。
「都ちゃん、一人で着られるの?」葵が目を丸くする。
「冴さんに習ってるとこ。まだ全然だけど。それよりこれ、すごく高価そう。わたしがもらっていいの?」
「いいもなにも、都のものだよ。都のお祖父さんが亡くなってすぐの頃、形見分けでもらったんだ。二人には世話になったから何か欲しくてね。いつか朝子に返そうと思っていたが……随分遅くなってしまったようだ。」
木島の家には兄夫婦のものが他にもあったが、家を引き継いだ三男がすべて処分してしまったとぼやく。
「それ、朝子から聞いてますわ。」
叔父へのささやかな抵抗として、古い家を潰す前に彼女が食器を持ち出したエピソードを明かす。
「え、あの古い食器ってそういう由来だったの?」
カフェ無限大の二階にある、母の遺品のダンボール。その中の一つが食器で埋まっていたことを思い出す。近日中に三芳がこの家に運んで来る予定で、どうしようかと頭を悩ませていたのだ。
「私、それ見たい!」葵が身を乗り出した。
「木島さんちってことは、お祖父ちゃんの実家にあったものってことでしょ?私全然知らないし……お祖父ちゃんも一緒に見ようよ!」
「でしたら、パーティーのときに見られるようにしておきますわ。」
冴の言葉に、都は慌てて真っ白な封筒をテーブルに滑らせる。
中にあったのは、きれいな紙にプリントアウトした招待状。
「無理強いはしませんが、よかったらいらしてください。」と、竜杜、
「ささやかですが、竜杜と都ちゃんのお披露目をやるんです。といっても会場はそこですが。」と、早瀬は庭の向こうに見える古い文化住宅を示す。
堀内は眼鏡をずらすと、ざっと数字だけ拾い読みした。
「十日後……ですか。」
「急なお誘いで申し訳ないと思ったんですけど、気楽な集まりなので。」
「しかし若い方のパーティーに年寄りが参加するのも……」
「竜杜の母親も来ますし、媒酌人をしてくれた友人夫婦も来ます。」
お祖父ちゃん、と葵が堀内の袖を引っ張った。
「ご挨拶できるチャンスだよ。それに私も付き添うから、顔出そうよ。具合が悪くなったら中座すればいいんだし。」
「媒酌人の宮原……僕の同級生は現役の医者です。何かあれば対処しますので。」
「年末の騒ぎのとき、わたしも笙子先生にお世話になったの。」
しかし堀内はその場で決めず、後日連絡すると言った。
その後、再会と都の卒業、そして二人の婚約を祝して乾杯する。ささやかな宴で程よく気持ちがほぐれた最後は、早瀬のお手製ケーキと竜杜の淹れたコーヒー。
「あ、お店のコーヒーと味が違う。」
「葵ちゃん、違い、わかるんだ。」
「うん。コーヒー好きだから、けっこー飲み歩いてる方かも。」
「そうなんだ。」はとこの意外な趣味に、都は感心する。
「これ、リュートのブレンドなの。リュートが店長代理のときしか出さないからレアかもしれない。」
「へぇ。こだわるなぁ。」
「父親の領分を荒らさないようにしてるだけだ。」と竜杜。
その隣で早瀬が「当然」と頷いた。
「まだまだ、店を譲る気はないからね。」
「頼もしいお言葉ですな。このケーキ、なかなかですよ。」
「うん。レアチーズケーキにかかってる柚子ソースがよいアクセント。」
美味しい、と笑顔の葵に早瀬親子もホッとする。
そんな和やかな時間はあっという間に過ぎ、時計を見た堀内老人が「そろそろ」と孫娘を促した。
家の前に呼んだタクシーまで皆で見送ると、都と竜杜はそのまま店の二階に待機させていた銀竜を迎えに行った。
母屋に戻った早瀬は、冴のために日本茶を淹れる。
「冴さんも疲れたでしょう。」
「疲れたっていうよりホッとした……かしらね。プロジェクトの区切りみたい。でもまだ完全な任務完了じゃないから、一区切りっていうのが正しいかしら。都ちゃんが一人前になるのを見届けるのが、木島親子への恩返しだと思ってますから。」
「恩返し?」
ええ、と冴はお茶をすする。
「下世話な話でお恥ずかしいんですけど、昔、婚約解消されたことがあるんです。」
突然のカミングアウトに、早瀬は一瞬驚く。
「まだ二十代の頃。相手は最初に勤めた事務所の跡取りで、大学の先輩でした。」
同業者同士、話が合うのは当然。事務所の所長である彼の父親のことも尊敬していたし、所長もまた実力のある冴を買ってくれていた。なのでそういう話になったのはごく自然なことで、話はトントン進み、仲人も決まっていた。それがご破算になったのは式の数ヶ月前。
「ありがちな話ですけど、若い女の子に遊びで手を出したら、既成事実ができちゃったパターン。」
よくそんな暇があったもんだと、今でも感心する。
「相手の女の子は最初から奪う気満々だったみたいで、そういうのと同じ土俵に立つ気もなかったから、身を引いたんです。」
男と別れ事務所も辞めた冴は、それなりにショックもあり、半年ほど引きこもり生活を送ることになる。そんなある日、木島朝子がふらりとやってきた。手土産のビールを持って。
「慰めなら聞かないわよって言ったら、違う。勧誘だ、って。」
いわく、格安の古い一軒家を借りられることになったが、娘と二人では広すぎるし、家賃をもっと安く押さえたい。だから冴に一緒に住んでほしいと言うのである。
「今考えたら、とことん落ち込んでたあたしを引っ張り出そうとしたんですわ。だって子育て手伝ったら、引きこもる暇なんてなくなりましたもの。」
そうこうするうち起業の話が出て、気がつけば手続きに奔走する毎日。かつての同僚だった横山と再会したのはその頃だった。
「もともと横ちゃんは事務所の跡継ぎ……ダメ男と考え方が合わなかったんです。それでも所長のことを尊敬していたし、あたしがクッションになってたから……でも、あたしが辞めて彼と険悪になる一方だったみたい。」
「それで冴さんの事務所に?」
「あたしが引き抜いたことにしたの。向こうに恨みがあるのは、みんな知ってるから。」
「本当に、そんな気持ちだったんですか?」
まさかぁ、と冴は笑った。
「ダメ男を恨むだけ、時間と労力の無駄!」
元婚約者はその後離婚し、つい最近二度目の妻とも別れたと風の便りに聞いている。彼の父親である所長には、その後一度だけ会った。そのとき「横山のこと、ありがとう」と言われたのは、当の横山にも言ってない。
「その所長さん今も?」
「ご病気で亡くなりました。ダメ男が事務所を継いだけど、つい最近閉めたそうです。」
「人には向き不向きがありますからね。」
「それ以前に、今のあたしがあるのは木島親子のおかげだと思ってますわ。」
それゆえの恩返しか、と早瀬は合点する。
「おや、戻ってきたようだね。」
慌しい足音に続いて、銀竜を抱いた都が飛び込んできた。その後ろからフェスを従えた竜杜も。
「コギン、サンドイッチ残してあるわよ。フェスも。」
冴の一声にコギンは「うぎゅう!」と嬉しそうに声を上げる。
「いつもは夜食、怒るのに。」
「店に閉じ込めてたんだもの。今日は特別。」
ほらね、と都は竜杜を見上げる。
「なぁによ。」
「冴さん、なんだかんだコギンに甘いよねっていう話。」
「都ちゃん、それ半分合ってるけど半分間違ってる。」そう言って冴はにっこり笑った。
「あたしがコギンに甘いのは、都ちゃんに甘いからよ。」
次回更新は2017年10月19日予定です。