第十三話
はぁー、と都は長いため息をついた。
白い壁を見つめながら、けれど頭の中は堂々巡り。
もう一度思考の海に潜ろうとして、鼻先をかすめる香りに気づく。
スモーキーさと柑橘系の爽やかさが混じった香りは、まぎれもなく大好きな紅茶、アールグレイ。
思わずほうっと息を吐き出してから「あれ?」と首をかしげる。
座っている床に目を落とす。
真っ白な石の床。目の前の壁も真っ白。
つまりここは、聖堂の議員用の部屋。
そこで紅茶の香りがするということは……
「えっ!」と振り返る。
すかさず目の前に男の手。
「お手をどうぞ。」
メラジェ・ヘザースの笑顔につられるまま、都は彼の手を借りて立ち上がった。
ホケッとしている都をごく自然にエスコートし、長椅子に座らせる。
隣には制服姿のクラウディア。
「クラウディアさん?」
「なぁに?」
「議長さんとの話は……」
「終わったわよ。」
いつ?と言いかけた都の前に、持ち手のない茶器がコトリと置かれた。
恐る恐る顔を上げると、上着を脱ぎ、袖まくりをしたリュートが慣れた手つきで各人にお茶をサーブしている。
「随分長いこと考え事をしていたね。」
向かいに座る老オーロフも微笑む。
都は状況を理解する。
思った以上長い時間、壁と対話していたらしい。
うわぁ、と声にならない声を上げた。
「すみません。」
消え入りそうな声で頭を下げる都を、メラジェが制した。
「心配したが、不快には感じてない。」
「びっくりしたけど、ミヤコは悩むと周りが見えなくなる。いつものことだってリュートが言ったの。」
ああ、もう、と都は呟く。
確かにその通りだが、こんなところで暴露されるなんて最悪だ。
「なんかいろいろあったみたいだけど、休憩するのも大切よ。うん、いい香り。」
茶器を揺らし、香りを確かめながらクラウディアは紅茶に口をつける。
「ラグレス家特製のお茶とも似ているが、私はこちらのほうが好みだ。」老オーロフも満足げに頷いた。
つられて都も茶器を手に取る。いつもそうするようにそうっと湯気を吸い込み、口をつける。
「おいしい……」
思わずこぼれた言葉に、リュートが「よかった」と微笑む。
そんな都の様子を見ながらクラウディアが切り出した。
「ユーリ・ネッサが書記官代理だったんですって?」
「あ、はい。」
「何でも長の采配らしい。」メラジェが砂糖菓子をつまみながら言った。
「コーゼンは根っからの軍人だから、詰問が厳しい可能性もあるだろう、と。」
それに都が年若いこと、女性であることも考慮した人材を配置するよう、お達しがあったのだ。
しかし一族評議会に女性の議員はいない。
そこで白羽の矢が立ったのがユーリ・ネッサ・ケイリーだった。
クラウディアやリュートと年齢が近く、しかも結婚前、ほんのわずかな期間リュートと付き合っていた彼女は、評議会では才色兼備と言われている。
金色の髪に深い緑の瞳の彼女はいつも凛としていて、二人の子を持つ母親には見えないというのがもっぱらの感想。
さらに夫のアンガス・ケイリー書記官が事故で怪我をしてしばらくの間、彼の仕事に付き添い、時には手助けをしていた。そんな理由から、今回は面談の内容を記録する一方、差別的な発言があれば口出しする役目を担ったのである。
実際、都の父親のことや記憶が定かでない契約を交わしたときのことなど、都が答えられない質問が出るたび、彼女がコーゼン分隊長に注意を促してくれた。
「適任だったと思う。ただやけに挑発的だったな。」
メラジェは最初に注意事項を読み上げたときのことを思い出す。
「もし理不尽と思える対応があれば私におっしゃってください。」
「たとえば?」と問う都に、彼女はぴしゃりと言ったのだ。
「あなたが不快だと思えばそれが理不尽というとです。それくらい、自分で判断できるでしょう。」
なるほどねーとクラウディアは頷く。
「凄く、彼女らしい。」
「まだある」とメラジェが言ったのは最後の一言。
コーゼン分隊長が質問を終え、書記官代理である彼女に「何か補足することはないか」問うたとき。
ユーリ・ネッサは記帳する手を止めると真っ直ぐ都を見て言った。
「あなたはこれから一族に名を連ねるでしょう。その意味がわかっているなら、恥じない生き方をなさい。いずれその成果を拝見させていただくわ。」
まったく、とクラウディアは額を押さえる。
「年下相手になんてこと言うんだろう。」
「だが彼女の言葉も一理ある。」と、オーロフ。
「もちろん言い方は別として。」
「なにやらミヤコを敵対視してるような気がしないでもないが、以前何かあったとか?」
「あったといえばあったけど……」
「振られたのは俺だ。」とリュート。
「ミヤコも知ってるわよ。」
こくこくと都は頷く。
ほ、とオーロフが目を丸くした。
「でもそれ、随分前の話ですわ。」
「だろうな。あそこも契約交わしてだいぶ経つ。どのみち、深刻に考えなくていいだろう。ミヤコが覚悟を決めてここにいるのは、ここにいる皆が知ってる。」
でも……と都は口ごもる。
「まだわからないこといっぱいあるし……こうやって皆さんに迷惑かけてるし……」
「迷惑だなんて思ってないぞ。」メラジェが身を乗り出す。
「後見役が嫌だったら最初からそう言ってる。わからないのは仕方ない。聖堂に来たの、何度目だ?」
「今日で三度目……です?」
ほらみろ、とメラジェは膝を叩いた。
「比べるのが間違ってる。」
「なんか……リュートにも同じようなこと言われた気がする。」
聖堂でたまたま出くわしたユーリ・ネッサに、やはり辛らつなことを言われて落ち込んだ。あのときも今回も反論できなかった自分が腹立たしかったのだが……
「反論など余計な思考を強いるだけだ。ミヤコもリュートも他の一族が経験しないことを経験し、象徴である門を守ってる。道標である銀竜だって名付けてる。これ以上何をしろというんだ?悩んで改善策が出ないなら、それは正論ということだ。」
「メラジェ、あなたが怒ってどうするのよ。ねぇミヤコ。」
と、不意に頭を抱き寄せられた。
「く、クラウディアさん?」
「ミヤコは今のままでも充分一族なんだから。無理に考える必要なんてないんだからね。」
「ええと……はい。」
クラウディアはにっこり微笑む。
「さしあたって、明日も議長と調書の確認するから、難しいこと考えるのはお預け。」
その言葉通り、翌日も朝から聖堂に出頭した。
前日と違うのは都がクラウディアと共に議長に会い、リュートがオーロフ、メラジェを従えて分隊長と面談したこと。
半日かけて終えると、部屋で待つよう言い渡された。しかし寛ぐ間もなく議長の秘書官が迎えに来る。
案内されたのは書棚に囲まれた事務室のような場所。中央に大きな机があり、大きな本がポツンと置かれている。そこで議長と共に待っていたのは誰あろう、空を飛ぶ一族の長。
「お帰りなさい。リュート、それにミヤコ。」
「ただいま戻りました。」
リュートが頭を下げたので都も慌てて倣う。
今は一族の若き長となったアニエ・フィマージの装いは濃紺の服に銀色の襟留め。小さな耳飾に髪をまとめ上げる飾りも控えめな銀。以前より地味だがそれでも相変わらず美しく、むしろ堂々とした風格すら感じる。
彼女は都を呼ぶと、机の上の本に名前を書くよう言った。
見ればそれは本でなく芳名帳で、上半分にも別の名前が記されている。
「少し前に生まれた子よ。」
「つまりこれって……」
「戸籍のようなものだ。」
一族は生まれるとここで名を記し、必要あれば記載を元に身分証明書を発行する。
そう説明されて納得した都は、議長からペンを受け取った。ペン先にインクをつけると、慎重にこちらの文字で名前を記す。
次いで後見人のメラジェとオーロフも署名する。
各々の署名を確かめたアニエは、にっこり微笑んだ。
「ミヤコ・キジマ。アルラの子にして門番の子。あなたは一族と認められました。」
「ありがとうございます。」
「一族であると同時にノンディーア連合国の国民になるから、滞在証は不要だ。」
議長に言われて都は持っていた木札を返却する。
実感はないが、少し自由になった気分だった。
ところで、とアニエが切り出す。
「リュート、瞳の欠片を持ってきていて?」
「もちろん」とリュートは上着の懐を軽く叩く。
「今日こそ返すつもりだった。」
「ではそれを持って……一緒に来て欲しい場所があるの。」
次回更新は2017年6月27日(火)です。