一話 ビアスとマキ
夜も遅く、子供の寝る時間がとうに過ぎた頃。
天蓋付きのベッドの中で母親の手を掴み、なかなか離さない女の子がいた。
母がやんわりその手を離そうとするたびに、イヤイヤと頭を振って少女は健気な抵抗をみせる。母親譲りのハチミツ色の髪が乱れようとその少女は全く気にしない。
そんな少女の我儘に困った様な、微笑ましい様な曖昧な笑みを浮かべて母が言った。
『もう寝る時間はとっくに過ぎてるでしょ? 早く寝なさい』
『やっ、今日はお母さんと一緒に寝るの……』
そう言って、うるっと瞳を濡らす少女を間近で見た母は、
(うぅ〜っ可愛いぃ…)
と、そのつぶらなハチミツ色の瞳にぐらりと意思を揺らしかける。が、
『ごめんね、まだお母さんお仕事が残ってるの、だからこの手を離して……ね?』
強く──強く心を保ち、まさに身を切る思いで少女の誘いに断りをいれる。
だが彼女、金髪金眼の少女マキはイヤイヤを繰り返すだけで一向に母の手を離さない。
(──このままお仕事を放棄して一緒に寝てしまおうかしら…………)
と可愛い娘に絆されそうになる思考を、しかしイヤイヤッ、と振り払いグッと堪えて母は。
『そうだわ! 私の“お友達”を連れて来ましょう! そうすればマキも寂しくないでしょう?』
と、閃いたッ!──とばかりに言う母に、
『いやぁ、マキはお母さんの方がいいけど……』
と、マキは変わらず瞳をうるうるさせながら答える。
『……マキ、お母さん今日はお仕事があるの、だから我慢してちょうだい……ね?』
やがて、母の必死な説得にしぶしぶといった顔をしながら、マキはこっくりと小さく頷いた。
『……うん、わかった』
『ありがとう、マキはえらい子ね』
なでなでと母に頭を撫でられるマキは、自らも母の手に擦り寄りながら小さく笑った。
『けどいいの? お母さんの“お友達”だけど……』
『いいのよそれくらい、お母さんの“お友達”もマキが一緒にいてあげたらきっと喜ぶわ』
そんな母の言葉に目を輝かせながらマキは、最近特にお気に入りの“お友達”を名指しした。
『じゃあ、マキはジュリエッタちゃんがいい!』
『ふーん、マキはジュリエッタちゃんがいいの?』
『うん! ジュリエッタちゃんはね、すごいんだよ! 前は大っきな国のお姫様だったの!』
本当なら──夜中に騒ぐ娘を母として叱るべきだろう。
しかし母、娘に自慢の“お友達”を褒められ……うふふっ、と案外満更でもない。
『じゃあ、ジュリエッタちゃんをここに連れて来るから少しだけ待っててね』
『うん!』
さっきまで遊び疲れていたはずのマキが元気の良い返答をする。とその返事と同時に母が──パチンッ、と指を鳴らす。
すると、マキが寝ているベッドの空いたスペース、そこにモッコリと人一人分の膨らみができ上がった。
その膨らんだ毛布の中にはなんと、まるでお伽話の中にしか出ない様な一国の姫に相応しい美姫が目を閉じたまま──微動だにせずに顔を覗かせていた。
『わーい! ジュリエッタちゃんだー!』
マキのすぐ横、母の“お友達”であるジュリエッタにマキが抱き着くと、綱がれていた親子の手がスルリと簡単に解けていく。
母はジュリエッタにマキを取られて少し寂しい様な、やっと仕事ができると安心する様な、やや複雑な気持ちで娘の興奮を冷ましていく。
『マキ、もう大人しく寝るのよ』
『うん……』
ジュリエッタを抱き枕に、マキは先程より微睡みながら答えた。
『えらい子ね、お休みなさい』
『お休み……お母さん……』
絶対に動く事のない人形の様な人間の“お友達”を抱きながら、やがてマキは小さな寝息と共に眠ってしまった。
パタン─── 。
子供部屋の寝室を閉め、ホッと一息付いた母。
その顔に苦労の色は無く。むしろニヤ〜と恍惚とした表情で言った。
『はぁ〜マキが手をずっと離さなかったの、かわいかったなぁ〜♡』
娘が可愛過ぎて仕事が進まない。
そんな親バカの様な事を思いながら、母が寝室から離れようとしたその時。もう一人の我が子がぷりぷりと、怒った様子でマキの寝室へとやって来た。
『あら? どうしたのそんな怒った顔して。マキならもう寝たから邪魔しないであげなさい』
と言う母に子供は怒った様子で、
『母さん! 今すぐここを通してくれ、あの妹には今日こそガツンと言ってやる!』
『はぁ、もう夜も遅いのよ。喧嘩なら明日になさい』
『なら喧嘩じゃなくて躾だ! 俺が世の中の厳しさってのを教えてやる!』
そう言った彼の名前はビアス。
マキより五つ上の兄であり、普段の妹想いの態度とは反対に誰が見てもご立腹の様子だった。
過去、こういった場合は確実に兄妹喧嘩が起こる。
その前にどちらが悪いにせよ、母親自らが二人の間に立つ以外仲直りは難しい。
『事情を聞かせて、ビアスは何をそんなに怒ってるの?』
『これだよこれ! これを見てよ!』
『これは……』
ビアスが母の前に差し出したのは片手サイズのカップだ。
いや、もっと正確には──何か中身が食された後のカップだった。
『あの妹が俺の楽しみにしていたプリンを勝手に食べたんだ! カップの下に名前まで挟んであったのに!』
カップの中身は母が作った絶品プリン……の、はずだった。
一口食べればほっぺが落ちるような旨味が口の中に染み渡る、兄妹揃って大好きな大好物の一つである。
『通してくれよ母さん! 今日こそはあの妹にガツンとイッてやるんだ!』
『まったくもう……、だめって言ってるでしょ』
ガツンと言う、と言っている息子をせっかく寝付いた娘の所には行かせられない。
なら、母ができる解決方法は一つだ。
やれやれ、とまたまた仕事が長引く事に溜息を付きながら、母としてビアスの怒りを鎮めにかかる。
『わかったわ。ビアスには私が新しいプリンを作ってあげるから』
『ホント!?』
『ホントよホント、マキはカップ二つ分を食べたからビアスにもカップ二つ分ね。だからもうマキを許してあげて』
『よっしゃー! わかった!』
これまでの怒りはどこへやら。
ビアスは母の提案に一も二もなく頷くと、一目散に台所の方までかけて行く。その足取りに迷いはなく、妹への怒りの感情は、プリンの前では小さい物である。
そして、ビアスが寝室の前から走り去る後ろ姿を見る母はというと……
『はぁ〜、ビアスも単純でかわいいわ〜♡』
と、またにんまぁ〜りとした表情を浮かべてビアスの姿を眺めていた──
『かーさーん! はやくー!』
『はいはい、今行きますからね』
母の頭の中にもう仕事の事はなかった。
正直、母が動かなくとも仕事などどうとでもなる。
だから、今という時間は子供のために全て使おう。
──もうそう決めた。
怠惰だろうが傲慢だろうが関係ない。
天界から追放され【堕天使】になったその日から、母は好きな事をして生きようと決めたのだ。
廊下の曲り角からひょっこり顔を出すビアスの後を追いながら、母は一人そんな事を思っていた。
《骸遊びの迷宮》
この迷宮は名前の通り、人の骸で遊ぶ。
正確には、迷宮に潜む化物達が人の死体をもて遊ぶのである!
時に、精も根も尽き果てた者が脳の無いゾンビにされ!
時に、死霊系、悪霊系のモンスターに魂を食われ生きる操り人形にされ!
時に、万を超える虫達の虫塚として卵を植え付けられ!
時に、弱肉強食の飢えた獣達の餌となり生きたまま食われ!
時に、綺麗な体のままその迷宮に永遠に囚われ……ッ! なんて言う噂もあったりする──
そんな人外魔境の迷宮の元締め、言うなれば迷宮のボスである──迷宮主を叩こうとする命知らずな人間達は、少なからず存在する!
例を挙げるならば今この時!この瞬間!
迷宮の外はすっかり夜も更けたというのに、ランプを持った五十人の命知らずが迷宮の奥へ奥へと進んでいた。
その団体の後ろを舐める様な視線で見る"目玉"が、いつしか彼らの後をつけているという事を当然彼らの中に知る物はいない。
『いやー、まいったっすねー。まさかジジちゃんがやられるとは思ってなかったす』
《骸遊びの迷宮》最下層の一角にある巨大な水晶、この水晶が置かれる大部屋を、皆は水晶の間と呼んだ。
その巨大水晶には、"目玉"に後をつけられている五十人の大所帯がリアルタイムで映し出され、彼らとモンスターとの戦いを中継し、迷宮側にその全てが筒抜け状態となっていた。
現在、団体の彼らは《骸遊びの迷宮》の階層主である【デミリッチ】のジジを退け。
次なる階層主である【死神】グリムが待ち構える階層まで歩みを進めていた。
『うむ、ジジの階層の次はお主の階層であろう。グリム、気を引き締めるのであるぞ』
『了解っす』
グリムに注意を促す、同じく《骸遊びの迷宮》の階層主である【百魔獣の王】レオードジャック。
獣の王ライオンとは大きく異なり、魔獣の王である彼は二足歩行、首周りには威厳のあるたてがみを生やし。獣以上の爆発的な身体能力だけでは無く、冷静に戦局を見る目や胆力などを買われ、今では階層主のまとめ役。リーダーの役職を迷宮主に任される魔獣だ。
『アラアラ〜、ジジちゃんは負けてしっまたの?』
次に、二人の後から水晶の間に訪れたのは、同じく階層主である【アラクネ】のトトノ。
【アラクネ】は上半身が人に近く、下半身が蜘蛛のそれに近い種だ。
トトノの下半身から伸びる6本の脚には、しなやかなで力強い筋肉が付き。
起動にもよし、脚先の爪で攻撃してもよし、忍のもよしの三拍子が揃う。
お尻の先から発射される糸は多才な能力を備える優れ物だ。
口の中には即死級の毒まで完備するというから、恐ろしい女蜘蛛である。
『うむ、そのようであるな。グリムの次はお主のフロアであるぞトトノよ』
『大丈夫よレオさん。私もちゃんと心得てるわ』
アラアラ〜、と頬に手を当てながらトトノは答える。
『うむ、油断は禁物であるからな。ところでトトノよ、スノーモート様はどちらにおられるのだ?』
研究や実験好きである階層主【デミリッチ】のジジ。
昔からあまり戦闘を好まないジジだが腐っても、いや腐ったが故にアンデットを束ね大魔法を操る死の王【デミリッチ】。
彼女は人間にやられるほどそう柔ではない。柔ではないがもし、彼女が退けられた時は階層主と《骸遊びの迷宮》迷宮主である【堕天使】スノーモートが水晶の間に集まる手はずになっているのだ……が……
『スノーモート様なら、厨房でビアスくんとプリンをお作りになられていたわ』
『む、むう? プリン……? であるか……なぜよりにもよって今なのであるか?』
トトノの言う通り、当のスノーモートはこの緊急時だと言うのにビアスと一緒にプリンを作っている真っ最中だ。
『スノーモート様余裕っすね〜。さっきはご息女様を寝かしつけたら直ぐに向かうって、言ってたはずっすけど』
『それが、マキちゃんも今日に限っては寝つきが悪くて。最近スノーモート様の“お友達”になったジュリエッタちゃんとようやくお眠りなったそうよ』
と、眉をひそめながら言うトトノにグリムも……
『はぁあーー!? なんすかそれっ! 魂取られたらご息女様の抱き枕っすか? 役得すぎっす、羨ましすぎっすよその人間!』
『ホントよね、羨ましすぎるわジュリエッタちゃん!』
『うむ、まったくだ』
悔しがるビアス、羨ましがるトトノに、うんうん、とレオードジャックも同意する。
あわや、勘違いしては困るのだが【死神】グリム【アラクネ】トトノ【百魔獣の王】レオードジャック 彼らは小さな女の子が特別に好きだッ! というわけではなく。
【堕天使】スノーモートの実子。それだけでビアスとマキは彼らにとって特別であり。
命を張るには十分なのである!
ついでに、常に付き従いたいという願望は忠誠の証!
決してッ下心では決してないッ!
まあ、かなりひっかかる発言だったのに変わりはないのだが……。
『むう、ジュリエッタと言うと、三日程前にジジが仕留めた魔法使いの美姫であるか』
『確か、ジジちゃんが調合した万能薬が目当てで来た子っす』
『アラアラ〜、万能薬を求めて永遠に帰れなくなっちゃったのね。可哀想に』
と、そんな取り留めのない世間話をしていると、この水晶の間に四人目の階層主がやって来た。
『ごめんなさーい! やられました〜』
現れたのは五十人の団体に退けられた【デミリッチ】のジジだ。
退けられたとは言っても半ば逃げる様に帰って来たためにジジ自身の被害は少ない。
『ジジちゃんおつかれっす』
『ありがとー、グリムん。それにしてもホントに疲れたー。五十人とか反則でしょ! 反則!』
『ジジが日頃から鍛錬をサボっているからであるな。部屋に篭るだけでは無く、少しは外に出て鍛錬でもするのであるぞ』
意外な事に、ジジはアンデットの王【デミリッチ】であるが、その顔には生気がみなぎり、切り揃えられた水色の髪にもきちんとキューティクルを保っている。
階層主四人の中では一番人間に近い。
ともすれば“大魔法を操る青髪の魔法少女”と言ってもたいていの人間は信じてしまう程だ。
次点でトトノ(上半身だけ)。
『無理言わないでよレオポん。研究に鍛錬が必要? 魔法なんてブッパなしゃいいのよ ブッパなしゃ』
サボり癖があったり、趣味に没頭したりとジジの性格はアンデットらしからぬ点もちらほら見受けられた。
『むう、困った奴であるな』
『いいじゃないレオさん。ジジちゃんに怪我がなかっただけでも』
『そうそう、トトノんの言う通りよレオポん。この水晶と"目玉"だって異世界の“テレビ”と“カメラ”ってのを元に私が作ったんだからね? 既に貢献してるのよ私は』
やれやれとレオードジャックが首を振りながら溜息をついた。
『そんじゃまあ、ジジちゃんも来たことっすし、次は俺の番っすからそろそろ行って来るっす。スノーモート様にはよろしく言っといてくださいっす』
『あっ、待ってグリムん』
『ん、なんすか?』
『グリムんが出るのって久しぶりでしょ? ここでちょっと人語を練習した方がいいんじゃないの?』
『あー、確かにそうっすね』
ジジの言うとおり、彼らが話す『魔物語』と「人語」は別物だ。
階層主として「人語」の嗜み位はあるが、グリムは久々の出陣なのだ。少しでも不安な点は解消したい。
んっん、では。
とグリムが前置きを入れると、人間達にとって恐怖の対象でしかない頭蓋の顔面から「人語」が紡がれる。
「───私は……【死神】……名をグリム……この地を支配する者……」
「この地」とは当然『この階層』という意味である。
『魔物語』と「人語」でガラリと口調が変わるが、これは言語の壁だ。
【死神】としての印象が崩れる訳では無いため、これがグリムの標準「人語」となっている。
『まあこんなもんすかね』
『うん! グリムん「人語」完ぺきじゃんッ!』
『それほどでもっすよ。じゃあ行ってくるっす』
ジジ、グーサインでグリムに太鼓判を押し、グリムは最下層の水晶の間から、死霊がはびこる【死神】の階層へと向かった。