前編
こちらのサイトでは初投稿です。文学フリマの同人誌用の作です。麻雀については独学に近いので共感を得られるかどうか不安ですが、主人公の葛藤などを描いてみました。(登場人物の名前は某有名漫画のキャラの名前をもじっていて、性格設定も似せさせてもらいました)
教室の中央に固めた机を囲むように四人の学生が四方から向かい合って椅子に腰掛けている。そのうちの三人は男子で一人は女子だった。机の上には緑色のマットが置かれ、四人はそのマットの上で百枚以上はある小さな物体をジャラジャラと音を立てながらかき混ぜている。
麻雀である。全自動卓などという贅沢品は彼らには望むべくもなく、使っているのは安物のマットに安物のプラスティック製の麻雀牌だったが必要にして充分の代物だった。
かき混ぜた麻雀牌をそれぞれが二段の山にして積み、大きめの丸い眼鏡をかけた男子が「オーラスか……」と呟いて二個のサイコロを振った。その出た目に従って山から牌を取り出し配牌(ハイパイ)が終わり、親の第一打に始まりそれぞれが山から牌を一枚取っては自分の手牌から一枚を捨てる模打(モーター)を淡々と繰り返していく。
十二巡目に丸眼鏡の男子の右隣の下家(シモチャ)の男子が涼しい顔をして「ツモ」と言ってから自分の手牌を倒した。「千、二千」
「ふう~」
丸眼鏡が大きく息を吐き出して傍らからノートを取り出した。皆が机の上に点棒を上げて自分の最終の点数を確認する中、最後に和了った(あがった)男子が
「これで浮きの二位ですよね、森杉部長」
とノートを持った男子に向かって静かに言った。
「ああ。相変わらず渋いな、桜田」
と部長が返しながら表紙に『三蓮高校麻雀同好会』と書かれたノートに今終わった半荘の成績を書き込んでいく。
「森杉虎夫、プラス十五、順位点十。桜田涯、プラス二、順位点五……」
『月間順位戦』という欄に順に数字を書き入れる。
「速水明美、マイナス五。豊臣秀哉、マイナス十二」
三万点持ち三万点返しのトップ賞無しというルールで打っている。そして順位点という別の点数も付けていた。これは三万点を超えた人数によって十五点を分ける点数で、一人浮きならば一人だけが十五点。二人浮きで十点と五点、三人浮きだと六点、五点、四点で加算していくのみ。麻雀マニアの部長が取り入れて同時に付けていっているが、あくまで参考までにといった感じで皆あまり気にしていない。
金品などは賭けない純粋に点数を争うだけの健全な麻雀だった。
旧校舎の使われなくなった一室で同好会は細々と、そして淡々と活動をしていた。
「五人以上で部の申請が出来るんですよね、部長?」
次の半荘が始まり、女子としては長身でスラリとした速水が牌を切り出しながら言った。
「ああ。だけど五人揃ったからって無条件で部に昇格って訳にもいかないんだ。学校から認められないとな。過去に五人になった事もあったけど、その時も結局認められなかったし」
丸眼鏡の部長が答えると
「そうなんですか? やっぱり世間のイメージなんですかね。いまだにギャンブルとして色眼鏡で見られてるような」
背も低く貧相な印象の豊臣が、自分の手牌の整理に頭を悩ませて下を見ながら言う。
「囲碁・将棋部ってありますよね。あそこと合併するっていうのはどうなんですか?」
「合併ね……」
豊臣の問いに、模打のリズムを崩さずに部長は答えた。
「まあ偶然の要素の有無の違いはあるけどな。同じ頭脳競技だし囲碁や将棋のプロ棋士には麻雀を趣味にする人も多い。だけど囲碁・将棋は江戸時代の初期に家元制度が同時にスタートして、ずっと兄弟分のような付き合いが続いている。麻雀が日本に入ってきたのは明治時代になってからだし、やっぱり別物なんだよな」
「そうですか。高校生の麻雀大会もないですしね……」
「高文連に認められてないんですよね、麻雀は」
ややしんみりとした空気が流れ始めた中で
「まあ、部だろうと同好会だろうとオレは麻雀が好きだからやめるつもりはない。とにかく今年はお前ら一年生が三人も入ってくれて良かったよ。これでオレの卒業までは同好会は安泰だな」
二年生の部長が明るく笑った。
そんなやり取りを桜田涯は静かに眺めながら淡々と打ち続けた。
「そう言えば、豊臣と速水は幼馴染みだったよな?」
「そうです。僕は家族麻雀で覚えたんですけど、中学の時に悪い友達にカモられて借金を作って……それを明美ちゃんに助けてもらったんです」
「そうなのか?」
「ええ、あの時の明美ちゃん、役もろくに知らないのに連中の所に乗り込んで、それで勝ってしまうんだから……」
何だかさりげなく部長と豊臣が凄い話をしている。
「昔から速水は凄かったんだな。豊臣も昔から変わらずか……」
「もう、あの連中には頭に来ましたよ。あんまりにも豊臣君が不甲斐なかったというか」
「桜田はどこで麻雀覚えたんだ?」
「あー、俺も家で何となく覚えましたけど、下手の横好きですよ」
速水と桜田も話に加わる。
そんな会話がかわされているうちに半荘はオーラスを迎え速水がトップ目でラス親、部長も少し浮きで、桜田がやや沈み、豊臣はダントツのラス。十巡目で桜田が「ツモ」と手牌を倒した。順位に変動はなかったが豊臣だけがマイナスの三人浮きで終了となった。
「豊臣はまたラスか。打ち筋はまあまあなんだけど気が弱いのがいけないな。速水はとにかくツキが太いんだよな。麻雀はまだよく分かっていないけど豊臣と反対で勝負強い」
ノートを付けながら部長は言った。累計のスコアは速水が頭一つだけ抜けての一位だったが、部長と桜田もそれに僅差で続いていた。豊臣が大きくマイナスとなっていた。
「桜田は、何というか渋いな。しぶといし」
部長の目が静かな男に向いた。
「まだ、掴めないな。底が見えない」
その視線にはやや強い物が混じっていたが、それを受け流すように微笑が返された。
学校から帰宅した桜田涯は自室で机の前に座りノートを取り出した。
真っ白なページの上隅に今日の日付を書き、その下に『一回戦』『東一局』と書く。そしてページの上部にフリーハンドで小さな長方形を次々と書くていく。横一列に十七個、それを二段書くと次は左右の端それぞれに横向きの同じ大きさの長方形を縦に十七個×二。更に下部にも上部に書いたのと同じ物を書いた。
それは麻雀の山積みの状態で、個々の長方形は麻雀牌を表していた。
そして牌山のそばに打ち手の名前を書き、それからおもむろに長方形の一つ一つに『一ピン、白、北、二萬、四萬……』と書き込んでいくのだった。
百三十六牌全部ではないが、九割方は埋まっていた。驚く事に、涯は全員の山積みのほぼ全てを記憶していているのだった!
今日打った麻雀の最初の東一局から最後のオーラスまで。局が進めば全ての山積みの再現も出来た。
サイコロの目も書き込む。山積みに賽の目、それを見れば全員の配牌が分かるし誰がどの牌をツモったかも分かる。どう鳴きが入り、何巡目で誰がどんな手を和了ったかも、涯はその全てを記憶していた。
その四人分の配牌からの手の移り変わりを記した牌譜も同好会に入った最初の頃は全て書いていたがそのうち書くのをやめた。今日の山積みも一回戦の八局分を書いた所で退屈したように涯はペンを置いた。
「……」
しばらく今書いた図面を眺めた後、やや憂いの表情を浮かべて帳面を閉じた。
傍から見ると凄まじいまでの記憶力を表す物であり、格好の麻雀の勉強材料とも言えるのだが、彼にとってはさほど意味のある物ではなかった。
桜田涯は凄腕の雀士である彼の祖父から麻雀を教わり、学校に上がる前から牌に慣れ親しみ小学校低学年ですでに麻雀のルールを覚えていた。
祖父も単なる遊び道具として涯に麻雀牌を与えたつもりだったが、涯の予想外ののめり込み具合と上達の速さについ教え方にも熱が入った。
小学生のうちに表も裏の技術も徹底的に叩き込んだ。その全てを涯は吸収し、彼の理解力と応用力には舌を巻いた。自分を超える逸材を前に祖父は思わずこう言った。
「日本一の打ち手になるのも夢じゃないな……」
祖父の麻雀は真に強さを求める麻雀だった。
表での読みや打ち筋もしっかりとしていて、そしてその上で裏技も磨いた。
裏技……俗に言うイカサマの類である。積み込みなど、通常に打っては決して出来ないものを捻じ曲げて作為的に手を作るインチキではあるが、裏技を知る事によって麻雀のシステムを理解し構築する事も出来ると言えた。
裏技を使う相手には裏技を使わなくては対抗出来ないし、使う相手に対してはそれに対して騒ぎ立てるような真似はせずに黙ってそれ以上の技で返すのである。
強者同士の戦いでは場の状況によって暗黙の了解で平っこ|(表)での勝負にもなり裏での勝負にもなるのだった。
全自動卓の普及によって使える技が制限されるようになり中途半端な技の使い手は淘汰されたが、真の強者にとっては決してそれは雀力を落とす原因とはなり得なかった。大事なのは局面の状況判断や読み、相手との間合いや流れの計り方である。
涯が山積みを振り返るのも、麻雀を多角的な視点で捉えるための手段の一つだった。後にツモる牌が何かが分かっていればそれに合わせて切るべき牌が分かる。単にその場での答えを知るため、というよりもそうして正算式にも逆算式にも全体を捉え数々のパターンを知る事によって一段高い所から見た独自の理論を打ち出す事が出来る。巷間で言われるような確率論があまり意味を持たない事を涯は知っていた。
高校生を相手に裏技などは使わない。彼らの麻雀と自分の麻雀は違うと自覚していた。ただひたすら相手を見極め、流れを読み、自分の打ち筋を確立するための練習として打っている。全局の山積みも打ち順も記憶している涯の能力には祖父も感心した。
「そこまではわしにも出来ん。今が人生で一番記憶力も反射神経も優れている時期だろう」
だがこうも言った。
「だけど記憶と反射神経が麻雀の全てではない。お前には経験が足りない。経験による感覚も足りないし、まだまだ麻雀の奥は見えていない」
それは涯自身も感じていた。祖父も山積みのかなりの部分を把握しているが、そこに重点は置いていないようだったし、まだ涯の及ばない何か身に付けているような雰囲気があった。だが涯としては分かる情報なのだから客観的に把握しておきたいし、若さ故にそうしたデジタルな思考に意識が流れるのは仕方のない事であった。
祖父はこうも言った。
「麻雀は見えないから、分からないから面白いんだ」
あれだけ表にも裏にも通じている祖父の発言としては珍妙というか滑稽な感じすらもするがきっと意味はあるのだろう。それから、次の言葉は涯にとって最大の謎でもあり課題でもある言葉だった。
「相手を局面を、そして自分自身を侮るな」
この言葉は涯の頭の中で消化し切れずにずっと残っていた。そうした勝負哲学を叩き込まれ、日々練習し、祖父との感覚の違いを感じ修正していき、とても少年とは思えない麻雀の能力を身に付けた涯であったが、中学生になって無心に麻雀に向かう事が段々と出来なくなっていった。
この自分の麻雀の能力をどのように使うべきなのだろう? それが分からなくなったのだった。
「しっかし、部長も麻雀に詳しいですよね。プロにはならないんですか?」
牌を切り出しながら豊臣が言った。放課後の同好会の麻雀はほぼ毎日行われている。
「んー、プロか。いくつかプロの団体はあるけどな。プロになっても専業でやっていけるのは一部の人間だけだしな。大抵は雀荘のメンバーをやったり、兼業で生活してるんだよな」
涯の意識は現在の手牌よりも数巡後の牌姿にあった。それは当然ながら自分の分だけではなく全員分の手の移り変わりを読んでいた。普通に模打を繰り返していけば誰がどういう手になり誰が和了るか。そしてポン、チーなどの鳴きが入ればどう変化するか。誰が鳴くか鳴かないか。リーチが入れば誰がオリて誰が回して打ち誰が強気の牌を通すか。そんな展開を予想しながら自分の手作りを考えて打っている。
(豊臣は泣くべき東の一鳴きを避けるか。もう一枚は山に死んでるが。部長は二巡後にカン五ピンで即リーに行かず四巡後に五・八ピン待ちでリーチ……)
「タレントプロとして年収一千万円とかの人もいるけどな。そうだ速水なんか見てくれも良いしプロになるのはどうだ?」
「えー、私なんか無理ですよ」
そんな会話の中、涯の予想通りに局面は進み部長がリーチをかける。
(速水が五ピンをツモ切る、か……?)
「スジ」
と言いながら速水が五ピンを切った。
「一発!」
部長が手牌を倒す。速水がショックを受けていた。
「えー」
「明美ちゃん。二ピンが切れてても、二・五ピンは通っても五・八ピンは通らないんだよ」
豊臣が説明すると「あ、そっか」と速水が頷いた。しかしリーチ一発だけの二千六百点で大した被害ではない。彼女はそんな調子で大負けする事が少なく最終的に勝ってる事が多い。
(麻雀がまだよく分かっていないけど勢いを殺さない打ち方だ。運が強くて、無意識にそれを活かす打ち方をしている)
点棒が支払われ、全員が牌を混ぜる中で部長が言う。
「世間では麻雀プロの評価もイマイチだしな。まあ収入が全てではないし、好きな麻雀の普及のために尽力しながら一部の成功者を目指すっていう生き方もあるとは思うけど、オレは今の所なる気はないな」
涯が悩んでいるのもその点だった。
日本一にもなれると言われた自分の麻雀の腕だが、その実力をどこで発揮するべきなのか。純粋にプロとして生きられるならいいが、容姿や喋りの上手さが要求されるような、ストレートに世間で認められず尊敬もされない……そんなプロの姿は何かが違うと思った。
だけど好きな麻雀は捨て切れず、高校で同好会にも入った。今は雀荘に出入りもし難いがやがて来るべく全自動卓で打つ麻雀に向けて日々研究を続けていた。
「桜田はどうだ。お前もなかなかしっかりした麻雀を打つ」
「プロの話ですか? 俺もあんまり考えた事ないですね」
部長の問いに適当に答えながら涯は彼の麻雀を計っていた。
(この人は喋りながらでも麻雀のリズムを崩さないな。高校生にしては良い麻雀だ。豊臣は思考が乱れるけど)
ちょっと上から目線で物を見ていた。
(本来なら真剣に考えるなら黙って集中するのが正しい。だけど場を暗くしないため、情報を集めるため、相手を計るため、自分の集中を切らさずに会話が出来る事は必要だとじいちゃんも言ってた)
そこで不意にあの言葉が思い出された。
(相手を局面を自分を侮るな……)
相手を侮らないというのはまあ分かる。普段の実力を考えると到底打てないような牌であっても、偶然やまぐれやその時だけの冴え具合で打つ事は有り得る。スポーツとは違って物理的に達人と同様の手を選ぶ事は誰にでも可能なのだ。麻雀の場合は裏技を考慮するとそうでもないのだが、とにかくその場に限って名人と同じ判断・手を選択する事は可能性としては常にある事で、端から出来ないと高をくくってそれを喰らって負けるのは自分が甘いという事になる。
局面を侮るな。これも実力差によってどんな場面でも勝てるというものでもなく、不利な局面ではそれに合わせた打ち方をする必要がある。客観的に状況を判断する事が大事なのだろう。
自分を侮らない、これが今一つ分からなかった。
自分を舐めない、甘く見ない。つまりはどういう事なのか?
(とにかく物事を客観的に見る事が大切だって事か……)
完全に納得は出来ないがそう解釈する事にしていた。勝負の世界にしろその他の世界にしろ、そういう感じの禅問答のような、常に何かを戒めるような物は存在するものだと思うし、そういう感覚も涯は嫌いではなかった。
本日最後の半荘になるだろう、その南三局で親の速水がサイを振った瞬間に涯はギョッとした。このままだと速水が天和(テンホー)を和了ってしまう。
天和とは最初に配られた配牌で既に和了っている手役で、本来なら二千点にしかならないただのノミ手でも四万八千点の役満となる。子の場合は一巡目ツモで地和(チーホー)という三万二千点の役満になる。手作りも読みも関係のない、まさに運だけの和了りと言えた。
(……!)
思わず涯の手が動いた。
速水の配牌の一部を予定の物とすり替えた。これで天和はなくなった。
この面子で打っていて初めて使った裏技だった。
何故使ったのだろう? 涯自身も説明の出来ない行為だった。別に天和を和了られたっていいじゃないか。何に拘っているというのだろう……
後ろめたさを感じているうちに何事もなかったように南三局は始まり、部長が軽く速水の親を流した。
「なあ、桜田。麻雀は面白いなあ」
急に部長が声をかけた。曖昧な返事をする中で豊臣と速水が少し怪訝な表情を作った。続くオーラスも出親の部長が和了ってトップで終了した。
帰り道で涯はさっきの事を思い出していた。
とうとう使ってしまったか。別に自分が高い手を和了った訳でもないし場を荒らした訳ではない。むしろあのまま放っておいた方が荒れたとも言える。しかし素人相手に……
後悔の念でモヤモヤしながら小さな公園の近くを歩いていると、後ろから声がした。
「よお、桜田」
振り返ると声の主は森杉部長だった。お互いに帰り道は違うし、恐らくは後をつけて来たのだろう。
「なあ、桜田。さっきの南三局でお前、牌をすり替えただろう」
「……!」
見られていた。涯も部長の麻雀にはそれなりのものを感じていたが、その力を見誤っていたようだった。
「オレさあ、見えたんだよ。オレにはあんな真似は出来ないけど、見る目だけはあるんだよ」
「……」
涯はしばらく無言で部長の顔を見詰めた後に口を開いた。
「ちょっとどこかで話しますか」
「ああ、いいだろう」
数分後、二人の姿はファーストフード店にあった。双方ともに無駄口をしないタチなのかそれぞれドリンクを一つずつ頼んだだけだった。涯は自分の麻雀を覚えた頃の話や今までの上達の過程を部長に伝えた。
「そうか。裏プロのおじいさんから麻雀を教わったのか」
「ええ、裏プロですね。腕はピカ一だったと言っています。だけど祖父は途中で引き返したそうです。裏の世界で勝ち続ければ凄い生活が出来るだろうし、ヤクザの親分からも一目を置かれる存在になれる。だけど大きな勝負で負ければ無事でいられるかどうかも分からないし、負かした相手から逆恨みをされる事だって有り得る。祖父は祖母との平凡な幸せを選んだんです」
「そうか、本当にそんな世界があるんだな……」
部長は目を輝かせていた。小説や劇画の中でしか見た事のない裏プロの世界、そんな世界で生きてきた人から直にその技を教わった孫が今自分の目の前にいる。
「まあ、実際にトップのレベルで打ち続けてきた人には敵わないかも知れないとも言っていますがね……」
そう言いながら涯は、部長が自分の使った技について非難する様子もなさそうなので安堵していた。
「それじゃあ、いつも殆どの牌が見えた状態で打っているんだな?」
「ええ、最初の一局目はそんなに分かってないですが、相手の倒した牌を見たりすればそこから河の牌で手牌の推移が分かるから遡って山積みも分かるし、二・三局打てばほぼ全部分かりますね」
部長は絶句した。一体どういう頭の回転をしているのだろう、と思った。涯は自分の鞄からノートを取り出した。
「さっきの南三局ですけど。最初の山積みがこうなってました。それでサイの目が二と四の右六で……」
言いながらノートに書き出していく。部長は目を丸くした。
その通りに配牌を取っていけば、確かに速水の天和の和了りになる。
「そうか、それでその天和を防いだんだな……」
「ええ。それでこの牌と取り替えて。そして部長がこの配牌になって、こうツモってこの最終形で和了った訳です」
書かれた図面を指さしながら説明されると部長にも納得がいった。
「驚いたな。お前、全部覚えているのか」
「ええ、今日打った全ての局の山とサイの目と点棒の推移を覚えています」
あっさりと言ってのけた涯を見て、部長は呆れ返ってしまった。
この男は元々頭が良いのだ。勉強の方もよく出来るらしい。驚異的な記憶力に、図形の認識力に空間把握能力、計算能力に更に動体視力や手の器用さなど基本性能が優れている。そして麻雀に特化した訓練を続けてきてこの能力を身に付けたのだと思った。
「なるほどな。今までただ『見える』だけで平で打ってきたんだな」
「そうですね。自然の流れに任せて打っていたというか……強引に鳴きを入れたりしてトップを取りに行く事も出来たんですけど、あまり目立つような真似はしなかったんです」
涯は話しているうちに胸のつかえがとれていくような感触を覚えた。部長の眼力を見くびっていたし見られた事は不覚だったが、誰かに話したいという気持ちも心のどこかにあったようだ。そして部長には話していて安心感を得られるものが感じられた。
「でも最近は何のためにやってるんだろう? って考えるんですよね。さっきの部長の話にもあったように、プロになるっていうのもどうなのかって思うし。まあその前に全自動卓では役に立たない技ばかり覚えてるんですけど……」
謙遜の意味もあるだろうが、やや自嘲気味に薄く笑う涯に対して部長はかぶりを振る。
「いやいや、それだけの読みの能力は必ず役に立つ筈だよ。それだけの山のパターンを把握してきた事は必ず活きてくるよ」
そんな部長の態度に対しても涯は冷めた調子で続けた。
「何だか今は目標が見えないんですよね。小学生の頃に『天才少年』としてテレビとかに売り込む、っていう方法もあったかも知れない。だけど祖父は元々遊びとして麻雀を教えただけだったし、『自分の生きる道は自分で決めろ』という考え方のようですね。その『道』が今見えないというか……」
そう言って涯は目線を少し下げた。
そんな涯を見ながら森杉部長は思った。今はちょっと後ろ向きな発言をしているが、この男は決して弱い人間ではない。ただ、今は自分の中で煮え切らない何かをくすぶらせている。そしてそんな涯に対して強い憧れも感じた。
「とにかく、それだけ麻雀が打てるのは凄い事だ! オレの後輩にこんな凄い奴がいるってだけで感動だよ!」
「部長……」
「お前はそれだけの事が出来るのに、驕りもせずひけらかすでもなく、キチンと麻雀を打っている。得難い存在だよ」
部長は熱く涯に語った。
「積み込みとかも、これからは失われた技みたいになるのかも知れないけど。変な話だけど……伝統工芸の職人みたいで、カッコいいじゃないか! とにかく物凄くオレは嬉しいよ。オレのためにもこれからもずっと麻雀を打ってくれよ!」




