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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

鬼人慟哭

作者: 悟正龍統

 テーマ:ダーク

 あの日、玄関まで見送ってくれた妹に、ばいばいと言ったことを七星は今も後悔している。――せめてまたね、と。そう声をかけていたのなら、もしかすれば妹は、七夜は生きていたんじゃないか?

 そんな夢物語を、七星は想わずにはいられないのだ。

 ひゅう、と吐く息は白い。そこにかつてあった青さが消えたのはいつだったか、七星にはもう思い出せない。ざくり、ぐちゅり、と。眼前の喉仏に突き立てた小刀、続け様に殴り潰した眼球。返り血が己が身を濡らす。倒れ伏す喉元から抜き取った血濡れの刀身に映る己の顔に動揺はない。命の尊さを忘れた鬼畜がそこにいる。けれど何を忘れようとも、消えぬ想いがあることを少女はまた知っていた。それは亡き妹への親愛と、そして己が芯より沸き立つ憤怒と怨嗟。相克するこの私心さえ失わなければ生きていける。命を、奪える。

(……すわ敵討ちを)

 月光が七星の身を闇に滲ませた。烈風の痛き初冬、その雑木林にて己と相対するは異形。そう。少女の足元で微痙攣する死に損ないも己を睥睨しながら距離を慮る腰抜けらも、その一匹例外なく人ではなかった。

 ぎょろりと向く目玉、ひくひくと動く大きな鼻、薄汚れた犬歯を覗かせる分厚い唇、寸胴のわりに鍛えられた手足と、不自然にでっぷりとした腹。そして額の一角に手には金棒、腰に皮巻。極めつけに赤やら青の肌とくれば一見して異形は鬼と違いなかった。しかし七星は彼奴らを異形とは呼ぶものの、けっして鬼などと呼んだ試しはない。

 それはちんけな意地だった。余人には理解できない強情、けれどけして譲れぬ一線。その存在を知ったあの日から、七星はそれだけは頑なに衝き通してきた。即ち妹の仇に名など要らぬ、と。

 目を瞑れば瞼の裏に光景は蘇る。妹は、七夜は、――ただ一人の家族は、平常もその死の間際も確かに笑っていた。この世に二つとなく尊く愛おしかった、貴女の笑顔。奪われた七星の生きる意味。故に決めたのだ。たとえ鬼畜に成り下がろうとも、己は死するその日まで視界に収める異形を殺し尽くすと!

 悪意で以て踏み出した七星の一歩が、異形の頸椎を圧し折った。ぶわりと増した血臭と異臭。怒りに叫ぶ彼奴らを、にやりと少女は嘲笑う。そうして今宵も屠殺が始まる。双方が双方を獣畜生としか思わぬ妥協なき死闘に、小刀煌めかせ少女は矮躯を躍らせた。

 敵は異形。妹の仇ながらその名に相応しい怪力は、人の柔肌などたやすく撫で殺す。それでいて徒党を組み女子供しか狙わぬ狡猾さ。人には声ならぬ音で彼奴らもまた七星を嘲笑った。

 嬲り殺してくれよう小娘が、と。

 相対した一匹が金棒を使うまでもないと両手を伸ばす。締まらぬそのにやけ面は、次にぐきりと圧し折られた両親指の激痛に歪んだ。生理反応の命ずるままに叫ぼうと開いた口には異物。イボのついた舌を掴んだ七星の右手は、一匹の認識を置き去りにその舌を引っこ抜いた。勢い止まらぬ鋭敏な蹴りは、足を払うどころか、膝関節を粉砕する。衝撃に崩れる肢体、その脳天にさくりと刃が突き刺さる。

「――あと五匹」

 斯くして一匹は地を転がるより前の空中にてその生を終えていた。肉塊ができあがるまで間僅か四秒。仕留め損ないのないよう入念に首を踵で抉りながら、ぐるりと異形を一瞥した七星の、その月光を反射する黄金の三白眼に、彼奴らは思わず一歩後退した。

 ありえぬ。そう紡ぐはずの唇から洩れたのは、かちかちと合わぬ歯の根の音。隠せぬ恐怖の色が眼前の光景を肯定する。にちゃり。粘つく靴底に満足そうに、うっとりとした表情を浮かべる七星は、その硬質の美貌に昏い眼差しも相まって、倒錯的な美しさである。しかし――くく。くくく、と。喉を衝いて出た低い産声は鬼をして悪鬼としか思えぬ化生の嗤い声であった。瞬間。確かにぶるり、と震えた彼奴らを前に、陰鬱な怒りを滲ませ少女は宣告する。

「……これよりは楽に死ねると思うな?」

 矛盾、そう矛盾だ。七星は残る五匹がより惨たらしく死ぬことを望みながら、同時に彼奴らが恐怖などという感情を抱くことが許せない。異形の所業は是非を問わず少女を苛立たせる。つまり彼奴らの存在そのものが罪なのだ。死さえ生温い、――辱めてやりたい。そんな感情が劣情以外にもありえるなど、少女はできれば一生知りたくなかった。

(……ああ、また)

 摩耗していく。七星が成りたかった『七星』という妹の模範足る理想像が、その姿をぼやかしていく。かつての栄光も浅き夢、誰が今の己に矜持があると信じようか。人と鬼、少女と異形を隔てるはたったそれだけ、生まれの境だけが双方を分かつ。――剥き出でる己が身のなんと醜いことか!

 ぎりり、と歯が軋む。それでも、それでも戦わずにはいられない。ここで七星が逃げ出したら、いったい誰が亡き妹の、七夜の名誉を取り戻す? けして表沙汰にはできない醜聞だ、本当なら涙を呑むしかないのだ。――普通なら。しかし少女は普通ではない、莫大な金のかかる装備も何も必要ない、ただ己が身一つで仇を殺せるのだ。見目麗しき妹と瓜二つの己が、辱められて殺された者の面影が! 異形を殺せる。そのなんと嬉しく、なんと悲しきかよ。

 七星の芯が熱く滾るのがわかる。寒空に剥きだされた節くれ立つ両拳の隙間からくゆり、と湯気が昇った。青白い肌に急速に赤みが差してゆく。その姿は人でありながら、異形を差し置いて、まるで真に鬼のようで――次の瞬間に、少女は跳ねるように地を駆けた。

 殺意になお凍えた烈風が双方に吹き荒れる。狡猾さでは理解できない事態に、異形が選んだのは奇しくも七星と同じく吶喊だった。――油断があったに、そうに違いない! 人ならざる鬼、それ故に異形である。触れれば殺せる、そんな劣等種を前に、どうしておめおめと逃げ出すことなどできようか? 振り抜かれた金棒が、繰り出された拳が、連撃となって少女を襲う。そのどれもが威力過剰の一撃。触れるどころか、実際には掠るだけでも人など肉片と化す。

 だというのに。筋骨隆々の異形が空を裂いて振るう金棒は、数多の人の血を吸ってきた鍛え上げられた剛拳は、ただ愛玩動物等しき七星の、その足の運びさえ捉えられない。死が横を過ぎようとも、へらへら嗤う表情は変わらなかった。――何故だ。一匹は自問する。拳風だけでも昏倒する者がいるというのに! 玩具と見目変わらぬこの小娘は何故に平気な面をしていられるのだ、と。

「拍子抜けだな、」

 憫笑は一匹の左耳より聞こえた。瞬く内に、七星の姿が目前から掻き消えたと思えばこれだ。理不尽。人殺しの怪力をしてそうとしか表現できないあまりに隔絶した技巧、思考も動作もすべてが遅れ、そして激痛だけが全身を奔る。左耳を毟られ悶絶する一匹が最後に見たのは、目下炯々と輝く月に、青地に向かって伸びていく木々。そして同胞らの怯えた面構え。即ち少女の小刀の一閃はただことり、と首を落とすに留まった。一拍。自らの役割を思い出したかのように噴き上がる血飛沫。その赤々しさが、またも少女の機嫌を昂らせ、そして損ねていく。

「――あと、四匹」

 怖かろう。意気込んだ大技が、怪力無双と信じた肉体が、まるで相手にならぬという現実。七星を肉塊にと欲す殺意のすべてが、本懐を成し遂げようという刹那に、あらぬ方向へとズレていく。耳打つは風切音、瞬くは閃光。少女の片手が無軌道に揮う小刀の、その白刃の輝線が彼奴らの行為その悉くを無に帰す。四方を囲み八方から放つ玄人の技が、定石を無視した素人の業に捩じ伏せられる。

 その武技に技名はなかった。いや正確にはあったとしても七星はそれを知らなかった。少女はいかなる師事をも受けたことはない。それは呪いだった。両親が見捨て、しかし妹だけが唯一受け入れてくれた異常。その名を誰彼は天武の才と呼んだだろう。

 表出する機会があったとすれば、だ。単に七星は生まれる時代を、国を、間違えたとしか言いようがない。ともすれば英雄と謳われる才覚も、現代においては精神と肉体の異常でしかなかった。

 故に、すべては時間の問題だったのかもしれない。

 ふふ、と。闇夜に響く異形の荒息の中に、ふと七星の冷笑が入り混じる。数で以て懸命に攻め入る彼奴らのなんと滑稽なことだろう。だらしなく乱れた呼吸、滲む汗。その努力も、行為も、何もかもが汚らわしい。ひゅん、と。まるで豆腐でも切るかのような軽々した音だった。一閃。ただそれだけで均衡が崩れる。振るわれた刃先が、一匹の右手を切り飛ばした。くるくると空を躍る腕はコマのようで。唖然と見上げた無防備なその喉に貫手が刺さる。――ぐちゅり。

 悲鳴。しゃにむに振るった一撃を避けるように、ぴたりと七星は肢体を地に伏せ、すぐさま飛蝗が跳ねるように移動した。先の地を抉り舞う土煙。金棒がそれを切り払えば、そこに少女の姿はない。残されたのは三匹と死体。――逃げたか? うろうろと辺りを探す一匹がふと横を向けば、さくり、とさも当然のように側に立っていた少女が胸に小刀を突き立てた。驚愕のままに崩れる一匹の顔面を、犬歯剥き出した暴力的な笑みを携えて、一切の躊躇なく少女は蹴り挙げる。こきゅん、と。間抜けな音を響かせて首が空を飛んだ。

「――あと、二匹」

 そこに問答など必要なかった。所詮は異常と異形の殺し合いだ。常識が口を挿む余地などない。――そう、だからこれはきっと夢だ。繰り出した拳を鷲掴む、意外なほどに柔い少女の掌の感覚に一匹はそう逃避する。かつて男を女を子を、何人であろうと引っ叩くだけで羽虫のように殺せた己の拳。人にはけして辿りつけぬはずの境地。何者にも負けるつもりなどなかった己の拳撃を、眼前の小娘はたしなめるように受け止める。馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な馬鹿な馬鹿な!

「――一つ。貴様が私に何故勝てないのか、教えてやろうか?」

 まあ言語を理解できるとは思わんが、そう心底見下した瞳で以て七星は続けた。

「それは貴様が足りないからだ。貴様には殺し合うに必要な身体がある、それを的確に動かすための頭脳がある。けれども、それ以外の何を捨てでも眼前の獣畜生だけは殺してやるという動機がない。血が流れ、臓器が機能し、そしてたとえ魂があろうとも、その一点を欠いたのだ。加えて今まさに魂さえ失いかけている貴様に、頭も身体も動機も魂も十全に伴ったこの私が負けるわけがないんだよ!」

 言葉を終えると同時に、七星は一匹の右拳を握り潰した。絶叫し抵抗するように振われた左拳を雑に払い落とし、ふと腰を落とした。異形の拳が烈風ならば、少女の拳は流星だった。他の誰の眼球にも捉えられぬ衝撃が、大気を揺るがす。膝から崩れた異形は既に事切れていた。その心臓部は小さな拳大に陥没している。

「――あと、一匹」

 このとき既に勝敗は決していた。七匹の群れ、その内六匹を手傷一つなく屠殺せしめる化生と、人は殺せるとはいえただの鬼である。最早、立場は完全に逆転している。異形に、常の余裕などなかった。――どうやってこの場を生き残るか。ここに至り、一匹に誇りやら何やらの余計な考えは存在していない。いっそ清々しい気分で以て異形は生き残る道を模索していた。

 すり足で慎重に距離を測る。――と、足の裏には先までの土ではなく砂の感触。にきにきと指を動かせば小石もある。どうやら天は最後の最後で俺に微笑んだようだな小娘、と。音が声と認識されたのならば、おそらく異形は不敵な笑みとともにそう言っただろう。

 咆哮。拳を振り上げるフェイントと同時に、足元の砂を蹴飛ばす。流石の七星もこれには不意を衝かれたようで、思わず顔を庇うようにしながら背後へと距離を取った。それをしたり顔で認め、異形は脱兎の如く走りだす。殺気。首を竦めれば小娘の小刀が、今しがた頭上を通過し、木の幹へと突き刺さった。――刀身が見えぬ。真の化物、まるで鬼人よ。最後まで震え上がりながら、一匹は夜が明け始めた森を一目散に逃げ帰るのだった。

 異形の棲家は一見してわからぬように巧妙に隠されていた。正確にはここは中継所だった。あの鬼人の小娘に出くわさなければ日中を過ごし、翌夕に本拠へ帰るための仮の宿。

 一匹はそこに飛び込んでやっと一息を吐いた。地にぴたりと耳をつけるも足音はない。聞えるのは風鳴りと木枝のざわめきである。はあはあはあ、と。己の荒息が嫌に響いた。見つかるわけがない、見つかるわけがない、見つかるわけがない。けれど不安は残る。

 そうして。暫くきょろきょろと神経を尖らせていた一匹だったが、小娘の足音はとうとう聞こえてこなかった。ふう、と再びため息を吐いて天井を見上げ――。

「……………………」

 そこにいるはずのない鬼人の姿が当然といないことに安堵して、目を瞑ったその瞬間にふわりと甘い匂いを覚え――ごきり、と首は七星の両肘によって螺子折られた。

「――まったく、運が良いのか悪いのか」

 まさか最後に見つかりそうになるとは己もまだまだ甘い。締め技を解きトドメとばかりに小刀で胴体を滅多刺す。やがて最後の一匹が完全に死んだことを確認すると、七星はスッと立ち上がった。

 奥へ向かう足元からは当然の如く音はしない。中継地まで異形を生かしていたのは、無論その中にいるであろう残党を殲滅するためだった。自己保身に走る性質は必ずいる、そういう馬鹿者が破滅の呼び笛となる瞬間が、七星には堪らず快感である。

 歪んでいることなど当に自覚している。しかし殺すと決めたからには殺しきらなければいけないのだ。そうでなければ――。

「……ぁぁ…………ぅぅ………………」

 無駄に苦しんでしまう者達がいる。洞窟の奥底にたゆたうのは、先の屠殺場など煉獄と言わんばかりの血臭と異臭。手持ちの灯りが照らすのはまさしく鬼に相応しい地獄の光景だった。

 四肢を切り落とされ、しかしなお生きている男がいた。女がいた、子がいた、老人がいた、老婆がいた。あらゆる年代の人々が一人の無事もありえず、けれど生きて呻き蠢く姿がそこにあった。

「………………」

 言葉は出ない。震える七星が思うのは、度し難い怒りと、そして確かな安堵の感情。――妹は、七夜は死んだ、殺された。けれどもこうはならなかった。ならなかったのだ、……ああ、よかった。

「う、うう、ああ、うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 叫ぶとともに鬼人は小刀を、拳を振るった。今、確かに懐いてしまった想いが消えるように、殺戮を振りまいた。

 七星は夢物語を想わずにはいられない。

 あの日、玄関まで見送ってくれた妹に、ばいばいと言ったことを七星は今も後悔している。けれど本当はまたね、と声言わなかったことに安堵している。七夜、己の妹、たった一人の大切な家族。

 七夜と今のように〝またね〟しなくていい己が、七星は大好きで大っ嫌いだった。

 暁が夜の終わりを告げている。清涼な空気が、小鳥の鳴き声が、今日の始まりを告げている。けれどそこに、星の居場所はどこにもない。――星は夜にしか輝けない。


鬼人慟哭/終了


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