横須賀沖のさる島へ
七.
JR横須賀線横須賀駅から徒歩三十分、三笠公園から船で十分。
そして辿り着いたのが東京湾に浮かぶ唯一の無人島、猿島である。第二次大戦中には要塞基地として実際に活用されていたため、砲座などの跡地が残されている。
全員の予定を顧みて日程を合わせた結果、ゴールデンウィーク初日に思い出作りは決行された。身も蓋もないことを言ってしまえば、皆、ゴールデンウィークの名に相応しいゴールデンな予定が入っていなかったからということでもある。
シーズンオフの海水浴場に打ち上げられたタコは無様としか言いようがなかった。礼司は極めて冷めた目で、びしょ濡れで砂まみれのタコを見下ろした。
「いつまでそうしてんだよ、次行くぞ」
「ちゃう……ちゃうんや、ワシが求めとったのは、もっとトレンディな……」
「でも難破したじゃないか」
「そないなコッテコテのダジャレやなくてぇ……」
涙とも海水とも付かないものを飛び出した目から零しながら、健人は起き上がった。礼司は羞恥心やら情けなさやらを嫌になるほど味わいながら、他人の振りを出来ない自分の善良さも痛感した。他の面々は、とっくに実行している。
連絡船に乗って猿島に向かう最中、浜辺の広場でバーベキューに勤しむ女子大生と思しきグループを発見した健人は、クラーケン本来の能力を一切合切失っていることを失念して海に飛び込んだ。その後、連絡船の乗員に大丈夫だと説明し倒してどうにか切り抜けて健人を回収しに行ったところ、見事に溺れた健人は砂浜に打ち上げられていた、というわけである。ついでに言えば、女子大生と思しきグループは健人が波間を漂っている間に撤収済みだった。
「とりあえず何かの記念に」
礼司はフィールドワークの際にも使ったデジタルカメラを取り出して健人に向けると、健人は両袖から伸ばした吸盤だらけの足を持ち上げた。撮影した画像をその場で見てみると、写っているのは長身で浅黒い肌の青年だった。どうやら、常人にはこう見えるらしい。
「おい阿部礼司、どこをどう行けばこの要塞基地を見学出来るのだ?」
パンフレットを握り潰しながら駆け寄ってきたのは、ブレイヴィリアだった。しかし、今日の彼女の格好は果てしなくダサかった。色褪せた安物のジャージを腰で結び、洗濯しすぎて襟が伸び伸びのキャラクターもののTシャツを着て蛍光グリーンのハーフパンツを履き、履き潰して底が磨り減ったサンダルを履いている。肩から掛けているショルダーバッグは一昔前の小学生が使っていたような、薄っぺらいビニールバッグだ。夜中にコンビニの前でたむろしている不良ですらも、ブレイヴィリアよりはマシな格好をしているに違いない。以前、南海食堂ニライカナイに行った時は流行りを取り入れた服装をしていた記憶があるのだが、なぜ今日に限ってこんな有様なのだろうか。
「小林先輩、なんでそんな格好なんですか?」
礼司の問いに、ブレイヴィリアは毅然と言い切った。
「食堂やらパン屋やら喫茶店のツケやら学費やら何やらを払ったからだ」
「ってことは、この前のあの服は上から下まで全部売ったんですかぁ?」
「そうだ。悪いか」
「いえ、悪いってことはないんですけど、個人の問題ですから。でも、TPOってのをもうちょっとだけでもいいから考えてくれませんか?」
「だったら、あれはどうなんだ」
少しむっとしたブレイヴィリアが示したのは、ジュリエッタだった。波打ち際で静子と追いかけっこをしているジュリエッタは、まだ肌寒さが残る四月下旬に似付かわしくない女子用スクール水着に麦わら帽子だった。ついでに言えば、なぜ静子までもが同行したのだ。礼司は今度こそ他人の振りをしようとした、が。
「阿部くぅーんっ、こっちにおいでよぉーう!」
スケキヨマスク装備の静子が大きく手を振ってくる。シャツワンピースに膝下丈のレギンスを着てグラディエーターサンダルを履いた、活動的なスタイルだ。
「そうそう、礼ちゃんもおいでよーう! ぴゅっぷるぱー!」
春先の冷たさをものともせずに、スライムは波打ち際で海水と戯れる。礼司は二人を黙殺しきれなかったので、誤魔化すために写真を撮った。その画像を確認してみると、ジュリエッタは小柄で細身の少年に写っていた。顔立ちだけなら少女にも見えなくもないが、スクール水着の股間にはささやかながらも明らかな膨らみがある。立派な変態だ。
だが、静子がいなければ今回の思い出作りは成り立たなかった。唯一の社会人である彼女が出資してくれなければ、大人数でのバーベキューに必要な材料費や道具のレンタル代はとてもじゃないが捻り出せなかったのだから。だから、スポンサーは無下には出来ない。仕方なく礼司が波打ち際に近付くと、静子はスケキヨマスクの下で満面の笑みを浮かべ、奇妙な物体を差し出してきた。
「ほうらイソギンチャクー! 超可愛いでしょー?」
「でしょでしょー? みゅっぷるぷぅ」
礼司の背後に回り込んだジュリエッタは静子の口調を真似ながら、両手一杯のアメフラシを突き出してきた。礼司は前門のイソギンチャクと後門のアメフラシに心臓が縮み上がり、ぐえっと喉の奥で呻きを殺して後退った。すると、静子は不満げに唇を尖らせる。
「何よぉ、そのリアクション。可愛くないぞぉ」
「むっぷるぴー」
ジュリエッタは静子に縋り付き、むくれてみせる。そんなこと言われる筋合いはありません、と言い返す代わりに礼司はシャッターを切った。
「あー、そんなことで誤魔化されるお姉さんじゃないぞ! さあそのデータを寄越しなさい、ジュリーのきゃんわわーできゅるるぅうーんなスク水姿を私のSDカードにコピらせなさーいっ!」
「その生き物、元の場所に戻しておいて下さいよ!」
逃げ際に礼司が言い残すと、静子とジュリエッタは一旦立ち止まった。
「言われなくても解ってるわよう、そんなこと! ほうら海にお帰り、外に出しちゃってごめんねー。じゃあまたね、元気に逞しく生きるんだよ?」
「生きるんだよぉー? にゅっぷるぷー」
と、二人が岩場を覗き込んでいる間に、礼司は駆け足で距離を取った。ついでにもう一枚、スライムとOLのツーショットを撮影してから前に向き直ると、今度はベテルギスクと出くわした。憧れの海に来たからだろう、すっかり少女漫画の世界に入っている。砂浜に屈み込んでいるベテルギスクは打ち上げられた枝を拾い、砂に字を書いている。L・O・V・E。
「はあ……ステキ……」
悩ましげな溜め息に色が付いていたら、間違いなくピンク色だろう。三つの目はとろりと弛緩していて、砂浜には丸文字で相合い傘やハートが書いてあった。そういえばベテルギスクは常人にはどう見えるのか確認していなかったので、礼司がシャッターを切ると、ベテルギスクは余程驚いたのか仰け反った。
「ん、な、にゃあっ!?」
「悪い悪い。なんかの記念になるかと思って」
「ビックリしたなぁ、もう。阿部君って、たまに意地悪だよねぇ」
ちょっとだけ拗ねながら、ベテルギスクは再び砂に絵を描き始めた。その間にファインダー越しの彼の姿を確認してみると、礼司は目を疑った。そこに写っていたのは大男でもなんでもなく、巻き毛の金髪に抜けるような白い肌にバラ色の頬に澄んだ瞳を備えた天使のような美少年が写っていた。体形も華奢で、シャツの袖口から出ている手首は花の茎を思わせるしなやかさだ。どこぞの少年聖歌隊にいてもおかしくはない容貌で、内面と釣り合っている。だが、その正体は魔王だ。本来の姿の厳つさから、てっきり筋骨隆々の大男に見えるとばかり思っていたのだが、常人が目視する人外達の外見は内面が大いに反映されるようだった。
「ねえ、阿部君」
「な……なんだよ」
動揺が収まりきらない礼司に、ベテルギスクは三つの目を全て細めた。
「貝殻、あるかな」
「あると思うけど、まあ、万が一見つからなかったら適当な土産物屋で」
「そんなんじゃダメだよ、ダァメ。思い出にならないもん」
腰を上げたベテルギスクは、嬉しそうに砂浜を一望する。
「余も泳げたら良かったな。そしたら、また皆で夏に来て海水浴が出来たのに。ね、つーちゃんも、そう思うでしょ?」
ベテルギスクが振り向くと、その視線の先では継美が貝殻を拾い集めていた。七分袖のTシャツにデニムのホットパンツにニーソックスとスニーカーを合わせた格好の継美は、長い髪をポニーテールにまとめていた。
「……平民などに、肌を曝せるものか」
「え? え?」
この二人、いつのまに仲良くなったんだ。礼司が戸惑っている間にも、ベテルギスクは継美に話し掛ける。女の子同士のような口調で。
「でも、つーちゃんは女の子なんだし、足もすらっとしているから、誰にも見せないなんて勿体ないよ。そうは思わないの?」
「そう……思う?」
継美の弱気な言葉尻が、礼司に向いた。思わぬことに礼司は口籠もる。
「ああ、え、ええっと」
「少なくとも余はそう思うな。無理強いはしないけどね」
つーちゃんが集めたのを見せてよ、とベテルギスクは浮かれた足取りで継美に駆け寄っていくと、継美は両手を広げてみせた。その中には大きめの二枚貝の片割れや細長い巻き貝、波間で削れて角が取れたガラスの破片があった。わあ、と歓声を上げてベテルギスクは両手を組む。
「余もこういうの見つけてみるね、つーちゃん! そしたら、交換しようね!」
「良い考えだね」
「よおし、頑張っちゃうぞっ」
ベテルギスクはマントのような翼の間から伸びる尻尾を左右に振りながら、喜び勇んで砂浜を歩き回り始めた。同じように観光に訪れている人間も多いが、誰一人としてそこに脳内お花畑の魔王がいるということに気付かない。その光景には違和感しか覚えないが、世間一般ではそれが普通なのであって礼司や静子が異常なのだ。そして、それに付き合っている自分も異常の範疇に入る。
「阿部君」
不意に継美に呼ばれ、礼司は気を戻した。
「あっ、何?」
「皆のこと、撮っていたみたいだけど」
「まあ、うん。大したもんじゃないけど、何かの記念になればと思って」
礼司が手中のデジタルカメラを見下ろすと、継美は顔を背けた。
「私のことは、撮らないの?」
その横顔は強張っていたが、色白の頬の血色がほんの少し良くなっていた。これは合法的に彼女の生写真を手に入れる機会だ。礼司は内心で拳を握った挙げ句に雄叫びまで上げていたが、顔には一切出さずに了承した。
「いいけど。どの辺がいい?」
「えっ、と」
継美はしきりに目を彷徨わせ、景色を吟味している。彼女は唇を引き締めているが、尖端に棘の生えた尻尾が楽しげに踊っているので喜んでいるのは明白だった。こういう時ばかりは、彼女が人外でいてくれて良かったと心から思う。その上、これは二人きりになれる絶好のシチュエーションではないか。少年漫画であれば途中で茶々が入る、少女漫画であればどちらかが勇気を振り絞って告白する、ギャルゲーなら諸々のフラグが立つ、十中八九悪い展開にはならない。
「じゃあ、あっちの方で」
継美が指し示したのは、階段を昇った先にある雑木林だった。礼司は断る理由もなく、言われるがままに継美に付いていった。島中に観光客がいるので雑木林の中も静かではなかったが、日陰の冷ややかさが喧噪を遠のかせてくれた。枯れ葉を踏む二人の足音とやや速めの呼吸が聞こえなくなるほど、心臓が暴れ回る。目の前を歩いている継美の襟足に光る薄い汗が、制汗料や化粧品とは異なる芳しい何かが、礼司の体の芯を昂ぶらせてくる。整備された遊歩道の途中には、かつては要塞として機能していた遺跡が点在している。レンガ造りのトンネルの前に差し掛かると、継美は立ち止まった。
「ここ。パンフレットで見て、素敵だなぁって思って」
継美はトンネルをバックに立ち、はにかんだ。礼司は汗ばんだ両手が擦り切れかねないほど勢い良く拭ってから、デジタルカメラを手にした。
「そのままでいいから」
ファインダーを覗き込むのもまどろっこしく、シャッターを切る。ピントを合わせるのも億劫で、ひたすら切る。切る。切る。
「後でそのデータ、ちょうだい。お父さんに送るから」
「あのラミアの子は、今日は一緒じゃないんだ」
「うん。あの子がいたら、騒がしくなっちゃうから」
「その、横嶋さんの親父さんってどんな人? ああ、人じゃないか」
「会ったことはないから、まだなんとも言えないけど、嫌いじゃない。私の半分だし、たまに届くメールの文章は短いけどなんだか優しいから」
「あの、さ」
礼司はかすかに震える手でデジタルカメラをショルダーバッグに押し込み、干涸らびた喉に粘つく唾を嚥下した。継美は顎を引き、礼司を捉える。
「なあに?」
この機を逃すわけにはいかない。次はないかもしれない。それ以前に、継美の方から誘ってきてくれたのだから、それを無駄にするわけには。
「横嶋さん、俺さ」
猛り狂う心臓が肋骨を折りそうだ。筋も皮も突き破って外に出てきそうだ。胃袋がひっくり返ってしまいそうだ。目眩さえも起こしそうだ。継美は礼司と向き直ると、期待と困惑をない交ぜにした表情を作った。だが、嫌ではなさそうだ。
「実は、さ」
言え、言え、言ってしまえ。どれだけ好きかを伝えてしまえ。礼司があらん限りの精神力を振り絞って肝心な言葉を口にしようとすると、トンネルの反対側から人の気配が近付いてきた。二人分の規則正しい足音と華やかな話し声が反響し、礼司の決死の覚悟を薄らがせてしまった。継美はトンネルの出入り口から身を引き、礼司の影に隠れた。
「なんで?」
「知らない人は、ちょっと怖くて」
邪竜族の姫君なのに。礼司は小動物のような継美を撫で回してしまいたい衝動に駆られたが、ふとあることに気付いた。カップルの声の片方は聞き覚えがあるどころではない、むしろ馴染みがありすぎてうんざりするぐらいだ。
しばらくして薄暗いトンネルから出てきたのは、礼司の姉、阿部真里亜と大学生と思しき青年だった。地図を手にした真里亜は、弟との再会に驚いた。
「なんであんたがここにいるの!?」
「俺の方が聞きたいんだけど」
礼司は人見知り真っ最中の継美を背中で庇いつつ、真里亜の連れを見やった。チャラ過ぎずカタ過ぎず、万人受けするような男だった。顔付きは美形の一歩手前で、造形はかなり良いのだがほんの少し間が抜けている。だが、それが却って親しみやすさを作り出している。身長も礼司の頭一つ半は高く、当然ながら手足も長い。髪型も服装もこれといって際立った点はなく、無難を体現している。
しばし、猛烈に気まずい空気が流れた。真里亜はばつが悪そうで、どうやってこの場をやり過ごそうかと頭を巡らせているようだった。礼司も真里亜とその連れを見なかったことにしたくなったが、声を掛け合った以上は相手をしなければならない。無視なんかしたら、自宅に帰るや否やケンカになる。だが、あまり連れ合いの詮索をされたくはない。身内なら尚更だ。しかし、どちらかが話を切り出さなければ何も始まらないし、終わりもしない。だが、自分から切り出すのはなんとなく嫌だ。けれど、このままでは。
数分間、小康状態が続いた。そのやりづらさを打ち破ったのは、礼司でも真里亜でもなければ継美ですらなかった。姉の連れ合いの男だった。
「そこの少年は、マリちゃんの弟さんってことでいいのかな?」
「あーうん、そうなの。でも、こんなところで会うとは思ってもみなくって」
真里亜がぎこちなく答えると、青年の視線が礼司の背に隠れた継美に向く。
「へえ、そうなんだ。僕は長尾利人、君は?」
「阿部礼司です」
「そっか。いつも君のお姉さんに御世話になっているよ、これからよろしくね。で、そっちの女の子は礼司君のカノジョさん?」
「ああいえ、その、クラスメイトです」
礼司が取り繕うと、継美は消え入りそうな声で呟いた。
「はい……」
「じゃ、邪魔しちゃ悪いから、僕らは退散するとしようか」
朗らかに笑った青年が真里亜を急かし、二人が別のトンネルへと消えていくと、いつのまにか礼司のシャツを握り締めていた継美の手が緩んだ。
「横嶋さん、大丈夫?」
少しよろけながら離れた継美は、顔から血の気が引いていた。
「たぶん。でも、まさか、そんなことって」
継美は足を進めようとしたが、膝がぐらついた。礼司は彼女を手近な段差に座らせてやると、継美は呼吸を速めていた。貧血でも起こしたのだろうか、それとも猿島に渡ってくる際の連絡船で酔ったのだろうか。
「大丈夫。大したことはないから、阿部君は皆のところに戻っていいよ」
ハンカチで口元を押さえた継美の額には汗の粒がいくつも浮かび、震えている。こんな状態の女の子を放っておける方がどうかしている。礼司は継美の隣に座ると、ショルダーバッグを探って未使用のタオルを出し、継美の膝の上に載せた。
「汚しても構わないから、使って」
「でも」
「だから、そんなに無理しなくていいって。邪竜族のお姫様らしくなくたって、横嶋さんは横嶋さんなんだし。てかさ、俺にとってはそっちの横嶋さんの方が普通っていうか、リアルだし。マキナ先輩とか親父さんとかの期待に応えてやりたいのも解らないでもないけど、ここはクラゲ……なんとかっていう異世界の国でもなんでもないし、地球で日本で横須賀で猿島だしさ。俺はド平民だし」
「ごめんなさい、ひどいことを沢山言って」
「気にしてねーって、あんなん。てか、小林先輩の方がかなりひどいし」
「ごめんなさい……」
同じ言葉を繰り返し、継美は眉間を歪めた。小刻みで過呼吸気味だった呼吸のペースが落ち着いてくると、青ざめていた顔色も徐々に暖かみが戻ってきた。
「写真、綺麗に撮れているといいんだけど」
「撮影が俺だから、期待はしないでくれるとありがたいな」
「うん、そうすることにする」
「そりゃどうも」
礼司が苦笑すると、継美は少しだけ笑みを零した。だが、まだ辛そうだったので、無理はさせないことにした。そうこうしているうちにバーベキューの時間がやってきたが、礼司は継美に最後まで付き合ってやった。何度となく継美は謝ってきたが、礼司はその都度気にしていないと返した。
小一時間が過ぎてから二人が浜辺に戻ると、バーベキューは佳境を迎えていた。主に健人から邪推されもしたが、継美の顔色を見ると事の次第を察したらしく、礼司が遮る前に引き下がってくれた。バーベキューを仕切っていたらしいエプロン姿の静子は、紙皿に山盛りにした焼きそばを礼司の目の前に突き出してきた。
「さあっお食べなさい! 存分に!」
「どうも」
礼司は熱々の焼きそばを受け取り、啜った。若干焦げ目が強いが、おいしかった。空腹に任せて黙々と詰め込んでいたが、静かすぎた。その理由は至って簡単で、ブレイヴィリアとベテルギスクが揃ってダウンしていたからだ。ちょっと離れていた隙に、一体どんな悲劇が起きていたのだろうか。
「喰えや、最後まで」
健人は礼司の肩に足を回し、ぺたぺたと吸盤を貼り付けてきた。
「ワシらはもう存分に喰うたんや。腹ぁ一杯なんや、なのに静ちゃんは……」
「さあさあさあっ、お代わりはいくらだってあるわよぉーんっ!」
上機嫌な静子は直火の鉄板でヘラを振るい、野菜の山を景気良く掻き混ぜた。
「でもでも、これでまだ締めじゃないのよねぇー。最後にどどーんとアイスクリームのデザートまであるんだから! どうだ、お姉さんは偉大でしょ!」
サムズアップしながら豪快にのたまう静子の背後には、釣り人でも持て余しそうな大型クーラーボックスが鎮座していた。その手前には、材料が満載の段ボール箱があり、空箱が二つ転がっていた。つまり、ブレイヴィリアとベテルギスクと健人は段ボール箱二つ分の料理を食わせられた、ということになる。
「ベテルギスクはともかく、小林先輩までやられるってどんな量だよ」
早々に食欲を失った礼司が漏らすと、健人は遠い目をした。
「考えたら負けや」
そう言い残し、健人は礼司の視界から消えた。なんのことはない、仰向けに倒れたのだ。ジュリエッタはどうした、あいつこそ洗礼を受けるべきだ、と礼司が辺りに目をやると、もう一つのクーラーボックスから青い粘液が一筋垂れ落ちていた。奴もまたダウンしていると見るべきか、敵前逃亡したと見るべきか。どちらにしろ、援軍は見込めない。その間にも、調子に乗りすぎてハイテンションが極まっている静子はどんどん料理しては礼司の手元に運んでくる。静子なりに浮かれた気持ちを発散しているのだろうが、もう少し穏やかな手段を用いてほしい。だが、食べ物は無駄に出来ない。礼司はワイルドな量の料理を胃袋に詰め込んでいったが、健闘空しく打ちのめされた。
はしゃぎすぎて疲れ果てたのだろう、帰路の電車では静子は爆睡していた。
他の面々はグロッキーで、礼司も例外ではなかったが意地で踏ん張った。体調も気分も落ち着いてきたからだろう、今頃になって空腹を覚えた継美はタッパーに詰め込まれた溢れんばかりの焼きそばを食べたげに見つめていた。JRから小田急線に乗り換え、命からがら螺倉に辿り着いたが、皆はすぐには動けなかった。
起きる気配のない静子をクーラーボックスごと抱え上げたジュリエッタは、また学校でねー、と伸び縮みする腕を振り回しながら、夕暮れの街に消えていった。ゾンビのようによろめきながら学園に戻っていく皆を見送ったが、礼司はまだ動けなかった。本当なら相模大野駅で下車するべきだったが、寝過ごしたのだ。
「頂きます」
礼司が座り込んでいるベンチの端で、継美は割り箸を割ってタッパーを開いた。その中には、調子に乗りまくった静子が量産した焼きそばが隙間なく詰め込まれていて、冷めたことで炭水化物の一塊と化していた。割り箸を差して持ち上げると中身が引っこ抜け、四角く固まった焼きそばが宙に浮いた。
「あ……」
「それ、レンジで暖めてから食べたら?」
礼司の意見に、継美は残念そうだったが頷いた。
「うん、そうする」
「あー……やべー……まだ苦しい……」
帰路でリバースしなかったのは奇跡である。ベンチの背もたれに全体重を掛けて破裂しそうな胃袋をさすりながら、礼司は藍色と茜色の混じる空を仰いだ。
「阿部君、あの写真」
継美は割り箸を紙袋に戻してからタッパーに蓋をし、控えめに声を掛けてきたので、礼司はショルダーバッグを探ってデジタルカメラを取り出した。
「SDカードだけ抜いて。で、後でカードだけを返してくれればいいから」
「うん、解った。ありがとう」
継美はデジタルカメラのスロットからSDカードを抜くと、大事そうに財布に入れた。散々な思い出作りにはなったが、思い出を作るという意味ではこれ以上ない成果だったのでは。これで、ベテルギスクが去る時の心残りが少しでも減ってくれればいいのだが、それは本人にしか知り得ないことだ。
「写真を撮ってくれた、御礼」
こんなもので悪いけど、と継美が差し出してきたのは、砂浜で拾い集めていた貝殻だった。彼女の体温がほんのりと染みた巻き貝が、礼司の手のひらに収められる。礼司はゆっくりと五本の指を曲げ、巻き貝の形を確かめながら握り締めた。少しでも力を込めてしまえば、砕けそうな気がした。
「そういえば、小林先輩って要塞跡地を見学出来たっけ」
「たぶん、出来ていないんじゃないかな。静子さんのアレのせいで」
「となると、もう一度行く羽目になるかもなぁ」
「うん。夏休みがいいかもしれない。そしたら、今度は海で泳げるし」
そう言ってから継美は、あ、口元を押さえて恥じらった。
「ごめんなさい。そんな先のこと、まだ解らないよね。それに、私は倉田君達とは違って阿部君と友達ってわけじゃないし」
「でもさぁ」
礼司は苦労しながら上体を起こし、西日を浴びた丘の上の学園を仰ぎ見た。
「横嶋さんも楽しかっただろ?」
「うん、凄く。皆で行くって決まった時から、ずっとわくわくしていたの。前の日なんてすぐに寝付けなかったぐらいで」
「フィールドワークの時に横嶋さんを班組みに誘ってきてくれた、あのダークエルフとは友達にはならなかったのか?」
「うん。闇苅・ドラウエルフ・杏奈さんは私と仲良くしようとしてくれたけど、闇苅さんと仲が良い子達があんまりいい顔しなくて……」
「そっか」
「うん」
「じゃ、俺と横嶋さんは、今から友達ってことでさ」
出来るだけ軽く、継美の良心を痛ませないように。礼司はそれだけを考えて言い切ると、継美は浅く唇を噛んで押し黙った。長い長い間の後、弱く呟いた。
「捕食者と被捕食者の関係になるかもしれないのに、私、馬鹿だ」
「……へ?」
今度はまた何なのだ。
「私が学園に入学したのは、お父さんに立ち向かうためなの。お父さんは正真正銘の邪竜大帝、何千年も生きてきて何百万人もの人間を食べて生きてきたわ」
「ちょ、ちょっと」
「でも、邪竜族が地上の人間を食べ尽くしたせいで、クラーゲンフルト帝国を維持出来なくなるほどの状態になってきたのよ。生き残った人間達は勇者を召喚して、お父さんを滅ぼそうと画策しているの。だから、人間達が勇者を召喚する前に、お父さんは螺倉を支えている特異点を利用して地球に来ようと画策しているのよ。マキナは尖兵で、私は第二のクラーゲンフルト帝国を地球上に築き上げるための楔なのよ」
「い、いや、そういうのはさぁ」
「だからこれまで、私は誰とも仲良くしなかったし、出来なかったのよ。なのに、阿部君があんまり優しくしてくれるから付け上がっちゃって……本当に馬鹿」
「あの、だからさ」
「ごめんなさい、阿部君。もう私に近付かないで!」
振り絞るように絶叫した継美は、涙の粒を散らしながら駆け出していった。夕暮れも相まってドラマチックなシーンではあるのだが、彼女の腕には超大盛り焼きそば入りタッパーがしっかりと抱き締められていた。余程空腹だったらしい。
「で、俺にどうしろと」
そんな重大なことを告白されても、村人Aに何が出来るものか。礼司は駅前商店街を駆け抜けていく継美の背中を見送りながら、深く深く溜め息を吐いた。
胃袋はまだまだ軽くなりそうにない。