新百合ヶ丘と柿生の狭間
五.
週末が訪れたが、なんとなく据わりが悪かった。
結局、礼司はベテルギスクとブレイヴィリアにいい顔をしただけであって、どちらに対しても協力し切れていない。そればかりか、彼らの複雑で重たい事情をいい加減に引っかき回しただけだ。自分には関係ないことなんだから、と割り切ってしまえればいいのだが、それでは良心が痛む。友達甲斐がない。
「すっきりしねぇなぁ……」
休日だから思い切り寝坊しようと思っていたのだが、落ち着かないせいでいつもより早く目が覚めた。朝の六時前だ。礼司はベッドから上体を起こし、寝乱れた髪を更に掻き乱した。ふとカレンダーを見てみると、まだ螺倉学園に入学してからはまだ半月も経っていなかった。気分的には、もう二三ヶ月は過ごしたような気がしていたのだが。
二度寝する気にすらなれず、礼司が一階に下りると姉がキッチンで忙しくしていた。大学二年生の姉、阿部真里亜は料理の本と首っ引きになっているが、段取りが悪いのか、カウンターには中途半端に調理した食材が皿に載っていて、シンクには汚れた包丁が皿の上に積み重なっていた。
「何してんだよ」
「あんたには関係ない」
ジャージ姿の真里亜はヘアバンドで前髪を上げていて、広い額を曝していた。
「父さんと母さんは?」
礼司がそう言いつつリビングの掃き出し窓から外を見やると、ガレージの中には自家用車の姿はなかった。真里亜は心底面倒そうに言い捨てる。
「法事だってさ。誰かの三十三回忌、それ以上は知らない」
「ふうん。で、姉貴は何してんの?」
「関係ないでしょ、そんなの」
真里亜はフライパンの蓋を開けて中身をひっくり返したが、焼き色が付いていなかったのかまた蓋を閉じた。礼司は冷蔵庫を開けて麦茶のボトルを出し、洗いカゴから取ったコップに麦茶を入れて飲みつつ、退屈凌ぎに姉を観察した。
カウンターには大きめの弁当箱が広げてあり、切り落とされたパンの耳がぞんざいにまな板に散らばっている。麦茶のボトルの隣には水出しアイスティーを作っているらしいボトルが入っていたし、姉が広げているページにはサンドイッチがメインの弁当の詰め方が書いてある。と、いうことは。
「デート?」
「……悪いか」
真里亜はむっとしながら、焼けたばかりのウィンナーを弁当箱に入れた。もう少し冷ましてから入れた方がいいんじゃないか、と礼司はちらりと考えたが口には出さなかった。余計なことを言って姉の機嫌を損ねたら、朝っぱらから面倒臭い。フライパンに入っているスパニッシュオムレツらしき物体はひっくり返す時に失敗したらしく、形が大きく崩れている。鶏のピカタは焼けすぎていて端が焦げ、見るからに固そうだ。日頃から料理をしないから、いざというときに上手く出来ないのだ。既に弁当箱に入っているサンドイッチは形こそまともだが、卵サンドの間に入っているディップが緩いのか下に垂れ落ちている。マヨネーズを入れすぎたに違いない。
「ん」
リビングテーブルに横たわっていた姉の携帯電話が鳴り出したので、礼司がそれを渡してやると、姉はそれを引ったくって電話を受けた。
「あ、ナガオ君? おはよう! えぇそんなことないよぉ、全然っ」
電話に出た途端に声を裏返して甘ったるい態度になった真里亜は、余所行きの態度の母親に良く似ていた。真里亜は余程ナガオなる人物が好きなのか、今までに見たこともないほど媚を売っていた。ジュリエッタを見慣れているせいか、これといって嫌悪感は沸かなかったが、正視には耐えなかった。身内の醜態ほどうんざりするものはない。
「うん、うん、うんっ、解ったぁ。じゃ、三十分後にね。またね」
そう言ってから真里亜は通話を切ると、大急ぎで弁当を詰め、中身が冷めてもいないのに蓋を閉めて大判のナプキンに包んだ。
「ああもう、時間ないじゃんっ!」
キッチンを飛び出した真里亜は、大股に駆けて二階に駆け上がっていった。メイクして髪をセットするまでに、小一時間掛かるからだ。そのせいで洗面台が長時間塞がってしまうので、時間が押して礼司が遅刻寸前になることも珍しくない。今更慌てるぐらいなら逆算して行動しろよ、と文句の一つでも付けたくなったが、胸の中に収めた。朝っぱらから姉とケンカするのはごめんだ。
それから三十分後、弁当箱を抱えた姉は家を飛び出していった。化粧も髪型も中途半端だとしきりに嘆いていたが、普段とこれといって差がないように思えるのは男目線だからだろうか。そして、汚れ放題のキッチンはそのままだった。
「どうしようもねー……」
このまま放置しておいても綺麗になるわけではないので、礼司は渋々それを片付け始めた。後で母親に怒られては敵わない。皿を洗い、フライパンを洗い、鍋を洗い、切り落とされたまま放置されていたパンの耳をラップに包んでおき、包丁もまな板も洗い、道具を所定の位置に戻した。
捨てるのも勿体ないので朝食のついでにパンの耳を囓っていると、礼司の携帯電話が鳴った。フリップを開くと、ベテルギスクからの電話だった。
「おう、ベテルギスク」
『あ、うん、おはよう、阿部君』
「なんか用か?」
『あ、その、ね』
「はっきり言えよ、まどろっこしいなぁ」
『余は決めたよ。大人になる前に、アストラル界に帰ることにした』
「急すぎないか、それ」
『いずれ訪れることなんだし、余と阿部君達はいつまでも一緒にはいられないしね。それに、先輩にだってあんまり迷惑を掛けたくないんだ』
「だからって」
『もう、決めたことなんだ』
ベテルギスクの語気にはいつになく強い意志が宿っていて、生半可なことでは揺らぎそうにもなかった。礼司は説得しようと口を開けたが、思い直した。
「そっか。だったら、いつ頃帰るんだ?」
『ゴールデンウィークの後がいいかな。だから、それまでは頑張るよ。御飯だって、ちゃんと食べてみる。そうしたら、先輩とも仲良くなれるかもしれないし』
「頑張れよ。でも、無理はするなよ」
『うん。阿部君にそう言ってもらえて、余、ちょっと気が楽になったよ。じゃあ、また月曜日に学園でね。朝早くにごめんね』
そう言って、ベテルギスクは通話を切った。礼司も携帯電話を閉じる。
「あいつ、帰るのか」
だが、そのことは皆には黙っておこう。彼自身が周囲に切り出すまで待つべきだ。それもまた友達の役割というものだ。礼司は一抹の切なさを覚えたが、それが彼なりの生き様なのだと振り切った。間に合わせの朝食を終えた後、退屈凌ぎに外を出歩くことにした。家に籠もっていても、何が始まるわけでもない。
財布と携帯電話だけを突っ込んだウェストポーチを提げて自転車に跨り、鶴見川沿いの土手を走っていった。春先ではあるが今日は日差しが弱く、風も冷たい。満開の桜並木から落ちた花びらが川面で遊ばれ、流されていく。そういえば、螺倉にも鶴見川は流れている。だから、遡っていけば螺倉に行けるのではないだろうか。そのついでに学園にも顔を出し、ベテルギスクに会おう。
小田急線の線路が横切っている鶴見川を横に見つつ、車窓から見覚えのある景色と道を辿って進んでいくと柿生駅を通り過ぎた。もう少しで螺倉に到着する。と思っていたのだが、走っていくうちに新百合ヶ丘に至ってしまった。
「あれ?」
新百合ヶ丘駅の立派な駅ビルを遠くに望みながら自転車を止め、礼司は戸惑った。見過ごしたのかもしれないと引き返すが、今度は柿生駅に出てしまった。
「……あれ?」
これは一体どういうことだ。もうしばらく引き返し、土手に設置してあった看板の地図を注視してみる。そこには、螺倉という地名は一切印されていなかった。新百合ヶ丘と柿生の間にあるはずなのだが、何もない。目を凝らしても、螺倉の文字は見えない。そんな馬鹿な、確かに存在している場所なのに。青ざめた礼司は携帯電話を出してアドレス帳を確認してみると、ベテルギスクの名とアドレスも、健人とジュリエッタとブレイヴィリアの名とアドレスもきちんと登録されていた。ベテルギスクとは今し方話したばかりだし、頭に内容も残っている。だが、地図の上には螺倉は存在していない。影も形もない。
「これ、どういうこと?」
すっかり混乱した礼司は自転車から降り、土手の草むらに座り込んだ。今までの出来事は全て礼司の妄想だったのか、白昼夢だったのか、幻覚だったのか。こめかみの辺りに鋭い痛みが走り、視界がぐるりと回る。その感覚は、ブレイヴィリアに付き合わされて沖縄料理を胃がはち切れんばかりに詰め込んだ末に全力疾走した後の気分の悪さに似ていたが、あの時とは訳が違う。自分は狂人であるか否かの瀬戸際なのだ。
それから礼司は、螺倉の名を探して駆けずり回った。だが、その結果は散々たるもので螺倉の名はどこにもなかった。電話帳、看板、店名、駅の路線図、と思い付く限りの場所を見て回ったが、柿生と新百合ヶ丘の間にはやはり何もなかった。電車と併走してみれば螺倉駅に行き着くのでは、と電車と併走してみたが結果は同じだった。空しくなる一方だった。
気付いたら、日が暮れていた。混乱しすぎて空腹すら忘れていた礼司は、手近なコンビニで買ってきたカレーパンを貪りながら泣きたい気持ちになっていた。あの学園での日々にやっと慣れてきたのに、もう終わりなのか。無力な人間とは付き合いたくないと、学園そのものから弾き出されたのだろうか。それとも、覚悟を決めたベテルギスクが何かしらの力を使って礼司を遠ざけたのだろうか。どれにしても、やるせなくなる。
「君、どうしたの?」
あまりに礼司が絶望していたからだろう、通行人が声を掛けてきた。どうせ本当のことを話しても信じてもらえない。だから、無視を決め込んだ。
「ねえ、具合でも悪いの?」
そう言いつつ礼司を覗き込んできたのは、西日を背にしたのっぺらぼうだった。
「おうわぁっ!?」
一瞬にして絶望から恐怖に叩き落とされた礼司が目を剥くと、そののっぺらぼうは目を丸めた。最初に見た時は目も鼻も口もないように思えたが、目の部分にはアーモンド型の穴が空き、鼻の部分にも穴があり、口の部分にも開閉出来るようにスリットが入っている。犬神家のスケキヨに酷似している。
「あら、そんなに驚くことないじゃないのよーん」
顔のインパクトが強烈すぎて見落としかけていたが、のっぺらぼうはスーツ姿の若い女性だった。ローヒールのパンプスにベージュのストッキングを履いた太股が健康的で、どこかの会社の事務員をしているのだろう。長い黒髪が後頭部から伸びていて、川面から吹き上げた風がほのかな香水の匂いを膨らませた。
「驚くってことは……ああ、そういうことね」
のっぺらぼうOLは一人で何かを納得すると、手を差し伸べてきた。
「ねえ君、ちょっと私とお茶しない?」
「へ」
この流れでなぜナンパされる。礼司の反応に、のっぺらぼうOLは微笑する。
「取って食いやしないわよ。私は人間だもの、あなたと同じで」
さあ行きましょ、と急かされ、礼司は恐怖が抜けきらないまま立ち上がった。自転車を押して土手を下りると、のっぺらぼうOLは手招きしてきた。
「ほら、こっちこっち」
彼女はヒールを鳴らしながら横断歩道を渡ると、帰路に付いた人々が行き交う歩道を通っていった。礼司は恐怖の余韻で心臓が痛んでいたが、逆らう余力すらなかったのでのっぺらぼうOLに従っていった。線路沿いに進んでいくが、踏み切りを何度も見逃していった。そして柿生駅を通り過ぎ、その先にある踏み切りでやっと線路の向こう側に渡った。自転車を押しながら線路を渡った礼司は、嬉しさよりも先に戦慄した。
「螺倉だ……」
昼間は、あれほど走り回っても見つけられなかったのに。線路沿いの左右を窺うと、柿生駅と新百合ヶ丘駅が見える。螺倉駅の小さな駅舎もあり、駅北西部には鶴見川があり、その川沿いの土手には桜並木がある。坂を昇った先には学園の校舎があり、駅前を行き交う人々はほとんどが人間ではない。人間の形をしているのは、礼司とのっぺらぼうOLだけだった。彼女は得意げに目を細める。
「電車に乗ると比較的簡単に境界を越えられるけど、歩きだと見落としがちなの。鶴見川の土手沿いに歩いたら、さっき私が渡った横断歩道を渡って、柿生と新百合ヶ丘の真ん中にある踏み切りを渡るのよ。そうすれば、螺倉に行き着くわ」
「いくら探しても見つからなかったのに……」
礼司が虚ろに漏らすと、のっぺらぼうOLは礼司を促してきた。
「境界ってのは、手順を踏まないと超えられないものなのよ。さ、行きましょ」
白くほっそりとした手が差し締めた方向には、店内にイートインスペースを備えたパン屋があった。礼司はふらつきながら従い、店内に入ると焼けた小麦の香りが押し寄せてきた。焼き立てのパンが載った鉄板を抱えて厨房から出てきたのは、ロボットだった。白い作業着はいかつい体にぴったりと貼り付いていて、窮屈そうですらある。
「おういらっしゃいシズちゃん、そっちは誰だ?」
「ボーイフレンドよん。ブレンドコーヒーを二人分お願い出来るかしら」
のっぺらぼうOLは軽口を叩きながら、慣れた様子で丸テーブルに付いた。礼司は彼女の向かい側に腰掛け、コーヒーが運ばれてきたので口にした。純喫茶ハザマのコーヒーに比べると苦くて濃いが、バターが効いた食べ応えのあるパンにはよく合いそうな味だった。
「少しは落ち着いた?」
のっぺらぼうOLは砂糖とミルクをたっぷりと入れ、厚手のカップを傾けた。
「ああ、はい。なんとか」
礼司が力なく応じると、のっぺらぼうOLはバッグから名刺を出した。
「私、青沼静子っていうのよ。あなたは?」
「青沼……って、ジュリエッタと同じ名字だ」
名刺を受け取った礼司が何の気成しに呟くと、のっぺらぼうOL、もとい、静子はちょっと驚いたようだった。
「あなた、ジュリーのお友達なの?」
「ええ、まあ。螺倉学園高等部一年D組の、阿部礼司っていいます。……てことは、青沼さんってジュリエッタの保護者かなんかですか?」
「恋人よ」
しれっと言い切った静子に、礼司は気の抜けた返事をした。
「はあ……」
「ジュリーがどんなに可愛くて素敵かを説明し始めたら一晩じゃ足りないから、今日のところは断念しておいてあげるわ。あなたに話すことは山ほどあるから」
静子はコーヒーカップを置き、カントリー調の椅子に寄り掛かる。
「阿部君は、どうして螺倉に来られるようになったの?」
「どうって、普通に学園に受験して編入したからですけど」
「螺倉の外には出られるのね?」
「ええ、まあ。俺は通学組なんで」
「私のことは、どういうふうに見える? この店のオーナーは?」
「青沼さんはのっぺらぼう、っていうか、スケキヨマスクを被っているように見えて、この店のオーナーはロボットみたいな感じに」
「ジュリーのこともスライムに見えているのね?」
「はい。てか、それ以外の何物でもありません」
礼司の答えに、静子は腕を組んで顎に手を添えた。
「ふうむ。ということは、阿部君は私と同じね。チャンネルが合うだけなのね」
「チャンネル?」
「そう、チャンネルよ。ほら、ラジオのチューニングを合わせていると、地元局じゃないFMの電波が拾えちゃうことがあるじゃない?」
「俺、ラジオは聴かないんで」
「あらそう、勿体ないことしているわね。でも他の例えが思い付かないから続けるけど、普段は螺倉という空間は人間の世界から隔絶されているのよ。もちろん、学園もね。それは人間が無意識のうちに、螺倉を避けているからよ。夜中に神社や墓地の前を通り掛かると、なんとなく嫌ぁな感じがして目を逸らしたくなるでしょ? 普通の人には、あれと同じことが起きているの。だから、普通の人の目には皆が人間に見えるし、人間じゃないものに見えたとしても、次元が脳に直接作用して情報をすり替えちゃうから、人間じゃないってことがバレたりはしないの。解った?」
「なんだかよく解りません」
「私だって完全に理解したわけじゃないわよ、螺倉に体が馴染んじゃったってだけ。話を戻すけど、螺倉にチャンネルが合う人間はそうそういるものじゃないのよ。螺倉という空間と次元を構成しているのは、多次元宇宙のインターバルと言うべき空間にやってきた異次元の存在なの。彼ら一人一人が軸となって、この不安定な空間を支えているわけ。そうね……喩えるならば、風船に息を吹き込んで膨らませて出来たのが螺倉なのよ。エアーコンプレッサーとかで膨らませた風船には外気が入っているけど、風船に直接口を付けて膨らませた風船の中身は肺の中身でしょ? つまりはそういうことなのよ」
「えー……えぇー……?」
「で、その風船の口はいつも閉じてあるのね。外に漏れてもすぐに対消滅しちゃうけど、漏れないに越したことはないからよ。でも、たまーに風船の口を知らず知らずのうちに見つけて滑り込んで来ちゃう人間がいるの。それが、私や阿部君みたいな人よ」
「じゃ、螺倉から外に連れ出したら、ジュリエッタも人間に見えるんですか?」
「いいえ。私にはいつもの最高にキューティーなスライムちゃんに見えるわよ。だって、頭の中のチャンネルがぴったんこに合っているんだから。でも、こうすれば人間の姿に見えるのよ」
ちょっと失礼、と言いつつ、静子は腰を上げた。レジカウンター越しに店主を手招きし、スマートフォンのカメラで一枚写真を撮ってから戻ってきた。
「ほら」
そこに映っていたのは白い作業着を着たロボットではなく、分厚い筋肉を帯びた屈強な男で、間違いなく人間だった。礼司はその写真と店主を見比べる。
「えっと……」
どうしてこうなるのかを静子に説明を求めたかったが、あまり質問ばかりするのは気が引けてくる。礼司は懸命に頭を働かせ、静子の今までの説明と今の状況を照らし合わせた上で捻り出した結論を口にした。
「ええと、つまり、俺と静子さんの脳みそは、そのチャンネルってのが合っているからオーナーがロボットに見えるけど、携帯のカメラは機械だからチャンネルを合わせること自体が出来ない。だから、人間に映る、ってことですか?」
「そういうこと。解ってきたじゃない」
静子は満足げに頷くと、今度は自分撮りをして、その写真も礼司に見せた。
「で、これが外の世界での私の姿。可愛くないでしょー?」
スマートフォンの四角い液晶画面に映っていたのは、どこにでもいそうな二十代半ばの女性だった。一重瞼で細面で、顔の部品が全体的にこぢまんりとしていて化粧も薄いので、継美やブレイヴィリアのような迫力のある美人ではないが、決して魅力に欠けるわけではない。むしろ、和服を着て落ち着いた色気を醸し出せば、継美やブレイヴィリアでは足元にも及ばないだろう。
「そんなことないですよ」
本心からそう思った礼司が言うと、静子はすぐにその画像を削除した。
「御世辞なんていらないわ」
先程までの明るい調子とは懸け離れた、強い拒絶が宿った言葉だった。静子はスマートフォンをバッグに入れると、再びテーブルに付いた。
「で、他に何か聞きたいことはある?」
「いえ、今はこれといって」
礼司は冷めてきたコーヒーを啜り、静子の話を消化するべく努力した。
「じゃ、ジュリーのことを話してもいいかしら?」
静子は思春期の少女のようにはしゃぎ、身を乗り出してきた。
「あの子はね、十年前に空から降ってきたのよ! 私は物心付いた頃から螺倉が見えていて、出入りも出来ていたから、秘密基地みたいな感覚で通っていたのよ。だって、ここにいると私の顔がどれだけ醜くても気にならなかったから。本当は中学校から学園に通いたかったんだけど、その頃の私は私立中学に受験するほどの学力も、親の経済力もなかったから断念せざるを得なかったのね。だから、中学時代は一杯勉強して奨学金をもらえるぐらいの成績を取って、入学したってわけ。今の阿部君と一緒ね」
静子は過去を懐かしんでいるのか、目を細めている。
「でね、凄くドキドキしながら学園の校門をくぐったら、空から変な固まりが降ってきたの。人型の白い袋に詰まった物体が私の目の前に落ちてきて、べしゃあって青い粘液をぶちまけたのよ。そりゃあもうビックリしたわ、心臓が飛び出すかと思ったぐらい。でも、他の生徒達は目もくれないから、私だけがそれに触ってみたのね。そしたら、それは人型の袋に収まって立ち上がったんだけど、水分が抜けて体積が縮んじゃっていて、一抱えぐらいの大きさになったのよ。このくらいね」
と言いつつ、静子は両手でバスケットボール大の空間を作った。
「で、このまま放っておくのもなんだから、ってことで私はそれをスポーツバッグに入れて家に連れ帰ったのよ。お金が足りなくて寮に入れなかったから、親戚が所有しているオンボロアパートに格安で独り暮らししていたから、誰にも怒られる心配なんてなかったし。で、アパートに帰って、その青い粘液を白い袋ごと水を張ったお風呂に入れてみると、水をたっぷり飲んで元の大きさに戻ったジュリーが現れたってわけ」
「あー、だから、ジュリエッタは校門から飛び降りてきたんですか」
「私と出会った時みたいに、すぐに友達が出来るって思ったのね、きっと。ああん可愛いったらないわぁ、ジュリーったらぁん」
胸の前で手を組んでうっとりする静子に、礼司は尋ねた。
「ジュリエッタがすげぇブリッコで変な擬音だらけで喋るのはなんでですか?」
「私の英才教育の賜物よぉー。女の子の形になるのも可愛いでしょ?」
「オスでもメスでもないんですよね? だったら、もっと中性的にした方が」
「解っていないわねぇ。あの子はね、どっちでもないから究極にプリティーなのよ。そもそも性別が存在しない生き物なんだから、どっちにもなってもいいのよ。中性的、なんていう概念を与えた時点でアウトよっ!」
静子はやけに情熱的に語り出し、拳まで固めた。
「スライムはね、馬鹿だ馬鹿だと思われがちだけど、馬鹿だからこそ純粋なのよ。捻くれたって引っ張れば元に戻るし、余程大事なこと以外は三日で忘れちゃうし、御飯なんて噛まないし、水を吸わせれば大増殖しちゃうけど日干しすれば半分以下の体積に戻るし、千切って捏ねればどんな形にも出来るし、とにかく自由自在なのよ。だから、私もジュリーを自由に愛するのよ。そう、愛の前には種族の壁なんてないんだからっ!」
「はあ」
「だから、阿部君も螺倉にいる誰かを好きになったら、余計なことなんて考えないで突っ込んでいきなさい。まあ、手順を踏ますに突っ込むのはダメだけど」
得意げにウィンクした静子に、礼司はやる気なく返した。
「はあ……」
ジュリエッタも強烈だが、その飼い主というか恋人である静子も充分強烈だった。スケキヨマスクの時点で充分変だが、その中身は更に変だ。地球上には実在していない螺倉に住んでいる時点で、常人の感覚からは懸け離れている。
「じゃ、私はこれで。ジュリーが御留守番しているから、早く帰らなきゃっ」
コーヒーを飲み終えた静子はバッグを担ぐと、二人分のコーヒー代をレジに置き、足早にパン屋を出ていった。店内に一人残された礼司に、コーヒーポットを手にしたロボット店主が近付いてきた。
「兄ちゃん、サービスしとくぜ」
「あ、どうも」
礼司はコーヒーを飲み終えると、二杯目を入れてもらった。煮詰まったらしく、一杯目よりも濃くなっていた。店主はコーヒーポットを厨房に下げてから、交差点を渡っていく静子の背中を窓越しに見送った。
「ありがとな」
「え?」
何に対して感謝されたか解らず礼司が聞き返すと、ロボット店主は腕を組む。
「俺達みてぇなのは、お互いが変な者同士だから、多次元宇宙におけるインターバルで完全な中立地帯の螺倉に来ても警戒心が抜けねぇんだ。地球の存在している次元と空間が歪みを補正しようとする力のおかげで能力やら何やらが一切使えないと解っていても、元々住んでいた場所で起きていた戦いやら諍いを引き摺っているんだ。多次元宇宙を繋ぐ穴が空くってことは、次元と空間を貫くほど膨大なエネルギーを消耗しているってことだからな。それだけのエネルギーを使うことって言ったら簡単だ、戦争しかねぇよ。だから、気を抜いたら死ぬ、他人を信用したら殺される、心を尖らせていないと現実に押し潰される、ってな連中ばっかりなんだ。俺だって例外じゃねぇ。だから、お前や静ちゃんみてぇな能天気で平和ボケしまくったのがいてくれると、気が休まるんだよ」
「褒めているようで貶していませんか?」
「そんなこたぁねぇよ。ぬるま湯がたっぷり詰まった緩衝材がなかったら、俺達はとっくの昔に螺倉でさえも焼け野原にしちまっていただろうさ」
ロボット店主はさらっと恐ろしいことを言い残し、厨房に戻った。熱々のコーヒーを少しずつ飲み、礼司はカフェインが効いてきた頭で考えた。
螺倉とは、一歩引いて付き合うぐらいが丁度良いのかもしれない。彼らにはそれぞれの事情があるのだから、あまり深く立ち入るのはどちらにとっても良くない。礼司は所詮村人Aであり、話し掛けられたら決まり切ったセリフを返すぐらいしか出来ない。勇者が世界を救う物語を左右することも出来ず、魔王の野望を挫くことも出来ない。だから、学園の皆との距離感もそれぐらいでいい。
暗くなってきたので自宅に帰ると、両親は既に帰宅していて姉もデートから帰ってきていた。デートの相手はあのいい加減なサンドイッチ弁当を平らげてくれたらしく、真里亜は終始上機嫌だった。世の中には奇特な人間がいるものだ。
礼司自身も例外ではないが。