姫騎士先輩とスイーツ魔王
三.
純喫茶ハザマ。
放課後、ベテルギスクが案内してくれたのは、通学路から少し外れた路地にあるログハウス風の喫茶店だった。敷地を取り囲んでいるのは綺麗に刈り込まれた生け垣で、テラス席では近所の主婦であろうグループが談笑している。だが、それもまた全員人外である。入り口を挟んでいる石柱の門には、コウモリ型の看板が掛けられている。ガラスの填ったドアを開けると、からんころん、と軽快なベルが鳴り、ウェイトレスの明るい声が掛けられた。
「いらっしゃいませぇー!」
その声の主は、全身を隈無く包帯で覆い尽くしたウェイトレスだった。ブリティッシュメイドを思わせる、ロングの黒ワンピースにフリフリのエプロンにヘッドドレスが致命的に似合っていない。彼女は、礼司らを店内へと促す。
「二名様ですね、こちらのお席にどうぞぉー」
真鍮の盆を抱えている包帯ウェイトレスは、左目と長い黒髪だけが露出していて、それ以外はどこもかしこも包帯だった。喋るたびに口元らしき部分が僅かに上下するが、その下から唇が覗くことはなかった。礼司とベテルギスクが案内されたのは窓際の四人掛けの席で、礼司は楽に座れたがベテルギスクは苦労しながらソファーに身を収めた。どうやってもはみ出してしまう翼は他の客の迷惑にならないように縮めているが、それでも両端が通路に飛び出していた。
「御注文がお決まりになりましたら、お呼び下さぁーいっ」
二人分の氷水をテーブルに置いてから、包帯ウェイトレスはカウンターに戻っていった。その中では店主であろうエプロン姿の二十代後半の男がコーヒーを煮出しているが、その左目には黒い眼帯が掛けられていた。
「で、その、話ってなんだ?」
礼司が紙ナプキンやシュガーポットの傍に置いてあるメニュー表を取ると、ベテルギスクはメニュー表のケーキの欄を示した。
「あのね、ここのケーキはどれもおいしいんだけど、余はフォンダンショコラが一番好きなんだ! その次はこのカプチーノケーキで、ちょっと甘めのカフェオレと一緒に食べるのが最高なんだ! だけど、こっちの期間限定のイチゴのレアチーズケーキも……」
ベテルギスクはいつになく声高に喋り続けていたが、はっとして俯いた。
「ごめん、そういう話じゃなくて……」
「甘いのが好きなんだなぁ」
「あ、うん。凄く……」
反応に困った礼司が褒めもしなければ責めもしない言葉を口にすると、ベテルギスクはウロコに覆われていない目元をかすかに赤らめた。赤面したらしい。
「で、阿部君はどれがいい? 余はイチゴのレアチーズケーキかな。あと、アールグレイの紅茶。とっても良い香りがするんだよ」
「じゃあ、俺はこれで」
礼司は一番値段の安いカスタードタルトを差し、これもまた値段が安めのオリジナルブレンドのコーヒーにした。知り合って間もないのに奢られるのは少々気が引けるからだ。すぐにベテルギスクは包帯ウェイトレスを呼び、注文した。
それからしばらくして、ベテルギスクの分と礼司の分がテーブルに運ばれてきた。ベテルギスクは小さなフォークを爪先で挟み、ピンク色のレアチーズケーキを少しずつ切っては先割れの舌先に載せて絡め取っていく。礼司もカスタードタルトを食べ、コーヒーを飲んだが、確かにおいしかった。洋菓子の善し悪しが解るほど食べ慣れてはいないが、どちらも作りが丁寧なのは間違いない。
「ちょっと元気が出てきた。やっぱり甘いものはいいなぁ」
イチゴのレアチーズケーキを綺麗に平らげたベテルギスクは、ティーカップの取っ手を爪先で挟んで器用に持ち上げると、薫り高い紅茶を傾けた。礼司も粗方食べ終えたので、今一度話を切り出した。
「んじゃ改めて聞くけど、ベテルギスクは俺にどういう用事があるんだ?」
ベテルギスクはウロコの間から巾着袋を出し、おずおずとテーブルに載せた。
「これ、小林先輩に返してきてくれないかな」
「そんなこと、自分でやればいいじゃないかよ」
「で、出来るわけないよ。自分から近付くなんて、考えただけで怖くて怖くて」
「てか、あの金髪縦ロールの先輩ってどこに住んでいるんだ?」
「え、あ、女子寮」
「だったら尚更、俺なんか行けないじゃないか。女子の友達なんていないし」
「う、あ、でも、返さないでずっと手元に置いておくのも怖いし……」
「巾着袋がお前を喰うもんか」
「あ、でも、その、ね、まるっきり阿部君に不利益ってわけでもないんだよ」
ベテルギスクはテーブルを押し潰すのではないかと思うほど身を乗り出し、礼司に鼻面を寄せると、そっと囁いてきた。
「先輩のルームメイトって、横嶋さんなんだよ」
「っ!?」
照れ臭さと気恥ずかしさと妙な嬉しさと圧倒的な下心で身動いだ礼司に、ベテルギスクはにんまりする。
「あはは、やっぱりそうだぁ。阿部君っていつも横嶋さんのことを見ているから、もしかしたらそうじゃないかなぁって思っていたんだ」
「だ……だけどなベテルギスク、横嶋さんと金髪縦ロールの先輩がルームメイトだったとしても、その、そう都合良くは事が運ばないんじゃな、ないのか?」
そうは言いつつも、礼司は言葉とは裏腹に頬が緩んで緩んで垂れ落ちそうだった。女子寮に近付ける、というだけで十六歳の少年に相応しい妄想が荒れ狂い、もしかするともしかするかも、と胸の奥が沸騰した。このチャンスは、継美を見ているだけで精一杯、声を掛けるなんてとんでもない、近付くなんて言語道断、と思うが故にその逆の衝動が溜まりに溜まっている礼司に降って湧いた幸運ではなかろうか。いや絶対にそうだ。
「か、返すだけだからな? その後は俺の勝手だからな、な、な?」
締まりのない顔になった礼司は巾着袋を引ったくると、通学カバンに押し込んだ。ベテルギスクは巾着袋が視界から消えたことで安心したのか、目を細めた。
「うん。ありがとう、阿部君」
「どうってことねーよ、こんなもん」
と、思っていたのだが。
翌日の放課後。
礼司は喉輪を喰らってレンガ造りの壁に押し付けられていた。目の前にいるのは、こんな状況でさえなければ見取れているであろう金髪碧眼の美少女だった。それは、ブレイヴィリア・エクストリア・小林だった。彼女は礼司が学園女子寮の敷地内に入るや否や飛び掛かってきて、一瞬も隙を与えずに抑え込んできた。女性らしからぬ恐ろしい力を発揮する指が喉と動脈を圧迫しているため、礼司は視界が暗くなってきた。まずい、このままでは落ちる。
文字通り死に物狂いで壁を叩くと、タップだと理解してくれたらしく、ブレイヴィリアは喉輪を掛けていた手を緩めてくれた。血流と呼吸が戻ってきた礼司は激しく咳き込みながら、へたり込んだ。三途の川が見えるかと思った。
「貴様はベテルギスク十三世の密偵か、或いは斥候か、でなければ刺客か」
ブレイヴィリアはラフなワンピースにレギンスという部屋着姿ではあったが、その立ち姿に隙はなく、殺意すら感じられる凶相を作っていた。
「どうなのだ、さあ答えろ!」
ブレイヴィリアは間髪入れずに礼司の襟首を掴んできたが、まだ息苦しさが残っている礼司は咳き込むばかりで声を出せる状態ではなかった。
「答えなければ首を刎ねる、顔を剥いでやる、脊髄を引き抜いてくれる!」
凶相のブレイヴィリアに頭を揺さぶられ、尚更礼司は答えられなくなっていく。再度壁を叩いた。ブレイヴィリアは渋々手を離すが、凶相は緩まない。
「この私の尋問に屈しないとは、貴様はなかなか見上げた根性の持ち主だな。だが、それもいつまでも続くものではないぞ」
次第に焦りが滲んできたブレイヴィリアは礼司の襟首を掴み、片手で持ち上げて立たせた。握力と同様に腕力も凄まじい。高三女子の平均と比較すればかなりの長身であるブレイヴィリアは、礼司の足が浮き上がってしまうほど高く掲げ、口角を鋭く吊り上げる。
「自白か、死か。どちらかを選べ」
全力で自白したいのだが。こうなったらモノを渡してしまえ、と礼司は余力を振り絞って、肩に掛けた通学カバンの中から巾着袋を引き摺り出した。
「……それはっ!?」
巾着袋を目にした途端、ブレイヴィリアは飛び退いた。途端に礼司も解放され、強かに石畳に尻を打ち付けた。ブレイヴィリアは礼司が握り締めている巾着袋を凝視していたが、今までの強気すぎる態度とは正反対の及び腰で近寄ってきた。
「か、返してくれたのか? ベテルギスク十三世が?」
「つか、俺はただの使いっ走りで」
厄介払いだと言わんばかりに礼司が巾着袋をブレイヴィリアに押し付けると、ブレイヴィリアは巾着袋を受け取り、眉を下げた。
「そうか、本人は来なかったのか。それで、中身はどうしたのだ?」
ベテルギスクが食べた、と言えばブレイヴィリアは喜ぶのだろうが、嘘を吐いてはまた面倒なことになるに違いないので、礼司は真実を述べた。
「俺のクラスメイトの、倉田が完食しました」
「あのタコか」
「はい、タコです」
それについては異論もなければ間違いもない。ようやく正常な呼吸を取り戻した礼司が頷くと、ブレイヴィリアは巾着袋を見つめながら肩を落とした。
「食糧の譲渡は和平に繋がる交渉術だと聞いたが、上手くいかなかったのか」
「すげぇ失礼なこと言いますけど、あれで上手く行くって思う方がどうかと」
「だが、私が参考にしたのは兵法書ではなく、少女漫画だぞ?」
「待ち伏せして弁当渡す、ってのはまあ、ベッタベタですけど、攻撃しちゃったら何の意味もないんじゃないですか?」
「あれが攻撃なものか。あんなもの、ただのじゃれ合いに過ぎん」
「……さっきのもそうなんですか?」
「無論だ」
「俺、ガチで死にかけましたけど」
「そうか? かなり手加減したのだが。心臓を抉り出していないだろう?」
ブレイヴィリアは何がいけなかったのかを全く理解していないらしく、きょとんとしている。これなら、どこに出しても恥ずかしい乙男だと判明したベテルギスクと押せ押せどころか地上を更地にしかねない勢いのブレイヴィリアでは、意思の疎通が上手くいかなくて当然だ。というより、魔王と姫騎士の思考回路が正反対なのが奇妙極まりなく、礼司は軽く混乱してしまった。
「ふむ。ならば、貴様は奴の密偵でも斥候でも刺客でもないというのだな?」
ブレイヴィリアは礼司を見回してきたので、礼司は弱々しく答えた。
「ええ、まあ。村人A的なクラスメイトですけど」
「ならば、その、ベテルギスク十三世と親しいのか?」
「親しいってーか、友達になりたてっつーかですけど」
「ならば私に付き合え」
そのセリフは昨日も言われたような。
「そこで待っていろ、支度してくる。動くな、逃げるな、戦場を恐れるな!」
ブレイヴィリアは拳を突き上げると、両開きのドアを開けて女子寮の中に入っていった。それから数分後、戻ってきたブレイヴィリアは部屋着から私服に着替えていた。薄手の白いケーブルニットに明るいオレンジのダウンベスト、デニムのホットパンツにハイカットの赤いスニーカーで、量の多い金髪縦ロールの髪は幅広のシュシュで一纏めにされていた。さあ行くぞ、とブレイヴィリアが大股に歩き出したので、礼司は少々迷ってから彼女の後を追い掛けた。足が速い上に振り返らないので、ぼやぼやしていると置いてけぼりを喰らいそうになる。
それから十数分後に辿り着いたのは、駅前商店街に連なるこじんまりとした食堂だった。四隅に錆が浮いたトタンの看板には、筆書きで店名が印してある。南海食堂ニライカナイ。ブレイヴィリアは躊躇いもなく色褪せたのれんを捲り上げると、磨りガラスの引き戸を開けて店内に入った。時間帯が中途半端なので客の数はまばらで、醤油と野菜の焼ける香ばしくも甘い匂いが漂ってきた。間を置かずして、店主から声が掛けられる。
「いらっしゃいませ。おやおや、そちらはどなたですか、ブレイヴィリアさん」
カウンター越しに目を向けてきたのは、赤い単眼で紫色のオオトカゲだった。ハイビスカス柄のエプロンを付けているが、まるで似合っていない。
「後輩だ。ソーキそばの大盛りとカツ丼」
ブレイヴィリアはカウンター席に腰掛けると、メニュー表も見ずに注文した。名前を知られていることから察するに、彼女は常連らしい。
「貴様も喰え、食堂に来ておいて何も喰わずに帰っては無意味だ」
ブレイヴィリアはカウンターに置いてあったメニュー表を取り、隣に腰掛けた礼司に突き出してきた。礼司はそれほど空腹は感じていなかったが、仕方なくメニュー表を受け取って眺めてみたが、沖縄料理とは縁がないので何がなんだかよく解らなかった。とりあえず量が少なそうなものを、と選んだのが。
「あ、じゃあ俺は味噌汁で」
汁物一品というのもなんだが、帰宅したら自宅の夕食もあるのだから。すると、ブレイヴィリアが意味深な笑みを浮かべた。彼女の笑顔を見るのはこれが初めてではあったが、ときめきや胸の高鳴りは一切感じなかった。目は細められていたが好意や親しみは混じっておらず、口元も綻んでいたが柔らかさはなく、どちらも刃の如く鋭かった。たとえて言うならば、肉食動物が牙を剥いて威嚇するかのような表情だった。
「な……なんですか?」
礼司が愛想笑いを作ると、ブレイヴィリアは長い足を組んで頬杖を付いた。
「己が注文したものだ、責任を持って残さずに喰らえ。それが礼儀だ」
「そりゃ、言われなくても解ってますけど」
ブレイヴィリアのホットパンツから伸びた白い太股の瑞々しさに胸中がざわめき、礼司は語気を弱めた。食べ物を無駄にしないのは人として当然ではないか。ついでに言えば、とんでもない美少女が隣にいれば目がいくのも当然だ。理由もなければ意味もないのだが、継美に対して申し訳なくなった。
料理が出てくると、礼司はブレイヴィリアの笑みと言葉の意味を嫌になるほど理解した。礼司の目の前には、野菜とハムと豆腐が山盛りに入った味噌汁の丼とそれと同じサイズで山盛りの白飯が入った丼が並べられた。ブレイヴィリアの注文したソーキそばとカツ丼はそれ以上の量があり、カツ丼もまた野菜がたっぷりと入っていた。昨日の放課後にベテルギスクと食べたケーキとは天と地ほどの差はあるが、こちらはこちらで充分食欲をそそる匂いである。実際、味噌汁を食べてみると野菜の甘みが煮え出ていて旨いが、食べても食べても底が見えない。
「よろしかったら、おかわりもサービスいたしますよ?」
カウンターの向こうから単眼オオトカゲの店主が笑いかけたが、礼司は必死に断った。早々にソーキそばとカツ丼を食べ終えたブレイヴィリアは、水を呷る。
「貴様、喰うのが遅いな。それでは行軍に支障を来すぞ」
「まだ昼が腹に残っているんで、あんまり無茶言わないで下さいよ。てか、小林先輩はどんだけ喰ったんですか」
呆れ半分感心半分の礼司が、米粒一つ残さずに底を見せているブレイヴィリアの丼を見やると、ブレイヴィリアは僅かに目を泳がせた。
「……騎士たるもの、体が資本だからな。喰うに越したことはない」
まだ腹に隙間がある、とブレイヴィリアはデザートに黒糖ぜんざいを注文し、それをスプーンで突きながら話を切り出してきた。
「そういえば、貴様の名をまだ聞いていなかったな」
「ああ、そういえば。一年D組の阿部礼司です」
「私の名は聞いているか」
「えーと……小林先輩ですよね」
「そうだ。だが、それを誰から聞いた。答えろ、さもなくば」
「いやいや脅さなくてもいいですよそのぐらいで! ベテルギスクからです!」
「そうか。奴か」
ブレイヴィリアは良く冷えた白玉を噛み締め、眉をきつく吊り上げる。
「阿部礼司。貴様は奴をどう思っている」
「悪い奴じゃないですよ。ビビリで女々しいですけど、それ以外は普通で」
「ならば、私の見立ては正しかったと言うことか」
ブレイヴィリアは黒糖のシロップで煮た小豆の下のかき氷を掬い、頬張る。
「私はベテルギスク十三世に和睦を申し込みたいのだ」
「ワボク……ってああ、あれですか。戦国時代とかでよく出てくる」
「そうだ。私は己が生まれ育った地上界と奴の出身のアストラル界との間で繰り広げられている万年単位の戦争に終止符を打つべく、まずは個人同士での相互理解を図ろうとしているのだ。歴代の魔王はどいつもこいつも破壊と邪心の権化だったが、ベテルギスク十三世は比較的温厚な性格の持ち主なのだ。だが、元の世界では話し合いの席を作れはしなかった。私は天界族と地上人の混合軍を率いて最前線で戦っていたし、ベテルギスク十三世はアストラル界の魔王として全軍を指揮していたからな。顔を合わせる以前の問題だった。よって、平和的解決に導くべく行動を起こしたのだが、どうにも上手くいかなくてな。互いの生まれ故郷で生き、戦い合い続ける限り、和睦に至るための穏便な話し合いすら叶わぬと踏み、ベテルギスク十三世を追って螺倉に来たのだ」
「てことはあれですか、俺を橋渡し役にしたいんですか?」
「案ずるな、貴様如きを交渉のカードにするつもりはない。増して、外交の経験すらない素人を重要な任務に就けるはずがなかろう。人質にしたところで無価値である上、そのような条件ではベテルギスク十三世は交渉のテーブルに付くとは思えんからな。奴は貴様を介して私の巾着袋を返してはくれたが、当人は顔を出さなかったからな」
「いや、それはただ単に」
先輩を怖がっているだけです、と礼司は言いかけて白飯と一緒に飲み込んだ。
「私の私物を返したということは最低限の礼儀は弁えているようだが、直接的な対話を試みないということはこちらの意図を踏み躙っているのだろう。癪に障るが、ここで攻撃を仕掛けてはこれまでの歴史となんら変わらぬ最後を迎えてしまう。そこで、だ」
ブレイヴィリアは黒糖ぜんざいの器の底に残った甘い汁を呷り、器を置く。
「貴様、私と友好関係を持て」
「……はいぃ?」
礼司は展開に付いていけず、声を裏返した。礼司の頭の中では、ベテルギスクとブレイヴィリアの仲を取り持て、という予想が出ていた。両者は和睦の交渉をする以前の関係なのだから、まずはごくごく普通の生徒同士の関係を作るのが先ではないだろうか。その程度であれば手伝えなくもないだろうし、魔王と姫騎士が仲良くなるための下地を作っていく過程で、ブレイヴィリアのルームメイトである継美と親しくなれたらいい、とささやかで遠回りな願望を抱いていた。だが、それでは遠回りどころか逆走だ。
「私が異民族と友好的な関係を築けると知ったらば、ベテルギスク十三世も態度も軟化してくれるだろう。我が王国エクストリアダムの民は、誰もが天界族の末裔であるが故に生まれながらにしてアストラル界に敵意を抱き、本能的に戦闘衝動に駆られ、その延長で異民族や他種族に対しても排他的だった。故に、異なる者を理解するという思考が根本から欠けているのだ。それでは、何万年が経とうとも戦いが終わるわけがない。互いの世界を支える次元軸が損傷して崩壊するか、どちらかの種族が全滅するまでは誰も剣を下げようとしないだろう」
「はあ……」
言っていることの意味が半分も理解出来ないが、大変なのは解った。礼司が気の抜けた返事をすると、ブレイヴィリアは氷がほとんど溶けた水を飲み干した。
「了承してくれるか、阿部礼司」
ブレイヴィリアは至って真剣で、真っ向から礼司を見つめていた。いつのまにか入店していた人外の客達も礼司に注目していて、厨房にいる店主のオオトカゲも単眼を向けていた。これで嫌だと言える者がいるとするならば、余程剛胆か無神経かのどちらかだろう。
実際には一分足らずの時間ではあったが、厨房で炒め鍋の油が弾ける音と換気扇の回る音とテレビから流れる夕方のワイドショーの音声がいやに遠く、時間の感覚が長く感じた。礼司は半端に噛んでいた豆腐を奥歯で噛み潰して嚥下してから、はち切れそうな腹を括った。
「解りました」
「そう言ってくれて何よりだ。私の提案を否定されてしまったら、外交上の機密保持のために貴様の脳髄を弾き飛ばしていたところだ。では、今後の外交戦略のために具体的な作戦を立てようではないか、阿部礼司」
「戦略? 作戦?」
友達になるだけなのに、何を大袈裟な。
「友人でなければならない。私と貴様は恋愛関係を築くわけにはいかん」
「そりゃまあ……」
「なぜなら私は、和睦を成立させた暁にはベテルギスク十三世の伴侶となることを胸に据えているからだ。両世界の仲を取り持つには、それが手っ取り早い」
「はあ」
「だが、今日はもう時間が遅い。帰投しろ。起立、駆け足!」
ブレイヴィリアは椅子を蹴り倒しかねない勢いで立ち上がり、号令を掛けた。
「え、あ、代金は」
なんとか残りの味噌汁の具を胃に詰め込んだ礼司が通学カバンを持って立ち上がると、ブレイヴィリアは店主を一瞥した。
「ツケておけ。私の分もだ」
「では、お支払いはまた月末に、ということでよろしいですね」
単眼オオトカゲの店主はレジの下から台帳を取り出し、書き込んだ。
「命じられたら即座に行動しろ! 聞こえなかったのか、耳を切り落とすぞ!」
ブレイヴィリアから雷鳴の如く怒鳴られ、礼司は大慌てで駆け出した。
「ごぉちそうさまでぇしたぁああああああっ!」
だが、限界まで食べてからすぐに走ったために恐ろしく気分が悪くなり、礼司は螺倉駅に着く前にダウンした。幸い食べたものが戻ってくることはなかったが、落ち着くまでは時間が掛かりそうだったので、少しでも気の晴れる場所に行こうとよろめきながら足を進めた。死にそうな思いをしながら辿り着いたのが、通学路でもある土手の桜並木だった。
ここなら、万が一逆噴射しても川に流せば済む。足を踏み外さないように余力を振り絞りながら階段を下り、土手から河川敷に至った礼司は、コンクリートで固められた川べりに座り込んだ。辺りはすっかり暗くなり、土手の街灯と向こう岸の街明かりが光り輝いていた。こうしてみると、螺倉は日本中のどこにでもある平凡な街だ。だが、その実体は。
時折、桜の咲き乱れる土手に人が通る。街灯のオレンジ色の柔らかな明かりが影を作り、川面を横切っていく。その影絵を何の気成しに見ていると、普通の人型をしているものもあれば、訳の解らないものもある。螺倉から外に出れば、彼らの姿はどう見えるのだろう。人間なのか、それとも誰にも見えないのか。そんなことを考えていると、見覚えのある竜人の影が通り掛かった。
見間違うはずがない。横嶋・リンドヴルム・継美だ。礼司は気分の悪さも戸惑いも昨日今日のゴタゴタも今し方考えていたことも何もかもを忘れ、振り返った。街灯の逆光を浴びながら土手に立っている継美は、制服姿のままだった。
「横嶋さん」
礼司は悩むよりも早く、呼び掛けた。継美は立ち止まり、礼司を見下ろす。
「阿部君」
向こう岸では小田急線が駆け抜け、土手の下では車が通っているので静寂はないが、沈黙は生まれていた。礼司は二の句を継ごうとしたが、胃に詰まったものが語彙すらも圧迫しているのか、口中で舌がもつれていた。継美は尻尾の先を丸め、紺色のハイソックスを履いた脹ら脛に絡み付けた。
「横嶋さん、なんでこんなところに」
「お花見」
継美はコンビニのレジ袋を掲げ、尻尾の先で桜並木を示した。
「ああ、なるほど。でも、こんなに遅い時間で一人で出歩くのは危ないんじゃ」
礼司が納得しつつも案じると、継美は土手から河川敷に下りてきた。
「平気よ。その時はやり返すから」
「うっ」
「なあに? その反応。まさか、私が阿部君を手打ちにするとでも思ったの?」
継美は拗ねたように、唇を尖らせる。礼司は一瞬迷ったが、正直に話す。
「あー……いや、その、小林先輩に色々と」
「あぁ、そういうこと。小林先輩って別に悪い人じゃないんだけど、エキセントリックだから」
「ベテルギスクからルームメイトだって聞いたけど、それって」
「本当よ。そんなことで嘘を吐く意味もないし、理由もないし」
継美はスカートの裾を押さえながら、護岸ブロックの端に腰掛けた。
「俺のこと、覚えていてくれたんだ」
嬉しさを隠し切れない礼司に、継美は小さく頷き、レジ袋から取り出したアメリカンドッグを頬張った。
「うん。中学で私に話し掛けてくれたのは、阿部君が最初で最後だから」
だから忘れるわけがない、と付け加え、継美はケチャップとマスタードの付いたアメリカンドッグに牙を立てた。缶コーラも開け、合間に口にしている。
「私に聞きたいこととか、ある?」
継美は首尾よく用意していた濡れティッシュで、指先を拭う。
「山ほど」
だが、いざ尋ねるとなると何から切り出したものか。礼司が言葉に詰まると、継美はコーラの残りをちびりちびりと飲みながら言った。
「私も、阿部君に聞きたいことがあるの」
どうぞなんなりと聞いてくれ。礼司は継美に興味を抱かれていたという事実だけでも胸が躍った。暗がりで良かった。
「私、一体何に見える?」
街灯の明かりを帯びた瞳が、礼司を注視してくる。礼司はやや後退る。
「何って……。ドラゴンのツノと翼と尻尾が生えた……」
「他の生徒は? 結構仲が良さそうな、倉田君と青沼君と伊東君は?」
「タコとスライム、んで黒曜石みたいなウロコの三つ目のドラゴン、かな」
「そう」
継美はコーラの缶を両手で挟み、膝を抱えた。
「阿部君の目に映る私は、人間であってほしかった」
尻尾はコンクリートに横たわり、立派な翼は萎れていた。近寄りがたさすら覚えるほどの容貌を持つ少女はひどく寂しげで、邪竜族の姫君という二つ名からは懸け離れていた。礼司は気の利いた言葉を掛けようとしたが、人生経験が乏しいからか、結局何も言えなかった。継美の隣に座っているだけだった。
「あの、さ」
些末な勇気を思い切り振り絞って一滴にも満たない気力を引き出し、礼司は話を切り出した。これだけは聞いておかないと、今後に差し障る。かもしれない。
「入学してきた日、横嶋さんと一緒にいたラミアって、横嶋さんとどういう関係なんだ? 姫様だとか、側近だとか言っていたけど」
「マキナのことね。あの子は私の側近というか、侍女というか、お目付役としてやってきたのよ。中等部の一年B組の生徒なの。私が学園に入学することを知ったお父さんが、クラーゲンフルトから派遣してきたのよ。クラーゲンフルトっていうのは、私のお父さんの生まれた国の名前。お母さんは普通の人間だから、私はリンドヴルムと人間のハーフなの」
「ああ、道理で。だから、中学は俺と同じ普通の学校に通っていたのか」
「そう。あれは、お母さんの最後の意地」
継美は空になった缶コーラをアスファルトに置き、夜景を厳しく見据える。
「私は生まれてからずっと地球で暮らしていたから、クラーゲンフルト側の詳しい事情はよく知らないけど、お父さんとお母さんは私が小学生の時に別れたの。それから私はお母さんの実家に引き取られて、ずっと人間として暮らしてきたのよ。まあ、物心付く前に私は普通の人間じゃないってことに気付いていたけど」
「あ……その、俺にそんなに込み入ったことを話してくれなくてもいいよ。そういうことを話すほど、俺と横嶋さんは親しくないっていうか……」
「小学校では三回。中学校では一回」
「え?」
「クラスメイトが、私に話し掛けてくれた回数。そのうちの一回が阿部君」
継美はしなやかな指先で、翼の尖端をなぞる。
「私がどれだけ姿を人間に似せたって、皆、薄々感付いちゃうから。だから、先生も私のことを遠巻きにして、出来る限り関わらないようにしていたわ。私も他人には迷惑を掛けたくないし、お母さんからもそうしろって教えられてきたから、ずっとそうしてきたの。だから……阿部君が私のことを気に掛けてくれて、凄く嬉しかったけど、困っちゃった。御礼の言い方なんて、解らなかったから」
「ごめん」
「謝らなくていい。だって、阿部君には関わりのないことなんだから」
継美は夜風に震える雑草のざわめきよりも弱く、言葉を連ねる。
「邪竜族の姫君なんて、そんなのは形だけ。私は偉くもないし、立派じゃないし、学園に入学したのだってお母さんがそうしろって言ったから。マキナを相手に姫君っぽいことをするのは、お父さんから嫌われたくないから」
ぎゅっと膝を抱え、継美は翼を縮めて尻尾も丸める。
「ごめんなさい。阿部君とは親しくもなんともないのに、こんな話をして」
「そんなこと、ない」
礼司は明るく振る舞おうとしたが、継美の抱える事情の複雑さに臆した。好きだといっても、ただ憧れているだけだった。過度な幻想は抱いていないつもりだったが、いざ継美の背景を知ると気後れしてしまった。生まれも育ちも平凡な礼司には想像も付かない苦労であり、知ったところで何をどうしろと。安易な言葉で励ましても、継美はそれで満足するだろうか。平凡に励まされたいからこそ礼司に話し掛け、こうして己の背景を曝しているのではあるまいか。だが、それは深読みしすぎでは。そもそも、継美が礼司に何かを期待しているはずがない。期待されたとしても、何を返せるものか。
「ごめんなさい。長話しちゃって」
継美はレジ袋を握り締めて立ち上がると、駆け足で去っていった。礼司は腰を浮かせかけたが、下ろし、意味もなくアスファルトを殴り付けた。だが、己の拳が痛んだだけで心中のやるせなさは誤魔化せもしなかった。
何のために、彼女を追い掛けてきたのだ。