愛と勇気のフィールドワーク
二.
フィールドワーク。それは、知り合って間もないがためにまだまだぎこちない新入生同士を近付けるための学校側の配慮であり、そのついでに周辺地域の地理を把握しておけという意味合いも含んだ課外授業である。
礼司も中学校の頃も経験したが、この手の授業で最も神経を割くのが班決めだ。既に馴染んでいるクラスメイトがいれば早々に班に誘われるのだが、そういった相手がいない場合は次々に班が決まる中で浮いてしまうことになり、最終的には教師の権力でメンバーの足りない班にねじ込まれてしまう。そうなると、仲良し同士で集まった班の中に異物が混入することになり、ぎこちなく扱われた上に結局その班の中でも浮いてしまう。その時に器用に立ち回ってその班のメンバーと仲良くなれば、クラスに馴染めるだろうが、それすらも失敗した場合は悲惨としか言いようがない。よって、新学期最初の課外授業は今後三年間のスクールカーストを形作るものでもあるのだ。
四人で一班を作れ、と火ノ元が一年D組全員に命じて間もなく、礼司の元には倉田・クラーケン・健人がやってきた。目の前の席にいる青沼ジュリエッタも有無を言わさずに絡み付いてきた。理由は解らないが、軟体動物とアメーバから懐かれたらしい。あまり嬉しくはないがこれで班決めからハブられることはない、と礼司が安堵していると、次々に班が決まっていき、余った生徒が現れた。
誰からも班に誘われなかったのか、継美は教室後方の窓際で突っ立っていた。翼を最小限に折り畳んで棘の生えた尻尾を丸め、憂い気な眼差しをグラウンドに投げている。無表情ではあるが、それ故に整った面差しが際立っている。その見栄えの良さに礼司が息をするのも忘れていると、継美にダークエルフの女子生徒が駆け寄っていった。
「てかマジアレじゃね? つかほら、こっち来いし」
「あっ」
継美が戸惑っている間に、ダークエルフの女子生徒は自分の班に継美を引っ張り込んでいった。どぎつい化粧にピアスに特盛りの銀髪が暴力的に派手なダークエルフは同じようなギャル系の女子生徒で構成された班に継美を放り込み、女子だけの班を作った。
見取れている暇があったら、自分の班に誘えばよかったかもしれない。礼司は自分の情けなさに泣きたくなったが、その一方で安堵もした。ダークエルフの女子生徒は継美と仲良くなりたいらしく、態度こそ下品で大袈裟でやかましいが、しきりに話し掛けている。継美はギャルのノリに押され気味ではあったが、邪竜族の姫君らしい強い態度で受け答えていた。
「礼ちゃん礼ちゃん、余りモンは他にもおるで」
馴れ馴れしさに拍車が掛かった健人は、礼司の背中に吸盤を貼り付けながら、袖から伸びた足で、黒板の手前で巨躯を縮めている生徒を示した。それは、岩石のウロコを持つ三つ目の魔王、伊東・ベテルギスク十三世・三郎に他ならなかった。彼もまた、継美と同じく余ってしまったようだった。
「え」
思わず礼司が身動ぐと、健人は吸い口を窄ませる。
「なんやの、嫌やん?」
無理からぬ話だ。鉱石のウロコを纏ったドラゴンとも言うべき外見の彼は、人外だらけのクラスの中でも際立っている。背筋を真っ直ぐ伸ばして立てば頭部が天井に擦れ、エッジの効いたウロコが掠ったロッカーや机には豪快な擦り傷が付いている。他の生徒の会話を又聞きしただけではあるが、伊東・ベテルギスク十三世・三郎はバジリスクの能力を持っているそうで、額の第三の目に睨まれればあらゆる生物は石化するそうである。体格も本来の数十分の一に縮んでいて、全力を出せば全長五十メートルもの怪獣並みの大きさになれるそうである。真偽の程は定かではないが、どれもこれもまるきり嘘だとは思えない。だから、一般市民どころか村人Aでしかない礼司からすれば、伊東・ベテルギスク十三世・三郎は紛うことなきラスボスだ。出来ることなら一生関わらずにいたい相手だ。なので、礼司はその意見を遠回しに伝えようと、健人とジュリエッタを小突いたが、二人はそれを肯定と受け取ってしまった。
「ぱっぴゅるう、それいい考えだよぉんにょん」
そう言うや否や、ジュリエッタは礼司の体の前面に貼り付けていた粘液を引き剥がし、礼司の肩を蹴って勢いを付けて伊東・ベテルギスク十三世・三郎の元に突っ込んでいった。威圧感溢れる外見の伊東・ベテルギスク十三世・三郎はひっと小さく声を上げて頭を抱え、その場に座り込んでしまった。直後、ジュリエッタは顔面から黒板に衝突した。
「ぶみゅるっ」
べちゃっ、と嫌な音を立てて潰れた青いスライムが、放射状に黒板にへばりつく。中身の抜けた制服とハイソックスと上履きがぬるりと滑り落ち、教卓の前に山積みになる。人外の生徒達にとっても衝撃的な光景だったらしく、教室が静寂に包まれた。
「えっ、あ……ぁ……」
伊東・ベテルギスク十三世・三郎はマズルの長い口元から弱々しい声を漏らし、恐る恐る凶悪な爪の生えた手を黒板に近付ける。重力に従って放射状から滴型になったスライムは制服の山に落ちると、渦を巻き、小柄な女子生徒姿に戻った。
「みゅっぷるーん! ボクってばぴっぷるぱっぷるぅー!」
「あ……」
伊東・ベテルギスク十三世・三郎は思考停止したようで、手を差し伸べかけた格好で硬直した。その隙に今度は健人が近付き、魔王の腕に吸盤を添える。
「一人なんやろ? そんなら、ワシらんとこ来いや」
「あ、えと、うんと」
伊東・ベテルギスク十三世・三郎は白目のほとんどない赤い目を彷徨わせたが、健人の足を振り払おうとはしなかったので、健人はそれを同意と見なして彼を引き摺ってきた。健人は戦利品を獲たかの如く、意気揚々と礼司に足を振る。
「礼ちゃーん! お望み通り連れてきたったでー!」
「あ、いや」
そうじゃなくて、と礼司は言いかけたが、伊東・ベテルギスク十三世・三郎は不安を通り越して泣き出しそうですらあった。顔を覆っている黒曜石に似たウロコが比較的薄い目元には悲しげにシワが寄っている。それを見てしまうと、とてもじゃないが追い返せなくなった。礼司はなけなしの勇気を振り絞り、椅子を引いて立ち上がった。
「じゃ、班決めの用紙、もらってくるから」
おおきになー、と健人の声を背中に受けながら、礼司は教卓の上に残っていた最後の用紙を取った。タコとスライムは早速馴れ馴れしさを発揮して、伊東・ベテルギスク十三世・三郎に矢継ぎ早に質問を投げ掛けていた。ただの怖いもの知らずなのか、それとも心根が優しいのだろうか。どちらかと言えば後者の方が良いな、と思いつつ、礼司は用紙を持って自分の机に戻り、四人で額を突き合わせて名前を記入した。その後、フィールドワークの課題についても議論し、至って無難なものを捻り出した。
班長に任命されたのは、礼司だった。
図々しいぐらい馴れ馴れしく、率先して人の前に立つタイプであろう健人が班長になるものだと思っていたので、礼司には青天の霹靂だった。ジュリエッタはただひたすらに半濁音だらけの擬音を発して飛び跳ねていて、伊東・ベテルギスク十三世・三郎は終始誰かの陰に隠れていた。一年D組の他の班は早々にフィールドワークに出発してしまったので、校門前に残っているのはこの四人だけとなってしまった。
「えー、と」
制服からジャージに着替えた礼司は、二の句を継げずに目を彷徨わせた。
「班長! ほんなら、どこから行こか!」
健人がにこやかに挙手すると、ジュリエッタが弾力を生かして跳ねる。
「ぴっぷるぷーん! ボク、どこだっていいー!」
「てか、なんで俺なんだよ」
「礼ちゃん、反対せんかったやんけ」
「押し切られただけだ。つか、言っとくが俺はただの人間だぞ? 小市民の中の小市民だぞ? 村人Aだぞ?」
「ぴっぷるむにゅるぅ」
「あ、せやったの?」
「みみゅむう?」
「だから、俺には何も期待しないでくれないか」
「期待って何をやねん。そかー、礼ちゃんはドノーマルな人間やったかー。そかそか、原住民族やな。お触り禁止っつーわけやないけど、出来れば深入りせん方がええ相手やったか。でもまあ、礼ちゃんはこうして学園に入学しとるんやから、関わるなっちゅう方が無理な話やな。ほんなら話を戻すで、適当に回って適当なレポート上げよか」
「いやいやいや、どこだっていいわけじゃないから。学園周辺の地図を描いて、その地名の由来となった遺跡についてのレポートを上げるって決めたんだから、いい加減じゃダメだ」
仕方ないので礼司が取り仕切ると、健人は袖から出た足先で吸い口を擦る。
「そんなんやと面白味もクソもあらへんがな」
「確実に出来るやつにしようって言ったじゃないか。てか、学期始めのフィールドワークで冒険してどうするんだよ」
「どいつもこいつも探り探りで無難だからこそ、敢えての冒険やないけ!」
両袖から出た足をぐっと握り締めた健人は、垂れ下がった袋状の頭を反らす。
「螺倉の近隣はどこに出しても恥ずかしゅうないベッドタウン! 駅がショボいおかげで家賃がやっすいから、大学入学のために上京したばっかしのピッチピチした田舎娘がぎょうさんおるねん! 大学デビューし損ねた垢抜けてへんのが狙い目や! 田舎の常識が通用すると思うとる小娘がベランダに無防備に広げとる、地味ぃーなおぱんちーの色と形から見える傾向と対策をやなぁっ!」
「何の対策をするんだよ」
「そらもう対策ったら対策やがな! だってあれやぞ、方言丸出しでお上りさんな芋臭い田舎娘やぞ!? 都会のギャルギャルしいのよりもたまらんがな!」
礼司の冷淡な突っ込みにも負けず、情熱を滾らせた健人は大きく仰け反った。
「えーとね、ボクはねぇ、きゅんきゅんできゃるきゃるなのがいいー!」
ジュリエッタもまた勝手なことを言い出し、腰をくねらせる。ジャージ姿ではあるが、ズボンの上にスカートを履いたハニワスタイルだ。
「な? ベティちゃんも無難すぎてごっつ退屈なレポートなんぞよりも、魅惑の三角地帯の方がええろ? ええやろぉ? うっしゃっしゃしゃ」
太い八本足を波打たせながら、健人は下卑た笑い声を上げて伊東・ベテルギスク十三世・三郎に詰め寄っていく。ベティちゃんとは、挙動不審の魔王の愛称らしい。どさくさに紛れて何を言っているんだこのタコは、と礼司は心底呆れた。これでは、健人は高校生というよりも大阪の新世界で昼酒を飲みながら管を巻いているおっさんである。
「ええと、その、余は……あ、阿部君のでいいと思う」
伊東・ベテルギスク十三世・三郎は、その体格に見合った渋みの効いた低い声で呟いた。だが、その語気がどうしようもなく気弱なので違和感が物凄い。
「じゃ、多数決で当初の案で決定ってことでいいな」
これまでは曖昧な返事をするだけだった魔王が意見を述べたことに若干驚きつつ、礼司は三人を急かして出発した。ジュリエッタは勢いだけで喋っていたらしく、文句も言わずに礼司に付いてきた。伊東・ベテルギスク十三世・三郎はおどおどしながらも、礼司の後を追ってきた。健人は最後まで文句を垂れていたが、取り残されそうになると慌てて三人を追い掛けてきた。この一悶着のせいで、無駄な時間を食ってしまった。
学園周辺の地図を描くにしても、丸写しでは何の意味もない。だから、実際に現地を歩いて何があるかを書き加えなければ提出物としての意味も成さない。写真を撮ってもいい、とのことだったので、礼司は持参したデジタルカメラで手当たり次第に撮影していた。
高台にある学園から一望した景色を撮影すると、小田急線の線路の手前には消防署、地元の小学校、マンションとあり、その先には地元中学校と住宅街、水処理センターが見えた。それらを横断するように、川が曲がりくねりながら流れている。どの建物がどういった施設なのかは、事前に学園の図書室から拝借した周辺地域の地図をコピーしたものを見比べながら確かめているので確実だ。
「礼ちゃん礼ちゃん!」
礼司が撮影した写真を確認していると、背後から健人が騒ぎ立てた。また面倒なことを言い出すんじゃないだろうな、と顔を上げかけると、ジュリエッタにデジタルカメラを奪われた。細長く伸ばした腕で小さな機械を絡め取っていったジュリエッタに、礼司は青ざめた。あのデジタルカメラは家族で共用しているので、万が一壊れたら大事だ。
「おい、ちょっとそれ返せよ!」
「やっぷるぷーん!」
ジュリエッタは頭上にデジタルカメラを掲げると、満面の笑みを浮かべながら坂道を駆け下りていった。礼司は健人に振り返り、喚く。
「なんで止めないんだよ!」
「止めようとしたところでスられたんやんかぁ」
ホンマ心外やわ、と健人は肩らしきところを竦めてから、ジュリエッタを追い掛け始めた。礼司はまとまりの欠片もない班に苛立ち始めていたが、怒鳴ったところであのスライムが止まるとは思えない。摩擦係数の少ない粘液の固まりであるからか、ジュリエッタは異様に素早く、あっという間に坂道を下っていく。
「きゃっぽっぴーん!」
奇声も遠ざかっていき、カーブを曲がったためにその姿が一旦隠れた。息を切らせながら坂道を駆け下りた礼司が目をやると、ハニワスタイルのスライムはガードレールに手を掛けていた。そして、そのまま宙に。
「ちょっ……!」
その先はコンクリートで固められた斜面と住宅街だ。目を剥いた礼司はスライムを掴もうと手を伸ばしたが、スニーカーのつま先を掴んだだけだった。スニーカーはぬるりと脱げてしまい、ジュリエッタは粘液の飛沫を数滴散らしながら緩やかな放物線を描き、コンクリートの斜面に仰向けに落下した。
ああこれでデジカメは死んだ。礼司が絶望しそうになった瞬間、礼司に続いて走ってきた健人がガードレールを飛び越えた。ジャージ混じりの不定型な液体と化したジュリエッタに両腕を差し伸べ、受け止める。かと思いきや、ジャージごとずるっと滑り落ちたジュリエッタは、今度こそアスファルトに叩き付けられた。だが、機械の破砕音はしなかった。
「全く、乱暴しよってからに。ほれ、礼ちゃん」
健人はガードレールに絡めていた両足を剥がして道路に戻ってくると、粘液まみれの足先を差し出してきた。そこには傷一つないデジタルカメラが貼り付いていた。礼司はそれを受け取ると、電源が入ることも撮影した画像が全て無事であることも確かめてから、健人に心底感謝した。
「ありがとう!」
「ええってええって、その代わりな、今度ワシに人間の女の子紹介したってや。人間のやぞ、人間。異次元やら外星系やないで、地球人やで。な、約束やぞ?」
にやけた健人に絡み付かれ、礼司は半笑いになるしかなかった。こいつの膨らんだ頭の中には、エロしか詰まっていないらしい。二人の足元ではジュリエッタが元の形に戻ろうとしていて、青い粘液がこびり付いたジャージとスカートが寄せ集まっていった。磁石に引き寄せられる砂鉄のようだ。
「で、なんでこないなことしたんや」
健人がジュリエッタを小突くと、ジュリエッタは不定型なまま答える。
「さっきの場所にはねにゅねにょ、危険でデンジャラリーがにゅぷる!」
「だから、俺達の気を惹こうとしたのか? でも、危険ってなんだよ」
そういえばこれを返していない、と礼司が握りっぱなしだったジュリエッタのスニーカーを粘液の中に投げ込むと、不意に野太い悲鳴が上がった。
「ぎゃああああああっ!」
それは正に、天地を揺るがす咆哮だった。ガードレールがびりびりと震え、電線が波打ち、周囲の木々で羽を休めていた鳥が一話残らず飛び立った。あまりの音量にジュリエッタに波紋が広がり、健人は硬直し、礼司は音源に向いた。それは、坂の上方に取り残されたままになっていた伊東・ベテルギスク十三世・三郎が上げた悲鳴だった。黒曜石に似たウロコが衝突して鳴るほど震えている魔王は後退り、コンクリートの斜面を凝視した。
「あ、あう、あぁ……」
「私を目にしただけでその怯えようとは。堕ちる一方だな、魔王」
涼やかでありながら力強さを宿した、若い女の声。それを発したのは、坂の上方の斜面に生えている木の枝に身を潜めていた人影だった。それが、ジュリエッタの言うところの危険の正体か。
「今日こそは貴様の首を刎ねてくれるっ!」
枝を蹴って宙に身を躍らせたのは、私立螺倉学園のジャージを着た金髪縦ロールに碧眼の美少女だった。継美の美しさが凛とした一輪の花ならば、彼女の容貌は豪華絢爛という一言に尽きた。金色の長い睫毛が彩るエメラルドグリーンの瞳は揺るぎない意志を湛え、まろやかな曲線を描く鼻筋の下では艶やかな唇が真一文字に締められている。首から下は野暮ったいジャージに覆われているが、抜群のプロポーションを隠すどころか引き立てている。彼女の手には太めの枝が握られていて、ガードレールにスニーカーを掛けて再度跳ねると、伊東・ベテルギスク十三世・三郎の懐に飛び込んできた。
「うわ、うわあああああああああーっ!」
魔王は文字通り尻尾を巻いて逃げ出そうとするが、金髪縦ロールの女子生徒は鮮やかに枝を振るう。格好こそ妙だが、その立ち振る舞いには猛々しさすらある。踏み込みは重たく、枝の太刀筋は的確で実直だった。両手剣を携えて鎧を着ていないのが不思議に思えるほどだった。見た目は人間だが、人間離れしている。
「逃げるな! 何度この私から逃げれば気が済む、ベテルギスク十三世ぃっ!」
「やだやだもうやだぁあああああっ!」
そう叫ぶや否や、伊東・ベテルギスク十三世は顔を覆って坂道を駆け下りていく。それを金髪縦ロールの美少女が追い掛ける。
「それでも貴様はアストラル界を統べる魔王なのか、私に背を見せるなと何度言えば解るのだぁあああっ!」
「助けてぇ、嫌だよぉ、怖いよぉおおおおっ!」
「ええい耳障りだ! 黙らぬか!」
「もうやだ、余は学校に帰るぅーっ!」
「課外授業を途中で放り出すのか、この腰抜けが! 魔王の風上にも置けぬ!」
「風上にも風下にもいたくないーっ!」
「笑止!」
坂道を転げるように下っていく魔王の背後に、金髪縦ロールの美少女が舞い上がる。麦の穂のような髪が踊り、エメラルドグリーンの澄んだ目が険しくなった。太い枝を真っ直ぐ構え、その軸に手のひらを当てた彼女は、落下の勢いと体重を載せた枝を思い切り突き出した。それが魔王の首筋のウロコが薄い部分に叩き込まれると、魔王は足元が覚束無くなり、膝を折って座り込んだ。
「うぅうううう……」
「弱点を鍛えろと何度言えば解るのだ。そんなことでは私以外の者に首を刎ねられてしまうではないか! 恥を知れ!」
「いいもん、いいもん、恥だって……」
余程痛かったのだろう、伊東・ベテルギスク十三世・三郎はめそめそと泣き出した。金髪縦ロールの美少女は枝を斜面に放り捨てると、頬を歪める。
「ええい苛々する」
「そ、それは、先輩があんまり怖いからで」
「怖いだと? はははははは、それは光栄だな、私は蛆虫にも劣る貴様を叩きのめし、鍛え上げ、姫騎士たる私が討ち取るに相応しい魔王に仕立て上げようとしているのだ。恐れはいずれ戦意となり、魔力となり、貴様の血となり肉となる」
「う……蛆虫……じゃないもん……」
「ふん、貴様の根性などその程度か。だが、言い返すだけ進歩したという証拠か。いずれ魔王となる男に、学食などという生温いものは不要だ」
金髪縦ロールの美少女は巾着袋を取り出すと、それを魔王に突き付けた。
「さあ喰え」
「えー……」
「喰えったら喰え! いいか、喰わんと承知せんからな!」
投げ付けるように巾着袋を魔王に渡した金髪縦ロールの美少女は、踵を返した。
「ベテルギスク十三世、貴様がその者達と共にフィールドワークをいかにしてこなすのかを観察し、今後の戦略の参考としておきたいところだが、生憎私は校外マラソンの途中だったのだ! 学生の本分である授業を放棄するわけにもいかん! さらばだ! ふはははははは!」
悪役じみた捨てゼリフを吐きながら、金髪縦ロールの美少女は駆け出していった。嵐のような一時だった。鼻を鳴らして泣いている魔王は可愛らしいチェック柄の巾着袋すらも恐ろしいらしく、腕を伸ばして限界まで遠ざけている。
「あれ、誰なんだ?」
礼司がリアクションに困りながら伊東・ベテルギスク十三世・三郎に尋ねると、彼は上擦った涙声で答えた。
「ブレイヴィリア・エクストリア・小林……先輩。高等部、さ、三年C組の」
「姫騎士とかなんとか言っていたけど、あれってただの中二病? いや高三?」
「違うよ。余の世界だと、地上界のエクストリア家は天界族の末裔だから、アストラル界から地上界を侵略してくる余の一族を打ち倒すのが使命で姫騎士なんだ」
「は?」
なんだそのファンタジーかぶれの中学生の妄想は。
「で、でも、余はそういう才能なくて……。だから、魔王の仕事をするのが嫌だから、小学生の頃からこっちに来ていたんだけど、先輩が余のことを追い掛けて来ちゃって、おまけに学園の高等部に編入しちゃって……」
「はあ」
「地球の公転周期で九年もいたんだから、人間に慣れたかなって思ったんだけど、やっぱりあの人だけは嫌だよぉ、怖いよぉー!」
ふえええ、と渋みのある低い声を台無しにする泣き声を上げて突っ伏した魔王に、礼司は慰めるべきか叱責するべきか呆れるべきか笑うべきか解らなかった。
「んで、なんやのこれ」
事の次第を傍観していた健人が、魔王の爪先から巾着袋を取って開いた。その中には、ラップで包まれた不格好なおにぎりが溢れんばかりに詰め込まれていた。サイズがいい加減で海苔の貼り付け方もずれていた。健人は泣きじゃくる魔王に許可を得てから、そのいびつなおにぎりを食べた。が。
「ふぐおっ!?」
「なんだどうした!?」
健人の反応に礼司が釣られて驚くと、吸い口の裏側にある口におにぎりをねじ込んだ健人は、吸い口を上向けておにぎりを出し、具を見せた。
「予想の斜め上やわー……」
糊のように潰れた白飯の中に、丸々と太った虫の幼虫が埋まっていた。
「いっ!」
礼司が怖気立つと、にゅるんとジュリエッタが近付いてきた。
「あーそれハチの子だよにょんにゅうーん!」
「そらベティちゃんの反応が正しいわ」
さすがの健人も面食らったらしく、乾いた笑いを漏らした。
「でもでもでみょー、ハチの子ってジヨーキョーソーに効くんだってさぁー!」
「え、ホンマ!? そんならこれ、ワシが喰ってええ!?」
健人は巾着袋をひっくり返しておにぎりを一つ残らず吸盤に貼り付け、空になった巾着袋を魔王に投げ付けた。魔王は肩を竦めた拍子にひゃくっとしゃっくりを一発出し、ぎこちなく頷いた。
「え、あ、うん。捨てるよりは、誰かに食べてもらった方がいいと思うし……」
「滋養強壮と精力増強は同義語やもんな! な!?」
ヒゲのような足をうねらせながら、ラップを剥がしたおにぎりを全て口に押し込んだ健人は、丸い目をにんまりと細めながら礼司に同意を求めてきた。
「いや、それは違うと思う」
礼司が素っ気なく返すと、なんや冷たい、とぼやきながら健人は完食した。
「なんでもいいから、とりあえず出発しよう。でないと、いつまでたっても課題は完成しやしない。ほら立って、伊東」
礼司が急かすと、泣き止もうと努力しながら伊東・ベテルギスク十三世・三郎は腰を上げた。襟元に巻いているジャージのポケットからタオルハンカチを出し、丁寧に目元を拭ってから、三つの目で礼司を見下ろしてきた。
「べ、ベテルギスクで、いいよ」
「ああ、どうも」
道端に放置しておくわけにいかないから急かしただけなのだが、優しさだと思われたらしい。それから、四人はフィールドワークを続行した。地図を描くために必要な資料はある程度集まっていたが、地名の由来になっている遺跡にはまだ近付いてすらいなかったので急ぎに急いで向かい、ストーンヘンジに似た奇妙な遺跡と古びた石碑に刻まれた文章を写真に収め、全速力で学園に戻った。なんとか授業時間内に帰ってくることは出来たが、四人ともぐったりしてしまった。
涙で汚れた顔を洗わせるためにベテルギスクの巨体を男子トイレに押し込んでから、礼司は自分も入ろうとすると、体育館と教室棟を繋ぐ渡り廊下が目に入った。そこに見覚えのある生徒がいたので何の気成しに視界に入れると、それはあの金髪縦ロールの姫騎士、ブレイヴィリア・エクストリア・小林だった。その隣にいるのは、小学生にしか見えないラミアだった。二人は熱心に話し込んでいて、ブレイヴィリアはなんだか煩わしげに目線をラミアから外していた。マキナと呼ばれていたラミアは何かを力説しているが、窓に隔てられていて聞き取れない。
ブレイヴィリアには関わらない方がいい。たとえ相手が人間であろうと、もしくは人間に近しい人外であろうとも、エキセントリックすぎて始末に終えない。逃げるが勝ちだ。礼司はすぐさま男子トイレに駆け込んでドアを閉めた。
「どうかしたの?」
顔を洗うついでに用を足したベテルギスクに不審がられ、礼司は取り繕った。
「なんでもない。なんでもあっちゃいけない。なんでもあるわけがない」
「あの……さっきはごめんね。余は、先輩に追い回されると混乱しちゃって、あんなことになっちゃって。フィールドワークだって順調に進まなかったし」
「いいよ、別に」
「でね、その、ええと」
ベテルギスクは三つの目をぎょろつかせていたが、手が大きすぎるためにやけに小さく見えるタオルハンカチを爪先で握り締めた。
「阿部君。放課後、余と付き合ってくれないか、な……?」
な、の部分で小首を傾げたベテルギスクに、礼司はスラックスのファスナーを下ろす手が止まった。そのセリフは女の子から言われたら、たとえ好きでもなんでもなくても、もしかしたら俺に気があるんじゃないのかと舞い上がってしまうセリフだが、同性でしかも厳つい生き物から言われたら嬉しくもなんともない。それどころか、嫌な想像が数秒の間に礼司の脳内を大暴走した。
ブレイヴィリアのような女子生徒に追いかけ回されているのに、喜ぶどころか本気で泣くほど嫌なのは実は男が好きだからじゃないのか、ていうか男子トイレでそんな話を持ち掛けてくるなんてそれが大前提じゃないか、そもそもなんで自分なんだ、これが横嶋さんであれば一瞬も迷いはしないんだけど、と一息に思考した礼司は、出来るだけ穏便に断るしか生き残る道はないと判断して言った。
「いや、その俺はそういうのは、ちょっと、ていうかまだ一週間足らずだし」
「あ……ごめん……。でも、その、奢るから」
「何を?」
「ああ、うん。なんでもいいよ。仕送りが届いたばかりだし、まだちょっとは余裕があるから。でも、学園の中じゃ話しづらいし、もうちょっと親しくなってからの方が話しやすいよね。じゃ、これ」
余のアドレス、とベテルギスクはウロコの隙間から二つ折りの携帯電話を取り出したので、礼司も制服のポケットから携帯電話を出して赤外線通信を受けた。
「えへへ、これで友達だ。なんだか嬉しいなぁ」
ベテルギスクは浮かれながら男子トイレから出ようとしたが、入る時と同じく詰まった。このまま放置しては他の生徒に迷惑が掛かるので、仕方ないので礼司はその背を押して廊下に出してやってから、やっと自分の用を足した。