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多次元公開授業

 十五.


 そして。

 邪竜族の帝王である父親と真正面から向き合い、地球侵略作戦に反対する意志を示すための準備段階として、継美は度胸を付けようとした。朝、教室に入る時は少しでも大きな声で挨拶し、クラスメイトに話し掛けられても口籠もらずに答えられるように努力し、授業で指名されてもすぐに立てるように頑張った。だが、一日中気を張って過ごしていると心底疲れ果ててしまうのか、下校する時には継美は足元がふらついていた。

 それでも、一日、もう一日、更に一日と重ねていくと徐々に他人への警戒心が緩んでいくらしく、継美の態度から力みが抜けていった。学園のアイドルとはいかないまでも、クラスメイトも少しずつ継美という生徒を認めてくれるようになっていき、話し掛けられる頻度も増えていった。継美が笑みを浮かべる回数も相手も増えていくのは心から嬉しかったが、なんとなく寂しいのはなぜだろう。掠り傷のような胸の痛みを覚えながら、礼司は、闇苅・ドラウエルフ・杏奈と教室の後方で明るく談笑する継美を見つめていた。

 多次元宇宙の広大さと比較すれば、爪の先にも満たないであろう継美の心の内の世界を変革する時が訪れた。五月の第三土曜日、公開授業の日だ。

 その日は、朝から生憎の雨だった。天気予報では薄曇りだと言っていたのだが、春先は予報が外れることなどよくあることなので気にも留めていなかった。身支度を終えた礼司は、湿気を帯びた髪がまとまらないと洗面台で嘆いている真里亜を無視して玄関に向かった。今日は真里亜は休講でアルバイトに行く日なので、今日ぐらいは残念弁当は休みだろう。と、思っていたのだが。

「忘れんじゃないよ」

 礼司の顔の横に、ずいっと弁当箱入りの巾着袋が突き出された。振り向くと、ヘアアイロンで半分だけは髪を真っ直ぐにした姉が不機嫌極まる顔をしていた。雨が降ると量の多い髪が爆発するだけでなく、気圧が下がると貧血気味にもなるからである。我が姉ながら難儀な体質だ。

「そんなんだったら、無理しなくてもいいのに」

 その方が健人も幸福なのだが、肉体的な意味で。礼司は仕方なく残念弁当を受け取ると、通学カバンを開いて押し込んだ。真里亜は乱れ放題の髪を手で撫で付けながら、大人ぶった態度を取った。

「解ってないなぁ。恋愛ってのは日頃の努力と積み重ねが大事なんじゃないの」

「解りたくもねーや。んじゃ、行ってきます」

 礼司は真里亜の女の部分を目の当たりにしたくないので、さっさと靴を履いて玄関のドアを開けた。傘立てから自分の傘を引っこ抜いて開き、雨の中に出た。傘の布地を叩く一粒一粒がジュリエッタなのだなぁ、と考えてしまい、また少しだけ気持ち悪くなった。あいつは人間のような形を取って人間のような立ち振る舞いはするが、やはり人間ではないのだ。だから、己の体を成す分子が地球の水に溶けて地球上全ての生物に摂取されては排出されていても、気分が悪くならないのだ。こればっかりは、決して理解してはいけないような気がする。

 土曜日なので乗客がまばらな小田急線に乗り、いつものように螺倉で下車した。電車から下りて改札を抜けるまではやや強めの雨脚だったのだが、改札を抜けてIC定期券を通学カバンに戻し、顔を上げたところ、土砂降りに見舞われた。

「うおっ!?」

 おいおいこれはどういうことだ。礼司は往来の邪魔にならないように、改札の脇に避けてから前後を見比べた。改札とホームの間には数メートル程度しか距離はなく、頭上の雲の厚さは一定だ。雨の切れ目、というやつではない。どちらにも雨は降っているし、違うのは雨量だけだ。ホーム側がシャワーだとすれば、改札の向こう側は滝だ。一歩でも踏み出せば、跳ね返りでスラックスがびしょ濡れになるのは間違いない。だが、ここまで来たからには登校しなければ。継美の父親の顔も見てみたいし、何よりも。

「帰ってくるんだもんなぁ、あいつ」

 礼司は雨の当たらない券売機前に下がると、携帯電話を開いた。今朝方届いたメールは、ベテルギスク十三世からのものだった。いかにも彼らしいポップな絵文字だらけのメールの内容は、成人して肉体的にも精神的にも停滞期を迎えたからまた学園に通えるよ、というものだった。

「ええいままよ」

 意味は良く解らないのだが、こういうシチュエーションで言うべきセリフはこれしかないと直感し、礼司は変なことを口走りながら傘を開いた。だが、一歩踏み出した時点で瀑布も同然の雨はローファーから何から濡らし、濡れてはいけないものばかりが詰まっている通学カバンは懐に抱いて背中を丸め、通学カバンを守る代わりに背中を犠牲にした。人気がないどころか、シャッターがほとんど閉まっている商店街を抜け、局地的に増水している鶴見川を横目に見ながら土手の歩道を通り、幅広の川も同然と化した学園に続く坂道を意地で登り切った。

 昇降口に入った礼司は、奇妙な達成感に浸りながら傘を閉じた。ローファーを脱いでひっくり返して水を出し、雨水を吸い尽くした靴下を脱いで丸めて絞り、制服も脱げる範囲で脱いでその場で着替え、素足で上履きを履いた。冷たかったが、そのうち体温で暖まってくるだろう。

 一年D組の教室に入ると、今日に限って人外のクラスメイト達は奇異の目を向けてきた。それはそうかもしれない。上半身にはカッターシャツが貼り付いていて、下半身だけジャージで素足に上履きなのだから。こんなことになるんだったら着替えを持ってくるんだったかな、と恥じ入りながら礼司は席に着いた。

「おい、あいつ、空間隔壁を抜けてきたぞ」

「てかマジ? つか有り得る? だって阿部ってドノーマル人間だし?」

「公開授業の日だから特に念入りに次元軸と空間軸をずらしてあるはずなのに、調整が足りなかったのか? いや、元々の特異体質のせいなのか?」

「確かに今日の空間隔壁はちびっと妙な感じがするけど、ガチ人間が入ってこられるようには作ってねーじゃん、そもそも。てか、ガチ人間が入れないようにするのが空間隔壁の役目なわけだし?」

「イレギュラー、ってのじゃねーよな。むしろレギュラー?」

「あー言えてるー。次元も空間も阿部だけは拒絶しねーもんなー。マジ空気?」

「そうそう、それ! 阿部はそれなんじゃね?」

「むしろ暗黒物質? ダークマターレベルで存在している感じ?」

「てか、いっそヒッグス粒子? 光粒子?」

「うわすっげ、マジ宇宙の必需品じゃーん」

 教室のそこかしこで、人外達が額を突き合わせて話し込んでいる。その話題の中心はなぜか礼司だったが、嬉しくなかった。陰口を叩かれているみたいで居心地が悪いなんてもんじゃない、登校しちゃいけなかったみたいではないか。

「俺、なんかしたっけ?」

 礼司は遅れて登校してきた健人を掴まえ、クラスメイト達を指した。健人はやはりずぶ濡れの制服を脱いでロッカーに押し込めながら、目を瞬かせる。

「なんもしてへんから、色々気になるんやろ。まあ気にせんことやな、礼ちゃんはそこにおるだけで充分なんやし、それ以上のことも出来へんし」

「そうか、じゃあ気にしない。ほれ、今日の拷問だ」

 礼司はすかさず真里亜の残念弁当を出すと、健人に強引に渡した。健人は一瞬肩を落としたが、渋々通学カバンの中に入れた。それから十数分後、継美も登校してきた。寮住まいなので礼司らほど濡れていない継美は、湿っぽい前髪を指先で整えてから挨拶してきた。

「おはよう、阿部君、倉田君。青沼君は?」

「空間隔壁の調整やな。まあ、授業が始まったら来るとは思うんやけど」

 と、健人は土砂降りの雨を指し示した。継美は灰色の景色を見やる。

「そう、大変だね」

「で、その空間隔壁ってのはなんだよ? 雨が空間を隔てるのか?」

 その単語はクラスメイト同士の囁き合いにも出てきたので気になり、礼司が健人に問うと、健人は吸い口の下を足先で擦った。

「んー……厳密に言うとちゃうんやけど、大雑把に表現するとそんな具合やな。昔っから、水っちゅうんは世界を隔てるもんなんや。三途の川がその代表やな。狐の嫁入りっちゅうんもある。深い霧を抜けたら化けモンがおったー、っちゅう話も珍しゅうないやろ」

「いや、俺が聞きたいのは怪談じゃなくてさ」

「あれもまた多次元宇宙の一種なんやで。水分子はどこの世界でも組成がほとんど変わらんへんねや。せやから、異世界同士の水分子が繋がることによって異世界同士の境界が曖昧になって、三途の川やら狐の嫁入りやらが起きるんや。んで、その作用を上手いこと利用したんが空間隔壁なんや」

「ただのゲリラ豪雨だろ?」

「せやなぁ、最近だと人間の世界じゃそう言われとるかもしれへんなぁ」

「じゃ、これまで起きたゲリラ豪雨の内側でも、変なことが起きていたのか?」

「ま、そんなとこやな。そろそろ先生が来るでー」

 掛け時計を一瞥した健人は、自分の席に戻っていった。

「じゃ、また後でね」

 継美は小さく手を振ってから、自分の席に向かった。礼司はその翼と尻尾が生えた後ろ姿を見つめていたが、降り止まない雨を見やった。ゲリラ豪雨の中で人外達が蠢いていたとは、思いも寄らなかった。世の中は不思議だらけだ。

 ホームルームの時間になり、担任の空っぽ鎧武者の火ノ元豪右衛門盛近が入ってきた。いつもは赤いジャージを羽織って袖を襟元で結んでいるのだが、公開授業の日だからか、似合わないネクタイを締めていた。ちなみに家紋柄だった。

「よーしお前ら、席に着いたな。それじゃ、これから公開授業の決まりを説明する。公開授業ってことはつまり、お前らが学園生活に勤しむ姿を保護者や関係者に見て頂くために学園を開放することだが、見学を受け入れるために一時的に空間と次元が緩むことになる。螺倉とお前らの現住世界を隔てる壁が薄くなる、ってことだ。だが、その影響で螺倉側の空間と次元の自己修復能力が鈍り、元の姿に戻ってしまうこともある。本来の能力やら体質が蘇ることもある。しかしだ、ここは腐っても地球であり人間界である。間違いだけは起こすんじゃないぞ、公開授業が出来なくなるからな。青沼が螺倉全体に施してくれた空間隔壁も信用しすぎるな、阿部みたいな勘の良い奴もいるからな。注意事項は以上」

 火ノ元は教室を見渡し、礼司に目を留めた。

「それと、もう一つ。体質の都合で一時帰宅していた伊東が帰ってくるそうだ」

 その言葉で、少しだけ教室がざわついた。ベテルギスクの外見で敬遠していたクラスメイト達は少し嫌そうだったが、礼司と健人は顔を見合わせて素直に喜びを分かち合った。継美とも目を合わせると、継美は机の下で小さく拍手した。

「じゃ、出席を取るぞー」

 火ノ元が教卓の上に置いた出席簿を開いたのと同時に、机が一つ残らず浮き上がった。否、真下から突き上げる震動が発生した。直後、机がでたらめに床に転げる。窓が震え、天井から砂埃が落ちる。内臓が宙を漂ったような不快感を覚えながら、礼司は椅子ごと落下した。が、椅子が尻の下から外れてしまい、床に強かに打ち付けて痛みが全身を貫いた。そこかしこから呻きが上がり、机の山に囲まれた健人は八本の足をうねらせてのたうち回っていた。継美は無事か、と礼司が目をやると、継美は窓の外を凝視している。

「まさか……」

「次元震だ、全員その場から動くなよ!」

 真っ先に立ち上がった火ノ元は机の海を蹴散らして廊下と通じるドアを開けたが、舌打ちし、すぐに閉じた。礼司は廊下がどうなっているのか気になって廊下に面した窓を覗き込んでみて、飛び退いた。異形の楽園だった。

「っ!?」

「余計なものを見るな、発狂するぞ」

 火ノ元は礼司を窓から遠ざけてから、カーテンを引いた。

「先生、ありゃ、なんですか……?」

 一瞬にして全身に冷や汗を掻いた礼司が震える指で窓を指すと、火ノ元は黒板脇にある内線電話の受話器を取りながら、答えた。

「俺もそんなに詳しくはないんだが、ルルイエとかいう世界じゃなかったかな。俺もあいつらとは極力関わりたくないから、窓もドアも開けるなよ。あと、引き出しもだ。カバンもだな。さっきの次元震の影響で、次元軸と空間軸の繋がりがデタラメになりやがったんだ。だから、どこに何が通じているかも解らないし、どこが何に通じているかも解らない。次元が安定するまで、教室で待機だ」

 火ノ元は内線電話を職員室に掛けてしばらく会話した後、受話器を戻した。

「青沼にも頼れないのか、弱ったな」

「……それってどうにもならないってことだろ?」

 礼司は机の山から健人を掘り起こすと、声を抑えながら問うた。健人は柔らかな八本足をうねらせて汚れを払いながら、小さく頷く。

「せやな。螺倉自体、ジュリエッタがどうにかしとる世界やし。次元震が起きたちゅうことは、螺倉の次元軸がごっつブレたっちゅうことや。内的要因か外的要因かで事態は大分変わるんやけど」

 不意に、窓際に立っていた継美が倒れかけた。近くに立っていたダークエルフの闇苅・ドラウエルフ・杏奈が支えてくれたので頭を打ち付けることはなかったが、継美は血の気が引いて顔色が白くなっていた。涙目で雲の切れ間を指す。

「あ……あれ……」

 分厚い雲間から垣間見えているのは、恐ろしく巨大な竜だった。継美の翼と尻尾と同じ浅葱色のウロコが水気を帯びて煌めき、分厚い鎧が擦れ合う音が雷鳴の如く響き渡る。だが、それは一つや二つではない。百や二百でも足りない。分厚い鎧を身に纏った巨大な竜達が、螺倉の上空を埋め尽くしていた。

「姫様ぁあああああああっ!」

 突如、換気口から絶叫が轟いた。ばかんっ、とダークレッドの尻尾が換気口の蓋を蹴破ると同時に、埃まみれのマキナが降ってきた。アクション映画のようだ。我に返った継美はマキナに駆け寄り、ハンカチでその顔の汚れを拭く。

「どうしてそんなところから出てくるの?」

「空間が繋がっている場所と場所を辿って参りました結果、ダイ・ハードの真似事をする羽目となりましたで候! 中等部と高等部では校舎が直結しておりませぬ故、下水やら何やらの配管を辿ることとなりましたが、姫様の元に馳せ参じることが叶いましたのでござりまする! で、早速御報告申し上げまするが!」

 マキナはブレザーの胸ポケットから携帯電話を出し、印籠の如く構えた。

「姫様の授業風景をご覧になると大帝陛下が仰ったところ、一族郎党で馳せ参じるということになったのでござりまする! これはその旨を伝えるメールでござりまする! 大帝陛下の御兄妹とその御家族と更にその親戚を含めましたらば、その数、一千五百を超える大軍勢となりましたで候!」

「それだけいれば、私が何もしなくても、地球を滅ぼせるんじゃないかな?」

 目を逸らした継美が呟くと、マキナも唇の端を引きつらせた。

「私もそう思いまする」

「そりゃ次元震も起きるわな。異分子の数も量も多すぎる」

 シリアスな気分が削がれたのか、火ノ元は兜をごりごりと引っ掻く。

「つまりあれだろ、小学生の運動会に両親と父方母方の祖父母とその双方の親戚が来る、みたいなもんだろ? スケールは段違いだが。今度から公開授業は人数制限もしとけって俺から理事長に進言しておくよ」

「すみません、すみません、本当にすみませぇん先生っ、うちの親がぁっ」

 継美が何度も何度も火ノ元に頭を下げると、火ノ元は苦笑した。

「横嶋が謝ることじゃない、親御さん達には俺達できっつく言っておくから」

「娘にベタ甘ってレベルじゃねぇー……」

 総勢一千五百体の親戚なんて、想像も付かない。礼司は軽く頭痛を感じた。

「邪竜族は多産の種族なのであるからして、一度の交わりで三十は子が生まれ落ちるのだ。よって、一人っ子の姫様は非常に珍しい事例なのだ。ついでに血族の結束もルナチタニウム合金の如く頑強で、それ故にこのような結果に」

 マキナは半泣きの継美に寄り添いながら、原因を解説してくれた。

「で、どないすんねや」

「戦うに決まっているではないか!」

 ずばぁんっ、とドアが外れそうな勢いで開かれた。全員が振り向くと、そこにはなぜか白無垢に身を包んだブレイヴィリアが仁王立ちしていた。文金高島田に角隠しは西欧人の顔立ちとスタイルであるブレイヴィリアには今一つ似合っていなかったが、誰しもが同じ疑問に駆られた。なぜそんな格好をしている、と。

「小林先輩、廊下は確か、ルルイエとかいう世界に繋がっていたんじゃ……」

 礼司が恐る恐る廊下を指すと、ブレイヴィリアは鼻で笑う。

「あんなイソギンチャクの親戚など、私の敵ではない」

 金髪縦ロールを角隠しに押し込めた花嫁は、好戦的に頬を持ち上げる。高下駄をがたごとと鳴らしながら窓に近付いたブレイヴィリアは、邪竜族の一族郎党を見据えると、着物にいくらか押し潰されても存在感の大きい胸を張る。

「ほう、翼竜が二千足らずか、肩慣らしには丁度良い。剣を持て」

「いやいやダメですよ!」

 礼司は慌ててブレイヴィリアを制するが、ブレイヴィリアは振袖をまくる。

「私とベテルギスク十三世の華々しき婚儀の日なのだぞ、晴れ晴れしき花道は魔物の血と首で彩らねばならん! さあ誰でもいい、剣を持てぇい!」

「え? 先輩と結婚してもいいってベテルギスクが言ったんですか?」

「返事など待っていては、いつまでたっても話は進まん! よって私が決めた、今朝決めたのだ! 成人の儀を終えたベテルギスク十三世が螺倉に帰還すると同時に婚儀を交わすとな! かるた部と茶道部に入ったのも、日本古来の花嫁衣装の着付けを覚えんがためだ!」

「無茶苦茶だなぁ」

 敬語を使うことも忘れるほど、礼司は呆れた。ブレイヴィリアをどうにかして抑え込まなければ、邪竜族の誰かが血を流す羽目になる。それでなくても、やっと帰ってきたベテルギスクが無理矢理結婚させられる。だが、とんでもないじゃじゃ馬のブレイヴィリアを止められる者はどこにもいない。何せ、ふんぐるるるいえでいあいあはすたーな世界の住人も叩きのめしてしまうのだから。礼司はあらゆる意味で絶望しそうになったが、ふと、打ちひしがれている継美と目が合った。すると、継美は唇を真一文字に結んだ。

「阿部君、小林先輩を大人しくさせておいて。その間に、私がお父さん達と話を付けてくるから。なんとかして、帰ってもらうから」

「でも、どうやって暴走超特急の小林先輩を止めるんだよ」

 礼司が小声で聞き返すと、継美も小声で返した。

「今月分のツケはいくらですか、って言ってみて。たぶん、それが小林先輩の弱点なんじゃないかなーって……。希望的観測だけど」

 そんなのでいいのか。礼司は疑問を抱きながらも、今正に窓を開けて邪竜族の大群の元に身を躍らせようとしているブレイヴィリアの袖を引いた。

「あの、小林先輩」

「邪魔立てする気か、阿部礼司! ならば貴様とて容赦せんぞ!」

「今月分のツケ、いくらですか?」

「は」

 窓枠に高下駄を掛けていた花嫁は、白粉の意味がなくなるほど赤面した。そういえば、ブレイヴィリアが唯一恥じらいを覚えるのは旺盛すぎる食欲だった。だから、それを指摘されると弱ってしまうのだろう。ここぞとばかりに、礼司は白無垢の姫騎士に畳み掛ける。

「で、いくらなんですか? 南海食堂ニライカナイだけじゃないんですか?」

「言えるかぁっそんなこと! 無礼にも程があるぞ貴様ぁっ!」

 ブレイヴィリアは凄い勢いで後退り、いくつかの机を倒した。

「なんでそんなに恥ずかしがるんや。大食らいの女もオツなもんやで」

 教室の隅に逃げ込んだブレイヴィリアの姿に健人が不思議がると、ブレイヴィリアはひっと短く悲鳴を上げて長身を縮める。

「私は天界族の末裔だぞ、軍神にして現人神たるエクストリア家の世継ぎにして姫騎士、魔族を打ち倒すがために生まれ落ちた盾であり剣、民を導きし翼だ! そ、それが人前で食事していいはずがないだろう! 現人神だぞ!? 貴様、そのような戯言を流布してみろ、極刑だぞ! 不敬罪だぞ! 神への冒涜だぞ! エクストリア家に対する最大級の侮辱だぞ!」

「ああ、なるほど」

 今更ながらブレイヴィリアの恥じらいの意味を知った礼司は、これまでの出来事を踏まえて納得した。つまり、ブレイヴィリアの生まれた世界では天界族の末裔である王族はイコールで神として扱われているため、人前で物を食べてしまうと堕落する、という概念があるようだ。だから、ブレイヴィリアは昼食を学食で食べず、わざわざ自分で弁当を作って食べていたり、放課後に南海食堂ニライカナイで山ほど食べていたのだ。だが、ここはブレイヴィリアの世界ではない。

「俺達が先輩を神格化していないってことは、他の生徒もそうなんじゃないですか? てことはつまり、ベテルギスクも神格化してないんじゃないですか? むしろ、蛇蠍の如く恐れていますよ。じゃ、何の問題もないじゃないですか」

 なあ、と礼司がクラスメイトに同意を求めると、皆、同意してくれた。

「だがな、一部の女子生徒は私を追いかけ回してキャアキャア騒いで御姉様御姉様ァンッと鼻に掛かった甘ったるい声を上げてくねくねするのだ。あれこそ神格化というに相応しいではないか」

 だが、ブレイヴィリアはまだ納得していないのか、赤面したままだった。

「それは違いますよ、なんてーか、ヅカのノリ?」

「ヅカの意味はまるで解らんが、そうか、私はこの世界の誰にとっても神ではないのだな? ふむ……考えたこともなかった。物心付いた頃から信仰されていたから、信仰されないわけがないと思っていたのだ」

「人によっちゃアイドルとか歌手とかを神格化するのもいますけど、小林先輩はそういうのじゃないですし」

「だが、私の写真をネットオークションで競り落とした者共は女神だのなんだのとのたまっているぞ。それこそ神格化とは言わんのか?」

「あー……ネットの神とリアルの神は意味が違いますからねぇ」

 それを一から説明するのは骨が折れるので、礼司は大雑把に解説した。

「ネット界隈で言うところの神ってのは、一個人を褒める最大級の賛辞であって、神格化したってわけじゃないんですよ。マジ天使ってのはまた少し違います」

「ふむ。ならば、私は地球の人間共に信仰されているわけではないのだな?」

「ええそうです、露出度の高い生写真を売ってくれる小林先輩をエロ目線で褒めているだけなんです。やっと解ってくれましたか。じゃ、今から授業参観にやってくる邪竜一族を襲うのは止めて下さい。てか、ヴァージンロードを血と首で彩る文化は現代日本にはありません、たぶん過去にもないと思います。ついでに、あれは全員横嶋さんの親戚なので、絶対に手は出さないで下さい」

「それを早く言え。そうと知れば、手を出さぬものを」

「要点を言う前に先輩が大暴走したんじゃないですか」

 それを言うためだけに無駄な遠回りをした。礼司は急に疲れを感じたが、本番はこれからなので継美に合図した。

「聞いての通りだ、横嶋さん」

「じゃ、行ってきます」

 継美は翼を広げて薄い皮を張り詰め、一度羽ばたかせた。教室内の埃っぽく淀んだ空気が掻き混ぜられ、彼女の上履きを履いた足が浮き上がり始める。

「うん、飛べる」

「いいか横嶋、無理だと思ったらすぐに戻ってこい。解ったな」

 窓を開けてやった火ノ元は、継美を励ました。

「はい!」

 窓枠に両足を掛けて尻尾をぴんと伸ばした継美は、腰を落とし、空中に飛び出す姿勢になった。だが、継美は高いところから飛んだ経験があまりないらしく、踏み出すまでに間があった。そのうちに尻尾が丸まり、翼の張りが弱まる。浅く息を吸っては深く吐き、拳に力を入れすぎて軽く震えている。その間にも、邪竜族の大軍勢は進行してくる。数分もすれば、螺倉の狭い空が邪竜族に埋め尽くされる。だが、それでも、継美は動けなかった。

 この一歩のために、この一歩が踏み出せないがために、この一歩を恐れていたがために、長い間、継美は己の心を囲う檻を作っていた。その檻の柱を一本一本外したら、最後に残るのは繊細で柔らかな心の芯に決まっている。それを今、嵐の中に曝け出しているのだから、恐怖も躊躇いも怯えもあるだろう。けれど、継美は誰にも助けは求めなかった。それもまた、彼女の成長の証しだった。

「私、頑張るね」

 継美は窓枠を踏み切った。

 止まない雨の中へ、邪竜族の姫君が羽ばたいた。

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