表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/16

長いモノは巻き付いてくる

 十四.


 継美の祖父である店主に許しを得て、礼司らは居住スペースである店の二階に上がらせてもらった。シフトを抜けた継美の代わりに静子が働いてくれていて、オーダーを取る元気の良い声が階段を伝って聞こえてきた。つくづくいい人だ。

 整理整頓された六畳間で、継美は翼を広げて尻尾も長く伸ばしていた。気持ちが安らいでいるからだろう。階段を昇ってきた足音がしたのでジュリエッタがふすまを開けてやると、四人分の夕食を載せた盆を持った健人が現れた。

「爺ちゃんから晩飯もろてきたでー」

「ありがとう、倉田君。私がするべきことなのに」

 継美に感謝され、健人は足先を振る。

「ええってええって。気にせんといてや。礼なんて乳揉み一回でぇっい!?」

 卑猥な要求を言い切らせないために、礼司は盆を奪ってから健人を蹴り飛ばした。見事に後転を決めた健人は、ふすまの前でびしっと足を広げる。

「その程度でやられるワシと思うたかぁ!」

 いちいち構っていられないので、礼司は四人分の夕食をテーブルに並べた。パスタ皿に白飯が盛ってあり、その上にデミグラスソースが多めに掛けられたスクランブルエッグが乗っていた。まかない料理だ。グラスに入っているのはレモンの薄切りが入った炭酸水で、ただの氷水ではない。姉のような女子大生がいかにも好みそうな店だ。具なしオムハヤシではあったが、デミグラスソースには肉の旨味と野菜の甘みが濃厚に溶け込んでいて、スクランブルエッグも見事な半熟で充分旨かった。むしろ、余計なものがないからこそ味が解る。

「旨い」

 礼司が無意識に漏らすと、継美がはにかんだ。

「ありがとう。お爺ちゃんに後で伝えておくね」

「んで、つーちゃんの爺ちゃんは普通の人間なんやな」

 早々に具なしオムハヤシを食べ終えた健人は、皿に残っているデミグラスソースをスプーンで刮げ落として舐め取った。

「うん。お爺ちゃんも結構勘が鋭くて、人間とそうじゃないものは見分けられるけど、阿部君みたいに全部見えちゃうわけでもないから」

 継美は少量ずつ口に運び、きちんと噛み締めてから飲み込む。

「人間じゃないのはお父さんだけ。お母さんは高校生の頃、クラーゲンフルト帝国に繋がる次元と空間の穴に落ちちゃって、紆余曲折を経てお父さんと結婚したの。人間と邪竜族の仲を取り持つため、ってのが建前らしいけど、お父さんの話じゃお母さんと結婚するためなら手段は何でも良かったみたい。丁度その頃、定期的に起きる人間との種族間戦争をしていたから、人間側がいきなり現れたお母さんに適当な魔法の力を与えて祭り上げてジャンヌ・ダルクみたいな扱いにしたんだけど、人間側も異分子であるお母さんを使い捨てる気でいたの。お母さんもそれに気付いたから、双方の停戦を条件にお父さんと結婚したって話してくれた。でも、十年も持たなかった。打算ありきの結婚なんて、そんなものだよね。お母さんは資格を取って大きな会社に就職したから忙しくなっちゃったから、一緒に暮らしていたのは中二の二学期までなんだけど、実際にはほとんどお爺ちゃんの世話になっていたの。誰もいない部屋に帰ったって、寂しいだけだから。この部屋は、学園の寮に入ったから片付けたんだけど、元々は私の部屋なんだ」

 継美は、タンスの上にある写真立てを見上げた。そこには中学校の制服を着た継美と継美とよく似た面差しの三十代半ばの女性が写っていた。

「あの写真は、私がただの人間でいられる最後の記念にってことで撮ったんだ。十四歳の誕生日にお父さんから鎧をプレゼントされた、ってのは話したかな。あの鎧は、邪竜族の帝王が代々戴冠する兜の一部を溶かして作ったもので、私は十四歳の誕生日に帝王の座を継ぐことになっていたの。あっちの世界とこっちの世界じゃ時間の流れが違うから、こっちで一ヶ月過ごしている間にあっちでは十年が過ぎてしまうの。だから、私が十四歳を迎えた頃には、帝国では一千六百八十年が経過している。産まれてから一千五百年を超えれば、邪竜族は成人と見なされるから、私は成人してからちょっと過ぎた頃に帝位を継ぐはずだった。お父さんがどんな人……じゃなくて、どんなドラゴンなのかは全然知らないし、あっちの世界がどんな世界なのかも見当も付かなかったけど、怖くはなかったんだ。怖いだなんて、思わないようにしていたの」

 レモン入り炭酸水の泡が弾け、澄んだ結露が真鍮の盆に円を作る。

「誰とも関わらないでいたから、楽しいことや嬉しいこと出来るだけを知らないようにしていたから、地球にもこっちの世界にも未練なんて持たないはずだった。でも、一度だけ嬉しいことがあったんだ」

 継美は結露の浮いたグラスを両手で取り、レモン炭酸水を一口含む。

「教室の掃除を全部一人でして片付けている時に阿部君が来てくれて、手伝うって言ってくれたこと。私なんかにも優しくしてくれる人がいるんだなぁって思ったら、急に色んなことが怖くなっちゃって、お父さんに電話したんだ。こっちで高校に進学するからまだ行けない、って。凄くドキドキしたなぁ」

 礼司の人生の岐路であったように、継美の人生の岐路でもあったのか。

「お父さんはそれを許してくれたんだけど、だったらお目付役を傍に置くってマキナを派遣してきたの。あの子はそんなに悪い子じゃないし、一生懸命なのは素敵だって思うし、出来れば仲良くしたいから、これからは色んなことを話すようにしてみる。あの子も私も、自分が自分がって感じだったから」

 継美の手の下で、からり、と溶けかけた氷が動く。

「私、お父さんと話してみる。嫌だって思うこと、ちゃんと自分の口から伝えてみる。そうしなきゃ、一生後悔するだろうから」

「それがいいよ」

 礼司が頷いてみせると、継美は頷き返してくれた。

「うん」

 並々ならぬ決意が込められた彼女の面差しを見つめていた礼司を、前触れもなく健人が張り倒してきた。先程の仕返しか。

「そないな甘酸っぱーなイベントあったんかいな、礼ちゃんのくせに」

「お前だって俺の姉貴としょーもないフラグ立てたろ」

「しょーもないとか言うなや」

「じゃあ俺のにも口を出すな、文句を付けるな、ついでに手を出すな」

「ワシの場合、足しかないねんけど」

 と、得意げに足をくねらせた健人に、礼司は笑うしなかった。

「みゅっぷるん!」

 不意に、それまで大人しくしていたジュリエッタが跳ねた。継美はグラスを高く掲げて中身を零さないように頑張ったが、無理だった。

「わ、わっ」

 仰け反る形で背中から転んだ継美に、ジュリエッタがにゅるにゅるとまとわりついてくる。その冷たくぬめぬめとした感触に、継美はくすぐったいやら身動きが取れないやらで半泣きのような声を漏らす。

「うひゃあうっ……」

「むみゅにゅるるぅ、その制服ってぇ、誰の趣味ぃ? みゅっぷん」

 ジュリエッタは透き通った目を丸め、純粋な疑問をぶつけてくる。継美はジュリエッタを引き剥がそうとするが、手応えがほとんどないばかりか腕が突き抜けたので、諦めてされるがままになった。

「誰ってそりゃ、お店を始めたお爺ちゃんのだけど」

 変かな、と継美はスカートの裾をつまむ。白い丸襟にパフスリーブの黒いワンピースだが、スカートはタイトで大人びた印象がある。控えめながら品良くフリルの付いたエプロンはショート丈で、継美のすらりと長い両足は僅かに透けた黒いストッキングに包み込まれている。大正浪漫、という言葉がよく似合う。

 変じゃない変じゃない、それどころか凄くいい。下手に現代っぽくしていない辺りが尚更素敵だ。服装に合わせて長い髪をまとめた髪型も、普段はほとんど露出しない首筋が出ていて最高だ。礼司はそう言いかけて、寸でのところで飲み込んだ。上がったばかりの株を大暴落させてどうする。

「きゃーわぁーいーいーん!」

 ジュリエッタは一語ずつ語尾を上げながら、継美に頬摺りする。だが、その度に粘液がべっちょりと継美に擦り付けられていく。褒められるのは悪い気はしないのだが、粘液まみれになるのはさすがに困るらしく、継美は腰を引いた。

「あ、ありがとう。でも、そういうのはちょっと……」

「うにゅるう? 静ちゃんは大喜びなのにぃにゃにょぬぃー」

 ジュリエッタはきょとんとし、首を傾げた。それは静子の性癖が特殊なだけだ。継美が離れてくれと頼むと、ジュリエッタは継美が本気で嫌がる前に離れてくれた。にゅるにゅると青い粘液を引き摺りながら畳の上を這いずったジュリエッタは、粘液を一纏めにして同化させた。それでも、継美はほんのり湿っていた。

「生乾きみたいになっちゃった……」

「で、その、横嶋さんはいつ頃から学校に」

 戻ってくるのか、と礼司が問おうとした時、誰かの携帯電話が鳴った。人生楽ありゃ苦もあるさ。世直ししながら御当地巡りをする黄門様御一行のアレだ。

 礼司のものでもない、健人の着メロとも違う、ジュリエッタのとも違う。ということは、つまり。継美は腰を上げ、鏡に布を掛けたドレッサーに置いてある充電器から携帯電話を外してフリップを開いた。

「あっ」

 継美は何度も目を動かして画面を凝視していたが、恐る恐る振り向いた。

「えっと……次の、公開授業の日って、いつだっけ?」

「そんなもん、あったっけ?」

 意識したこともなかったので礼司が二人に尋ねると、健人が答えた。

「あるに決まっとるがな。今度の公開授業は第三土曜日やで」

「えっ、あっ、うっ」

 継美は携帯電話とカレンダーを何度も見比べ、身を縮めた。

「……来週だよぉ」

「でも、相手にしてみれば一ヶ月後なんだよな。少なくとも」

 一ヶ月を三十日として十年、つまり三千六百五十日を掛ける。一万九千五百日。それを十二ヶ月区切りで割ると九千百二十五日。更にそれを日数の三十で割ると約三百四日。それを一週間の日数の七で割ると、約四十三日となる。こちらの時間とあちらの時間にそれだけの開きがある。礼司は指を折って計算すると、継美は頬を引きつらせる。

「お父さんからメールが来たの。今度の公開授業を見に行くから、って。絶対に断ろうって思ったけど、それを聞いちゃうと断りづらい……」

「さっきの決心はどないしたんや」

 健人が呆れると、継美は真顔になった。

「一ヶ月も前に約束したことを無下にされたら、怒らない自信がある?」

「そら……ちょいと考えるわな」

「でしょ?」

 継美はじっとメール画面と向き合っていたが、決意を新たにした。

「でも、これもいい機会かもしれない。せっかくだから、お父さんともちゃんと会ってみる。お母さんとマキナの話によればお父さんはとんでもなく巨大なドラゴンらしいけど、次元と空間の自己修復能力が作用するはずだからスケールダウンするはず。しないわけがないよね、ね?」

 継美はジュリエッタに返事を求めるが、ジュリエッタは笑うだけだった。

「にゅっぷるぷー」

「と、とにかく頑張ってみるよ」

 継美は拳を固め、うん、と自分に念を押した。

「時間経過の違いっていえば、ベテルギスクはいつ頃戻ってくるんだろうな」

 礼司がふと乙男な魔王を思い出すと、健人は足を組む。

「さぁなぁ。つーちゃんの親父はんとこの時間経過とはまたちゃうやろし、こっちの一ヶ月があっちの半日かもしれんねや。もしかすっと、ワシらが学園におる間に帰ってくるかどうかも解らんかもしれんで、これは」

「そういうの、なんだっけ。ああ、ウラシマ効果だ。それみたいだな」

「実際、そないな感じやで。大分前に、フル稼動しとるジュリエッタからちろっと話を聞いただけなんやけどな……」

 健人は空になった四枚のパスタ皿を、テーブルに横一列に並べる。その真横に中身が半分残ったグラスを置き、テーブルの高さにまで目を下げる。

「ワシの目線が、今、この時間を見とる状態でな」

 パスタ皿を一枚、奥に動かす。

「んで、これがベティちゃんと小林先輩の元の世界の時間と次元と空間」

 二枚目のパスタ皿を手前に引き寄せる。

「んで、これがつーちゃんの親父はんちの世界の時間と次元と空間」

 三枚目のパスタ皿を一番奥に押しやる。

「んで、これが……」

 健人は足を伸ばし、テーブルから落ちかけるほどパスタ皿を奥に移動させる。

「ワシの生きとった世界の時間と次元と空間やねん」

「ただ、距離を変えただけだろ?」

 礼司がテーブルを見下ろすと、健人は足先を曲げる。

「そやねん。人工特異点が空間も次元を貫いとる、っちゅうても、どれもこれも並行に存在しとるわけやないんねや。てんでバラバラで、距離も方向も空間軸もあっちこっちに散らばっとるんや。つまり、人工特異点っちゅうのは針と糸みたいなもんやな。でな、その人工特異点を通じて多次元宇宙を移動する、っちゅうても距離がゼロになるわけやないねん。実際にはごっつい距離を移動しとるねん。でも、移動しとる本人はその時間を体感せんから経過したことにはならへんし、異世界に辿り着いたらそっちの空間と次元の自己修復能力で感覚も補正されてまうから、疑問も違和感も感じへんねん。あっち側から見るとこっち側の世界はものごっつい速度で移動しとってな、こっち側から見るとあっち側の世界が遠ざかっているように感じんねん。せやから、螺倉に住んどる連中は礼ちゃんが言うところのウラシマ効果の真っ直中におるねん。このグラスん中の水のことやな」

「……えぇー?」

 礼司は限界まで首を捻るが、継美はちょっと考えてから呟いた。

「そっか。だから、あっちの世界で使える魔法とかがが使えなくなるのね。異世界の物理法則を通用させるためには、本来存在していた次元と空間に干渉している必要があるから、その次元と空間が離れていては接触しようがないし……」

「えぇ?」

 今の説明で解ったのか、継美は。やっぱり何かが違うんだなぁ、と礼司は痛感しながら、自分なりに健人の良く解らない話を消化しようとしてみた。だが、どうにも上手くいかなかったので諦めることにした。異世界の法則や概念なんて、解らなくても生きていける。というか、解らないで生きていくのが普通だ。解ろうとすれば解らない部分ばかりが増えていって、解り合えないのだと思い知ることにもなる。だから、どうしても理解出来ない部分には、自分なりに線引きをしておいた方がいい。今後のためにも。



 洋食居酒屋リンドヴルムを後にしたのは、午後九時前だった。

 働きに働いた静子は、洗って返すために借り物のウェイトレスの制服を紙袋に入れ、それを抱えて大きく手を振った。店先に見送りに出てくれた継美とその祖父であり店主の横嶋正志に、礼司らは揃って頭を下げてから、帰路を辿った。

「たぁーのしかったぁーん」

 静子はヒールを履いているのに軽快にスキップし、紙袋を前後に振る。

「お姉さーんとか、ウェイトレスさーんとか呼ばれるのって悪い気しないわねー。注文取りするのも結構面白いし。覚えるのはちょっと大変だったけど」

「で、時給は出たんですか」

「そりゃ、君らが頂いた御夕飯よ。私も頂いたし、おいしかったけど」

 礼司の野暮な質問に答えた静子は、くるりと身を反転させる。

「で、その様子からすると、つーちゃんの方は上手くいったわけね?」

「悪い方向には向かいませんでした、ようおっ!?」

 無難な言葉で返した礼司の首に、健人は足を巻き付けてくる。

「よー言うわい。自分だけつーちゃんと青春しとったくせになぁ!」

「あらまぁーん。詳しく聞かせてぇ、お姉さんに! じゃもう一軒行こー!」

 目を輝かせた静子は礼司の腕を掴み、挙手させた。

「勘弁して下さい」

 健人の足を緩めて呼吸を確保した礼司が嘆くが、ジュリエッタが煽ってくる。

「にゅっぷるぷー! 行こー行こー!」

 結局、その勢いのままに二軒目に連れ込まれ、礼司が逃げ出せるまでに三十分以上掛かってしまった。おかげで帰宅した頃には門限の二分前になっていて、緊張しきりだった。酒を飲んでいないかタバコを吸っていないかと父親から嗅ぎ回られもしたが、それだけ大事にされているのだ、と思うことで苛立ちを追いやった。いちいち気に掛けるということは、労力を割いてくれる証拠であり、愛情がなければ労力を割くことすらしないだろうから。

 気が立っているせいでなかなか寝付けず、礼司は時間潰しのために予習の続きをしてみたが、ほとんど頭に入ってこなかった。継美が笑いかけてくれた。そればかりか、あの時の自分の行動があったからこそ継美は思い止まってくれた。それがなければ、継美は螺倉学園に進学するどころかクラーゲンフルト帝国で新たな大帝となって不本意ながらも暴虐の限りを尽くしていたに違いない。

「ふへははははは」

 俺って凄ぇ、と腹の底から叫んで己を褒め称えたいが、そんなことをすれば両親と宵っ張りの姉からやかましいと怒られるので堪えた。が、変な声が出た。

「うひゃふへへへへ」

 それにしても、継美の古式ゆかしいウェイトレス姿は可愛かった。上品だった。黒ストッキングが醸し出す色気は凄まじい。写真に撮っておきたかった。しかし、あの状況ではまず無理だった。継美は学園に戻ってくるだろうから、再びウェイトレス姿を見るのも難しくなるだろう。ならば、己の脳内に焼き付けるしか。

「……すっげぇ好き」

 我ながら、なんてつまらなくて単純な語彙だろうか。面と向かって気持ちを伝える時には、もっときちんとした言葉を選んでおこう。最早勉強どころではなくなった礼司は寝入ろうとしたが、無駄なエネルギーが高ぶるばかりだったので、それを処理するために夜の街に駆け出した。俺、青春してるっ、と思いつつ。



 翌日。

 継美は登校してきていた。教室で礼司と顔を合わせると、少し照れ臭そうではあったが笑みを向けて挨拶してくれた。礼司はそれに対して最大限の好意を示してやりたかったが、生憎、疲労困憊していた、

 意味もなく駆けずり回ることで無駄なエネルギーは大いに発散できたが、必要な体力まで使い果たしてしまった。数日前の健人と同じようなものだ。その健人というと、今日こそは真里亜の弁当がまともでありますように、と全くもって無意味な願いを天に捧げていた。ジュリエッタは相変わらずだった。後は、この場にベテルギスクが戻ってくれば元通りなのだが。

 何度か居眠りしそうになりながら、ぼんやりとした頭で一通り授業を受けていると待ちに待った昼休みが訪れた。さて静かな場所で一眠りしようと礼司が体育館裏を目指していると、マキナが立ちはだかってきた。

「やあやあ我こそはぁぶっ!」

 戦国武将のように名乗りを上げようとしたラミアに、礼司は無言でアイアンクローを掛けて黙らせた。一度喋らせると長引くからだ。見た目の割りに体重が重いマキナを引き摺って体育館裏に連れ込むと、礼司は彼女の本題を先に言った。

「横嶋さんと長尾の仲を取り持ってくれ、ってんだろ?」

「う、うむ、その通りだ愚民よ」

 マキナは礼司の手の形に乱れた前髪と星のヘアピンを直し、平坦な胸を張る。

「ここのところ、貴様と姫様は実に親密である。それ故に、私と姫様の間に隔たるマリアナ海溝なんか目じゃない幅と深さの溝の上に横たえるべき橋が必要なのであるからして、その橋の人夫に命じてやろうではないか!」

「横嶋さんは、もうそんなに怒っちゃいないぞ」

「いや、私にはとてもそうは思えなかった。なぜならば姫様は、学食の朝食の席にて私が再三再四おすすめした茹で卵をお一つしかお召し上がりにならなかったのだ。それは私を御許しになっていないという証しではないか」

「あんなもの、一つも喰えば充分だぞ」

「私は一つでは足らん、十は喰わねば足りぬ」

「やっぱり丸飲みするのか?」

「そうだとも。咀嚼などしては蛇の足元にも及ばぬ、そんなものがあったのならばの話であるがな! 私の顎は貴様の頭如き一呑みに出来るほど外れるのだ、どうだ恐ろしかろう、さあ恐れろ! お、恐れろってば、恐れてくれよ、少しだけでもいいから! ……毛の先ほども恐れてくれぬのか?」

「色々と慣れたから」

 食い下がってくるマキナに礼司が一言だけ返すと、マキナは悔しがった。

「くうっ、なんたる屈辱か! この恨み、一生忘れはせぬぞ愚民! 七代先まで祟ってやる、蛇塚が建つほどの怪異を見舞ってやる、赤い縞々模様の服を着た大御所漫画家が描いた蛇娘を読ませてやる! いっそ枕元で朗読してやる!」

「最後のはちょっと怖いな」

 不法侵入しているからだ。すると、マキナは一気に喜んだ。単純だ。

「ふっ、ふはははははは! ようやくこの私の恐ろしさに気付いたか、気付かぬわけがないだろう、いいや気付くのが普通なのだ! ならばその恐ろしさに煽られるがままに我が命を聞き届け、姫様をお呼び立てするがいい! ほれ!」

 と、マキナが突き出したのは蛇柄のストラップが付いた携帯電話だった。

「いや、いいよ。それよりも、後ろ」

 礼司は携帯電話を押し返してマキナの背後を指すが、マキナはそれ以上の力で押し付けてくる。

「いいから使え! 使わねば我が下半身を巻き付け、貴様の骨を砕いてやろうではないか! ちょっとでもいいから電話してくれ、私が掛けたのでは姫様は通話を受ける前に切ってしまうかもしれないではないか! あれって地味に精神的苦痛を覚えるのだぞ、呼び出し音が聞こえたと思ったらブツッ! なんだぞ! 留守番電話サービスセンターに繋がることすら許可されないのだぞ! メールを送っても一通も返ってこないのだぞ! にやにやしながらデコメなんか作っていた自分が世界一の馬鹿に思えてくるのだぞ! その苦痛を貴様にも与えてやる、さあ、さあ、さあ!」

 マキナの携帯電話は礼司の横っ面にめり込み、耳元でストラップがじゃらじゃらと鳴った。礼司はそれを再度押し返してから、彼女の肩越しに背後を指した。

「だから、後ろ」

「愚弄するな、この私がそんな古い手を喰らうとでもっ……おぅっ!?」

 マキナは耳元まで裂けた口を開きながら振り返ったが、固まった。そこには、苦笑気味の継美と仁王立ちしているブレイヴィリアがいた。

「は、ひ、姫様、いつからそこに御座しておられたのでござりまするか?」

 ぎこちなく向き直ったマキナがひれ伏すと、継美は小さく首を傾げる。

「大分前から、なんだけどな。阿部君がマキナを連れて行ったから、どこに行くのかなーって思って……。もしかして、邪魔しちゃった?」

「いえいえいえいえいえいえいえそのようなことは決して決して決して!」

 マキナは制服と顔が汚れるのも構わずに、額を擦り付ける。

「貸せ」

 ブレイヴィリアはマキナの手中から彼女の携帯電話を奪うと、アドレス帳を広げて盛大に嘆息した。手早く操作してから、またマキナの手に戻す。

「マキナ、貴様が継美の名で登録していたアドレスはどちらも私のものだぞ。貴様から訳の解らんメールや無意味な通話が来ていたから、もしやとは思ったのだがな。貴様、確認したか?」

 ブレイヴィリアに迫られ、少々臆したマキナは首を横に振った。

「い、いえ……。一度、姫様の手帳を拝見しただけですので……」

「たぶん、マキナは勘違いしたんじゃないかな。こっちが私のアドレスで、こっちが小林先輩のアドレスなんだけど」

 継美は膝を付いてマキナの目線まで下がると、手帳を広げた。可愛らしい花柄のアドレス帳には継美のアドレスが上に、ブレイヴィリアのアドレスが下に、書き込まれていたが、その名前欄は下に付いていた。だが、マキナは名前欄が上にあるものだと思っていたのだろう、ブレイヴィリアのアドレスが継美のものだと思い込んで携帯電話に入力したようだった。その結果、マキナのどうでもいいメールがブレイヴィリアの携帯電話に雪崩れ込んでいたというわけだ。

「大変申し訳ございませんでしたぁああ」

 涙目になったマキナはブレイヴィリアにひれ伏し、首を差し出す。だが、ブレイヴィリアはその額に手を添えて上げさせ、赤い髪をぐしゃりと乱す。

「解ればいい。二度とするな。あと、デコメはやりすぎるなよ、受信する側がパケット定額プランに入っていない場合は膨大なパケット料金が搾取されるのだ」

「ご教授ありがとうござりまする」

「それと、これといって緊急性のない用件の場合はメールを打つな。本人が近くにいるのだ、面と向かって伝えた方が余程迅速で確実だぞ。貴様も曲がりなりにも情報を扱う者であるならば、正確さを何よりも重視しろ。それは作戦の行く末どころか、戦況すらも左右しかねん。それを今一度胸に刻め、解ったか?」

「はいぃっ」

「ならば立って良し! 尚、本件の処罰は貴様の上官に一任する!」

 ブレイヴィリアは力強く声を張り上げた後、踵を返していった。マキナは恐る恐る立つと、継美を見上げた。

「姫騎士様は、ああ仰っておりまするが……。罰とはやはり、活け作りで?」

「なあに、それ」

 継美はくすっと笑みを零すと、えい、とマキナを軽くデコピンした。

「これだけ」

 マキナは呆気に取られたが、継美の笑みに釣られて表情を崩した。

「くすぐっとうござりまする」

 中学一年生の少女に相応しい、力みもなければ気負いもない自然な弛みだった。きっと、これこそが本来のマキナなのだろう。それから、継美とマキナは女の子同士特有の華やいだ会話を始めたので、礼司はそっと体育館裏を抜け出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
web拍手 by FC2
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ