邪竜族の姫君は思春期
十三.
「へーえ、洋食居酒屋ねぇ」
礼司の持つドリンク無料券を見つめ、静子はスケキヨマスクの下で瞬きした。
「てか、静子さん、なんでナチュラルに学園にいるんですか」
礼司は姉手製の弁当を健人に渡してから、己の弁当箱を広げた。その隣のベンチに腰掛けている静子は、持参したサンドイッチを頬張った。
「私はここの卒業生だし、ジュリーの保護者だし、学園のスポンサーでもあるんだし、入れないわけがないじゃなーい」
「そうなのか?」
礼司が健人に問うと、健人はにたにたしながら弁当を広げた。
「そら静ちゃんの財力があらんかったら、今の学園はあらへんで」
うひょひょひょ、と奇声を発しながら弁当を取り出して蓋を開いたが、健人は萎れた。それもそのはず、弁当の中身はことごとく残念だったからだ。おにぎりは不定形な上に隣り合わせで置いてあったホウレン草のゴマ和えと混ざり合い、卵焼きらしきものは炭化していて、ウィンナーは横着してレンジで加熱したのか全て破裂している。比較的まともそうな冷凍食品の唐揚げやカップ入りグラタンだけだったが、それらの上にはなぜか豪快にチョコレートソースがトッピングされていた。健人はほろりと涙を落とし、蓋を閉めた。
「愛の試練……やな」
「じゃあ喰えよ」
礼司はすかさず弁当箱の蓋を奪った。何のために運んでやったと思っている。
「そうそう。食べなきゃダメダメめぇーにゅーにょにょーんっ」
処理落ちから回復したジュリエッタは、再び女子生徒の形をした青いスライムになっていた。にこにこしながら粘液の中に放り込んでいるのは、静子と全く同じ中身のサンドイッチだった。こちらは見た目も中身もまともなので、健人は恨めしそうにそれを窺っていたが、渋々真里亜の弁当を食べた。
「で、静子さん。この店って、横嶋さんの実家でしょうかね?」
「んー、それはちょっと解らないなぁー」
じるるっと紙パックの野菜ジュースを啜り、静子はローヒールのパンプスを履いたつま先をぶらぶらさせる。
「私はお酒はそんなに飲まないし、居酒屋に通うような飲み仲間もいないし、会社の同僚だってそんなに深い付き合いしないし。現地に行ってみるしかないんじゃない? まあ、もしも間違っていたとしたら、その時はその時よ。洋食居酒屋ってことは昼間はレストランとして経営しているんだろうし、お酒よりも料理がメインって感じだから、ディナーでも御馳走してあげるわよ」
「え? いいんですか?」
「ぶーちゃんがいないんなら、エンゲル係数も普通だろうし」
と、静子は声を潜めた。ブレイヴィリアのことか。そういえば、今日は彼女の姿を見かけていない。礼司の疑問を悟ったのか、ジュリエッタが言う。
「みゅっぷるぷぅ、小林先輩はねぇ、部活のミーティングだってぇにょー」
「そういえば、小林先輩は何部なんだ? あの人のことだから、柔道部とか剣道部とかの運動部に違いないだろうけど」
「かるた部みょーん。にゅっぷるん、夏季大会が近付いてきたから、根を詰めて練習しないと地区大会も勝ち昇れないってぇーにゅえー」
ジュリエッタはそう補足し、残りのサンドイッチも粘液の中に放り込んだ。礼司は首を捻りかけたが、確かにあれも体育会系だよな、と思い直した。毎年のように年始にニュースで取り上げられる百人一首大会の決勝戦で、畳の上に広げられた取り札を奪い合う様は壮絶だ。瞬発力が鍛えられていいのかもしれない。
「あと、茶道部も掛け持ちしてんねやな。土着の文化を学びたいんやろな」
ワシらは帰宅部やけど、と健人は付け加えながら、チョコレートソースまみれの唐揚げを咀嚼した。が、すぐにお茶で流し込んでいた。
「じゃ、今夜にでも行ってみよっか。行動は早いに限る」
ご馳走様でした、と静子は両手を合わせて弁当箱に蓋をしてから、ドリンク無料券を広げて地図を確認した。
「ええと店の場所は……相模原駅から徒歩五分か。てことは、午後七時に相模原駅に集合ってことで。あ、でも、制服とかジャージのままじゃダメだからね? 私服で来てね? 仮にも居酒屋だからタバコ臭くなっちゃうかもしれないし、そのせいであらぬ疑いを掛けられたらお姉さんもマジで困っちゃうし。てなわけで、バッハハーイ!」
静子は礼司らの返事を待たずにベンチから立ち上がり、駆けていった。ジュリエッタは無邪気な笑顔でその背に手を振っていた。どうにかこうにか真里亜の残念弁当を食べ終えた健人は、礼司に尋ねてきた。
「で、静ちゃんはなんやて?」
「今日の夜七時に相模原に集合だと。私服で来いとさ」
礼司はドリンク無料券を折り畳み、財布に戻した。途端に健人ははしゃぐ。
「合コン!?」
「そんなわけがあるか。大体、お前には姉貴がいるだろうが」
「言うてみただけやん」
健人は吸い口を窄め、拗ねてみせた。だが、そこに可愛らしさなんてない。礼司はタコを彼氏にした真里亜の行く末を心の底から憂いたが、姉は健人が異世界出身だと感付いてはいてもその正体までは解らないのだ。真里亜の目には写真に写った青年に見えているのだろうし、その正体がエロオヤジな思考回路を備えたタコだと言ったとしても、今度は礼司が中二病呼ばわりされるだろう。だが、所詮は他人のことだ。姉がどうなろうと姉の勝手だ。
午後七時、小田急相模原駅。
東口から外に出た礼司は、陰鬱な気持ちを抱えていた。出発する前に、夕食の時間に出かけるとは何事だと父親から叱責されたからだ。ごもっともである。だが、母親は午後十時までに帰ってくればいい、余った礼司の分の夕食は明日のお弁当に詰めてあげる、と助け船を出してくれたので出発することが出来た。
「うぃーす」
足を一本掲げて近付いてきたのは、私服姿の健人だった。だぼっとしたTシャツに幅の広いズボンを履いて潰れたスニーカーを引っ掛けているので、ラッパー崩れのようだった。その背後に行き交っているのは人間だけなので、二本足で歩行しているタコの姿は言うまでもなく浮いている。だが、誰もそれに気付いていない。それは必然なのだ。礼司はMP3プレーヤーのイヤホンを外す。
「おーす」
「で、どうすんねや」
健人は礼司の隣に立ち、後頭部で腕に当たる足を組んだ。
「どうって……」
「言わんと解らへんのか、自分は。あのシャレオツな居酒屋がつーちゃんの実家だったとして、つーちゃんに会うたとして、それからどないすんねや」
「どうって、そりゃ」
「学校戻ってこいっちゅうだけか? それとも何や、礼ちゃんがワシらに教えてくれたマキナっちゅう子の話をそっくり伝えんのか?」
「そりゃ、まあ」
それが道理だ。礼司は少し冷えてきた手を、パーカーのポケットに入れる。
「そんなら、ここまで来る必要なんてどっこにもないねん。マキナか小林先輩からつーちゃんのケー番教えてもろて、電話でも掛けて話せばええんや」
「友達甲斐がないだろ、それだけじゃ」
「トモダチ、なぁ。礼ちゃんはどないしたいんねや」
「何って」
「ここんとこずっと、礼ちゃんはワシらのどーでもええゴタゴタに付き合ってくれとったやろ。普通やったら、適当なとこで匙を投げとるもんや。付き合いがええってだけやないやろ、下心があるんやろ」
「まあ、一応は」
継美に近付けると思ったからだ。実際、そうなった。
「ワシらと仲良うしたいって思うてくれとるんやろ?」
「まあな。ろくでもないのばっかりだけど」
「その先がある程度見えとってもか?」
やけに真面目な口振りの健人は、駅前を行き交う雑踏を見渡す。
「ワシらはどんだけ地球に慣れて人間臭くなろうとも、生まれも育ちも違うんやから、根っこのところで通じ合えんねや。マリっぺから離れたんも、そういうのがちらっとあったからや。そやけど、またマリっぺに会うてしもうた。マリっぺもワシを気色悪がらんでくれた。ワシが人間でないっつーことを見抜いとっても、ワシを認めてくれたんや。そやけどな、やっぱりどっかで怖いねん」
壁から背中をずり下げ、健人はやや視点を上げる。
「解り合えんっちゅーことは、最後の最後で好きやって気持ちが裏返るっちゅーことでもあるんや。ワシんとこの女王様と戦乙女がそうやった。何千年も世界の均衡を保ってきたんやけど、たった一人の男に掻き回されただけで見苦しい戦いを繰り広げてなんもかんもダメにしてもうた。誰も彼も、勇者はんが一番好きなんは自分なんや、って思うたからや。だから、通じ合えんようになって、あないなことになってしもたんや。そやけど礼ちゃんはな、最初っからワシらんことを解っているようなツラで来るんや。ワシらの本来の姿が目に見えるからかもしれんけど、そういうのって嬉しいんやけど、薄ら怖い時があるんや。ワシらの外見が個性っちゅうなら、ワシらの人格はどないなんやろ、ワシらが人間やったらそもそも仲良うしてくれたんか、とか考えることもあるねん」
「意外と色々考えてんだなぁ」
「そらまぁ、な。で、礼ちゃんはどないしたいんねや」
「俺は、ただ横嶋さんと仲良くなりたいだけで。だから」
継美ともっと同じ時間を共有したい。ただ、それだけなのだ。今、ここに来たのだってそうだ。だが、その先までは考えたことはなかった。いや、考えようととすらしていなかったのではないのか。礼司が思い悩み始めた頃、相模原駅の階段から、一際目立つ外見の二人が下りてきた。
「ごめーんっ、ちょっと仕事が長引いちゃってぇー!」
手を振りながら駆け寄ってきたのは、私服姿の静子とジュリエッタだった。静子はマキシ丈のワンピースに淡いピンクのジャケットを羽織り、ジュリエッタは七分袖の薄手のニットにシフォンのスカートを着せられていた。案の定女物だ。
静子の頼りない道案内の末、ようやく洋食居酒屋リンドヴルムに辿り着いたが、午後七時半を過ぎていた。何度か道に迷ったのでいい加減うんざりしていたが、礼司の胸中は複雑だった。健人の言うことなど気にしなければいいものを、どうしても振り払えなかった。
継美とどうなりたいのか。そりゃもちろん、好きだから付き合いたい。手を繋ぎたい、あわよくば色々なことをしたい。向き合って色んなことを喋りたい、一緒に出掛けてみたい、もっともっと継美のことを知りたい。だが、それは継美を傷付けてしまうのだろうか。彼女は人間でありながらリンドヴルムである自分を認めかねていて、両者の狭間で思い悩んでいる。切っ掛けは下らないかもしれないが、地球か父親の祖国のどちらかを滅亡させられる立場にある。礼司は己を継美の立場に置き換えて考えてみたが、逃げ出したくても逃げ出せないのが一番辛いのだと思った。地球側に逃げても人間から蔑まれるだろうし、クラーゲンフルト帝国側に逃げても白い目で見られるだろう。かといって、どちらかを滅ぼしてやろうだなんて継美が考えるわけがない。考えているとは、考えたくない。
一生関わらないでいた方が継美は幸せだったのか。遠くから見ているだけで満足していなければいけなかったのか。進学先を変えていた方が、彼女は礼司と触れ合うことで人間らしさを得ずに済み、引いては苦しまずに済んだのだろうか。
「おい礼ちゃん」
健人にせっつかれ、礼司は気を戻した。目の前には、洋食居酒屋リンドヴルムがあった。西洋風の作りの店先にはランプが下がり、ドアの横にある小さな黒板には今週のおすすめメニューが書かれている。ヨーロッパのどこかで買い付けてきたであろう、小振りなドラゴンの銅像が来客を待ち構えている。
からんころん、とまろやかにベルが鳴る。静子がドアを開けて店内に入ると、景気の良い店主の声が掛けられた。と、同時に控えめな彼女の声も。
「いらっしゃいませ、よ」
四名様ですか、と言いかけて、彼女は硬直した。両手で支えていた真鍮製の丸い盆が滑り落ち、数枚の汚れたパスタ皿が床に激突して砕け散る。途端に彼女は背を向け、店の奥に逃げ込もうとする。
「横嶋さん!」
礼司はすぐさま手を伸ばし、その腕を掴んだ。ひどく震えている。
「な、ん、で」
レトロなウェイトレスの制服を着た継美は、細切れに言葉を発する。
「すいませぇーん御主人、継美ちゃんのこと、ちょーっとお借りしてもよろしいですかー? なるべく早く済ませますんでぇ」
割れた皿を片付けてから厨房に呼び掛けた静子は、返事を受けると、ぐっと親指を立ててみせた。連れ出す許可を得たようだった。
「にゅにゅみゅう」
ジュリエッタは継美の引きつる背中をそっと押し、店の外に促した。
「悪いようにはせぇへんって、ホンマホンマ」
健人は継美の肩を軽く叩きながら、店の裏を指し示した。礼司は静子と店主に何度も礼を述べてから、その後を追った。薄暗く埃っぽく手狭な店の裏に来ると、継美はジュリエッタと健人を振り払って後退る。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ」
「理由も知らないで謝られてもなぁ」
礼司は二人の間を抜けて継美に近付くと、継美はひくっと息を飲む。
「あ、阿部君……」
一歩ずつ距離を縮めようとするが、継美は一層後退する。
「なんで逃げるのさ」
周囲の建物のネオンをほのかに帯びた継美の目元に、涙の粒が膨らむ。
「い、嫌だから」
「何が?」
「何もかもが!」
絞り出すように叫んだ継美は、一度深呼吸する。
「わ、私は邪竜族の姫君でもなんでもない! ただの人間でいたかった! お父さんが誰かなんて知りたくもなかった! 螺倉になんて、行きたくなかった!」
汚れた壁に爪を立てる。
「でも、お母さんはお父さんの機嫌を取っておけって言う。あんたは将来凄い子になる、だから凄いことをしておけ、ってお母さんも言う。そんなこと出来ないし、したくなんかない。帝国だの地球だの多次元宇宙だの、そんなの私の人生にはちっとも関係ない。そもそも、私が生まれたのだってお父さんとお母さんの自己満足よ。……結局別れたくせに」
俯いた継美の顎を伝い、涙が胸元のリボンを叩く。
「マキナだってそう。私がどんなことを話しても、何をしても、さすがは姫様って言うだけで。でも、それって私自身のことじゃない。私の立場に対して言っている言葉なのよ。私には何の価値もないことぐらい、とっくの昔に知っているわよ。頭だってそんなに良くないし、運動神経なんてないし、性格だってこの通り。それなのに、他の人達は寄って集って私を凄いモノに仕立て上げようとする。中身が空っぽだからどんなものも詰め込めるってことよ。実際その通りよ、私は他の人達が怖いから、嫌われるのが嫌だから、必死になって邪竜族の姫君になろうとしたわ。たとえ嘘でも、貫き通せば本当になるって考えたから。でも……そんなの無理だった。皆と付き合えば付き合うほど、私はどっちつかずだって思い知るだけだった。見た目だけは人間じゃないのに中身は人間でしかないから、どっちにもなりきれなかったの」
堰を切ったようにまくしてたてた継美は、エプロンを握り締める。
「仲良くしてくれて、ありがとう。私のこと、友達だって言ってくれて本当に嬉しかった。学校に通うのが楽しいって思ったの、初めてだった。遊びに行ったのだって、色んなことをしたのだって……。でも、もういいの」
だから、さよなら、なんて言ったのか。あれが最後だと思ったから、もう二度と関わらないと決意したから、あんな顔をしたのか。それでいいのか、いや。
「良くないっ!」
一瞬、それが誰の怒鳴り声なのか解らなかった。己の腹に残る横隔膜の振動の余韻で、礼司はそれが自分の声なのだと間を置いて悟る。継美は身を固くする。
「阿部君……」
「そんなの全部、自分から嫌だって言えば済む話じゃないか! なんでそんなことも思い付かないんだよ、出来ないんだよ!」
「だ、だって」
「だっても何もあるか! 横嶋さんは俺達には嫌だって言えたじゃないか、学園から逃げてきたじゃないか、だったら両親からも何からも逃げられるはずだろ! 逃げられないとしたら、いくらだって手を貸してやる!」
とてつもなく悔しく、激情に煽られて叫び散らす。礼司はまだ何も伝えていないのに、継美の抱える思いをやっと知ったばかりなのに、終わるのはごめんだ。
「長尾だって本当は横嶋さんの味方だ、敵なんかじゃない! 生き延びる術がそれしかなかったからだ! 俺達じゃ頼りにならないんだったら、小林先輩でも静子さんでも頼ればいいんだ! それでも無理だったら、あの勇者にでも頼んで誰も知らない誰もいない世界に連れて行ってもらえばいい!」
握り締めた拳に過剰に力が入り、手のひらに食い込んだ爪が痛みを生む。
「でも、俺にだって嫌なことぐらいある。横嶋さんに会えなくなるのは、嫌だ」
たとえ根っこの部分で通じ合えなかったとしても、最後の最後で解り合えずに好き合えなかったとしても、礼司の言葉を真に受けて彼女が本当に全てから逃げ出したとしても、構わないとすら思った。伝えたいことを伝えずに終わってしまう方が余程辛い。
これは継美の人生だ。継美には、生きる道を選ぶ権利がある。礼司が螺倉学園を受験して継美を追い掛けてきたように、螺倉の住人達が敢えてインターバルに身を置いているように、彼女の生き方は彼女にしか決められない。だから、礼司は言いたいことを言っただけだ。一方的な激情を叩き付けただけだ。だが、それだけで充分なのだ。それ以上を求めるのは、欲深すぎる。
長い長い、間が空いた。何度も交差点の信号が変わり、三色の光が入れ替わる。ネオンサインが煌めき、極彩色の光を点滅させる。礼司の人生にも継美の人生にも一生関わりがないであろう人々が細い路地の先で行き交い、それぞれの夜を過ごそうとしている。継美の尻尾の先が動き、華奢な足首に棘が触れる。
「……そうだね。考えてみたら、そうだよね」
継美は少しだけ顔を上げ、心持ち語気を強めた。
「私も、皆と会えなくなるのは嫌」