姉の過去と彼女の背景
十二.
「え? 休みなんですか?」
ゴールデンウィーク明けに登校した礼司は、思わず聞き返していた。
「そうだ。連休が終わる日に突然実家に戻ってしまってな」
ブレイヴィリアは礼司の机に腰掛け、引き締まった長い足を組んでいた。制服姿の彼女はクリーム色のカーディガンを腰で縛っていて、長袖ブラウスも腕まくりしていて肌を露わにしている。外見でも性格でも目立つブレイヴィリアは下級生からも一目置かれているからだろう、クラスメイト達がちらちらとこちらを窺いながら囁き合っている。内容は彼女を褒めるものばかりではなかったが、当のブレイヴィリアは一切気にしていなかった。伊達に王族ではない。
「いつ頃戻ってくるかは解らんそうだ。女子寮の部屋には荷物が置いたままであるから、すぐに出ていくとは限らんのだろうが」
「そっか、横嶋さんが……」
礼司は机の端に引っ掛けた通学カバンを見やり、せっかく持ってきた写真の束が無駄になったと内心で落胆した。写真を渡すついでに一緒に昼休みを過ごそうと継美に持ち掛けようと、一大決心をしていた。それなのに、当の継美が学園に登校していないどころか寮にすらいないとは。
「誰しも、他人の与り知らぬ事情の一つや二つを抱えているものだ。そう気に病むな、阿部礼司。継美も用事を終えたら、学園に戻ってきてくれるだろう。近頃はなんだか表情も明るくなっていてな、私もほっとしていたんだ」
「そういえば、横嶋さんと小林先輩って同室でしたよね」
と、言ってから、礼司はフィールドワーク後に見かけた光景を思い出した。ブレイヴィリアとマキナが言い争っている場面を、窓越しに目にしていた。
「大分前のことですけど、小林先輩と長尾・なんたら・マキナって子が言い争っていたことがありましたよね? あれ、なんでですか?」
「なんだ、阿部礼司は見ていたのか?」
「ええ、まあ、偶然」
「別に大したことじゃない。部屋を代わってくれないか、と持ち掛けられたんだ。マキナも寮組ではあるが、その手の申し出が受け居られた試しはないんだ。クラス編成もそうだが、寮生の組み合わせも教師が生徒同士の相性の善し悪しを決めている。種族同士でいう意味もあるが、一番は気性だな。私は他人にはあまり干渉しない質で、カーテン一枚隔てた先でどんなことが起きていようと気にせん。例え話だが、ルームメイトが男を連れ込もうが銜え込もうが文句も言わん」
それは文句を言うべきだろう。寮生活は秩序を守ってこそでは。
「対して継美は、他人の顔色を窺ってばかりいる。だから、私が継美がいようがいまいが気にせずに過ごしていると、継美も好き勝手なことをしているんだ。だが、それも長く続くものではない。すぐにマキナがやってくる」
「側近……でしたっけ、横嶋さんの」
「肩書きはそうかもしれんが、あの娘は部下としては最悪の部類に入る。私がマキナの上官であらば、即刻追放して祖国に叩き返してやる」
「そんなにひどいんですか」
「ああ。まず、継美に過干渉する。継美に過度にへつらう。継美のことを思って、などと聞こえのいい文句で己の行動を正当化する。他にもまだまだある」
それには、礼司も心当たりがないわけではない。マキナは継美の部下であることを誇りに思っているのかもしれないが、継美は邪竜族の姫君である自分を好ましく思ってはいない。だが、マキナは継美に姫君らしい振る舞いを求め、周囲にまでもそれを求めている。高等部の校舎で授業を受けている最中はマキナも中等部で授業を受けているので、近付いてこられないが、放課後となって女子寮に戻ればマキナは継美に干渉し放題だ。それが嫌だから、継美は実家に帰ってしまったのかもしれない。有り得ない話ではない。
「だが、継美も悪いと言えば悪いのだ。部下の不貞は上官の力不足だからな。あの娘は善良かつ控えめで、人の上に立つ器ではないのだ。リンドヴルムとしての血が濃ければ違ったのかもしれぬがな。技量に合わぬ役割を割り当てられることほど、辛いことはない。私もその昔、舞踏会の頭数が足りないからと父上から頼み込まれ、あれよあれよという間に着飾られて城の大広間に放り込まれたことがあるのだが、半時間もせずに逃げ出してきた。足が痛かったのだ」
「でも、小林先輩ってかなり鍛えてますよね? 踊ったぐらいで足なんか」
「男には解るまい。ハイヒールを常日頃から履いていない人間にとっては、あの靴は拷問器具に等しいのだぞ。己の体重とボンネットで膨らませたドレスと貴金属の重みが全てつま先に集中し、皮が伸びもしなければ衝撃吸収性もない上に尖端が槍の穂先の如く窄まっている靴が、足の骨を万力の如く締め上げるのだ。だから、この世界に来て間もない頃は、若い娘の足元を見ては驚いていたものだ。皆、あの拷問を好む性癖があるのかと疑ったぐらいだぞ」
鎧なら何日来ていても平気なのだが、とブレイヴィリアが付け加えると同時に予鈴が鳴り響いた。彼女は金髪縦ロールを靡かせながら颯爽と立ち去ると、クラスメイトのほとんどはその後ろ姿を目で追っていた。恐ろしいほどの美貌を備えた人間は、何をしていても絵になるからだ。
「おいーっすぅ……」
予鈴が終わるか終わらないかというタイミングで教室に駆け込んできた健人は、朝から既に疲れ果てていた。礼司は挨拶を返した。
「おはよう、健人。てか、なんでぐったりしてんだよ、休み明けに。で、ジュリエッタも休みなのか?」
「せや、ジュリエッタは処理落ちしてもうてな。久々に大脳皮質の機能をフル稼動させたからやろな、粘液の形を保つことも出来なくなってんねん。あーでも、明日には元に戻るってゆうてたで。静ちゃんが」
健人は呼吸を落ち着けつつ、自分の席に座る。礼司は身を乗り出す。
「で、静子さんも大丈夫なのか?」
「そらもう、元気なもんやで。でも、ワシらがベティちゃんを実家に送り返しとる最中に色々とやってしもうたみたいでな、オイルマネーが凄いんやて。でな、ジュリエッタの大脳皮質を被っていつもの静ちゃんに戻ったんはええんやけど、脳が疲れるまでは眠くもならんっちゅーこってな、ワシ、カラオケで二徹付き合わされたんや。で、ワシんちに帰れたんが今朝の五時やねん」
「うわぁ」
そりゃ疲れるわけだ。礼司は健人に心底同情していたが、本鈴が鳴り始めたので座り直した。健人は丸い目を瞬かせながら道具を取り出していたが、集中出来るとは到底思えないので後でノートを貸してやろうと思った。場合によっては、健人の役割は礼司になっていたかもしれないのだから。他人事ではない。
昼休みになると、とっくの昔に体力の限界を迎えていた健人は爆睡した。
昼食もそこそこに寝入ったタコは非常にだらしなく、投げ出した手足が今にもベンチから滑り落ちそうだった。中庭に出ている他の生徒達がくすくす笑いながら通り過ぎていくが、気にしないことにした。授業が始まる前に起こしてやればいいのだから。ベテルギスクもジュリエッタもいない、健人も熟睡しているとなると、礼司の周辺は急に静かになってしまった。過ごしやすくはあるが、なんとなく落ち着かない。近頃は、あの騒がしさが日常になっていたからだ。
持参した弁当を食べ終えて暇潰しに携帯電話をいじっていると、礼司の視界に中等部の制服が入った。中庭は双方の校舎に面しているので珍しくもなんともないのだが、そのモスグリーンが微動だにしないので目を上げてみた。
「うおっ」
そこにいたのは、あの長尾・ラミュロス・マキナだった。ブレイヴィリアに最悪の部類だと言わしめた継美の側近であり、礼司の下半身を締め上げてきた張本人である。校章入りのクリーム色のカーディガンを羽織っているマキナは、不満げに片眉を吊り上げる。
「なんだ、その無礼極まる反応は」
「蛇に対してノーリアクションの人間なんて、そうそういないぞ」
礼司は携帯電話を閉じてマキナと向き直ると、マキナは礼司の腕を掴んだ。
「理由は聞くな、同行しろ。せねば頭から飲み込んでくれる」
「健人はどうする?」
「タコには関係のない話だ」
「ああ、そう」
礼司は空の弁当箱を抱えて立ち上がると、マキナを急かした。
「ほら行くぞ」
「問い詰めないのか、戸惑わないのか、或いは逆らわないのか?」
マキナは面食らいながら礼司を追ってきたので、礼司は言い返す。
「そういうのを間に挟むと、時間が無駄になるからだよ」
一連のドタバタで得た教訓である。礼司は体育館裏に辿り着くと、マキナにここでいいかと同意を求めた。マキナが頷いたので、礼司は冷たいコンクリート製の階段に腰を下ろした。マキナは礼司の一段上に座り、長い下半身を丸める。
「で、俺に何の用があるんだ」
「うむ。これはクラーゲンフルト帝国の最高機密であり、国家の今後をも左右する重要事項なのだが、事態解決の協力を求められるであろう関係者は貴様以外に存在していないのだ。よって、不本意ながら情報を伝える」
マキナはいやに深刻な面持ちで、牙の垣間見える口元を引き締めた。
「クラーゲンフルト帝国が主にして邪竜族の長であり姫様の御父上でもあらせられる、ヴァイゲルング・リンドヴルム・クラーゲンフルト大帝陛下に関わることだ。そして、我がラミュロス一族の存亡にも関わるやもしれないことだ」
「とっとと本題に入れよ、遠回りだな」
「前提を述べているだけに過ぎん。それが解らなければ意味など解るまい、そもそも我がラミュロス一族が邪竜族に忠誠を掲げたのは二万年前の……」
と、声高に話し出そうとするマキナを、礼司は弁当箱で口を塞いだ。
「いいから、とっとと本題に入れ! 二万年分も説明する気か!」
「ええい無礼者めが!」
マキナは弁当箱を引っこ抜いて牙を剥いたが、礼司はやる気なく述べた。
「下痢便勇者を丸め込んで顎で使って、クラーゲンフルト帝国の住民達を異世界に逃がして邪竜族を食糧危機に陥れて地球侵略させようって腹だろ?」
「んなっ、なっ、なぁぜそれをぉおおおっ!?」
本気で驚いたマキナは、後退りすぎて階段から転げ落ちた。礼司はそのリアクションの大きさに、少しだけ悦に入った。
「まあ、ちょっとな」
「そうか、貴様は平民でありながらも優れた情報網を持っていると見える。ならば話は早い、大帝陛下とその直属の精鋭部隊による地球侵略の下地とするべく、姫様は原住民の人心掌握と地球上に前線基地を建設するためのクラーゲンフルト領地を毟り取るという仕事を任されていたのだが、そもそもそんなことが出来るはずもないのだ。あの姫様に」
「へ?」
マキナは継美を妄信していたのではないのか。礼司がきょとんとすると、マキナは頭を抱えて階段に突っ伏してしまった。
「ええい私の馬鹿馬鹿ダイナマイト馬鹿っ! この口が悪い、この口がっ!」
「つまり、お前が原因なのか? 食糧危機も地球侵略も」
「ふはははははっ、そうだぁっ! 恐れ入ったかこの愚民!」
起き上がったマキナは平べったい胸を張ってから、また頭を抱える。
「ってそんなことを言っている場合ではない! 私は国家転覆を企てたばかりか大帝陛下に異次元侵略を持ち掛けるという大罪を犯した身の上だ! 腹を切って三枚に下ろされて蒲焼きにでもなるべきなのであるが、真実を述べずに重箱に詰まった銀シャリの上に横たわるわけにはいかんのだ! そこでだ愚民!」
蛇の蒲焼き。凄く不味そう。
「だから、とっとと本題にだな」
「う、うむ。と、このようにだな、この私には喋れば喋るほど話を盛りに盛って大盛りどころか丼が割れるレベルで膨らませてしまうという悪癖があるのだ。嘘吐きと言われたこともある、馬鹿だと言われたことは数え切れない、それさえなければと苦笑いされたことは今日だけでも十回。だが、私が一介の踊り子の私生児から姫様のお付きなどという身分にのし上がれたのは、私の身にも他でもない地球人の血が流れているからだ。多次元宇宙を行き来するのはそう簡単なことではないし、行ったはいいが帰ってこられなくなることも少なくない。だが、私は半分地球人の血が流れているため、私という個体を成している分子の半分は地球由来の超ひも次元を宿しているのだ。で、あるからして、私は姫様の側女という大役を任され、姫様と帝妃様の実情を大帝陛下に御報告するべく定期連絡役も仰せつかったのだが」
制服の内ポケットからマキナが取り出したのは、携帯電話だった。どこからどう見ても普通の二つ折り携帯電話なので、異次元間でも通じるのが不思議だ。
「私は大帝陛下へ事ある事に報告を重ねに重ねた結果、ネタ切れしたのだ」
「だろうなぁ」
ブレイヴィリアに部屋を代わってくれと言った真相もそれだろう。
「だって、あの姫様だぞ? 放っておけば一日中部屋に籠もって、図書館から借りてきた山積みの本を黙々と消化しているだけの姫様だぞ? そうでなければ散歩に出て何をするでもなく日向ぼっこに興じるか、野良猫を追い掛けて迷子になるか、自習室で勉強に精を出すか、スーパーの見切り品を吟味しているか、の姫様だぞ? 派手なことなんてあるものか、たまに遠出してもみなとみらいであって一人では絶対に都内に出ない姫様だぞ? 小市民オブザイヤーが開催されでもしたら殿堂入り間違い無しの姫様だぞ? ていうか毎日毎日イベントが発生するとでも思っているのか、大帝陛下は! 昼ドラじゃあるまいし! 最近では学食の日替わりメニューだとか授業内容だとか御報告差し上げているのだが、最早限界だ! 私は中等部であって高等部ではないし、私にも学園生活というものがあるのだから、姫様の動向を逐一御報告差し上げられるわけがないのだ!」
「で、話題に困った挙げ句、口から出任せを報告しちゃった、と」
「そうだぁっ! 貴様らの住む地球が今正に危機に瀕している理由は、環境変動でもなければ悪の組織の計画でもなければ怪獣の襲来でもなければ宇宙人の侵略でもない、この私が調子のいいことを大帝陛下に御報告差し上げたからだぁ!」
胸を張りすぎて若干仰け反ったマキナに、礼司は軽くチョップを入れた。
「なぜそこで威張る。で、その出任せの内訳は?」
「姫様は学園一の人気者なのだ、と。登校するだけで女子生徒からも男子生徒からもキャアキャア言われ、下駄箱からはラブレターの雪崩が、机にはプレゼントの山が。勉強ももちろん一番で運動神経も最高、インターハイ出場も目じゃない。文化部からも引く手数多で、姫様がちらりと出た自主製作映画はどこぞの映画賞にノミネート、写真に写ればグラビアアイドル並み、その写真は校内で争奪戦が起きて死人が出るほど。姫様のファンクラブは世界的に展開していて、発足した時点で一万人ものファンが。姫様の頭脳は地球随一で、高校生でありながらも学術的な新発見に新発見をして宇宙の歴史を変えるレベル。美少女すぎて姫様が通り過ぎただけで人間は失神する、人外はひれ伏す、それ以外は発狂する……と」
それでは、どこぞの北の国の将軍様ではないか。
「もういい、充分すぎる」
礼司はマキナを制してから、眉間を押さえた。
「そりゃ、横嶋さんも嫌になるな」
「だが、私は至って真剣なのだ。任務を果たせなければ、また私は文字通り地べたを這いずり回る暮らしに戻る羽目になる! 私のお母ちゃんもやっと踊り子を引退出来て、田舎に戻ってのんびり暮らせるようになったのだ! 大帝陛下に気に入られようとして何が悪い、姫様をえっさほいさと持ち上げて何が悪い!」
「でも、俺に話したってことは罪悪感があるんだろ?」
「そうだ。このままでは姫様は、私のせいで潰れてしまう」
マキナは勢いを失い、蛇の下半身を抱えた。人間で言えば膝を抱えた格好だ。
「貴様も知っているであろうが、姫様はとても真面目な御方だ。何に対しても真摯にあろうとする。誰に対しても誠実であろうとする。自分に対してもだ。だが、私は姫様を影から支えるべく派遣されたはずなのだ。度を過ぎたお喋りである私が選ばれた理由も、大人しい姫様を退屈させないようにという大帝陛下の御心遣いに違いない。しかし、私はそうは出来なかったのだ。大帝陛下からのご期待に応えようと思うがあまりに気ばかりが急いてしまって、姫様のお気持ちなど考えもしなかった」
「だから、横嶋さんは実家に帰ったのか?」
「だと、思うのだ」
「横嶋さんの携帯に、電話かメールをしてみたのか?」
「したとも、何度も何度も何度も。だが、一度もお返事は頂けなかった。きっと、それこそが姫様のお返事なのだ。話すことなど、何もないと……」
自虐的に漏らしたマキナは、ぐ、と唇を噛んで背を丸めた。
「ああ……なんとお詫び申し上げればよろしいのか……」
礼司はなんと言ってやるものか迷ったが、結局何も言わないことにした。これはマキナと継美とその父親の間の話であって、礼司が手を出すべき部分はない。むしろ、ちょっかいを出せば余計に拗れてしまう。
「とりあえず、横嶋さんに謝れよ。まずはそれからだ」
礼司が常識的な意見を口にすると、マキナはハンカチで目元を拭った。
「うむ。そうするしかないだろう。許して頂けるなどとは思いはせぬが」
「あ、でも、長尾って横嶋さんの実家の住所は知っているのか?」
「あ」
そう言われて初めて気付いたのか、マキナはぽかんと目も口も丸めた。そういえば礼司も知らない。というか、実家の住所を教え合うほど深い仲ではない。マキナは見開いた目元に涙を溜め、わっと泣き出した。
「うわぁあああんっ、身の破滅だぁ、公開処刑だぁっ、溶岩風呂に投げ込まれるんだぁっ、大帝陛下の御前で活け作りにされるんだぁああああっ!」
「ちょっ、おいっ、泣くな!」
礼司は慌てふためきながらマキナを泣き止ませようとするが、マキナは幼児のように大声を上げて泣き喚いている。しかし、無理からぬことだろう。良かれと思ってやったことが全て裏目に出たばかりか、主君である継美に謝れるかどうかすらも解らないのだから。だが、泣き止ませないことには妙な噂が立つかもしれない。礼司がおろおろしていると、体育館裏に誰かが近付いてきた。
「ん、どうした?」
げっ、と肝を潰した礼司が振り向くと、そこには見覚えのある全身鎧が立っていた。それは理事長室でワイン一杯分のスライムの理事長と飲み代を賭けてチェスを打っていたリビングメイル、剣崎・リビングメイル・攻次だった。彼の手には掃除道具が握られていたので、用務員だったらしい。
「ぶえ」
マキナが泣くのを堪えようとすると、剣崎はマキナを撫でた。
「おーよしよし、泣くなら泣けよ。おじさんが付き合ってやる」
「ふああああんっ!」
その言葉で気が抜けたのか、マキナは一層泣き喚いた。だが、剣崎はそれに動じることなく、マキナを支えてやっている。子供慣れしているのだろう。剣崎は礼司をちょいちょいと手招き、声を潜めて尋ねてきた。
「お前、この子を手酷くフッたのか?」
「違いますよ、人聞きの悪い」
礼司がすかさず言い返すと、剣崎はからからと笑う。
「そっかそっか。ならいいんだ。で、この子とお前の話は付いたのか?」
「付いたと言えば付いたような」
事の次第を説明されただけだが。礼司の曖昧な答えに、剣崎は軽く手を振る。
「だったら、後は俺に任せてくれや。そうだよな、慣れない世界で慣れない学校に通うんだもんな、色々と溜まりもするさ」
マキナのことは剣崎に任せてから、礼司はひとまず中庭に戻った。爆睡していた健人も目を覚ましていたが、まだぼんやりしていた。礼司はそんな友人の足を一本引っ張り、刺激を与えてやる。
「おい、起きろ。昼休みも終わっちまうぞ」
「んー……ああ……」
骨の抜けたような返事。というより、元々骨はない。健人はにゅるにゅると足を蠢かせながら、ずり落ちかけていたベンチによじ登って座り直した。吸い口を大きく広げて欠伸のような仕草をしてから、何度か瞬きする。
「あのさぁ健人、放課後、時間あるか?」
「なんやねんな」
「うちの姉貴が健人を連れてこいって言うんだけど」
「姉ちゃん!? 礼ちゃん、姉ちゃんおるん!?」
途端に覚醒した健人に詰め寄られ、礼司はベンチから落ちかける。
「あー、うん。三つ上の性格悪いのが」
「そないなこと早よ言えや! ほんで、なんでワシに会いたいん!」
活力が溢れんばかりに漲った健人に、礼司は少々臆す。切り替えが早すぎる。
「さあ? でも、なんか、姉貴は健人のことを知っているみたいでさ。だから、健人も姉貴のこと、知っていたりするのか?」
「ちなみに姉ちゃん、どないな名前やねん」
「阿部真里亜。弟が言うのもなんだけど、変な名前だよ。アヴェマリアってことだし。てか、親の趣味が理解不能だよ」
礼司は冗談めかして言ったが、健人はそれきり黙り込んだ。それどころか、礼司に背を向けて独り言を繰り返した。ちゅうちゅうたこかいな。それを五回も繰り返した後、健人は吸盤で吸い口の下をさすった。
「ちゅうことはやっぱり、礼ちゃんの姉ちゃんはあん時のマリっぺかいな」
「てことは、知り合い?」
「そんなもんやあらへん」
いきなり深刻になった健人は、ふっと遠くを望んだ。
「礼ちゃん、ワシのこと、お兄ちゃんって呼んでもええんやで……?」
「誰が呼ぶかよ気色悪い」
寝ている間に直射日光で頭が煮えたらしい。礼司は踵を返して高等部の校舎に向かっていくと、ああん待ってぇな、と健人が追い縋ってきた。その様は先日の姉の乙女チックな反応を思い起こさせ、礼司は胸焼けを起こしかけた。まさかとは思うが、いやそんなことが有り得てたまるか。
だが、しかし。
礼司の目の前では、タコと姉が絡み付いていた。厳密に言えばきつく抱き合っている、ということなのだろうが、健人の足の数が多すぎるので触手プレイのような有様になっている。出来れば正視したくない。
昼休みが終わる直前に真里亜に健人を連れて行くとのメールを入れたところ、真里亜は瞬速で返事を返してきた。大学の講義も午前中で終わらせて家に戻ってくるから必ず連れてこい、と何度も念を押された。その後も念押しメールが何通も届いたので、正直言って鬱陶しかった。そして、放課後になってすぐに健人を礼司の自宅に連れていくと女子力フルパワーの真里亜が待ち構えていて、ドアを開けた途端に二人は抱き合った。その結果、礼司はどろり濃厚な身内のラブシーンを至近距離で見せつけられる羽目になった。しかも長ったらしい。
完全に蚊帳の外になった礼司は二階に上がって制服から私服に着替え、携帯電話のメールチェックやら何やらを終え、予習するための教材を机に並べて明日の授業で必要なものを通学カバンに入れ、空の弁当箱をキッチンに持っていって自分で洗い流し、洗濯が必要なジャージ類も洗濯カゴに放り込んだ。それから再び玄関先を見てみると、やっと二人は離れていた。
「終わった?」
「れーいちゃあああああんっ!」
すると、感涙にむせぶ健人が礼司に飛び掛かってきた。が、礼司はタコと絡み合う趣味はないので、廊下に叩き伏せてやった。
「なんや冷たい、未来のお兄ちゃんに」
「だからそれ気色悪ぃんだよ」
廊下に這い蹲る健人に礼司が言い捨てると、フルメイクでくるんくるんの巻き髪でフリフリでミニなキャミワンピースの真里亜が健人に縋り付いた。
「ああんっ建ちゃん!」
「で、姉貴は健人とどういう関係なんだよ?」
「運命の恋人よ」
「せや。ワシとマリっぺなは、出会うべくして出会ったんや……」
本人は格好良いと確信しているであろう決めポーズと共に臭いセリフを吐いた健人を、真里亜は目に星を入れて見つめている。タコなのだが。
「じゃ、建ちゃん、とりあえずお茶を淹れてくるわね!」
きゃはっ、と胸が悪くなるような愛想を振りまきながら、真里亜はキッチンに消えていった。礼司は健人の前に屈むと、袋状の頭部を掴む。
「何がどうなってんだよ、おい!」
「いだだだだっ、痛いがな礼ちゃん!」
礼司が手を離すと、健人はその部分をさすりながら答える。
「実はな、ワシ、この世界におるんはもう十年目やねん。螺倉に来たばっかりん頃はどうも地球に馴染みが薄うてな、螺倉の外にばっかり行っとったんや。せめて遊んどったら気ぃ紛れるやろー、とか思うて。んで、この辺ウロウロしとったら、塾帰りで変質者に追い回されとるマリっぺを見かけてな」
「変質者はお前だ」
「まあまあそう言わんと。んで、ワシがマリっぺを助けたんやけど、マリっぺも礼ちゃんほどやないけど脳のチャンネルが合うみたいでな。ワシんこと、一発で別の世界から来たっちゅうことを見抜いたんや。そやけど、マリっぺはワシがタコやっちゅうことまでは見抜けなかったらしゅうて、異世界の戦士かなんかやと思うたらしいねん。丁度その頃のマリっぺは、中二病っちゅーんやろか、そんな具合のやつにかぶれとったらしゅうてな。それから一週間、毎晩会ったんや」
「で、異世界の戦士だと思い込まれたと」
「せや。夢を壊すのもなんや悪いし、女の子に運命やなんやと言われんのはそう悪い気もせぇへんし。ちゅうわけでな、何年かしたらまた会おうって約束しとったんやけど、ワシの方でも色々あったさかいにすっかり忘れとったんや」
「いや全力で壊せよ、そのアホな夢を」
ちっちっち、と健人は舌打ちではなく口に出しながら、足先を振った。
「壊すわけにはいかんかったんや。ワシとマリっぺが出会った時は、マリっぺは現役JKやぞ。十七歳やぞ。手ぇ出したら、未成年保護条例や何やらでしょっぴかれるやないけ。この世界でのワシは天涯孤独やねん、万が一ワシが留置場送りになったとしても誰が引き取りに来てくれんねん。誰が保釈金払ってくれんねん。せやから、合法的に色々やらかすために時間を空けたんや。ワシにはのう、生まれてこの方ずうっと夢があるんや。そいつはな、人間の女の子とがっつりねっちりにゅっちゃりと触手プレイに興じることなんやぁあっ! あ、ざっぱーん!」
健人は腰を浮かせると、ぐっと両足先を丸めながら力説した。本人の脳内では、背景で大波が荒れ狂っていることだろう。
「ええと待てよ、姉貴が十七歳で……」
礼司は時系列を逆算し、あることに気付いた。真里亜が遊び呆けた末に家事の一切合切を礼司に押し付けた、中学時代の思い出したくもない一週間と見事に一致する。ということは、あの一週間の苦労の根源は目の前にいるタコだということになる。今更ながら怒りが湧いてきた礼司が、にたにたしている健人に一撃をくれてやろうと拳を固めたところで、姉が戻ってきた。乙女走りで。
「建ちゃあーんっ、お茶の準備が出来たわよーう」
「おお、我が愛しのマリっぺ!」
と、そこでまた姉とタコが絡み付いた。が、しかし。
「油断したなぁあああああっ!」
真里亜は吸盤だらけのタコ足に己の腕を絡めて極め、その足を払い、ひと思いに背負い投げした。そういえば、高校時代の一件の後、心身を更正させるのと同時に護身術を会得させようという親の方針で姉は柔道を嗜んでいた。
廊下の狭い空間で見事な弧を描いたタコは床板に叩き付けられ、ぐふぇっ、と鈍く呻いた。フリフリキャミワンピの裾を翻しながら、真里亜は両の拳を固めて腰の両脇に据え、腹の底から声を出した。
「押忍!」
「何すんねやぁマリっぺ……」
仰向けに転がったままの健人が力なく漏らすと、真里亜は腕組みする。
「健人、あんたには確かに一度助けてもらったわよ。私もその点については感謝しているけど、その後については一切口外しないでくれる? てか、あの頃の私にもう一度出会えるんだとしたら大外刈りでも掛けて脳天をアスファルトに叩き付けて中身を引き摺り出して洗い流してやりたいぐらいよ。つか、それを増長させたのは他でもないあんたよ。あんたが私のくっだらない妄想に付き合ったりしなきゃ、私のアレはあそこまで悪化しなかったはずだからね!」
「言い出したんはマリっぺやんけ」
ノーダメージなのか、健人は悠長に頬杖を付いた。
「だぁかぁらこそっ、思い出したくもないのよ! あの頃読んでた漫画もラノベも占いアイテムもビジュ系バンドのCDもその他諸々のグッズも全部捨てたわ、燃やせるモノは河原で燃やしたわよ! 高校時代の友達とは一人残らず縁を切ったし、同窓会には一生出られないし、思い切って大学デビューしたおかげで程良く馬鹿なスイーツ女の位置付けに落ち着いたわよ! だけど、あんたが存在している限り、あの反吐が出るような過去は消えないのよ!」
真里亜は余程恥ずかしいのか、叫びながら目尻に涙を浮かべていた。礼司は健人から真相を聞いているので、笑いたかったが笑えなかった。うっかり吹き出しでもすれば、今度は礼司が背負い投げされるだろう。
「あの悪夢の一週間のこと、誰かに喋った?」
真里亜は健人の襟首を掴み、凄んでくる。健人は首らしき部分を振る。
「いんや」
「あんた、こいつからなんか聞いた?」
真里亜の標的が礼司に移ったが、礼司は全身全霊で嘘を吐いた。
「いや、別に」
今にして思えば、高校時代の姉はちょっと変だった気がしないでもない。だが、真里亜は元々ファンタジーな世界観が好きだったこともあり、入れ込んでいるんだなぁとしか感じなかった。だが、本人にとっては黒歴史だったようだ。
「私の恥を一生口外しないって約束する?」
目を据わらせた真里亜に、健人は頷く。
「するする」
「本当に?」
「ホンマやがな。お天道様に誓って」
「じゃ、信用に値するものを差し出してくれる?」
「何がええの?」
「今度の週末、私の買い物に付き合え」
「そんなんでええのん?」
「一度で済むと思うなよ、週末ごとに呼び出して時間を共有することを強制してやる! 場合によっちゃ勉強だって見てやる! べっ、弁当だって作って弟を経由して渡してやる! どうだ恐ろしいだろう!」
態度こそ横柄だったが、真里亜は明らかに照れていた。というか、健人宛の弁当をなぜ礼司が運ばなければならないのだ。礼司はその辺のことを突っ込んでやりたかったが、そんな隙も与えずに健人は真里亜に飛び付いた。
「マリっぺえええええ!」
「あっ、ちょっ、馬鹿ぁ!」
口ではそう言ったが、真里亜は全然嫌がっていない。それどころか、なんだか嬉しそうだ。程なくして、どろり濃厚ラブシーンの第二ラウンドが始まった。
もう関わりたくない。二階に上がってヘッドホンでも被って大音量で音楽を流しながら勉強にでも勤しもう。心底脱力した礼司が二階に上がろうと階段に足を掛けると、健人のぐねぐねと波打つ足越しに姉が何かを差し出してきた。ネイルもばっちりの指の間に挟まっていたのは、居酒屋のドリンク無料券だった。
「何だよこれ」
「御礼よ」
なんて安い御礼だろう。どう考えても元手はタダだ。だが、突き返すのも面倒だったので、礼司はそのドリンク無料券を受け取った。それをポケットにねじ込んでから二階の自室に入り、少々シワの寄ったドリンク無料券を広げて裏返してみると、そこには店周辺の簡単な地図と住所が印刷されていた。
洋食居酒屋リンドヴルム。