さよなら、魔王
十一.
「ボクはエウロパから来たんだ」
小規模なストーンヘンジのような螺倉遺跡を背に、ジュリエッタは言い切った。ここは記憶に新しい場所だ。一学期が始まって間もない頃、礼司らはフィールドワークで訪れたのだから。全長三メートル足らずの石柱が等間隔で円形に配置されていて、中心には祭壇のように石柱が組まれている。その周辺一帯は公園として整備されているが、理事長が人払いならぬ人外払いをしたからだろう、礼司ら以外は誰も訪れていなかった。私立螺倉学園を見下ろせる高台にあり、周辺の住宅街からは頭一つ飛び出している。
「だから、厳密に言えばボクはこの世界の住人。木星は現実に存在するものだし、その第二衛星であるエウロパも観測されているし。ああでも、異星人って括りにはしないでね。ボクは人工生命体……というか、生体演算装置なんだ」
ジュリエッタは螺倉遺跡に歩み寄ると、石柱に触れる。
「ボクを生み出したのは、太陽系がやっとその形を成してきた頃の原初の時代にエウロパの海で生まれた知的生命体なんだ。彼らは生体構造こそ原始的ではあったけど、人類より数段進んだ科学力を得ていた。ナメクジの親戚みたいな生命体だったけど、日々研究と進歩を続け、挙げ句の果てに人工的に特異点すらも作り出せるようになった。その実験の影響で生まれた銀河系もいくつかあるけど、その辺は割愛する。関係ないしね。で、その特異点の制御装置として生み出されたのが、このボクってわけ」
ジュリエッタは皆に向き直りながら、人差し指で自分を指し示す。礼司はそっと皆を窺うが、誰も彼もが解ったような解らないような顔をしていた。再びリヤカーに乗せられて螺倉遺跡まで運ばれてきたベテルギスクは目覚める気配はなく、リヤカーがどれほど揺れても微動だにしなかった。一度女子寮に帰って鎧を脱いでパーカーとスカートに着替えてきた継美は大急ぎで汗も流してきたらしく、髪が濡れたままだ。ブレイヴィリアはベテルギスクのことが気が気ではないらしく、ジュリエッタの話を上の空で聞いていた。健人はというと、食べ過ぎによる胃痛にひたすら悶え苦しんでいた。
「ボクはね、水分子と水分子を結合させた中に生体組織を配置して、そこに生体電流と同等の微細な電流を流して演算能力を得ているんだ。ほら、分子を結合させているのは電子の粒でしょ? その電子の粒を並列化させたものを体液の中に宿しておいて、そこに生体電流と一緒に情報を流すと一瞬で処理出来るってわけ。で、水分子を吸収してボク自身の体積が増えれば増えるほど並列化させた電子の量も増やせるから、逆に言えば体積が減れば情報処理能力もガタ落ちしちゃって馬鹿になるの。だから、いつものボクは省エネモードなんだ。演算能力を常時フル稼動すると生体組織の劣化速度が速まっちゃうし、何より疲れるからね」
誰か話を聞いてやれ。物凄いことなのだから。礼司はそう言ってやりたかったが、自分もまた継美から漂うシャンプーの甘い香りが気になって気になってどうしようもないので、言うに言えず終いだった。
「ボクが地球圏に来たのはほんの十億年前のこと。木星の重力変動によってエウロパの文明が保てなくなり、人工特異点の維持も難しくなったため、エウロパの民はボクの生体組織で人工特異点を包んで宇宙に廃棄したんだ。その頃には多次元空間跳躍……ワープって言った方が早いか、その技術が確立されていたから、彼らはワープでどこぞの多次元宇宙に逃亡したんだ。で、それと同時にボクもエウロパの外に放り出されたんだけど、ワープの計算をしている最中に木星の大赤斑から放出された渦状のエネルギー波がボクの生体組織を掻き乱して、その影響で計算を二三ミスしちゃったんだよ。で、ワープ空間から外に出てみれば、そこは原始生命が芽生えたばかりの地球だったってわけ。もう一度ワープ出来れば良かったんだけど、その時のボクは不安定なワープのせいで生体組織のほとんどを失っていたし、人工特異点と直接接触しているものだから消耗が激しいったらありゃしなかった。そこで思い付いたのが、人工特異点の作用を利用して地球上に異空間を形成し、多次元宇宙に特異点のエネルギーを逃がしてやって肉体的精神的な負担を軽減しつつ自己再生を図り、再び宇宙に出ることだったんだ。だけど、地球の水分を吸収してある程度生体組織を回復してから計算し直してみたら、ボクは人工特異点を地球の存在する次元と空間に結び付けちゃったわけだから、宇宙に出られるまでにはざっと三億年掛かるって解ってさ。ちょっと気の長い話だから、暇だから遊ぼうって思って色んなことをした結果、ボクの愛する静ちゃんと出会えたってわけ」
三億年なんて、ちょっとどころではない。恐ろしく長い年月を生きてきたジュリエッタにとっては、三ヶ月程度の感覚なのかもしれないが。
「静ちゃんはね、脳を全て使えるんだ。常人が使いこなせていない部分も意識的に操作出来るし、場合によっては未来予測も可能なんだ。無数の情報を解析した結果で割り出せる、ってやつだよ。物心付いた頃からそうだったから、そりゃもう色々と大変な目に遭ってきた。一目見ただけで相手がどういう人間かも見抜けちゃうし、身体機能も操作可能だから何だって出来ちゃうし、もちろん勉強の方も凄かった。でも、それは静ちゃんが望んだことじゃなくて、地球という一個の生命が気紛れに生み出したことなんだ。だから、静ちゃんはずっと一人で苦しんでいたんだ。ボクも未来予測で静ちゃんの存在を知り得ていたし、静ちゃんもボクを知り得ていた。だから出会った。出会えたから、ボク達は長らえられた」
石柱に指を滑らせたジュリエッタは、己の水分で奇妙な文字を書く。
「ボクは静ちゃんの頭部に大脳皮質を癒着させることで、静ちゃんの思考能力の大半を沈黙させて静ちゃんの負担を大幅に軽くしている。ボクもまた、静ちゃんの脳から得た生体電流で大脳皮質を活性化させていて、十億年前に地球全体に広がって無尽蔵に繁殖を続けているボクの生体組織を遠隔制御しているんだ」
「それって水溶性なのか?」
嫌な予感に駆られた礼司が問うと、ジュリエッタは文字を書く手を止めた。
「うん。組成は水分子そのものだし。それがどうかしたの?」
と、いうことは、人類は常日頃からジュリエッタの熔けた水を摂取しているということになる。地球全体の水の絶対量は限られているわけだから、人間はその中で循環している水を入れたり出したりしているわけだから、当然ながら水を飲めば飲んだ分だけジュリエッタの細胞が体に入るわけで。
「……ちょっと気持ち悪くなってきた」
礼司が口元を押さえると、ジュリエッタは文字を書きつつ少し笑った。
「ああ、そういうこと。それなら大丈夫、ボクの生体組織は完全に水と化していて、分子配列を調節しないとスライムにはならないし、人間は元より地球上の生命体には吸収されない成分で出来ているから。摂取しても排出されるから」
「貴様は気持ち悪くならんのか? 他人に飲まれては出されているのだぞ」
ブレイヴィリアが顔をしかめると、ジュリエッタは不思議がる。
「ていうか、気持ち悪くなる理由が解らないなぁ。水はそれが役割でしょ? 溶鉱炉に入れられて溶かされた鉄は、うわ超熱いんだけど! とか考えないよ」
言われてみれば確かにそうかもしれないが、そんなことを考えてみたこともなかった。そもそも水や鉄の分子の集まりに意識があるのかどうかなんて、と思ってみたが、考えてみれば礼司を始めとした人間も分子の集まりであるわけで、意識を持っているのは脳があるからだ、と思ってもその脳も分子の集まりで神経伝達細胞の間を駆け抜けている電気信号が、とか考え出すと訳が解らなくなってきた。意識ってなんだ、自分ってなんだ。急に哲学的になってきた。
「まあ、それはそれとして」
ジュリエッタは石柱に幾何学的な文字を書き終えると、中央の祭壇のような場所を指し示した。
「小林先輩、ベティちゃんをあそこに寝かせてやって。それと、人工特異点を解放している最中は遺跡の中には絶対に入らないでね。人工特異点に接触したら、誰であろうと何であろうと簡単に吹っ飛んじゃうから。このボクでさえもね。ベティちゃんは存在している時点でアストラル界に接続しているようなものだし、今し方、その接続点を解放してやったから存在の次元軸がアストラル界寄りになっている。今は糸と糸で繋ぎ合わせているようなものだけど、次元軸と空間軸を結ぶ糸を増やして、念のために空間の泡で包んであげたから、肉体と精神が乖離することもないし、生体組織が異次元に接触して対消滅することもないよ。微調整さえ終われば、すぐにベティちゃんはアストラル界に帰れるよ」
「解った」
ブレイヴィリアはリヤカーを引いていくと、祭壇の前に横たえた。ブレイヴィリアはリヤカーを遺跡の外に出してから、一度振り返った。が、奥歯を噛み締めて真正面を見据えて外に出てきた。
「別れの挨拶などしてやるものか。貴様との戦いは、まだ始まってもいない」
「じゃ、始めるよーん」
妙に軽い口調で言い、ジュリエッタは手のひらを石柱に押し当て、分泌した粘液を擦り付けて文字を一列消した。すると、突如突風が発生した。空間がずれたからだと、暴風の中でジュリエッタが説明してくれた。気圧の高低差が大きくなると強風が発生するのと同じ原理らしい。
竜巻の真っ直中に放り込まれたかのような状況で、目を開けるのも難しいほどだった。礼司は手近な石柱にしがみつき、堪えた。健人はちゃっかりと吸盤で地面に貼り付いて難を逃れていて、ブレイヴィリアは持ち前の力強さで踏ん張っていて、ジュリエッタは己の粘液を地面に絡み付かせているが、継美は背中の翼が仇となって吹っ飛びそうになっていた。折り畳んではいるのだが、翼の骨格が大きいので風に煽られてしまう。捲れ上がりそうになるスカートを押さえるのに必死になっていたからだろう、左肩の動きに合わせて左の翼が広がりかけた。途端に継美の華奢な体は浮き上がり、思い切り太股を閉じてスカートの前後を押さえていたにも関わらず、両脇が風を孕んで捲れ上がって中身が露わになった。礼司の目に飛び込んできたのは色白で瑞々しい太股と、爽やかな水色でちょっとだけ大人っぽいレースが付いたパンツだった。その次に、礼司は継美と目が合った。限界まで見開かれた赤い瞳は、羞恥に潤んでいる。
「ひ」
「うおわあっ!?」
謎の達成感と同時に猛烈な罪悪感に苛まれた礼司は手を伸ばし、継美の足を掴んで浮上を阻止した。と、同時にブレイヴィリアも継美のもう一方の足を掴んでくれたので、継美は地面に戻ってくることが出来た。が、恥ずかしさのあまりに礼を言うこともままならず、座り込んだ。無理もない。
「ごめん、ほんっとーにごめん!」
暴風に負けないように腹の底から声を張り、礼司は継美に謝った。継美は片手で顔を覆ってうずくまっていて、表情が窺えなかった。
継美のパンツに気を取られていた隙に事態は進んでおり、祭壇の前に横たわっていたベテルギスクの影が薄らぎ始めていた。キャンプファイヤーの薪のように格子状に組まれた祭壇の中には、黒いボール状の物体が潜んでいた。どこまでも深い黒、底の見えない闇、果てしない異界。それが特異点なのだ。が、一秒も正視していられず、礼司は目を逸らした。人智を越えたものなのだと本能的に体が叫んでいる、見てはいけないものだと脳が嘆いている。呼吸すらもままならなくなった礼司はあらぬ方向を睨み続けたがため、ベテルギスクが消える瞬間を目の当たりにすることは出来なかった。だが、それで良かったのかもしれない。
「終わったよん」
ふと気付くと暴風が止んでいて、ジュリエッタが礼司を覗き込んでいた。他の面々は平静を取り戻していて、皆、起き上がっていた。だが、礼司は足腰に力が入らなかった。ひどい髪の乱れをいい加減に整えたブレイヴィリアは空っぽのリヤカーを担ぐと、急かしてきた。
「帰るぞ。そろそろ寮の門限だ」
「じゃ、ボクも静ちゃんちに帰るよ。御馳走が一杯あるもんね!」
ジュリエッタは顔の部分をぐにゅりと曲げ、白いラバーマスクに笑顔に似たシワを作ってみせると、足早に螺倉遺跡から去っていった。
「えっと、あの、あっ、阿部君」
足とスカートに付いた土と砂と枯れ葉を力一杯払いながら立ち上がった継美は、パーカーのファスナー付きポケットを開けて、そこからSDカードを取り出して礼司に渡してきた。デジタルカメラのものだ。
「これ、どうもありがとう。返すのが遅くなってごめんね」
「ああ……うん……」
「さよなら」
不意に、継美は表情を消した。短い別れの言葉には拒絶が含まれていた。継美は身を翻すと、足早に坂道を駆け下りていった。礼司は、ああ、とか、うん、とか答えたような気がするが定かではない。今日一日の疲労がどっと出たのと特異点を正視しかけたことが相まって、気力が潰えていた。挙げ句に継美の態度が止めを刺してきた。パンツを見てしまったのは不幸な事故だが、すぐに謝った。無防備に好かれるような理由も思い当たらないが、決定的に嫌われるような理由もまた思い当たらなかった。だが、特異点を正視しかけた余韻が、継美から嫌われたかもしれない、という疑念を胸中に至らせなかったので痛みはしなかった。それだけは不幸中の幸いなのかもしれない。
「どないしたんや、おい」
芝生の枯れ葉だらけの健人が近寄ってきたが、礼司は上手く言葉に出来なかった。あの感覚をどう言えばいいのだろう、恐怖や畏怖という単語で括れるものではなく、礼司という人間の根幹に訴えかける力だった。精神と肉体を結び付けている意識と密接に繋がる次元が揺らぎかけたのだ、と誰に教えられるまでもなく悟る。ジュリエッタは、あんなに恐ろしい代物を操れるのか。
「ああ、アレやな。まあ、しばらくじっとしとき」
健人は礼司をひょいっと持ち上げて手近なベンチに座らせると、自分もその隣に腰を下ろしてきた。正確には腰ではなく、折れ曲がらせた足だが。
「んで礼ちゃん、なんか見たんか?」
「見た……気もしたけど、見ちゃいけなかったかもしれない」
「せやせや。ああいうモンはな、見ない方が想像が掻き立てられんねや」
「あんなものがあるってことは知っていたけど、本物は……」
「妄想と現実には隔たりがあるなんつーこった、普通やで、フツー」
「てか、まともに見ちゃっていたらどうなっていたんだろうな、俺」
「そらもう、大惨事やがな」
「やっぱり?」
「公衆の面前で臨戦態勢になっとったら、取り返しが付かへんもんな。哺乳類っちゅーのはどうしょもあらへんなー、ホンマ」
「そっちかよ!」
「なんや、礼ちゃんのナニがアレしたって話とちゃうん?」
「そんなわけがあるか! てか、あってたまるか!」
「なんやつまらん」
「人の恥部を娯楽にするなよ」
「で、ぶっちゃけ、つーちゃんのおぱんちーは何色やったんや?」
「言えるかよ」
礼司は毒突いてから座り直したが、下らないことでいきり立ったおかげで精神のざわめきが薄らいでいった。健人はそれを狙ってわざと話題をずらしたのか、いや、健人に限ってそんなことがあるものか。
ベンチに座ってぼんやりしている間に、どんどん時間は過ぎていく。その間、礼司と健人は本当に取り留めのない会話をした。あの教師の授業は解りやすいだの、この教師は人当たりが良いけど教え方は今一つだの、購買にある自販機のあのジュースは不味いだの、あの部活は面白そうだけどきつそうでこの部活はユルそうだけど退屈そうだの、思い付くままに話した。学園に入学して以来、ずっとドタバタしていたのでこんな時間は久し振りのような気もする。
「で、どないやねんな」
「今度は何だよ」
若干不信感を抱きながら礼司が聞き返すと、健人は珍妙なロゴが入った長袖Tシャツの袖口から出した足先を振る。
「ワシらみたいなん、実際んとこ、付き合ってみてどないや?」
「そりゃ最初は驚きもしたし、うえーとか思わないでもなかったけど、慣れてくると別にどうってことないなーって。見た目はちょっと変だけど、中身は普通っていうか、俺らとそんなに変わらないし」
「そかそか」
健人は満足げに頷くと、螺倉を一望した。
「そんならええねん。それだけで、充分なんや」
その一言には善意や好意に値する感情がこれでもかと含まれていて、礼司はなんとなく気恥ずかしくなった。辺りが薄暗くなってきたので、礼司と健人も帰ることにした。健人は玉川学園前で下車したので、また休み明けに、と言って別れた。相模大野駅に着いて改札を抜けると、慣れ親しんだ景色が戻ってきて心底安堵した。ここには特異点もなければ異世界出身者もいなければ勇者もいなければ異星人が造り出した生体コンピューターもいないのだ。
帰宅すると、既に母親が夕食の支度を始めつつあった。携帯に電話したのに繋がらなかった、と軽く愚痴られたが充電切れしていたと平謝りした。父親は会社の付き合いでゴルフに行っていて、まだ帰ってきていないようだった。二階の自室に上がってから携帯電話の着信履歴を確認すると、確かに母親から電話が入っていたが、その時間は丁度螺倉遺跡で特異点をどうこうしていた頃だったので、恐らく次元と空間のずれか何かで電波が届ききらなかったのだろう。と、ナチュラルに考えるようになった自分が少し怖い。
「あ、そうだ」
継美から返してもらったSDカードから、写真のデータをパソコンにコピーしておかなければ。ついでにSDカードの中身を削除してからデジタルカメラに戻さなければ。生憎、礼司は自分専用のパソコンを持てるような身分ではない。ああいうものは自分で稼いだ金で買えという、両親の教育方針に則っているからだ。それについては多少不満はないわけではないが、筋は通っているので反論したことはない。なので、家族共用のパソコンがある一階のリビングに下りた。
普段は姉の真里亜が陣取っていることが多いが、今日は姉の帰りが遅いので空いていた。この機会を逃す手はないと礼司はパソコンを立ち上げ、USBケーブルでパソコンに接続したコネクタにSDカードを差し、フォルダを開いた。
「おーおーおー」
ほんの数日前の出来事なのに、なんだかとても懐かしい。撮影した写真はピントが合っていないものもあれば、足元に向けた際にシャッターを誤射してしまった砂だけ写ったものや、被写体を狙い損ねて見知らぬ誰かの背中にピントが合っているものもあったが、全て自分のミスなので苦笑いした。そういったダメな写真を削除し、ピントが合っていて写りが良い写真だけを新しく作成したフォルダに移動させた。それらの写真を画像処理ソフトで微調整し、学園に持っていって皆に見せてやろうとプリントアウトしていると、姉が帰宅した。
「たっだいまー」
リビングに入ってきた真里亜はソファーにどっかりと腰掛け、付けっぱなしになっていたテレビのチャンネルをいじっていたが、横目にパソコンのモニターを見た途端に硬直した。画像処理ソフトに表示されていたのは、愚かとしか言いようのない動機で海に飛び込んだ末に溺れかけた健人が、服を脱いで海水を絞っている場面だった。カメラの目には人間に写るので、長身で短髪で浅黒い肌の今時の若者でしかないのだが。礼司は背中に突き刺さる視線に負け、振り向く。
「……なんだよ、姉貴」
「ねえ礼司、その人とどこで会ったの!?」
リモコンを投げ出して立ち上がった真里亜に詰め寄られ、礼司はパソコンデスクの椅子から尻を落としかけた。
「ど、どこって、クラスメイトだけど」
「クラスメイトぉ?」
声を裏返した姉に、礼司は戸惑う。今度は一体何なんだ。
「うん、まあ。てか、知り合いなん?」
「まあ……あいつなら有り得るか。でも、本当にそうなのか根拠はないし、よく似た別人って可能性も捨てきれないし、本人だとしても今更……。あーでも、どうしよう、どうしよぉー!」
真里亜は両手で頬を挟み、体をくねらせる。少女漫画臭い仕草に礼司は内心で辟易したが、顔に出さない努力をした。真里亜はひとしきり、どうしよどうしよ、と乙女チックに思い悩んでいたが、礼司の冷めた眼差しに気付くと瞬時に平静さを取り戻した。
「で、その人の名前はなんて言うの?」
「倉田健人だけど」
間にクラーケンが入るのだが、姉の手前、省略した。
「倉田……ってことは、やっぱり!」
途端に真里亜に活力が漲り、拳まで握った。礼司はプリントアウトされた写真を束にして二階に持っていこうとすると、襟首を掴まれた。
「ちょい待て」
真里亜は笑みを作っていたが、目が異様にぎらついていた。捕食者の目だ。
「明日でも何でもいいから、その倉田健人をうちに連れてこい」
「連れてこなかったら?」
「あんたのジャージの間に私のブラを仕込んで社会的に抹殺してやる。どうだ怖いだろう、今後三年間が便所飯決定なんだからなぁ!」
確かにそれは嫌すぎる。本当にやりかねないので、礼司は渋々了承した。
「本人にも都合ってのがあるだろうから、すぐに連れてこられるかは解らないけどさ。でも、まあ、必ず連れてくるよ」
「よし言ったな! 言質は取ったぞ! ふははははははははっ!」
悪役じみた笑い声を撒き散らしながら、真里亜はリビングを出て二階に昇っていった。礼司は溜め息を零し、残りの写真をプリントアウトするべく用紙をセットして画像処理ソフトを操作した。
「お前、姉貴に何したんだよ」
写真の束から健人の写真を抜き出した礼司は、半笑いを浮かべた。が、その下にあった継美の写真を見た途端、何もかもどうでもよくなった。恥じらいと愛想が絶妙に混じり合っている継美の笑顔は、どんなアイドルのグラビアにも勝る。そこにリンドヴルムのツノと翼と尻尾が写っていないのがたまらなく惜しい。本当の彼女を知ったばかりの頃は、そんなことは露ほども思わなかったのに。
「へへ」
ゴールデンウィークはもうすぐ終わる。そうすれば、また毎日のように継美に会えるのだ。会ったところで言葉を交わすのが精一杯だろうが、それでも充分だ。ただのクラスの一員から友達になれたのだから、中学時代に比べれば大進歩だ。
訳の解らないエネルギーが血管やら神経やらを駆け巡り、意味もなく駆け出したくなる。叫んでしまいたくなる。相手もいないのに暴れてしまいたくなる。それもこれも、継美が好きだからだ。邪竜族の姫君らしく振る舞う姿も勇ましくて好ましいが、彼女自身の本性である気弱で頼りない様も愛おしい。つまり、継美であればなんでもいいのだ。ツノが生えていようと翼が生えていようと尻尾が生えていようと、いや、いっそリザードマンですらも構わない。
郷に入れば郷に従え。編入初日に担任教師の火ノ元が黒板に書き記したことわざの意味が、今更ながら身に染みる。あれは人外達だけに限った話ではなく、礼司にも当て嵌まっていた。誰かを好きになると、外見だとか種族だとか住む世界だとかは本当にどうでもよくなってくる。むしろ、クラーケンでない健人など想像も付かないし、スライムだからこそジュリエッタであり、魔王でなければベテルギスクは成り立たない。だから、継美もリンドヴルムであってこそ継美だ。
慣れとは偉大だ。