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小田急相模大野駅から五駅目

 一.


 小田急相模大野駅から新宿方面に乗り、五駅目。

『次は螺倉、螺倉。お出口は左側です』

 車内アナウンスで流れた駅名を耳にすると、嫌でも気が引き締まる。それでなくても緊張気味なのだから、これ以上固くなってはならないと思いはするのだが、そう簡単に緩まないのが緊張というものだ。

 阿部礼司は着慣れない制服の胸ポケットを探り、学生証を取り出した。入学手続きの際に撮影した顔写真がラミネートされているが、その顔は不機嫌そうに見えるほど強張っていた。私立螺倉学園、との校名が顔写真と住所氏名の上に印刷されていて、それを見るたびに後悔のような達成感のような奇妙な気持ちに襲われる。中高一貫の学園の高等部に編入することからして、礼司の平坦な人生においては大冒険だった。増して、その動機も。

 緩やかなブレーキが掛けられた後に車両がホームに停車すると、礼司は学生証を胸ポケットに収めてから下車した。銀色に青いラインの車体から吐き出されてきた人間の中には、礼司と同じ制服を着ている乗客はほとんどいない。

 それもそのはず、私立螺倉学園は原則的に全寮制だからだ。実家が近い場合は通学でもいい、とのことで礼司は通学することを選択したのだが、それで良かったのかどうか今更ながら不安になる。

 通学組は少ないんじゃないだろうか、編入である時点でまず浮きまくっている、そもそも同じ中学から私立螺倉学園を受験したのは礼司ともう一人だけであって、などと思えば思うほど心臓の辺りが締め付けられてくる。だが、ここまで来たのだから、と腹に力を込める。自動改札にICカード式の定期券を当てて通り抜け、パスケースを通学カバンに戻そうとした時、礼司は面食らった。

「……何これ」

 改札を抜けていったスーツ姿のサラリーマンが、地元中学の制服を着た女子中学生のグループが、気怠げな様子でイヤホンを耳に差している作業着姿の青年が、自動改札の様子を見ている駅員が、それ以外でも目に付いた人影が、誰も彼もが人間ではなくなっていた。

 サラリーマンは分厚い甲羅をスーツの下に押し込めたカメに似た獣人で、女子中学生のグループはゴーレムとゴブリンとハーピーで、作業服姿の青年は砂を人型に固めたかのような物体で、駅員は半透明の鉱石の固まりで両手足が浮遊しているらしく、両手足の付け根に隙間があった。背後からせっつかれて改札の前から身を引いた礼司が謝ろうと振り返ると、そこには礼司と同じ制服を着た人間大のタコが立っていた。

 これは現実なのか否か、考えようとするが脳の情報処理能力が追い付かない。もしかして自分はまだ電車に乗っていて寝過ごしたんじゃないだろうか、いやきっとそうだ、それにしたってもうちょっとマシな夢を見たいものだ。すると、制服を着たタコは話し掛けてきた。イントネーションが不自然なエセ関西弁で。

「なんやの自分、ワシにガンたれて」

「え、ああいや、そんなつもりは全然!」

 礼司は慌てて飛び退くと、タコは制服の袖から出た太めの足をぬちゅりと動かして礼司のブレザーの裾を掴んできた。厳密に言えば、吸盤を裾に貼り付けた。

「あ、制服やな。ワシと自分、おんなじやもんな。そんなら一緒に行こか」

「あー、いや……」

「遠慮せんといてぇな! どうせこれから長い付き合いになるんやし!」

 タコは笑ったらしく、円筒形の吸い口をぬちぬちと蠢かせた。今すぐ逃げなければこのタコと登校する羽目になる、と礼司は戦慄したが、どう見ても人間ではないタコを蔑ろにする勇気はなかった。下手をすれば、入学する前に取って喰われるかもしれない。そんなことになったら、これまでの受験勉強やら何やらが無駄になる。目的も成し遂げられない。そんなことになるぐらいなら、タコと一緒に登校した方がまだマシだ。情けないのは重々承知しているが、こんなところで無駄に勇気を消耗してしまったら、いざという時に使えないではないか。

「見たことないツラやから、編入組やな? そやろ?」

 妙な関西弁のタコは礼司の袖を引き、ずるぺったん、ずるぺったん、とスラックスの裾から出ている足をアスファルトに吸い付けながら前進していった。ちなみに靴は履いていない。というより、履く意味がないのだろう。

「そや、自己紹介がまだやったな。ワシ、倉田・クラーケン・健人言うねん」

「クラーケン?」

 なんだ、その見たままのミドルネームは。礼司が思わず聞き返すと、倉田・クラーケン・健人は袖から出た太めの足を波打たせるように振った。

「そやそや、クラーケン。ごっついやろー。んで、自分はどこから来たん?」

「あ、さ……相模大野から」

「そら駅名やがな。どこの次元からや、そいでなかったらどこの惑星や?」

「じ、次元? 惑星?」

 何を言っているのかさっぱり解らない。混乱しすぎて言葉に詰まった礼司に、倉田・クラーケン・健人は礼司の背中をぺたぺたと叩いてきた。

「あーそかそか、あれやな、軽度の記憶の混濁は次元跳躍の弊害やな。その記憶の混濁が収まったら改めて話でもしよか。んで、自分はなんて名前やの?」

「あ……?」

 なんだろう、今の単語の羅列は。礼司の思考は混乱の渦中に没しかけたが、いくらか残っていた平常心のおかげで学生証を取り出せた。それを開いてタコに見せると、袋状の頭部から突き出ている二つの目が瞬いた。

「阿部礼司。アベレージっつーことか。ミドルネームがあらへんから何の種族かは解らへんけど、まあ、ヒューマノイドなんは確かやな。んじゃ礼ちゃん、今後ともよろしゅう頼むで!」

 タコは異様に馴れ馴れしい態度で、礼司の肩にぬるりと足を回してきた。良く見ると、タコは制服を着ているから人間らしいシルエットが出来上がっているが、実のところは一際太い八本足を寄せ集めて胴体のような形に作っているだけだと判明した。ネクタイを中途半端に締めた襟元からは首筋は見えず、代わりに四本の足の根本がネクタイとカーラーに戒められている。制服の膨らみ方も不自然で、胸も腹も腰もない。ジャケットの袖とスラックスの裾から出ている足は合計四本なので、残りの四本の足は制服の中で丸めているのだろう。かなり窮屈そうだが、骨のない軟体動物だから苦ではない、のかもしれない。

 駅前から桜並木の連なる土手を通り、緩やかな坂道を登ること十分弱。古めかしくも気品漂うバロック様式の巨大な校舎が屏に囲まれ、その奥には寄宿舎が控えている。螺倉という土地全体を見渡せる位置にあり、目を凝らせば街並みの先に横浜の港が見える。だが、見た目に反して別にカトリック系ではない。強いて言うならば、留学生を多く受け入れている国際色豊かな校風の中高一貫校であり、学力のレベルもそれなりである。それが、私立螺倉学園だった。

 ああやれやれ、やっと人語を解するタコから解放される。安堵を覚えた礼司が、健人を引き剥がして校門をくぐろうとすると、頭上を影が過ぎった。

「みゅぎゅるっぷるぷうううっ!」

 謎の生物の鳴き声のような、キャラを作りすぎて崩壊しつつある少女の悲鳴のような、或いは他人に理解されることを端から放棄している異世界の言語のような、なんとも形容しがたい音声が不定型なシルエットと共に校門の真上から降ってきた。だが、それを受け止める者は誰一人としていなかった。タコも礼司も例外ではない。それもそのはず、校門から降ってきたのはスライムだったからだ。

「みぎゅぶるっ」

 と、その物体はアスファルトに強かに打ち付けられると同時に悲鳴の残り滓を吐き出した。制服の下から青く透き通った液体が噴出し、校門と鉄扉にも粘液が飛び散った。さながら水風船を落として割ったかのような光景であるが、その中心で平べったくなっているのは破れた水風船ではなく女子生徒の制服だった。リボンの色が赤なので、礼司と同じ一年生だろう。

「なんだよもう、つまんなぁいぃーんっ。せっかくこのボクがドラマチックな出会いを演出してやろうと開門三時間前から張っていたのにぃーにゅーにゅうー。建ちゃん、付き合い悪いぞっ! ぷんすかぷんすかっぷうっぷるー」

 青い粘液は制服の中に寄せ集まると、腰に両手を当ててむくれた。

「いやいや、今時そんなんないやろ。サムいわー、ホンマきっついわー」

 タコ男は冷ややかに返し、制服を着た粘液をまたいで校門をくぐろうとした。すかさず粘液は持ち上がり、タコのスラックスに縋り付いてくる。

「やだぁ建ちゃんの意地悪ぅ、イケズぅーんっにゅんにゅうーんっ」

「きっちり入学したら構い倒したるさかい、今は堪忍な、ジュリエッタ」

「同じクラスだといいねぇー、建ちゃあーんっ。ぷっぴゅるるー」

 うふうふうふふふぅーん、と世の中の媚を掻き集めて煮詰めたかのような態度を振りまきながら、制服を着た青い粘液の固まりは百五十センチ足らずの少女の形を取り、校門の裏に置いてあった通学カバンを肩に掛けてから倉田・クラーケン・健人を追っていった。二人は余程親しい間柄らしい。

「何これ」

 タコとスライムが友人なのか、骨がない者同士だからなのか。礼司は螺倉駅を下りた時と同じセリフを繰り返すだけで精一杯だった。すると、校門を閉める時間になったのか、門の内側に立っていた教師が急かしてきた。

「そろそろ門を閉めるぞ。さっさと中に入らんと、新学期早々に遅刻だぞ」

「あ、はい、すんません」

 礼司が平謝りしながら教師に一礼すると、そこにはジャージの袖を襟元で結んで羽織っている朱塗りの鎧武者が立っていた。だが、中身は空っぽである。混乱が極まってきた礼司は足元がふらついたが、昇降口を目指した。

 昇降口脇の掲示板には、クラス分けを書き記した模造紙が張り出されていた。近付いてきゃあきゃあと騒ぎ合っているのはエスカレーター式に進級した在校生組で、背伸びしながら遠巻きに眺めているのは礼司と同じく編入組だろう。だが、そのどちらにも人間はいない。人間に似た生徒がいる、とちょっと嬉しくなって目を向けても、よく見るとツノが生えていたり耳が尖っていたり翼が生えていたり肌の色が青かったり、と実にバリエーション豊かだった。

 礼司は思い切り背伸びをしてクラス分けの名簿を覗き込むと、自分の名前はすぐに見つかった。一年D組、阿部礼司。五十音順なので最初から二番目にある。そのすぐ上には、青沼ジュリエッタ、という名前があった。

「にゅっぷるぷるぴーんっ!」

 言語として表現しがたい奇声を発しながら礼司の背中に覆い被さってきたのは、青い粘液の固まりだった。それがまた恐ろしく冷たく、首筋から背中の体温が一気に奪われた礼司は総毛立った。その固まりを振り払おうと礼司は青い粘液の顔らしき部分を掴んだが、手応えはほとんどなく、ぶにゅりと気色悪い粘液が指の間を通り抜けただけだった。

「うおわぁあっ!?」

 生理的な嫌悪感で後退った礼司に、今度はタコの足が絡み付いてきた。

「なんや礼ちゃん、リアクション派ッ手やなー。今時、スライムなんぞ珍しくもなんともないやろ。全く面白いやっちゃな」

 それはもちろん、倉田・クラーケン・健人だった。ゲームの世界では珍しくもなんともないだろうが、現実には珍しいどころの話ではない。礼司が返事に窮していると、青い粘液は女子生徒のような形を作り、ウィンクしてきた。

「きゃっぷるぅーん! ボクね、青沼ジュリエッタっていうの! これからよろしくね、礼ちゃん! うふふふぅっ」

 青沼ジュリエッタと名乗ったスライムは細腰をくねらせながら小首を傾げた上で小さな唇を尖らせ、胃もたれしそうなほど媚を売った。外ハネが可愛らしいセミロングに大きくぱっちりとした目にぽってりとした唇、細身でありながらも膨らみの大きい胸元にくびれた腰、柔らかな太股に紺色のハイソックスに覆われた脹ら脛、と部品だけを見ればかなり魅力的な少女なのだが、青沼ジュリエッタを構成している物質は半透明の青い粘液なので台無しだ。もっとも、まともな人間であったとしても、頭の煮えた言動がどうしようもなく鼻に突くだろうが。

「あ、はあ……」

 それ以外に何も言えなくなった礼司に、健人はぺたぺたと吸盤を貼り付けた。

「見ての通りごっつ頭の悪いスライムやけど、まー、仲良くしたってや」

「みゅんみゅるるるぅーん」

 にこにこしながら首を曲げたジュリエッタに、礼司は曖昧に答えた。

「ああ、うん……」

「良かったなぁジュリエッタ、これでシズちゃん喜ぶでー」

「うんにゅんにゅーんっ、おっともだちー!」

 ジュリエッタはゴム鞠のように飛び跳ねて、またも礼司に襲い掛かってきた。礼司は逃げ腰になるが、健人はにやにやするだけで止めようともしなかった。

 その時、校門側から誰かが近付いてきた。それもまた当然の如く人間ではなかったのだが、その顔を見て礼司は硬直した。

「……横嶋、さん」

 礼司の引きつった呟きは人外達のざわめきに紛れ、掻き消された。

「こちらにおわす御方をどなたと心得るぅーっ!」

 どこぞの時代劇で聞き慣れたセリフを述べたのは、幼い外見のラミアだった。高等部は男女とも紺色の制服だが、このラミアの着ている制服はモスグリーンなので中等部の制服だ。チェックのスカートの下からはダークレッドの蛇の下半身が伸びていてアスファルトに這っているが、その長さは二メートル足らずだ。燃えるような赤髪はショートカットで、前髪には子供っぽい星のヘアピンが付けられている。吊り上がった目は瞳孔が縦長で頬は丸っこいが、その態度は仰々しく時代掛かっていた。

「クラーゲンフルト帝国が支配者にして邪竜族の長であるヴァイゲルング・リンドヴルム・クラーゲンフルト大帝陛下の直子にして第一皇位継承者にあらせられる横嶋・リンドヴルム・継美姫様であるっ! 皆の者、頭が高ぁいぎっ!?」

 平たい胸を張ったラミアの後頭部に、彼女は棘の生えた尻尾を叩き付けた。

「何をなさいますか姫様! 何事も最初が肝心ではありませぬか! まずは邪竜族の威厳と栄光と輝かんばかりの美貌と溢れんばかりの才覚をここぞとばかりに誇示し、女子生徒諸君からは御姉様として慕われ、男子生徒諸君からはファンクラブを作られるようになり、学園内で盤石な地位を築くべきではございませぬか! 帝王学の第一歩ではありませぬか、姫様ぁあああああっ!」

 幼いラミアはつんのめりながらも、彼女を追い掛けて捲し立てる。だが、彼女は一瞥すらせずにローファーの靴底をアスファルトに叩き付けながら昇降口に向かってくる。姫様姫様、と必死に食い下がるラミアの紅葉のような小さな手が彼女の尻尾に届きかけた瞬間、初めて彼女は言葉を発した。

「黙れ」

 ルビーに似た真紅の瞳に囲まれた縦長の瞳孔がラミアを見据えると、ラミアはひくっと喉を引きつらせた。短い言葉ではあったが、それ故に暴力的なまでの威圧感が含まれていた。

「側女の分際でこの私に指図するつもりか、マキナ」

「い、いえ、そのようなことは決して決して」

 マキナと呼ばれたラミアはずり下がると、真新しい制服が汚れるのも構わずにひれ伏す。それきり、彼女はマキナと呼んだラミアに目もやらなかった。クラス分けを確かめた後、尻尾と翼を歩調に合わせて上下させながら、昇降口に入っていった。彼女の気配が階段を上がっていくと、人外達はラミアと邪竜族の姫君のやり取りの可笑しさを口々に語り始め、嘲笑する者さえいた。だが、礼司の耳には何一つ届かなかった。ただただ、呆然としていた。

「おい、どないしたん? おーい?」

 健人が礼司の目の前で足をくねらせるが、礼司の視界には入っていなかった。

「そんなのって、アリ……?」

 礼司が私立螺倉学園を受験した目的は、今時少女漫画でも見かけないであろう理由であった。それは、地元の中学校で三年間同じクラスだった少女、横嶋継美を追い掛けるためだった。継美はクラスの中でも特に地味なタイプで、暇さえあれば図書館に入り浸り、目立つことは一切しなかった。友人も一人もいないらしく、誰かと談笑している様を見たことは一度もなかった。かといっていじめられている様子もなく、空気に徹していた。誰も彼女に目もくれない中、礼司だけは継美を見ていた。ふと気付けば、彼女を目で追っていた。

 継美と言葉を交わせたのは、三年間通して一度だけだった。大人しいのをいいことに放課後の教室清掃を押し付けられた継美は文句一つ言わず、教室から誰もいなくなっても、ひたすら掃除を続けていた。その日、校門から出たところで忘れ物に気付いた礼司が教室に戻ると、継美は一人で四十人分の机を元の位置に戻していた。一目見て彼女の身に及んだ悲劇を悟った礼司は、クラスメイトの横暴な態度に腹を立てるよりも前に体が動いていた。通学カバンを壁際に置き、椅子の載った机を抱えた。

「手伝うよ、横嶋さん」

「ありがとう、阿部君」

 継美は笑顔も浮かべずに返し、また一つ机を運んでいった。礼司は淡い憧れを抱いていた継美に話し掛けたというだけで高揚してしまい、挙げ句に緊張してしまい、それ以上何も言えなくなった。机を片付け終わると、継美は一礼してから先に帰っていった。その後、礼司は誰もいなくなった教室で余韻に浸ったが、その結果、忘れ物をしていた事実を忘れて弁当箱を教室に一晩放置してしまった。そして、母親から強かに怒られた。

 その時の継美の姿は、今も忘れられない。額に薄く汗を浮かべて制服の袖を捲り上げ、細腕で机を持ち上げては所定の位置に運んでいく継美は健気と言う他はなかった。紺色のセーラーの上では太い三つ編みの毛先が跳ね、プリーツスカートの下からは色白の膝と脹ら脛が垣間見え、上履きのゴム底がワックスの剥げかけた床を噛む。僅かに吊り目がちではあるが意志の強さを窺わせる瞳は長い睫毛に縁取られ、日本人離れした高さの鼻筋に、引き締まった薄めの唇は艶やかで、綿毛のような襟足の後れ毛からは、花のような甘い芳香が漂ってきた。

 そのどれもが、礼司の心を締め付けた。その日から礼司は、それまで以上に継美を目で追うようになったが、近付こうとするだけで息が詰まって胸が絞られ、一言も話し掛けられなかった。文化祭や修学旅行でも別々の班になってしまい、面と向かって接したことすらなかった。だから、同じ学校に進学することだけが継美に近付く手段だった。もっとも、近付けたとしても礼司と継美が恋人同士になれる保証はどこにもない。わざわざ同じ学校に進学してまで追い掛けてきた気色悪い男、という評価で終わるのが関の山だ。だが、それでも、片思いを消滅させるよりはマシだと思ったからこそ、私立螺倉学園に進学したのだ。

 だが、その横嶋継美の正体が邪竜族の姫君でありリンドヴルムだったとは。

 彼女が人間ではないなんて予想出来るはずもないし、したこともない。それ以前に、この街が人外だらけだなんて知るわけもない。いよいよ頭痛がしてきたが、礼司は意地で踏ん張り、左右にふらつきつつも一年D組の教室に向かった。

 倒れるのは、せめて入学初日を終えてからだ。



 編入生の入学式を兼ねた始業式を済ませた後、クラス分けの通りに皆は教室に向かった。その最中にも、礼司は健人とジュリエッタにやたらと絡まれてしまった。どちらも骨がないのでぐにゃぐにゃしているので扱いづらかったが、決して悪い奴らじゃないよな、と思えるようになっていた。この変な奴らと友人になるかは別としても、クラスメイトになるのだし、今後の学園生活のためにも親しくしておくに越したことはない。

 一年D組の教壇に立った担任教師は、校門に立っていたあの鎧武者だった。黒板に書き付けられた名前はやたらに長く、火ノ元豪右衛門盛近、とまるで戦国武将だった。画数も多ければ文字数も多い名前を書き終えた鎧武者はチョークを置き、机を埋めている生徒達に振り返った。兜の下にある面頬の奥は空っぽで、表情は一切窺えない。3DダンジョンPRGの中ボス、といった風格がある。

「まずは皆、進学おめでとう。中等部からのエスカレーター組も、編入組もだ」

 火ノ元はその名の通りの赤い漆塗りの肩当てを揺すり、大きく頷く。

「入学前に説明されていると思うが、この学園はお前達の現住世界とは根っこから異なる世界だ。物理法則は大して変わらんが、それぞれの世界で通用しているエネルギーは次元と空間の自己修復能力の影響で発動しようとした時点で相殺されることを忘れるな。だから、間違っても魔法やら何やらを使って空を飛ぼうと思うな。当たり所が悪ければ確実に死ぬから、そのつもりでいろよ」

 火ノ元は生徒達を見渡し、窓際から二列目の一番後ろに着席している邪竜族の姫君に目を留めた。継美は火ノ元と目を合わせずに逸らした。

「無論、それはお前達が生きてきた世界でのルールも通用しないということだ。魔王だろうが勇者だろうが天使だろうが悪魔だろうが王子だろうが姫だろうが魔物だろうが竜だろうが兵器だろうが何だろうが関係ない。だから、一般市民として振る舞え。その辺のことをしっかり頭に叩き込んでおけば、こんなにも住み心地のいい世界はないからな。それを的確に説明したことわざが、この国にある」

 火ノ元は再びチョークを握ると、黒板に書いた。郷に入れば郷に従え。

「この世界はいわばインターバル、次元と次元、空間と空間、時間と時間の隙間に生まれた貴重な異次元空間なんだ。俺達はこの世界を間借りしているのであり、この世界の主はあくまでも地球であり、その現住生物だ。だから、この世界に戦いもしがらみも持ち込むんじゃないぞ、微妙なバランスを崩したら多次元宇宙の均衡が乱れるからな。というわけで、注意事項は以上だ。教科書の購入リストのプリントを配るぞ」

 そう言ってから、火ノ元は教卓の中からプリントの束を取り出した。それを一列分ずつ配ってきたので、礼司は目の前の席に座るジュリエッタからプリントの束を回された。まだ席替えを行っていないので、五十音順で座っているからだ。

「ぷみゅーんっ」

「はいはいどうも」

 ジュリエッタのねちっこい媚びをやり過ごし、礼司はそのプリントを後ろの席に回したが、思わず息を飲んだ。そこには、どこからどう見ても魔王以外の何物でもない生徒が窮屈そうに机に座っていた。身長は礼司よりも二回りは大きく、肩幅も恐ろしく広い。黒い光沢を帯びた鉄鉱石のようなウロコが全身を覆い尽くしており、両肩には牙のような一際太いウロコが放射状に生えている。マント状の翼が椅子の背もたれを通り越して床に擦れ、四本指の手には鋭利な爪が備わっており、爬虫類に似た形状の顔には赤い宝石のような目が三つ埋まっていた。胸の中央には一際大きな真紅のオーブが填っていて、淡い光を放っている。

「あ、うん、どうも……」

 その生き物は体格に反比例した弱々しい語気で答え、爪の間でそっとプリントを受け取った。そして残りのプリントを後ろの席に回し、自分のプリントに鼻面を寄せて熱心に覗き込んでいた。礼司は渡されたばかりのクラス名簿を広げ、すぐ後ろの席に座っている魔王の名前を確かめた。伊東・ベテルギスク十三世・三郎。何これ、とまた言いかけて礼司は寸でのところで飲み込んだ。では横嶋継美はどうなのだろう、と女子生徒の名簿を見てみると、横嶋・リンドヴルム・継美と表記されていた。他の生徒もそんな具合だったので、法則が掴めてきた。

 つまり、人外の生徒達はミドルネームが種族名であり本来の名前なのだろう。それを上下で挟んでいるごくごく普通の日本人名が何であるかは皆目見当が付かないし、どの名前で呼ぶべきかを決めかねてしまう。それ以前に、人外達が羅列する言葉の意味がさっぱりだ。インターバルだの何だのと言われても、ここは礼司が十六年間暮らしてきた地球であって日本であって神奈川県の片隅であるわけで。それがなぜ、人外の巣窟と化しているだろうか。

 その疑問を解決する糸口すら見つけられないまま、礼司は下校した。帰る方向が違うらしく、健人とジュリエッタは校門を出て早々に手を振ってどこかに消えた。駅前商店街の書店で学校指定の教科書を購入したが、その書店の店主も案の定人外だった。大柄で強面のオオカミ獣人で近寄りがたい雰囲気を帯びていたが、礼司の制服とネクタイの色を見た途端に高等部一年生が必要な教科書やら何やらを全て揃えて差し出してくれた。これは学園生活の餞別だ、と言ってルーズリーフもサービスしてくれたので、彼は見かけによらず人が良いのだろう。

 教科書が詰まった重たい紙袋を手に提げて小田急線に乗り込み、座席に身を沈めた礼司は、各種プリントと一緒に渡された課題を広げてみた。今日一日の出来事よりも数学の問題の方がすんなりと理解出来たのが、嬉しいようでいて若干複雑だった。私立螺倉学園とは、一体何なのだろうか。


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