ヒミズガミ
『オカエリナサイ、アナタノセカイヘ』
ヒトの影が両手を広げている。声からすると女性だろうか。淡い光が簾のようにして境界を作り、その姿を隠していた。顔は見えないのに、なぜか微笑んでいるような気がした。近くに寄ろうと一歩前に踏み出すと、白い光が弾けるように力を強め、視界は無色に染められた。
――目が開くとそこはまだ、ゆめまぼろしの中だった。
「ようこそお越し下さいました。客人のみなさま。この流果ての地、何もないところではございますが、どうぞごゆるりと永らえて、その『チ』の尽きるまで我々との戯れに興じて下され」
しゃがれた声。顔を隠す黒い布がゆらゆらと揺れている。男は胸の上に右手を添え、こちらに向かって深々と頭を下げた。そして、「ワタクシはこれにて」と言い残し、その場から消えた。文字通り、そこに居たはずのヒトの姿が跡形もなく瞬時の内に『消失』した。
途端、ザワザワとした声が周囲を包む。かなりの数のヒトが集まっているようだ。
「き、消えたっ! 消えたぞ、あの男!」
「何のトリックかしら? ゆ、夢じゃないわよね?」
気を失う前から一緒に居た友人以外、見知った顔が全くない。更には、スーツにカジュアルシャツ、制服に登山服までと、其々の格好に全く統一性がなかった。中には自分たちのように、小人数で顔見知りという人たちもいるみたいだが、大体が年齢・性別を問わず、無作為に集められているようだ。全員で三十人は超えているだろうか。
「何ここ、ねえ、ここどこなの!? あたしたち、さっきまで……ねえ?」
「お、おう……」
大学生風の男女、恋人同士だろうか。手を繋いだまま蒼白になった顔を見合わせている。女性のブラウスのボタンが外れ、中から黒色の下着が覗いている気が付いた。隣にいる友人たちの目が気になり、視線を逸らして気付いていないフリをした。
「あの人、ボタンを外してるがチョーカーと靴下はそのままだ……デキるな」
「デキる? 何が?」
「あ、いや……それはそのう、あれだよ! ご飯の前の準備、いや男の美学的な」
「何で、ご飯の準備と男の美学が関係あるのよ?」
友人二人の緊張感の無さに、強張った心がほっと和んだ。
「あ、あるよな? 清人。 いや、我が同士、清人殿!」
「勝手に同士扱いするな、春日。俺の趣味はべ――美穂もあまり春日をイジメてやるなよ」
「イジメてなんか……というか、あるの?」
美穂は頬を膨らませ、抗議の顔を清人に向ける。美穂がフリをしていないことは清人も分かっていた。彼女はお家の事情というやつで、絵に描いたような鈍感娘なのだ。
春日が助かったとばかりに額を拭い、目の前の光景へと視線を向けた。
「フザケでもしないとな……現実感が湧いてこないぜ。一体何だよこの景色……」
清人は小さく一つ頷いた。自分たちはつい先ほどまで、学園祭の準備に大忙しだったのだ。いよいよ明日という段階の追い込み作業に入っていた。学園祭では定番の喫茶店だが、和風という味を出すために、ディテールに凝ろうという話になった。
『ここに飾る竹が欲しいな。後、それに差す花も』
『時間もないし、金もない。取るべき手段は自力採取だな』
『じゃあ、あそこだな』
学校の裏には、小高い山があった。そこなら竹も花も見つかるだろう。古びた社も建っていて、のどかな雰囲気が清人は好きだった。いつだったか、どんな神を祀ったものなのか興味が湧いて、学校の長老と呼ばれる古典の八金先生に聞いてみたが、先生も知らないようだった。
言い出しっぺ三人で山に登り、社の近くまで行った。そこまでの記憶はハッキリとある。
――だけど、気が付いたらここにいた。青々としたのどかさなど見る影もない、砂だらけの荒涼とした世界に。
「キャアァァッ!」
不意に背後からけたたましい悲鳴が起こった。その場にいる全員が、一斉にそちらへと目を向ける。
「何だ、ありゃ……」
春日が疑念に満ちた声を出した。そこにいる誰もが眼を疑った。清人もごくりと息を飲むだけで、言葉が全く出てこない。
スーツ姿の男性の顔がなかった。正確には、巨大で分厚い赤茶びたホースのようなモノが、男性の頭をすっぽりと覆っていた。頭の上から生えたように伸びるそれの、ぶよぶよとした質感に、清人は全身が総毛立つのを覚えた。男性の首から垂れたネクタイが痙攣するように震えている。
「うあああっ!」
「キャアアッ!」
もう一度、今度は大勢を巻き込んでの悲鳴が互いに反響しあった。
「ミ、ミミズのお化けっ!」
美穂が的確な表現で叫んだ。声に呼応するかのように、地面のあちこちにボコボコとした盛り上がりが生まれ、波打つように動き出した。
「複数いる、囲まれてるぞっ! とにかくここから逃げるんだ!」
ヒトの群れは、助けを求める声と共に、その場から散り散りに逃げ出した。二人が動いたのを確認すると、清人も後を追うようにして走り出した。
「だ、誰か! 赤ちゃんだけでも、誰か赤ちゃんをお願いっ!」
悲痛な叫びだった。清人は逃げる足を止めた。振り返ると、ベビーカーの影に隠れるようにして、ぺたりと地面に座り込む女性の姿があった。よく見ると足から血が出ている。その手の中には小さな赤ん坊が抱かれていた。
清人は地面に転がっていた大きめの石を手にすると、もといた場所へと走り出した。ミミズの化け物は鎌首を持ち上げ、今にも女性と赤ん坊に襲いかかろうとしている。
(間に合ってくれっ!)
手の中の石をぎゅっと握りしめ、その大きな体を目掛けて力いっぱい投げつけた。
ミギャッ!
どこでもいいから当たれと投げたが、幸運にもミミズの顔辺りにヒットした。ぶるんと大きく仰け反ったかと思うと、目の無い顔でこちらを向いた。円状の口には小さな歯がびっしりと並び、灰色のヨダレの様なものを滴っている。
「来いよ、ミミズ野郎! こっちだっ!」
清人の挑発に反応したのか、ボコっという大きな音を出して、その化け物は地下に潜った。
「今だ! 春日、頼むっ!」
「おうよっ!」
春日は清人を横を走り過ぎ、女性の方へと一直線に向かった。ここに引き返してくる間、背後から地面を蹴る音が続いていた。春日も同じ考えだったことが、言葉にしなくても分かった。
ドゴゴォォッ!
不意に背後の地面が爆発した。砂埃が宙を舞い、大きな気配が背中に重くのしかかる。
(もう、後ろに回り込んだのか! いや、別の奴か!)
まだ前方にゆったりとした土のうねりがあった。油断をしていたわけではないが、目標の引きつけが上手くいったことで、他の個体への配慮を怠った。複数いることは分かっていたのに。
「やああぁァッ!」
裂ぱくの気合いに乗せて、鉄がへこむような重い音が耳に届いた。振り返ると、美穂の見事な後ろ蹴りが炸裂し、革靴の踵が化け物の腹の辺りにめり込んでいた。
「どう!? 父さん直伝の蹴りの威力! 踵をグイッと押し込むのがポイントなの!」
美穂が嬉しそうな笑顔を見せる。確かに間違っても受けたくない打撃音だった。清人はその顔をやれやれと言った感じで眺めたが、少し視線を下に落とすと急いで顔を背けた。
「――あっ!」
美穂は顔をパッと朱色に染めると、慌ててスカートを抑えた。学校の制服だということを忘れていた。調子に乗ってしまうと他を忘れてしまうのはいつもの悪い癖だった。
「見てない! 何も見てないから、とりあえずそいつから距離を取るんだ」
清人はそっぽを向いたまま美穂に言った。化け物の動きが止まったとはいえ、本当に美穂の蹴りが効いているのか、その姿からは分からない。
化け物に目をやると、天を仰いでゆらゆらと揺れる体が、案の定、美穂の方へと向いた気がした。
「危ないっ!」
声と同時に、清人は美穂に飛びついた。美穂の体が在った場所を、大きなうねりが通過する。右足にチリリとした痛みが走った。
「と、突然、だ、抱きつくだなんて。清人くんたら……大胆……」
「何でお前はそんなに余裕があるんだ? 逃げるぞっ!」
第二撃が来る前にと、美穂の手を取り立ち上がった。
(足の傷、思ったより深いのか)
痛みがどんどんと増していく。かすり傷程度かと思っていたが、足の内側から大太鼓を打つようにしてズキンズキンと刺激される。
「美穂、春日のところに行って手伝ってやってくれ。向うは赤ちゃんと合わせて二人だ。こいつは俺が引きつけておくから」
春日の方を見ると、まだあの場所で手間取っていた。やはりあの女性は足の怪我で立てないらしい。
「分かったっ!」
同じく向うの様子を確認した美穂は、こちらの顔を一瞥した後、振り切るようにして走り出した。清人の目には唇を噛んでいたように見えた。
(足のこと、気づかれたか)
これで尚更やられるわけにはいかなくなった。目の前のあいつは、自らの攻撃の勢いで地面に伏していたが、ゆっくりとした動作で起き上がろうとしていた。とりあえず、距離を取ろうとした瞬間、側面の土が小山のように盛り上がったかと思うと一気に破裂した。
「清人っ!」
「清人くんっ!」
春日と美穂が呼んでいる。化け物たちが壁になるようにそびえ立ち、トモダチの顔を見させてくれない。前方と両側面、その数、計3体。ご丁寧にも一匹おまけで付いて来た。
「ここまでか」という諦めの気持ちは不思議と全く湧いてこない。案外、死ぬときというのはそういうものかもしれない。どこか気が抜けた拍子に、それは突然にやってくるのだろう。
――その瞬間まで、足掻いて、抗って、笑ってやる。
そう清人が覚悟を決めた時だった。
「でっかいミミズ風情が調子に乗るナヨ! なあ、ヒミズガミさんヨォッ!」
背後から女の子の声がした。と同時に、地面を蹴る音が続く。清人の目がその姿を捉えた時、小さな背中をおおった剣がカチッという音を立て、抜かれると同時に一閃された。
扇状に振り抜かれた剣がその勢いをぴたっと止めると、化け物たちは胴を二つに切り離し、地響きと共に地面に崩れ落ちた。切断面から噴き出す体液が、清人の鼻腔を刺激する。現実だということをその匂いが突きつけた。
(何なんだ、あのバカでかい剣)
「ぼさっとするナ! ここは既にヤツラの『狩り場』だゾッ!」
背中を向けているはずの女の子は、呆気に取られる清人の顔を見ていたかのように言葉を放った。
目の前の女の子がふと横を向く。その視線の先に、砂塵が舞っているのが見えた。