□静かな夜□
恐怖はもう終わった。
もう何も怖くはない。そう、思っていたのに……。
なんでだ?
なんで今、俺の身体は震えているんだろう。
――夕方の一件から帰宅した後、ブレザーから外れてしまった、みっつのボタンを早速月夜が取り付けてくれたんだ。
だから、今日の夕方に起こったことも記憶を蘇らせるきっかけは何もない。
――そう、思っていた。
なのに、俺はたしかに震えている。
現在の時間は深夜0時ちょうど。時計の針と共に、背中越しからは月夜の寝息が聞こえる。
俺は今、月夜と同じベッドで横になっていた。
今の今まで、怖いことは何もかった。
風呂だってひとりで入れたし、月夜と昨日と変わらない一日を過ごした。
だが、今は――。
暗闇が悪いのだろうか。
あの……倉庫の中と同じ暗闇。
秋という季節独特の、このひんやりとした感覚も、倉庫の空気とどことなく似ていて……。
目を瞑れば、ボタンの引き千切られる音がどこからともなく聞こえてくるような気がする。
――怖い。
電気をつけたい。
だが、部屋を明るくすれば月夜に気づかれる。
彼を起こしてしまう。
今日、あれだけ心配をかけたのに、なのに……この上また心配をかけたら……。
月夜には自分の家のことがある。
俺の個人的な悩みまで背負わせるわけにはいかない。
…………情けない。
俺はなんだってこんなに情けないんだろう。
男じゃないか。
ボタン引き千切られたくらいで何だってんだ!!
しっかりしろ!!
そう思っても……身体の震えは止まらない。
どうしよう。
どうすれば、この震えは止まるのだろうか。
両腕で身体を包み込んでも震えは止まらない。
ボタンが引き千切られる音を聞かないようにと、思い出さないようにと無視をすれば……今度は男子の下卑た笑い声が聞こえてくる。
「……………っつ」
俺は襲ってくる恐怖から我慢できなくなって、身体を丸めた。すべてから身を守れるようにと願って……。
「…………花音?」
布団の中で丸まっていると、突然、背中から眠たそうな声が聞こえてきた。
「!!」
しまった!!
月夜を起こしてしまった!!
「花音? 眠れない?」
「ああ、ちょっと……寝る前にコーヒー飲んだのがいけなかったかな……」
ハハ……っと冗談っぽく笑いを入れながら話す俺。
だが、月夜は俺の恐怖で上手く笑うことができなくなった乾いた笑い声を聞き逃さなかった。
俺の様子がおかしいと思われたんだ……。
なんで……なんで月夜は、俺の様子がおかしいことに気づくんだろう……。
「花音? どうした?」
月夜の声と共に、パチパチと音を立てながら天井にある蛍光灯がついた。
青白い光が部屋を照らす。
どうやら月夜がリモコンで蛍光灯の電気をつけたらしい。同時に背中を向けている俺の顔を覗き込んでくる。
やばい!! たぶん、俺の顔は真っ青だ。
「なんでもない!!」
俺はムクリと起き上がり、顔を見られないようにと月夜から逃げた。
そんなことを考えていると……。
ぐいっ。
突然後ろから伸ばされた手によって、俺の身体は引っ張られた。
「うわっ」
ぽすん。
やわらかい音を立てて、ベッドに倒される。
俺の真上には、眉をつり上げた月夜の顔。すぐ顔の両隣には月夜の両腕がある。
閉じ込められたんだ。
これで逃げることが難しくなった。
しかも……恐怖で強張っている真っ青な顔も見られた。
「つきや……」
月夜の行動の意味も、なぜ怒っているのかもわからず彼の名前を呼ぶ声は、夕方に体験した恐怖によって震えてしまう。
「なぜ、なぜ言わない!?」
それは普段の優しい月夜ではなく、少し低めの声だった。
まるで……あの男子3人組に言ったような声音と雰囲気だ……。
俺、月夜に嫌われたのか?
ズキン。
そう思えば、胸が悲鳴をあげる。
痛みを訴えてくる。
なんで?
どうしてだよ?
俺、別に月夜が怒っても笑っても関係ないじゃん。
ってか、これでいいんじゃないか。
嫌われるために俺はここへやって来たんだ。
ここで嫌われれば俺の待ちわびた日常に戻れる。
月夜の…………いない日常に…………。
男として過ごせるんだ。
「……ごめん、泣かないで……。ああ、俺が泣かせてしまったんだな……」
……………泣く?
月夜は何を言っているんだ?
言っている意味がわからず、真上にある端麗な顔立ちを見つめと……見る見るうちに表情は変化していく……。
さっきまでつり上がっていた月夜の眉は、次第に下がっていった。
目を瞬かせば……目じりからこめかみの方へと何かが流れたのを感じる。
スルリ……。
月夜の人差し指が俺のこめかみをなぞる。
なぞられた月夜の指を見れば、濡れていた。
俺、泣いて……る?
……なんで?
何が悲しいんだ?
男子に襲われた恐怖が?
月夜と……一緒に居られないってことが?
ズキン。
そのことを考えたとたん、俺の胸がまた痛みはじめた。
……ッツウ…………。
また、涙が一筋流れていく……。
まさか……まさか……俺……。
月夜のこと……。
そう思ったのは、あるひとつの言葉が、思いが、俺の頭の中を駆け抜けたからだ。
嘘だろう?
いや、そんなハズはない。
だって……だって、俺は男だぞ?
有り得ないだろう?
「花音?」
ズキン。
月夜が偽りの俺の名を心配そうに呼んだとたん、胸はまた苦しくなった。
――ああ、これで決定だ。
俺は……。
俺は月夜のことが好きなんだ……。
いったい、いつから好きだったんだろう。
おそらく、月夜と対面した時からだ。
長時間にわたる慣れない正座でコケた俺を笑い飛ばさなかったことや、池に入りそうになって受け止めてくれた時――まあ、最後は池ポチャしたけど……。
あの時から、俺は月夜が気になっていたんだ。
そして、女子が月夜を狙っているという事実を思い知った時に感じた胸の痛み。
あれは……あの時考えたことは……。
俺じゃない女性が月夜と微笑みあっていることを想像してしまったからだ……。
なんで――。
なんで――……。
なんでこんなことになってしまったんだろう。
ああ、だめだ。
悲しそうに眉根を寄せている月夜が……俺のために、こんなに悲しそうにしている月夜がとても嬉しい。
「やっ。これは……ちがうんだ。えっと……」
『月夜の所為じゃない』
そう言いたいのに、どう言えばいいのかわからない。
月夜が好きだからと伝えてもいいだろうか?
俺は男だけど……でも…………花音なら…………言ってもいい?
「月夜……」
「ん?」
「わたし……………」
ぽつり、ぽつり。と話す俺の言葉を、急かさずにじっと待っていてくれる。
そんな月夜が……。
優しい笑みを向けて、微笑む月夜が……。
涙をぬぐってくれる月夜が……。
「好き」
言った俺の表情を確かめるようにジッと見つめてくる月夜。
俺の顔は、見る間に赤く染まっていく……。
あの、ものすごく恥ずかしいんですが……。
顔を隠そうと両手を持っていけば……月夜の両腕に邪魔された。
月夜の顔が近づいてくる。
「っつ!!」
恥ずかしさのあまり、ぐっと目を瞑れば……。
ぼそり。
「俺も、花音が好きだよ」
耳元でそっと囁きかけられた。
「……っつ!!」
言われた瞬間、さっきの恐怖とは違った震えが俺の身体を駆け巡った。
そして――。
「……んっ」
俺の唇が月夜と重なった。
はじめ、何が起きているのかがわからなくて、目を閉じたり開けたりを繰り返していたが、徐々に自分が何をされているのかがわかって、俺の唇を塞いでいる彼の名前を呼ぼうと口を動かす。
だが、声はくぐもったものになって、言葉になることはない。
身体の芯が……あつい。
月夜は腕を俺の顔の横に持ってきた。
頭を固定され、顎の角度が変わる。
口づけが、いっそう深くなるんだ。
「んっ……」
信じられなかった。
男と……月夜と、こんな関係になることが――。
「それで何があったの? どうして俺から逃げようとしたの?」
唇が離れると、月夜はそう言った。
突然のキスで頭がぼーっとしてしまう。
くっそ。
なんで月夜はそんなに平然としていられるんだよ!!
俺なんて、心臓バクバクいってるってのに!!
などと思って月夜を睨んでも、彼は射抜くように真っ直ぐ見つめてくる。
俺はたまらず月夜から視線をはずした。
「花音、目を逸らさないで。俺は深く傷ついているんだよ? 君が苦しそうにしているのに、何も話してくれないじゃないか」
ドキン。
そんなに俺のことを考えてくれていたんだと思えば、心臓がまた跳ねた。
「夕方のこと……思い出して怖くなったんだ。目を閉じたら、奴らの笑い声が聞こえるし……。ボタン……引き千切られる音とか……」
「だったら、なおのこと……」
「心配……かけたくなかったんだ」
俺は月夜の言葉をさえぎり、言葉を続けた。
もちろん、自分だけドキドキしているのが気に入らなくて、唇を尖らせながらだけど……。
「え?」
その言葉が信じられないのか、月夜は尋ねてくる。
「だから!! 月夜は自分のことがあるだろ? わたしのことまで心配させて、気を煩わせたくなかったの!!」
あーー、恥ずかしすぎる!!
ヤケになった俺は、深夜だってことも忘れて大声を出した。
言い終わるとすぐに身体を横に倒して月夜から背を向ける。
……やばい。
俺、今すっごく顔赤いんだろうな。
だって、顔が、全身が、発火しそうなくらい熱い。
そう思っていたら、突然俺の上から陰が伸びてきた。
……へ?
何事かと上を向いた俺が馬鹿だったんだ。
「……っん!!」
また……口が塞がれてしまった。
もちろん、月夜の口によって……。
「ん!! やっ……月!!」
グイッとたくましい胸板を押せば、月夜はにこりと微笑む。
ゾクリ。
瞬間、俺の身体が震えた。
この笑顔は優しい微笑みではなく、怒っているでもない。
何かを企むような、俺の知らない月夜の笑顔だ。
「あまり、かわいいことを言わないでほしい。俺と君は今、ひとつのベッドにいるってこと忘れないでね。君のすべてを奪ってしまいそうになるから……」
「ちょっ!! 耳元で言わないで!!」
耳元で話される言葉は吐息とともに耳に届いた。
くすぐったいのと恥ずかしいという思いの俺は肩を竦ませた。
この場所から逃げたいと思った。
「う~ん、その仕草もやめてほしい……かな」
じゃあ、どうしろって言うんだよ!!
ムカついて月夜を睨んでも……「それも逆効果だよ?」って言われるし!!
「だーーーーもう!! うるさい!! もう寝る!!」
ガバッ!!
俺は上掛け布団を頭からすっぽり被って月夜を拒絶した。
なのに、なんなんだよ。俺、すっごく怒ってるってのにさ……。
後ろからはクスクスと笑う月夜の声がするんだ。
だが、その笑い声はなぜか腹が立たなくて……逆に俺を深い眠りへと誘う子守唄のようになっていた。
ふわり。
掛け布団の上から何かが俺を包んだ。
これはきっと月夜の腕だ。
だって、とてもあたたかいから……。
気がつけば、夕方に起きた男子たちのことも忘れていた。
俺の中にあるのは、あたたかい月夜の腕と心地いいクスクスと笑う声だけだった。