□嫁? 夫? 同居生活□
季節は秋。日曜日の夕方。許婚の対面を果たした俺の日常は、あれよあれよという間に過ぎ去った。
気がつけば、前いた学校から峰空高等学校へと季節はずれもいいところの編入を果たし、月夜の許婚としてここにいる。
とうとうこの日がやって来てしまった。
俺、篠崎 亜瑠兎は、花音という仮面を被り、これから毎日を過ごす。
……なんで幻滅されないんだろう。不思議だ。
意図的でないにしても、初対面でコケたり水ぶっ掛けたり……次期当主になる人に何をやっているんだというほどのことをやらかしたハズなのにさ……。
次期当主こと、葉桜 月夜は俺を怒るどころか笑って受け流す。
なんだって、そんなに寛大なのか……。
寛大じゃなくて……まさか……Mか?
そっち系なのか?
とりあえず、月夜はまったく怒らないんだ。
おかげで婚約破棄できないし……。
んで、今俺が居るのは月夜の別荘。
というか……ここ、高層ビルなみのマンションですけど?
『別荘』という単語には似つかないほどの15階建てマンション。非常階段としてしか機能を果たさない階段。移動基準はすべてエレベーターだったりする。
そして一階管理室にはモニター完備。マンションの中には暗証番号がないと入れないときてる。でもって……指紋で部屋に入るとか!!
ものすごくセキュリティー抜群だ!!
もしかして……この人、すごく金持ちの家柄ではないだろうか……。
――いや、代々昔から華道の家系ってだけでも金持ちっていうイメージはあるけど……。
だいたい、対面した料亭にしても、ものすごく高そうなところだったし……。
だが、これは一般人が住むようなところじゃない。芸能人か政治家が住みそうなところじゃないか?
これでは、滅多なことで恥なんてかかせられない。
祖父さんの遺書も無視できないし……。ますます、こっちから許婚破棄っていうことが難しくなった……。
やはり、花音として振られるしか手立てはない。
だが、月夜はものすごく寛大? な人だ。
普通、これだけの金持ちなら、水ぶっ掛けられたり何度もコケたりする嫁など自分の恥にしかならないと考えるだろう。そんな女を側に置くか?
まあ、他人から見ればそんな月夜はスゴイって思う。
だが、今の置かれた俺の状況が状況だ。
よりにもよって、なぜ、こんな面倒くさいことになるんだろう。
「花音?」
503号室の玄関で立ち尽くしている俺の、偽りの名を月夜が呼んだ。
今日の彼の服装は、初めて会った時に着ていた袴姿ではなく、男だった頃の俺と同じようなラフな、トレーナーにジーンズという簡単な服装。
それなのに、月夜は何を着ていても威厳と儚さがある。
儚いと思うのは、蜂蜜色の長い髪と象牙色の肌の所為だろう。
威厳があるのは……やはり、華道家の次期当主という名を背負っているからかもしれない。
対する俺の格好は――見下ろしたくない。……白のブラウスは……いいんだ。
だが……よりによって、何で首元にひらひらリボン? ジーンズ……にもスパンコールあるし……何で花音はこんな服しか持ってないわけ?
……ああああああ、頭が痛い!! 今の自分を考えたくないし、目に入れたくない!!
しかも、こんな姿をしていても、道行く人は何も思わない。 熱のこもった視線を向けられるだけだ。
異性からも……同姓からも……。
ああ、早く男に戻りたい。
「中に入ろう。ここにいると冷えてしまうよ?」
そう言って、月夜は俺の背中に手を添えて促してくれる。俺を女性として扱う月夜。
不快だと思っていいはずのその手を……なぜか振り払えない自分がいた。
厳重なセキュリティーシステムに守られた部屋は3LDKで、5階とはいえ外を眺める景色はとても綺麗だった。
10畳はあるだろうフローリングの部屋にある大きな窓。そこから見える朱に染まった夕焼けはとても神秘的だ。
「疲れたね」
これからここに住むにあたり、家から持ってきた服やら何やらが入った重い、大きな旅行用カバンを俺の変わりに持っていた月夜は、ゆっくり床へと下ろした。
荷物なら持つと言ったのに、女の子に持たせることはできないと首を振られた。
女じゃないのに……とも思いながらも言えない俺は、月夜の好意を素直に受け取った。
「部屋はここと、キッチンと繋がったここと同じ造りの部屋があるんだけど……。問題は寝室だ」
珍しく、月夜は顔を曇らせ、開いた口を閉ざした。
とても言いにくそうにしている。
「…………寝室?」
俺は月夜の言葉を反芻し、隣の部屋へと移動した。
俺の後ろから月夜がついてくる。
引き戸を開けて中へと入ると、大きな二人用のベッドがひとつ、あるだけだった。
ふたり仲良くここで寝ろということなのだろうか……。
たしか月夜の父親、嘉門さんは間違いがないよう見守るつもりだとか言ってなかったか?
だったら、この場面はあまりにもおかしい。
まるで、俺と月夜の間に間違いがあってほしいと思っているようではないだろうか?
「…………」
意味がわからず、俺は無言のまま、ただ、広すぎるダブルベッドを見つめていた。
すると、月夜の穏やかな声が聞こえた。
「俺はソファーで寝るから、花音はここを使って」
「え?」
俺は月夜の表情を覗き込んだ。
月夜は眉根を寄せ、口角をあげている。つまり苦笑していた。
「いや、いいよ。お……じゃなかった。わたしがソファーで寝るから」
一人称を危うく『俺』と言いかけ、急いで『わたし』へと言い直すのを第三者から見れば、かなり滑稽に思えてくる。
違和感、感じられたかな?
なんて思って、月夜を見れば……特に気にするでもないようだった。
どうやら詰まった言葉よりも話の内容が気にかかったらしい。
「いや、ソファーで君を寝かせるわけにはいかない」
月夜は首を振った。
「わたしなら平気だ。いつもこんな感じで寝てるし……」
これは嘘じゃない。本当のことだ。
――俺の部屋にはテレビがない。だから、いつも居間でテレビを見ているんだ。
気がつけば、ソファーで一夜を過ごすことはしばし。
それに月夜をソファーで寝かすとか、ダメだろう。
だって、そもそも、ここは月夜の家のものだ。もし風邪とかひかれたら、それこそ父親の嘉門さんに何を言われるかわかったもんじゃない。
俺も首を振った。
だが、月夜は難しい顔をしたままだ……。
「じゃあ、ふたりで一緒に寝ればいいじゃん」
俺は男だし、いざとなったら月夜をぶっ飛ばして逃げる自信はある。
だけど、そのことは言えないな……。言えば、花音を出せとか、裏切り者とか……侮辱罪とかで訴えられるかもしれないし……。
月夜はそんなことはしないと思うけど……月夜の父親、嘉門さんがな……なんか言いそう。
それに何より、祖父さんの遺書もあるし……。
…………ややっこしい。
俺がこうやって考えて沈黙している間も、月夜は一向に返事をしない。意見を曲げる気はないってことだ。
見かけとは違って、案外頑固なんだ……。
月夜の新しい一面を発見した。
いや、だからって……どうということはないんだが……。
なんというか、新鮮な感じがする。
そう思うと、思わず微笑んでしまっていたらしい。
「何がおかしいの?」
彼は眉間にしわを寄せて困っている。
「あ、いや……なんていうか……かわいいなって思ったんだ」
「かわいい?」
俺の言葉に、ますます眉間にしわが刻まれる。
「あ……いや、なんていうかさ……月夜って、何があっても動じないじゃん?
いつも大人びて見えてさ、だけど……頑固なとこもあったんだと思ったら……自分と同じ人間なんだと思ったら嬉くて……」
俺、何言ってるんだろう。
そう思うけど、口が勝手に言葉をはじき出していく。
「俺だって普通の人間だし……別に動じないということはないと思う。もし、そう見えるのなら、それは俺より花音の方がせわしないからというだけだと思うよ?」
「……悪かったな。せわしなくて……。……どうせそうだよ。長時間慣れない正座で足がつるとか、池に落ちることも一般人にはないだろうな」
ああ、ないだろうな。アレは俺も前代未聞だったから。
何でだ? 月夜の側にいると、俺は普段やらかさない失敗をやってのける。
――友達とかでは『いつもクール』で通っていたのに……。
ベッドの件も忘れてそっぽを向く俺。
だって腹立つだろう? 『せわしない』とか言われてさ。いや……本当のことだけど……。
だからって、ここでそんなこと言うのって……月夜って、ちょっと意地が悪いんじゃないか?
「ごめん、ごめん。俺が言いたかったことは、『花音がせわしない』ということじゃなくってね、俺の方が君のことを新鮮だと思ったんだ。つまり……だから……何でも自然に振舞えるってことがいいなって……言いたかっただけなんだ」
ズキン。
胸が痛んだのは、月夜の家庭での暮らしを考えてしまったからだ。
……………月夜……。
そっか……嘉門さんか…………。
『転入許可はすでに取ってある』
有無を言わさない言葉を放ち……。
『いかがかな?』
まるで選択権があるようにみせる言葉。
だけど、それは相手をうなずかせるための嘉門さんの言葉という鎖。
うなずけば、自分から言い出したことだからと……自分の意見に責任を持たせるための。反感をなくすための言葉――――。
許婚として料亭で対面したあの日、嘉門さんが見せたあの態度……。いつもあんな感じなのだろう。
華道としてのレールを幼い頃から敷かれて生きてきたんだ。
だから月夜は、自分を素直に表現するってことが難しいんだろうな……。
そんなことも気づかず、月夜に八つ当たりしてしまった。
あー、だから俺はいつも人のことを気にしなさ過ぎるとか言われるんだよな……。
「…………ごめん」
「え?」
罪悪感にさいなまれ、そっぽを向いたまま小さな声で謝る俺。
「気づかないで……ごめん」
他人が何に傷つくとか考えて物を言ってなかった。
「花音……やはり、かわいいね」
『かわいい』
それは何度目だろう。初対面からずっと言われている言葉。なのに、今までの『かわいい』とは違うものに聞こえた。
違う『何か』ってなんだろう。わからない。
わからないけど顔が……身体が……熱い。体中がまるで、熱をもったようだ。
「花音?」
いつまでも無言だった俺が何を思っているのか知りたかったのか、月夜は俺の両肩を掴んだ。
向かい合った身体。だが、俺は俯いたままだ――――。
「花音?」
俺の俯く顔を見ようと、月夜は顔を傾けてくる。
――だめだ。
見るな……今の俺、すごく変な顔してる。
そう思っても、両肩をとらえられているため、抵抗できない。
「……やはり……俺がソファーで眠ろう」
月夜の声が沈黙をさえぎった。
「……っつ!! なんでそうなるんだよ?」
月夜に反発するため、視線をあげて彼の顔を眼に映す。
「うん? 花音がかわいいから。襲ってしまわないようにしなくちゃね」
にこり。
とても優しい笑顔を向けて、彼は笑った。
月夜の言葉は不自然なもので、俺は男だから大人しく月夜に襲われることなんてない。危なくなったら逃げれると、そう反論したいのに、あまりにも優しい表情だったから何も言えなくなってしまった。
それを肯定だと受け取った月夜は俺の両肩から手をはずし、「今日のご飯、店屋物でもいい?」そう言って壁にかけてあった電話帳を手に取った。