■大嫌いは大好きの裏返し■
『月夜と二度と会えなくなる』
そう思っただけで俺の胸が締めつけられる。
瞼が熱くなり、なだらかな坂道がぼやけてくる。
俺は苦しい想いをひたすら胸に秘めたまま、高級マンションへと足を進ませた。
……月夜とは、色々あったな……。
今から思えば、もうはじめて会った時から月夜に惚れていたんだろう。
だって、彼を目にした時の印象が、綺麗しか浮かばなかったんだから……。
料亭でふたりきりになって、正座で足が痺れて……笑われて――池にハマって……水ぶっかけて――。
当時は恥ずかしいばかりだったが、いい思い出なった。
あと、男子に強姦されそうになったっけ。
……助けてもらって……。
あの時、月夜が俺の王子様に見えたんだよな……。
そして――。
俺は月夜が好きだと自覚した……。
何度も何度もキスをして。
はじめてのデートはなくなってしまったけど、彼の仕事をする姿に惚れ直して……。
俺から、はじめてキスしたんだ。
藤堂 美影に俺の正体を告げられた時は焦ったな……。
だが、月夜はそれさえも知っていて……ずっと『亜瑠兎』としての俺を見つめていてくれたんだ。
月夜……。
俺から離れたあなたは、きっと藤堂 美影と将来を共にし、愛を育んでいくだろう。
だって、美人な彼女はとても一途だから――。
はじめはどうであれ、あなたは彼女の一途な気持ちに惹かれていくだろうから――。
だが……俺は、あなた以外に恋する術を知らない。
もう、二度と会うことはないけれど、 それでもあなたをひっそりと想うことだけは許されますか?
――月夜の実家からいろんなことを思い返しながら歩いたら、気がつけばエレベーターの中に乗っていたらしい。目的の場所だと知らせる高い機械音とともに目の前のドアが開いた。
狭い箱の中から視野が広がるその先には月夜のいる部屋がある。
――これで、もうお別れなんだ。
そう思えば、泣くまいと必死に噛みしめていた唇がへの字に曲がっていく。
俺は頬を軽く叩いて、503号室のドアを開けた。
小ざっぱりとした玄関に、ドアが開く乾いた音を耳の端に入れながら、靴を脱いで真っ直ぐ足を運ぶ。
「あ、おかえり亜瑠兎。どこに行っていたの?」
月夜がキッチンからしゃもじを持って顔を覗かせた。
どうやら彼は食事の用意をしていたらしい。
「あ、ちょっとゴミ捨てに……」
えらく長い間ゴミ捨てに行ってたな……などと自分に突っ込みを入れつつも、俺がいつベッドから抜け出したか知らないかもしれない月夜は、おかしいとは思わないかもしれない。
まさか嘉門さんと会ってきたなどとは、いきなり言えない臆病者の俺は口ごもり、適当な嘘をついてしまった。
言わなければならないのにな。
今、隠したって仕方のないことなのに……。
俺は相変わらず往生際が悪い。
「――そう。君のことだから、まだご飯食べてないんだろう? 今支度するから少し待っていて」
そう言うと、月夜はキッチンへと顔を引っ込めてしまった。
……よかった。
変に思われなかった。
これではいけないのに、気づかれなくてよかったと思わず肩を撫で下ろしてしまう。
なんで……どうして、いつもこうなんだろう。
月夜とはさよならをしなければならないっていうのに、月夜の顔を……声を聞くだけで言葉を紡げない。
だが、これではダメなんだ。
俺は自分が見ている景色を一切遮断し、自分に言い聞かせるとふたたび目をあけた。
重たい足を持ち上げ、目指す先は月夜がいるキッチンだ。
ドアを開ければ、彼はご飯を茶碗に盛っている真っ最中だった。
料理をしていたこともあってか、キッチンに広がっていたあたたかい熱気が悲しみで冷きっている俺の身体を包み込む。
だが、このあたたかい雰囲気さえも今の俺にとっては邪魔以外の何者でもない。
この空気が今は鬱陶しい。
月夜と離れたくないという気持ちに拍車をかけてくる。
「月夜」
背を向けている月夜にかけた声は震えてしまった。
しっかりしろ、俺。月夜と別れるって決めたじゃないか。
今さら、もう後戻りなんてできないんだよ。
ギュッ。
自分に言い聞かせ、両脇にぶら下がっている手を力いっぱい握り締める。
「ん?」
「……俺……嘉門さんと会ってきた……」
ガタン。
俺がそう言った瞬間、月夜は手にしていた茶碗をテーブルへと勢いよく置いた。
「俺と別れてくれ」
部屋中に響き渡る虚しい俺の声が、なぜか他人が発する言葉のように感じた。
テーブルを挟んで向かい合う月夜と俺の間には沈黙しかない。
常に優しい穏やかな笑みを向けていた彼の表情は……鋭い眼光を放っていた。
……まるで、俺が何を言おうとしているのかをわかっているようだ。
唾を飲み込みそうになる喉を必死に押しとどめ、なんでもない風を装って俺は口をひらいた。
「俺、嘉門さんから金をもらったんだ」
ひとこと、言葉を告げるたび、俺の口の中は唾液がなくなり、カラカラに乾いていく……。
「そもそも、月夜と許婚になることを嫌がった花音と変わった理由はロレックスの時計が欲しかったからなんだ。でもその金、さっき嘉門さんを強請って手に入れた。『あんたの息子に抱かれた。スキャンダルになるのが嫌なら、金をよこせ』って――。そしたら嘉門さんはしぶしぶ俺に金を渡したよ。あの人、相当家が大切なんだな~。お前もお前の家族も大変だよな。俺みたいな奴につけこまれたんだからさ。――俺の目的はもう終わった。お前と顔を合わす必要が俺にはない」
こんな言葉、言いたくない。
苦しい。
悲しい。
胸が痛い。
月夜に嫌われる。
そう思っただけで、心臓がえぐられるようだ。
……月夜から視線を外したい。
だが、そんなことをすれば俺が話したことが嘘だということがバレてしまう。
そうすれば、優しい月夜は俺から離れてくれないだろう。それでは月夜の……将来がダメになる。
だから、どんなに胸が苦しくても、張り裂けそうに痛くても月夜から視線を外しちゃいけない。
「亜……」
「あーよかった。助かったよ。もう月夜が好きだという面倒くさい演技はしなくていいんだからな」
月夜の言葉を奪って、俺はかまわず背伸びをして言葉を続けた。
「演技……。では、俺を好きだと言ったことも、抱かれたこともすべて演技だと?」
冷たい月夜の声が俺の心臓をえぐる。
――ちがう。
抱かれたのも月夜が好きだからだ。
「ああ、そうだ。お前と好きなふりをするだけで金がたんまりもらえるんだ。こんなワリのいいことってないよな」
――ちがう。
月夜を好きだと言ったことも、ぜんぶあなたが好きだからだ。
金の為とか、時計の為ではけっしてない。
……違う。
だが、それは言えない。言ってはいけない。
「あ~、スッキリした~。これで恋人ごっこから抜け出せるし、お前と別れられる。うんざりなんだよ、お前みたいなお人よし」
「亜瑠兎!!」
「っつ!!」
これでやっと月夜から視線を外せる。
そう思って背中を向けようとした着後、月夜の腕が俺の両肩を掴んだ。
掴まれた両の肩から月夜を傷つけたという心の痛みが伝わってくる。
「本気で言ってるのか? 俺に抱かれたのも、愛を告げたのも、すべて金のためだと……? 父さんを脅すためのものだと……そう言うのか? 君は……金さえ渡せば、俺でなくとも抱かれたと……そう言うのか?」
月夜は信じられないと言わんばかりに俺の両肩を掴んだまま大きく揺らしてきた。
――やめて。
そんなこと言わないで。
……ちがうに決まっている。
月夜だから『好き』と言ったし、月夜だから抱かれた。
ぜんぶ……ぜんぶ月夜だから……。
「ああ、そうさ。金さえくれれば誰とだって出来るんだよ。目的のものはいただいたし……もうお前に用はない」
――お願い。
もう放して……。
さようならと……幻滅したと……そう言って。
そうしたら、俺は家に帰っておもいきり泣けるから。
「俺は許可していないが?」
いたたまれなくなった俺は、月夜からとうとう視線を逸らしてしまった。そんな俺の頭上から、月夜の声が響いた。
それはとても冷たく、苦しい気持ちにさせる声だった。
「なにを言っ……!? っん!!」
月夜の声に顔をあげれば、すぐに唇は塞がれてしまった。
月夜?
目を大きくこじ開けて、月夜を見つめる。
その間にも、キスは深くなっていく――――――。
月夜のキスはいつだってあたたかいものだった。
だが、今のキスは、とても苦しい。
みぞおちが……あつくなる。
「んっ!!」
やめて!!
これから別れるのに、こんなキスはしないで。
そう言いたいのに、深い口づけの所為で言葉が出せない。
身体からは力が抜けていってしまう。
ガクン。
俺の膝がとうとう折れた。
月夜が俺の腰を掴んでいなければ、今頃冷たい床へと身体を打ち付けていたことだろう。
「……本当のことを言ってくれるまで、俺は君を放す気はない」
「これが……本当だと言ってる……」
やっと離れた口から、月夜の言葉が発せられる。
俺も反論するが、いかんせん月夜とのキスで神経がおかしくなってしまっていた。
声が震え、うまく呂律がまわらない。
だから、せめて表情だけは怒ったふうを装わなければ……。そう思って月夜を睨みつけた。
それなのに――なぜだ?
なぜ、月夜の顔は眉根を寄せて心配するように俺を見つめる?
おかげでそれ以上のひどいことを言わなきゃいけなくなる。
好きなのに――どうして……どうしてこれ以上のことまで言わなければいけないんだろう。
月夜はひどい。
俺は月夜と早くさよならをしたいのに……。
もっとひどい言葉を言わせようとするなんて、ひどい。
ひどい。
月夜は残酷だ。
「………………いだ」
そして、俺は……一番言いたくない言葉を口にするんだ……。
「月夜なんて大嫌いだ! いつだって、どこにいたって大嫌いだ!!」
……言いたくなかったこんな言葉……。
……本当はあなたのことが好きなのに……。
「……はじめから気に入らなかった」
一目惚れだった。すべてを包み込むような茶色い澄んだ瞳に、気がつけば惹かれていた。
「俺より背が高くて、同い年なのに何もできないものはないっていうくらい何でもできて!! お前の隣にいると、俺が無力な人間だと思い知らされる」
月夜といると、俺も頑張らなくちゃと思えてくる。
いつも背筋を伸ばして歩いているあなたを見ていると、たまにはゆっくりしてほしいと思った。
俺が安らぎの場所になって……支えになりたいと願った。
「月夜なんて……だいっきらいだ!!」
――好きだよ。
大好き。
たとえ、あなたの傍にいれなくても。
あなたを……ずっと想っています。
幸せでいてくれるようにと願っています。
俺は肩を上下させて大きな声で、月夜を拒絶する言葉を吐いた。
――これで終わる。
月夜は俺を嫌いになる。
苦しいけど……悲しいけど…………それでもいい。
あなたが、幸せになってくれるのなら……。
笑っていてくれるのなら、それでいい。
――いいんだ。
そっと目を瞑る俺は絶望し、うつむいた。
「だったら……。なぜ泣く必要がある?」
絶望的になっている俺の頭上から、月夜のおかしな言葉が聞こえた。
……泣く?
月夜は何を言ってるんだ?
俺はふたたび下を向けていた顔を上げる。
いまや悲しみに歪んだ月夜の瞳が目の前にあった。
彼の瞳の奥に映っている自分の顔を見つめれば、月夜と同じような表情をした俺の顔があったことに気がついた。
そして……。
頬をさわれば、濡れていた。
涙が……流れていたんだ。
「ねぇ、亜瑠兎。一緒にいる期間は短かったけど、俺はいつだって君を見てきたつもりだよ。君がそんなことを思うはずがないだろう? そんな顔をする君を放っておけることができるはずないだろう? 愛しているよ、亜瑠兎」
「つき……や?」
ダメなのに……。
月夜から離れなくちゃダメなのに……。
俺と一緒にいれば、月夜は幸せになれないのに……。
「ダメだ。それじゃ、ダメなんだ!! 月夜には跡継ぎがいる。葉桜という家がある……俺といちゃ、ダメなんだ!!」
俺は、腕を伸ばして月夜の両腕にしがみついた。
傍にいたいと願う行動と、離れなければならないという言葉が伴っていない。
「君の事だ、たぶんねそういうことだと思っていたよ。このことは俺から父さんに言うから君は何も心配しなくてもいい。俺はね、亜瑠兎が俺から離れることの方がずっと苦しいことなんだよ」
……月夜。
――違う。
俺の方が月夜よりもずっとずっと……あなたから離れたら苦しいんだ。
月夜――。
側にいたい。
許されるなら、あなたの傍に……ずっと……。
「すき……すごくすき。大嫌いなんて嘘なんだ!! 俺は……俺はっ!!」
「うん、知ってる」
月夜のクスリと笑う息が、俺の髪を揺らす……。
「昨日の晩から君の様子がおかしいことは知っていたんだ。だいたい、恥ずかしがり屋の君が縋ってくるはずがない。まぁ、何度も泣きながら俺を欲しがる君はとてもかわいかったけれど……」
「……っ!!」
なんで今そんなことを言うの!?
いまだ引かない涙を流しながら月夜を見れば、月夜は微笑み、優しいキスを落としてくれた。
その日、俺は月夜の胸の中で彼を想い、ずっと泣いていた。
月夜に頭を撫でてもらいながら……。




