納得できない従者
三島、あなたはずるい。
境は、自分の従者である男に、何度そうぼやいたかわからない。御櫛神社の神主として、三島のよき主人として、常に振る舞ってきた。神主という職種上、任期中は年をとらないとはいえ、境はそれでも人並み以上に背丈が小さかった。だから誰よりも大人びて見えるように、常日頃から礼儀正しさを忘れないし、感情を表に出して公私混同することもない。仕事でのトラブルも、あくまで冷静に、私情をはさむことなく乗り越えてきた。あの雅でさえ自分を認めてくれたほどである、自分が神主として場違いなどではないと、誇りを持って言える。
それなのに、三島ときたら、主人である境に何も相談しないのだ。仕事での相談ごとはいつでも言うのに、三島本人の悩みや困難を、主人に打ち明けてくれない。三島を境の従者として任命してから、それなりの年月は経つのに、その中で一度も三島は自分に三島のことを話したことはなかった。あまり、触れて欲しくないのだろう。境もまた、そのことをむやみに探ってはいけないことも分かっている。
しかし、せめて何か、例えば季節なら春がいいとか夏が嫌いとか、花は水仙がいいとか橘がいいとか、そういう好みの話くらいなら、共に話し合ったって問題ないだろうに。三島はそういう話もしたことがない。一緒に、月を眺めながら酒を飲むことはあるのに、そこで月が綺麗だなあとか月にかんする逸話をいろいろと教えてくれることはあるのに、その話の中に三島が関わるようなものは、ないのだ。
そこまでして、三島は自分を隠したい理由は、何?
「境か?」
八剣神社の神主、嵐は笑顔で振り向いた。鳥居の前に控えていた嵐の従者である那多に主人の居場所を聞いたら、朝っぱらからずっと道場で素振りしていると聞いてその通り道場に赴いたら、本当にそうだった。いつもの神主装束ではなく道場の練習着を着て、竹刀を一心に、規則正しく振り下ろしては繰り返す。戦闘に関することだけにはとてつもない集中力を発揮する嵐は、背後をとらせないことで有名だった。少し足音を響かせてしまったとはいえ、嵐と自分の距離は充分あった。しかし、足音ひとつで嵐は境の存在を関知した。幼少時、多少付き合いのあった境は嵐のそういった才能に気づいていたが、今となってもやっぱり恐ろしくも感心する。
「お久しぶりです、嵐。お元気でしたか」
「おー。風邪なんて無縁だよ、俺には」
嵐は竹刀を片づけ、床に落ちていた手拭いで無造作に汗を拭う。
「ああ、悪いな。せっかく来てくれたのにこんなんで。ちょっと待ってろ。今、お茶でも出すから。おーい、那多あ!」
「お気遣いなく。僕の方が押しかけてしまったんですから」
「そうかあ? いや、本当に悪いな。すぐに着替えて来るから、客殿のとこで待っててくれ。そこに食い物とか運ばせる」
そう言うと嵐は急いで道場を出て行った。どうすればいいか少しの間迷っていたが、いつの間にか道場の前に控えていた那多の案内によって、無事客殿へ通された。
客殿に、那多がすぐにお茶と菓子を持ってきてくれた。その直後、嵐が戻って来た。充分に体に滴る水を拭い切れていない。髪先からぽたりぽたりと滴が落ちる。装束もきちんと着ていない。那多はそれを確認すると、明らかに嫌そうな顔をした。
「旦那様。古くからの友人、同じ神主としての仲間とはいえ、大事なお客様です。その前で、なんて失礼な」
「いいじゃねえか、長い時間待たせるよりはさ。これでも気をつけたんだぞ」
「あなたにとってはそうでも、従者からすれば赤点です。先日、雅様がここへ来られた時も同じ言い訳をしていたでしょう」
「あ、あのう。僕なら大丈夫ですので、那多さん、お気になさらず」
境はおずおずと仲介に入った。那多は本当に申し訳なく思っているらしく、深々と頭を下げる。その申し訳なさを作った張本人は、気にもとめず茶菓子にありついていた。
「僕はこれで失礼します。何かありましたら、いつでもお呼び下さい」
お返しと言わんばかりに、那多は嵐をきつく睨んで、客殿を去る。
茶菓子のほとんどは、嵐の腹の中に消える。境は熱い茶をちびちびと飲んでいた。
「……で? 三島と何かあったのか? 喧嘩でもしたか?」
訪問した理由を、まだ一言も話していないのに、嵐は核心を突いた。境の持っていた茶碗が、少しだけ揺れる。
「なぜ三島に関わると分かったのですか」
「お前が俺に泣き言言いに来るのはいつも三島のことだからな」
「泣き言じゃありません!」
境はむきになって言い返す。
「文句言いに来るのは仕事のときだけだけど」
「その文句を言いに来たとは考えなかったのですか」
「あー、まあ……なんとなく?」
境はため息をつく。この男は鋭いんだか鈍いんだか。
「嵐の仰せの通り、三島のことでちょっと相談に来たんです」
ほらな、と嵐は言いつつ茶を飲み干した。
「で、どうしたよ? 喧嘩でもしたのか? だったら連れてけ。俺も混ざって騒ぎたい」
「残念ながら喧嘩ではありません。喧嘩にしても殴り合いはしません」
「ちぇ。喧嘩でないとしたら何だあ? お前と三島って、そもそも喧嘩なんてしそうもないよなあ。何事も円満な感じ」
「そんなんじゃないですよ。喧嘩は、しませんが……代わりにそれほどの信頼関係があるわけでもないです」
「へえ?」
嵐は茶菓子をつつく手を止める。昔からの友達は、そのことで悩んでいるようだった。
「まあ、何があったか、俺に話してみな」
境はぬるくなった茶を飲み干した。
「嵐は、那多さんとどんなお話をしますか?」
「那多と? そうだな、いつも小言ばっかだな。あいつ、小さなことでいちいちうるさいのなんの。あ、でも俺が何か言ったらちゃんと意見は言うな。あいつのおかげで頭に血が上っても最悪の事態は起こらないし、結構頼りになる」
「そうですか。それはうらやましい」
「うらやましいって、そんなの普通だろ。他の神主にも聞いてみろよ。傍若無人に見える雅だって、十重のことを大切に思ってるって絶対言うよ。守だって十塚のことはかけがえのない従者だって思ってるよ。口に出して言わないけど」
「僕は、その普通じゃないんです」
「へ。なぜに?」
境は空になった茶碗に茶を注いだ。
「三島、何も言ってくれません。悩んでることがあっても、一番近しい僕には一言も話しません。仕事がない日は、いつも神社を離れています。掃除とか従者の仕事は全部終わらせてどこかへ行ってしまうんです」
嵐は茶化すことをやめる。口を挟まず、最後まで聞こうと決めた。
「多分、三島には三島の考えがあるんでしょう。三島にとってはとても重いことで、簡単に人に話せるような類のものではないのかも知れません。だけど、それにしたって……」
境は唾を飲み込む。
「それにしたって、三島が遠いんです。僕にとって、三島は大切な従者です。神主として、そんな従者を守りたいし、頼りになるよう僕なりの努力は尽くしてきたつもりです。でもだめなんです。僕は神主になれても、三島の主人にはなれないんです。信頼してないから。三島に、信頼されていないから」
考え過ぎか、とも思っていたが、嵐は口をつぐんだ。三島とは何度か会って会話するが、よく思い出してみれば、彼は自分のことは何も話さなかった気がする。自分は従者ではないから、三島の気持ちなんて分からない。那多なら共感できるかも知れないが、自分は那多でもないから分からない。ただでさえ、難しいことを考えるのに向いていない頭なのに。
「三島には、三島の考えがある。でもそれは境が嫌いってことじゃないから大丈夫だよ」
嵐は、境の頭をわしわしと撫でた。昔から、こいつは些細なことで泣き言を言ったり悩んでいた。それをなだめたり慰めたりする時は、昔からこういうやり方を選んでいた。
「お前、三島が嫌いか?」
「とんでもない。嫌いだったら、従者に選びません」
「だろ? それに従者ってのは、神主の任命と従者に選ばれたモンの承諾がなきゃなれないんだ。三島が境の従者ってのが、もうすでに答えになってるんだと思うぞ」
境は黙って頭を撫でられた。
御櫛神社に戻って来た時には、もう日が沈む直前だった。紅に染まった太陽が、境を照らした。
「おかえり、境」
「ただいま、戻りました。三島」
三島は、嵐より少し低くはあるが、境よりはずっと長身の男だった。のんびりと境内の掃除をしているようで、境に一声かけてすぐに箒を動かし始めた。
「三島」
「なに?」
よく分からない従者は、穏やかに言葉を返した。
「僕は、三島にとって信頼するに足りませんか」
「そうでもない。信頼してるよ」
いきなりどうしたとも聞き返さず、三島はあっさりと答えた。掃除していた手は止まり、境を見下ろす彼の目に、嘘はみじんも感じられない。境の直感でしかないが、嘘はついていないのだろう。
そんな態度をとられては、納得するしかなかった。
「ヘンなこと聞いてすみません。仕事に戻って結構です」
「うん」
境は、社務所に向かった。
社務所で、境は仕事をするでもなく丸くうずくまっていた。
自分にとって欲しかった言葉は、三島から得られた。嘘ではないことも直感であれ分かった。
だけど、納得いかない。納得するしかないのに、腑に落ちなかった。
「三島、やっぱりあなたはずるい」
境は、そうぼやいた。
急に思いついてしまったお話です。信頼とはどういうものか、というのをテーマに書きました。何でも話せる人、また逆に、何も言わなくても分かってくれる人、どっちも信頼できる人なんじゃないかと思います。