日は、また昇る。
最後の便が発ったあの時、空は凪いでいた。
別れの言葉を交わす勇気もないまま、小さくなっていくその姿をただ見つめていた。
あっという間にもう霞んで、船は去った。太陽が翳った。
未練だろうか。後悔だろうか。
あの時の光景は、何年経っても消えずに、靄のように漂っている。
不意に寒さを感じた。
ぶるっと身体を震わせながら目を開く。
空へとそそり立つような円錐形の、見慣れない天井が見える。
ここはどこだろう。
目をしばたたいていると、次第に思い出してきた。
心が軋む音に耳を塞ぎながら、仕事に忙殺されていた日々。
ある朝、ベッドから起き上がれなくなった時の虚ろな感情。
上司にため息をつきながら休職を言い渡されたこと。
何もないところに行きたい。
そう思って、重たい体を引きずり、山梨の山中、本栖湖のキャンプ場までやってきたこと。
体を起こして、テントの外へ這い出した。
夜の間にだいぶ冷えたのか、地面にまばらに生える雑草が露に濡れていた。
目線を上げると、生命のしわぶき一つ感じさせない静止した水面が見えた。
夜が明ける間際なのだろうか。湖の対岸は薄明に覆われている。
湖畔はしんと静まり返っていた。耳を澄ませても、鳥の声ひとつ聞こえてこない。
僕は一度テントの中へ引き返し、折り畳み式のコンパクトチェアを運び出してきた。
地面が平らになっている場所を見つけ、椅子を広げて腰を下ろす。
背もたれに体を預けると、静寂の中で、僕はゆっくりと深呼吸をした。
冷涼な空気が体の奥深くまで浸透してくる。
木々の呼吸から生まれたような空気の清新な味わいに、体を形作る細胞が一つひとつ目を覚ましていくような感覚を覚える。
その時、一陣の風が湖畔を吹き抜けていった。
湖の表面が、風にそっと撫でられて揺れている。
静けさの中に生まれた一瞬のゆらぎ。
そんな風に揺蕩う水面に、僕の視線は吸い寄せられていた。
僕の人生は、いつも揺蕩うようにゆらゆらと揺れ動いていた。
あの日の空のような凪でもなく、ドラマチックな波乱万丈の強風に煽られるでもなく。
決して道を外れるわけではない。けれど、何をしていてもそれが正しい道だとも思えない。自分ではない何かを、ずっと演じているような人生。
だから、あの人も去っていったのだろうか。
今でも時々夢に見る、あの日の光景。
凪いだ空、翳る太陽。古いタペストリーの様に絡み合い、色褪せていく。
人生に明確な道筋を持っている人など、一体どれくらいいるのか。
燦燦と輝く太陽の下を迷いなく歩いていく人は。
先ほどの風など嘘のように再び静謐さを湛えた水面を眺めながら、僕はそんなことを考えた。
僕は違う。
情熱を傾けられるような目標、人生を懸けられるような夢、そういったもののない人生。周囲に流されるままに勉強をし、進学をし、就職をして今まで生きてきた。
太陽が顔を出しても、その眩しさに目を細めてしまうような人生。
人生を一日に例える話がある。
それで言ったら、そろそろ真昼に差し掛かろうかというところ。
それなのに、一向に太陽の眩しさに慣れることはない。
慣れないまま、やがて沈んでいってしまうのだろうか。
たゆたえども沈まず。
とてもそのような格好いい表現には似つかわしくない、ただ揺蕩っていたら沈まなかっただけの人生だ。
いや、それが今まさに沈もうとしているのかも知れないが。
そんなことを思っていると、近くで「チュンチュン」という鳴き声が聞こえた。
辺りを見回すと、テントの陰に一羽の雀がいた。
その雀がひょこひょこと跳ねながらこちらへ近づいてくる。
こんな自然の中で暮らしているのに、人に慣れているのだろうか。
僕のすぐそばまでやってくると、つぶらな瞳でこちらを見上げるように首を傾げた。
「チチチ」「ピヨピヨ」と、まるで僕に話しかけるかのように何度か鳴く。
僕のことをまるで警戒していないように思える雀のふるまい。
「お前は毎日楽しいかい?」
気が付いたら、そんな言葉が口からこぼれ落ちていた。
僕の言葉を理解したわけでもないだろうが、雀がまたひょこっと跳ねて「ピヨピヨ」と鳴く。
その顔は、なんだか嬉しそうだ。
そう思った瞬間、雀の小さな丸い瞳がきらりと輝いた。
つられて顔を上げると、遠く湖の向こう、つい数分前まで薄明に沈んでいた山際から曙光が差してきていた。
その眩しさに、僕は思わず目を細めた。
先ほど考えていた「太陽の眩しさに目を細めてしまうような人生」のことを思い出し、ふと笑いがこぼれる。
でも。それでも、いい。
太陽の光はこんなにも綺麗なのだ。
この美しい光に目を細め、その眩しさをしっかりと見つめながら生きていこう。
今ならそう思えるほど、目の前に広がる景色は美しかった。
朝がやってくる。そんな気配が、僕を包み込んでいた。




