別れの予感
―お赤飯かい?
―ええ、お赤飯です
―僕は、お稲荷さんのほうが好きでねえ
―ダメですよ、あげませんよ
―何も言ってはいないが
―でも思ったでしょ?
―まあ、そうだねえ
―ほらやっぱり
隣の席でくり広げられる高齢カップルの会話。仲睦まじそうに見えて、そのねっとりとした会話が道ならぬ恋を思わせた。自分の想像ながら、やけに気持ちが悪くなって吐き出しそうになる。ここふつか、おかしは少しだけで白米を食べずにパンとパスタ。それでも白米を食べたくならないことに疑問もない。もう、お別れしたいのかもしれない。アイツに対する気持ちと同じみたいに。
目的地はホテルではないのだけど少しでもリッチな気分をとアイツとの待ち合わせはいつもホテルのロビーだ。そろそろ向かわないとかな。気色の悪い空間を離脱する。目にできない世界は果てしなく広いのに、私が体験できる現実の世界はねこの額くらい。ニセモノみたいに味気ないその狭さに、でも私はひどく満足している。無粋なトンネルにその先を闇に閉ざされたとしても、特に何を思うこともない。要するに無頓着なんだ。
昼と夜の狭間に建つホテルは、近未来的な様相でも、庶民的なのでもなく、ただただ無機質に下世話だ。平衡感覚が甘く、そのことに痺れるとしても、高揚感はない。
どれくらい待ったのか。とにかくアイツは来なかった。ふうん、としか思わない自分に情けなくなる。いまの自分にはそれくらいなのかなと思う。もっと何か思ったらと思う。何も思わなくていいんだと思う。
家路を、前を歩く人の影が、その主よりも数歩、後ろに甘んじている。実に慎ましい。なんとも出来のいい模範的な影だ。そんな悠長なこと言って感心してる場合ではないのだけど、自分の影が気になった。足元を見てみる。思わず出る舌打ちと、生理的でいちじるしい嫌悪。私の足を踏んづけちゃってさ。まったく無礼な奴。これ以上、不快な奴をへばりつかせておくわけにはいかない。即座に叩き切り、新しい影を連れてくる。路上の黒い染みからは、でも何も聞こえてこない。
家にたどり着き、ドアを閉める。靴を脱ぐ。指先がスイッチにふれるのを、いまはまだ、固く禁じる。部屋の明かりをつける前の… ほんの数秒、帰宅直後の、この濃厚な静寂を、カラダ全部で味わう。鼻から抜ける自分の呼吸の音だけが、深い暗がりに響いては、溶けていく。壁一枚を隔てた向こう側で響く、車の走るなんとも無粋な音。私を追いかけてきた卑しく低俗な現実の残り香。たまらず、心の扉を強く閉ざさずにはいられない。外の騒がしさがすべて遮断され、世界に自分ひとりだけ。残されたことを確認し、そのまま… 動かず… ただ立っている。それだけ。
暗闇に目が慣れてくるのを待ちながら、泥のように沈んでいく。そんな自分を、遠くから、ただ、眺めている。
それだけ―




