「冷泉麗華(れいぜいれいか)」
あなたは、雨の日に、野ざらしで何時間も外で雨に打たれ続けたことはある?
帰る家もない。雨から逃れられる屋根もない。服は血だらけでボロボロ。手首の傷が痛む。傷は自分でつけたんだけど。それでも私は、心の中よりかは雨の冷たさの方がずっと暖かいと思った。
この世界には、金を持っているだけの表だけの連中や、金持ちを自称する気色悪い人間共は山のようにいる。そう言う連中はどこにでも虫みたいにウヨウヨいる。生きる意味も価値もない存在。早く死んだ方が良い存在。私や私の家の周りにもウヨウヨいる。
彼らはようやく死ぬ間際に、金では自分の命を買い戻せないことに気がついて、そして惨めに死ぬ。極めて惨めに死ぬ。誰にも必要とされず、惨めさの極地で死ぬ。死ぬ間際に自分の愚かさに気がつく。それが彼らの命の本質。
私はそう言う虫共をごまんと見てきた。だから私は金では決して買えない、別のものが欲しかった。金では買えない、永遠の夢をね。
母は私にオービタルの使用を禁止する。そんな夢を見ても競争には勝てない、家を守れない、戦えないと言う。でも私は母は隠れて夢を見ていることを知っている。母は弱い人間だ。何故なら私の母だから。
私は何も気がつかない振りをして、ずっと黙っている。父や母が望むように、従順な人形として。だから私はこの家から逃げたかった。この窒息死が当たり前の家と世界から自由になりたかった。私は夢だけで満足するような半端な連中とは違った。
私は自分でもわかる、プライドがとても、恐ろしく高かった。私は今のものに満足できなかった。私は自由が欲しかった。
この日本皇国の財界、社交界、金持ち共が絶えず虫みたいにたかる世界の中で、私の家の名前を知らない人はいない。私の名前、冷泉の名前をね。
私は生まれた時からお金に困ったことは一度もなかった。値段がついているものなら何でも買える財力があった。使用人も全国に何千人もいる。家の財産がいくらなのかを数える気にもなれない。
でもお金はあるはずなのに、私は私の意思で自由に買い物をしたことが一度もなかった。とても馬鹿らしい。
労働階級者たちは、金があればと思うかしら。金を得るために、全てを犠牲にする必要があるとしても金が欲しいかしら。
私は金と格式のために、人としての全てを売り払って生きてきた。この家に愛と呼べるものは何もなかった。この家から湧き出る泉はあまりにも冷た過ぎた。私はそれに気がついた。
冷泉の一族は、いつの時代も商才があった。それが諸悪の根源だった。私の祖父、もう何代も遡った祖父は、明治維新の頃に始めた貿易、紡績業で今の巨大な経済体制、冷泉グループを基礎を作った。世界大戦が始まってからは、兵器製造の資金提供を頼まれたのをきっかけに、旧日本軍とも繋がりを持つ程になった。
でもそれさえも血統の初めではない。ずっと遙か昔、千何百年以上も昔、奈良時代頃に戻ってようやくこの家の源流が見つかる。私の一族はこの国の、皇国の、天皇家の歴史の中枢にも深く関わるような貴族一派だった。これが私の生まれた世界だった。
意外にも、いや当然の報いかも知れないけど、祖父は早死だった。祖父は使えきれない程の財産を持っていたはずなのに、病床で苦しみ続けて、呆気なく死んだ。気色の悪い虫みたいに死んだ。惨めだった。祖父だけじゃない。祖母も曽祖父も曾祖母もみな死ぬ時は惨めだった。笑えるでしょ。私はずっと笑ってた。
父も母も他の家族も、誰も身内の死を悲しんでなんていなかった。
私の父が50代目の当主になってから、ありったけの財力を動員して今まで手を出していなかった航空、エネルギー、宇宙産業にも手を出し始めた。そしてそれは不運にも、また上手くいってしまった。
この家はあまりにも発展しすぎた。家が発展すればする程、両親や兄弟、親戚同士のいざこざが増えた。身内に殺されてしまった人もいる。どの事件も金で揉み消した。報道もされていない。
私は表だけの名誉、世間体、品位、格式で自由も健康も失った。兄弟、姉妹間にもいつも敵意があった。誰が父や母のお眼鏡に適うのかを争い続けた。家族みんなで食事をした記憶も一切ない。
家が豊かになればなる程、私とこの家の人に人々の精神は死んでいった。この家に生まれてしまったがために。
私は次第に、体がおかしくなっていった。食べてもすぐに戻してしまう。夜も眠れなくなった。生理も来なくなったりと不安定になった。
私は私の体だけじゃなく、精神もおかしくなっていくのがわかった。今自分が起きているのか寝ているのかよくわからなくなった。
私は、私は人を殺したいと思うようになった。初めて自分で手首を切った時、私はまだ痛みを感じられる程度には生きていると安心できた。でもすぐにそれだけでは間に合わなくなった。
私は母親に不調を相談しても、病院にも連れて行って貰えなかった。父親は仕事で滅多に家に帰って来ない。帰ってきたとしても会えない。
母は私に、冷泉の家から精神障害者は出せないと言った。私は夜なると涙が止まらなくなった。この世界にはロボットが沢山いる。でも私はどんなロボットよりもロボット。最高に笑えるでしょ。
家のために表向きニコニコすることは簡単だった。私はいつもそうやってきた。でも私の心はもう何も笑っていなかった。私は人を殺したいと思った。ずっと我慢してきた。あの日まではね。
ある朝、私は学校にも行けなくなった。私のやりたいこと、知りたいことなんて何も学べない、ただ時間潰しと学歴を作るためだけのゴミ以下の学校。放課後は夜まで家庭教師付きの勉強と稽古。休みは家のための社交パーティー。
私はもううんざりだった。私は登校を拒否した。登校も稽古も挨拶もパーティーも全て拒否した。
私は痩せ細った体で、ありったけの力を出して屋敷中を荒らして回った。自分でも驚いた。プライドだけの祖父たちの遺影を叩き割って池に投げ捨てた。私はかつてない程最高に楽しかった。
その時は兄や姉はおらず、数人の使用人と母がいた。使用人たちはみんな驚いて、母に私にモノノ怪が憑いたと言った。すぐに母が私の所まで来た。
私は母に今までの思いの限りをぶつけた。私はこれだけのことをすれば母は私の気持ちを理解してくれると思った。でもそれは違った。母は私を愛してなどいなかった。
母は私を一生病院に閉じ込める、私の名前を冷泉の家系から消すと言った。
私は一瞬で全てがわかった。ここにいる限り殺される。戦わなければ私は殺されると言うことに。
私はこの時、全ての選択をした。
家のあちこちに飾られている刀のほとんどは模造刀だ。でも1箇所だけ、戦国時代から引き継がれている本物の刀がある。それは祖父の部屋にある。私はそれを知っていた。昔入ったから。使いたくはなかったけど。
私は祖父の部屋の扉を蹴り破って、中に入った。部屋は古いままにされているから、壊すのは簡単だった。祖父の椅子の後ろの扉、更に奥にその刀は隠されていた。
私はそれを鞘から引き抜いて外し、母の元に向かった。母は今まさに父に電話しようとしている所だった。私は母から電話を取り上げて床に叩きつけた。母は今までにない私の反抗に狼狽し、それ以上に激怒していた。
私は両手に刀を持って、母の方に先端を向けて、それを母の腰帯に刺した。先端は帯を破り、母の腹に刺さった。私はそれをするしかもう生きる道がなかった。
私は母を刺した。私は自由になれた。
母は痛がって叫んで床に倒れてうずくまった。血が流れている。すぐに使用人たちが来た。彼女たちは私と母の光景を見て、私に何度も人殺し人殺しと言った。別の使用人が警察と救急車を呼んでいるのが聞こえた。
私は確かに人殺しかも知れない。犯罪者かも知れない。でも私がそうなら、今まで私を果てしなく苦しめてきて、殺そうとしてきたこの家はどうなのか。私の母は?私の父は?この腐った世界はどうなのか?私は自分だけが犯罪者扱いされることがとても疑問だった。兄や妹たちも私を人殺しだと思うだろうか?
私はその場で使用人が警察を呼んでいるのを少し聞いていた。私はあまり焦ってはいなかった。警察は確かに来る。でもこの家は本当の意味で私の罪を訴えることができるかしら。
私は刀を床に落とした。母はもうどうでも良かった。そして庭に飛び出して家から逃げた。
外は大雨だった。1年に数度あるかないかの大雨だった。雨のおかげで母や使用人たちの悲鳴は外に聞こえなかった。
着物は血と雨でびしょびしょになって、下駄も履かずに出てきたので足袋も泥だらけになった。私は1時間くらい走った。とにかく何も考えずに走った。体も足も冷えきって、1歩踏む度に激痛が走った。それでも私の心の痛みよりはずっとぬるかった。
私はしばらく走った後、もう死のうと思った。母が死んだのか助かったのかはわからない。警察が私を探しているかも知れない。いずれにせよ、この世界はもう私の生きていく場所ではないと思った。私はこのまま、私の命を終わらせようと思った。
気がつくと、雨だけではない、涙が私の顔を濡らしていた。
私は自由になりたかっただけなのに。




