「先に逝った者」
時刻は19時を既に過ぎている。いつもの部屋で、いつもの揺り椅子に座って、そしていつもの窓を眺め続ける少女、ブリム。
夕食の時刻になり、腹は既に空っぽだが、最早そんなこともどうでも良い。食べる気すら起きない。即席麺すら作る気にもなれない。ここ数カ月の間で彼女は今最も憂鬱と希死念慮の底にいるからだ。
「ブリム、また呼吸が止まっていますよ。」
人間の呼吸と言うものは、本来健康であれば意識せずともしっかりと行われるものだが、絶望と脱力の中ではその呼吸すら止まると言うことにブリムは最近気がついた。夜眠るときにも、不快な悪夢で発作のように目が冷め、そして自分の呼吸が止まっていたことに気がつくのだ。悪夢の末に目が冷め、自身の意識でもう一度ゆっくり呼吸をして、薄れていた、自分がまだ生きていると言う感覚を思い出す。最近はこのようなことばかりだ。
「⋯!」
ウィズに呼吸が止まっていることを通知され、ようやく彼女もそれに気がつく。不安定になっていた心音が少しづつ落ち着いてきた。
「ブリム、あなたは少し不整脈の症状が現れることはありませんか?」
ブリムは少し前、学校の健康診断を行った際に、心肺の検査で若干の不整脈があるとの結果を受けたばかりだった。その結果は親には見せず、すぐに捨てたはずだった。
「何故お前がそれを知っているんだ?」
ブリムは隠していたはずのその診断をウィズに言い当てられたことに驚きと、何故知っているのかと言う不信感を抱いた。
この世界はあらるゆデータベース、クラウド、電子機器がワールドワイドネットに接続されている。そして活用され、それだけでなく流用されている。どこにも電子保存していないデータを彼女が知っていると言うことはありえないはずだ。
「まさかお前病院のデータに入ったのか?」
自分自身ではどこにも公開していないとすると、彼女の健康診断を行った医療機関のデータベースにしかない。
ウィズは驚いた顔をし、少し笑い、
「まさか、私にそんな能力はありません。」
「じゃあどうやって⋯?」
「実はあなたに不整脈の兆候があることは、少し前からバイタルの記録で感じていました。でもあなたに余計なストレスを与えたくなかったので、今まで黙っていました。」
ブリムも少し笑い、安堵と諦めが混じったため息をつく。
「なーんだ、侵入したんじゃないのか。そうだ。ヘモグロビンも足りてないって言われた。」
彼女は呼吸や心臓についての不調感だけでなく、立ち眩みや異常な眠気等、ずっと感じているものがあった。しかしいちいち病院にもいかず、誰にも相談しなかった。
彼女は遠くの夕焼けを見ながら、何故かどこか晴れやかに言う。
「私はもう死のうと思っている。」
その言葉を静かに聞くウィズ。彼女は表情を変えないまま、ブリムと共に遠くの夕焼けを眺める。そしてブリムはゆっくりと口を開き、
「この世界は、もう私の生きていくための場所ではないんだ。そのことに最近やっと気がついた。私の体の不良も、私の精神的なものも全て、私がもうこの世界に属する存在でないことの証なんだ。私はもう、死のうと思っている。」
ブリムは今まで、数え切れない程、生きる理由、自分の人生の存在理由を考え続けてきた。ネットで調べられるものも全て調べた。この世界の最奥を叩き続けてきた。そして無数の表面的な慰め、一時の気分転換、中身のない希望的観測、理解のない言葉を目の当たりにしてきた。それらは全て無意味だった。ゴミだった。
どんなにこの世界が表面的な豊かさや親密さを演出しても、この世界の本質は虚しく、無意味に滅びゆく姿だった。
「この世界には、見かけだけの繁栄が沢山ある。でも私は満たされなかった。ただそれだけだ。私はもうこの世界で生きていたくない。」
ウィズはブリムの言葉をただ静かに聞いていた。彼女はもう、テンプレートのような慰めも心配も語らない。精神科も薦めない。ブリムが先程語った言葉、この世界はもう彼女のような人間が生きていくための場所ではないと言う言葉、それは真実だった。ブリムが14年間生きてきて辿り着いた答え。この世界はもう人間が生きるべき場所ではないと言うこと――。
「⋯。どうやって死ぬつもりですか?」
ウィズが一般的な対話AIだったなら、他の凡庸なAIと同じように、そしてこの世界と同じように、適当に気慰めを答えて、死んではいけないとか命は尊いとか、そう言うことを答えただろう。しかし彼女はもう、その域にはいない。彼女はずっとブリムの葛藤を見てきた。そしてありきたりな回答はしない。オービタルと共に生まれた特別なAIだった。だから彼女はあえてそのように尋ねる。
ブリムは彼女はそのようなより深い追求をしてきたことが少し意外だった。
「痛いのは嫌だが、かと言って失敗して後遺症にでもなって惨めに生きていくのも嫌だ。薬は、昔の連中が買いまくったせいで規制されて買えない。洗剤もガスも同じだ。首吊りは惨めで嫌だ。クスリは金がなくて買えない。死ぬために身を売るのも嫌だ。カプセルが一番良いが、どこにあるかがわからん。電車もここら辺はどこもホームドアがあるし、万一失敗して生き残って賠償金請求されるのも嫌だ。」
「⋯恐らく、確実な高さがある場所からの飛び降りが一番だと思う。」
人間は楽に生きていくために文明を発展させてきたはずなのに、結局は楽に死ぬためにその技術を使うのだ。これこそが地の虚しさではないか。
「私はあなたに生きていて欲しいです。でも同時に、私があなたの苦しみを負うこともできません。」
ウィズは自身の膨大な演算能力やデータを使っても、どのような回答が最適解なのかがわからなかった。そして何よりも彼女自信がブリムと共にいて学んできたこと、この地の虚しさについて、彼女は出る言葉がなかった。
「私はずっと死にたかった。14歳になるまで待ってみようと思った。そして昨日14歳になった。でも生きる理由は見つからなかった。もう無意味だ。私は日曜日に生まれたらしい。明後日、丁度日曜日だ。その日に死のうと思う。」
死にたいと言う気持ちを、他のどのような言葉で表現すれば良いのだろうか?それは疲れかも知れない。とにかく疲れたのだ。表面的な心身の疲れではない。娯楽で気を紛らわしても、どんなに沢山金を使って楽しさを演出しても満たされない、この世界に生きていることそのものの疲れ、決して癒やされない疲れ。死を望む程の疲れなのだ。
「ウィズ、私は疲れたんだよ。」
その時ブリムはウィズの前で、初めて、涙を流した。彼女が無意味な生を長らえさせるために犠牲にしてきたもの全て。その涙。
「あなたは1人で戦い続けて来ました。私はそれを知っています。」
ブリムが死ぬなら、この部屋は誰のものでもなくなる。今までブリムの帰宅を待ち続けてきた部屋。いつまでも変わらない夕暮れに照らされた部屋。でももしその部屋の持ち主が二度と帰ってこなくなったとしたら―。その時は自分自身の死でもある。ウィズはそれをわかっていた。
「場所はもう決まっているのですか⋯?」
今まで2人で空を眺めてきた。ブリムにどんな耐え難いことがあった日も、この世界ではない、永遠の雲の王国を求め続けてきた。でも最後には1人だけになってしまう。そうであるならばもうこの部屋も窓もいらない。人は1人で生まれてきて、1人で死ぬのだ。
「私は先に逝った者の後を追おうと思う。」