月草亭と灯火のレシピ
お客さんが誰もいなくなったあと、私はカウンターに肘をついて、ゆらゆらと灯るランプの光を眺めていた。
この宿屋《月草亭》は、月草村の外れちょうど森と原野の境目にある小さな建物だ。元は旅人のための簡易休憩所だったらしいけれど、今は私、クレリがひとりで切り盛りしている。寝床と軽い食事、それにちょっとした薬草茶くらいなら出せる、そんなささやかな宿だ。
今夜の夕食は「干しきのことねぎ芋のスープ」。
素朴な味だけど、きのこの旨味がぎゅっと詰まってて、寒い夜にはぴったりの一杯。
だけど、ついさっきまでいた旅人の一団は、スープにほとんど手をつけなかった。
「悪くないけど、ちょっと薄いなあ」
「そうそう、もっと香草とか入れてさあ、味のパンチがほしいんだよな」
…なんて言われて、私はちょっとだけ凹んでいる。
心を込めて作った料理が残されるって、やっぱり寂しいものだ。
「なんでかな」
ぽつりと呟くと、カウンターの向こうの椅子が、がたんと鳴った。
見れば、見知らぬ男の人がひとり、いつの間にか座っていた。
銀灰色の髪に、土埃のついた旅装。肩には風よけのマント。
年の頃は私と同じくらいか、少し上…だけど、どこか浮世離れした目をしている。
「いつからそこに…?」
「さっきの団体が出て行く頃。ちょうど宿の明かりが見えたから、ふらっとね」
そう言って、彼はにこりと笑った。だけどその笑顔は、妙に整いすぎていて、演技のようにも見える。
「一杯、もらえる?」
「…スープ、ですか?」
「うん。君がいま、落ち込んでいた味を、ぜひ飲んでみたい」
なんだか、図星を突かれたようで、私はちょっとむっとしながらも、鍋を火にかけ直した。
干しきのこは、五日間干したあとの二晩寝かせている。ねぎ芋は森の根っこから掘ったもの。味の“パンチ”はないけれど、滋味はたっぷり詰まっている。
湯気の立ちのぼるスープを出すと、男は目を細めて言った。
「いい匂いだ。風の香りがする」
「風、ですか?」
「きのこを干した場所、丘の上だろ? 昼と夜の風が交わる土地。スープに染みてるんだ、風の味が」
私は、少し驚いた。
確かに、干しきのこは裏山の風見丘で干している。そこは日当たりがよく、風通しもいいから、素材の香りが逃げにくい。
だけどそれをスープの匂いだけで言い当てるなんて、普通じゃない。
「あなた、料理人?」
「うんにゃ。風を追ってる、ただの放浪者さ」
彼はスープをひと口啜って、目を細めた。
「優しいな、この味。昨日の疲れが、溶けていくみたいだ」
ほっとした。
たったひとりでも、ちゃんと味わってくれる人がいる。それだけで、報われる。
でも同時に、妙なざわめきが胸に残った。
彼の舌は、ただ者じゃない。
それに、なにより
「君、名前は?」
「クレリです。あなたは?」
「じゃあ、俺は…そうだな、“フィオ”って呼んでくれ」
なんだか、偽名っぽい。
でも、追及するのはやめておいた。
その夜、彼は月草亭に泊まった。
たったひとりで、屋根裏の部屋を希望して。
朝が来るまで、なにか書き物をしていたようだった。
翌朝、私が出した朝食にんじん菜のオムレツと、草根茶のトーストを前にして、彼はこう言った。
「君の宿、気に入った。しばらく居させてくれないか?」
「…理由は?」
「風の味を知るため。それに君の作る料理に、ちょっと惚れたから」
私の耳が、じんわりと赤くなったのを、彼は見なかったふりをしてくれた。
雨の朝って、好きだ。
特にこうして、屋根を打つ音を聞きながら、スープを煮込む時間がいちばん心が落ち着く。
「クレリ、香草が足りないって言ってたよね?」
「あ、はい。料理に使える葉っぱ系の在庫、もうスカスカです」
朝食を終えたフィオが、そう言って小さな包みを差し出してきた。
布のなかには、濡れた葉っぱが数枚。細長くて、やわらかく、触るとミントにも似た涼やかな香りがした。
「これ、“風見草”じゃないですか!」
思わず声が上がる。
この辺りの村では滅多に見かけない、幻の香草。すーっと鼻に抜ける爽やかさと、後を引かない清涼感が魅力で、肉料理やスープ、甘いお菓子にも使える万能選手だ。
「どうしてこんな貴重なものを…?」
「朝方、雨の中を少し歩いたんだ。君の干しきのこの丘まで。香りが流れてきたから、つい」
相変わらずこの人、妙なところで勘が鋭い。
けれど、それが嫌じゃない自分に気づいて、少し戸惑った。
「じゃあ、今日はこの“風見草”でラグーを作ってみます。雨の日には、煮込み料理が合いますし」
「ラグー?」
「お肉と根菜を炒めて、じっくり煮込んだ料理です。もともとは北方の山岳地帯の保存食ですけど、ハーブや野菜でアレンジすると、ちゃんとおもてなし料理になりますよ」
それから私たちは、ふたりで台所に立った。
野菜を刻み、獣肉を炒め、フィオがもたらした“風見草”を丁寧にちぎって鍋に投じる。
「…こういう時間、初めてかも」
フィオがぽつりと呟いた。
「え?」
「人と台所を囲んで、何かを作るなんて。ずっと独りで旅してたからさ。食べるのも、火をおこすのも、寝るのも全部自分一人」
そう言ったフィオの声には、どこか遠いものがにじんでいた。
「寂しくなかったんですか?」
「さあ。…気づいたら、味覚が鈍くなっててさ。腹を満たすために食ってるだけみたいで」
私は、ことんと木べらを鍋の縁に当ててから、真っすぐ彼を見た。
「それって、ちょっと悲しいです」
私の声に、彼がふっと笑う。
「君は?」
「私は…逆ですね。ひとりだと、誰かの“美味しい”が聞けなくて、どこか物足りないです」
しばらくして、ラグーが煮あがった。
皿に盛ると、風見草の香りがふわっと立ちのぼり、柔らかく煮込まれた根菜と肉がとろけるように湯気をあげていた。
「これは…本当に、風の味だ」
そう言って、フィオが満ち足りた顔を見せた。
「クレリ、君の料理には“記憶”がある。懐かしいような、でも知らない景色が浮かぶような、そんな味だ」
“記憶の味”。
それは、私が小さい頃からずっと追いかけていたものだった。
母が作ってくれたスープ、父が笑ってくれた朝の焼きたてパン。味には人の思い出が詰まる。私は、そんな料理を作りたかった。
「…私、母に言われたことがあるんです。『人の心を温める料理は、決して流行りじゃない』って」
「うん」
「でも、忘れられない料理になるって」
フィオは何も言わず、静かにラグーを噛みしめていた。
まるでその言葉を、深く心に染み込ませているみたいに。
それから夕方まで、彼は台所の隅で、なにやらノートに書きつけていた。
「レシピを…?」
「いや、風の記録をつけてるんだ。味が語る風景を書き留めておきたいと思って」
“風の記録”。
それはたぶん、彼がずっと追いかけてきたものなんだろう。だけど、その中に少しだけ、私の料理が入り込めたのなら
「じゃあ、そのノートがいっぱいになるまで、いてくれますか?」
不意に口から出た言葉に、私自身が驚いた。
けれどフィオは、すぐに笑ってうなずいた。
「もちろん。…君が、俺の風を料理にしてくれるならね」
雨は、まだ止まない。
だけど、屋根の下にぽっと灯ったあたたかさが、私の胸の奥に長く残っていた。
月草亭の扉が鳴ったのは、午後の光がやさしく差し込むころだった。
今日は市場が休みで、客足も少ない。のんびりと小豆の煮物を作っていた私は、エプロンの裾で手をぬぐいながら入り口へ向かった。
「…クレリ?」
名を呼ばれて、私は一瞬、時が止まったような感覚に襲われた。
立っていたのは、栗色のくせ毛と快活な笑顔を持った青年リューカ・ナステ。私の、料理修行時代の同期だった。
「ひさしぶり、だね。ええと、四年…いや五年ぶり?」
「…どうしてここに?」
「偶然だよ。旅の道中、空腹でふらっと立ち寄っただけさ。まさか、クレリがこの店をやってるなんてなぁ」
私は、すぐに笑顔を作れなかった。
リューカとの日々は、楽しくもあり、そして少しだけ苦くもあった。修行中、何度も料理で張り合い、時に喧嘩して、でも結局、彼は卒業試験で一番の成績を取って巣立っていった。
「クレリ、この人は?」
そこに、フィオが現れた。薪を抱えていた手をとめ、じっとリューカを見つめている。
「あ、ああ。彼はリューカ。昔、一緒に料理を学んだ仲間です」
「へえ…旅の連れかと思ったけど、違ったんだね」
その一言に、なぜだか少し胸がざわついた。
フィオの声に含まれたわずかな棘。きっと気のせいだ。彼はそんなに感情を顔に出す人じゃない。
「リューカ、お昼はまだ?」
「もちろん。ここで食べさせてくれるの?」
私はうなずき、カウンターの奥に入ると、冷蔵棚から“バター風呂茸”を取り出した。
小ぶりで丸く、じゅわっとした食感のこの茸は、バターで焼くと旨味が溢れる。今日はこれでクレープを作ろう。
「クレリのクレープ、久しぶりだな。君の料理は、いつもどこか懐かしい味がする」
調理中、リューカは相変わらず陽気に話しかけてきた。
旅先で食べた料理のこと、最近見つけた珍しい調味料、そして今でも時々、あの修行場の夢を見るんだと、笑いながら語る。
一方で、カウンターの隅に座ったフィオは、珍しく無口だった。
「はい、できました。茸のソテーと卵、チーズを包んだクレープです。仕上げにルバーブソースを少し」
リューカは一口食べると、目を輝かせた。
「うまい! やっぱり君の料理はすごいよ、クレリ。風味の重なりが完璧だ。茸の香りが、まるで森を歩いてるみたいだ」
その様子を、フィオはじっと見つめていた。
「フィオさんも、どうですか?」
リューカが声をかけると、彼はゆっくり立ち上がって席に着いた。
私は追加でクレープを焼きながら、二人の間の空気がどこかぎこちなく感じられるのを、なんとなく意識していた。
「…この茸、珍しいな。どこで採れるんだ?」
「北方の霧森地帯ですよ。高湿の時期にだけ出回ります」
答えたのは私だったけれど、フィオの視線はずっとリューカに向けられていた。
やがて、ぽつりと呟くように言った。
「クレリの料理には、“風”がある。俺はそう思ってたけど…君は“懐かしさ”って言ったんだね」
その一言に、リューカは少しだけ目を見張り、それから穏やかに笑った。
「どちらもきっと正解だよ。料理って、人によって語る言葉が変わるから。僕にとってのクレリは、“故郷の夕餉”みたいな味がするんだ」
私は、言葉に詰まってしまった。
フィオの“風”という表現も、リューカの“夕餉”という形容も、どちらもあたたかくて、うれしくて、だけどほんの少しだけ重い。
食後、リューカは立ち上がり、荷物をまとめた。
「明日にはまた、旅に出るよ。南の港で新しい香辛料が入ったって聞いたから」
「そっか…気をつけて」
「クレリ、また会おう。君の料理、ちゃんと憶えてるよ」
去っていく彼の背中を見送ったあと、私は窓の外を見た。
風がゆるやかに、軒下の鈴を鳴らしていた。
「…なんだか疲れました」
フィオは無言で、隣に立っていた。
そしてぽつりと、まるで独り言のように言った。
「君が誰とどんな時間を過ごしてきたか、俺にはわからない。けど、今こうしていることだけは、本当だ」
私は、振り向かなかった。
だけど、心のどこかにやわらかな灯りがともった気がした。
リューカが去ってから、月草亭の日々は、再び静かに流れていた。
でも、私の心には小さな波紋が残ったままだった。
あの時、フィオが言った言葉。
「君が誰とどんな時間を過ごしてきたか、俺にはわからない。けど、今こうしていることだけは、本当だ」
その“本当”は、どれだけ大事なものなのだろう。
そんなことを考えながら、私は台所で新しいレシピ帳をめくっていた。
今日のおすすめは、「星粒芋とミルクリーフのポタージュ」。
市場で手に入れたばかりの、夜光る小芋と、甘いミルク香のする葉菜を使う予定だった。
「クレリ、仕込み、手伝うよ」
いつの間にかフィオが傍らに立っていた。
薪割りも終えたらしい。エプロンをきゅっと腰に結びながら、まっすぐ私を見ている。
「ありがとう。じゃあ、星粒芋を洗ってもらえる?」
差し出したバスケットを受け取ると、フィオは手際よく小芋を水場で洗い始めた。
その後ろ姿を見ていると、なんだか、胸がくすぐったくなる。
こうして、誰かと一緒に店を切り盛りする未来なんて、昔の私は想像もしてなかった。
星粒芋は、皮を剥くと淡い金色をしている。
ミルクリーフと一緒に煮込むと、ポタージュはとろりと優しい香りを漂わせ始めた。
「味見してもらえる?」
「うん」
差し出したスプーンを受け取ったフィオは、一口すすると、目を細めた。
「…あったかい。やさしい味だ」
その表情が、私には何よりのごちそうだった。
夜、月草亭には旅人が二人だけだった。
そのうちの一人が、星粒芋のポタージュを絶賛してくれて、すぐにおかわりを頼まれた。
「ふぅ、今日も一日終わったね」
閉店作業を終えると、私はため息混じりに言った。
フィオは片付けを終えると、カウンターに腰かけて、ぽつりと口を開いた。
「クレリ」
「なに?」
「…ここで、ずっと暮らしていきたい?」
その問いに、私は少しだけ考えてから、うなずいた。
「うん。お客さんの笑顔を見るのが好きだし、ここで料理していると、私、自分のことを少しだけ好きになれる気がするから」
フィオは静かに笑った。
それから、少しだけ顔を赤らめながら言った。
「だったら…その隣に、俺もいていい?」
カウンターの隅で、夜風が小さな鈴を揺らした。
私は、驚いてフィオを見た。
彼の目は、真剣だった。いつもの無表情とは違う、まっすぐな気持ちが、そこにあった。
「…もちろんだよ」
自然と、そんな言葉がこぼれた。
フィオは照れたように笑うと、手元の皿に視線を落とした。
そこには、星粒芋のポタージュの残りが、まだほんの少しだけ残っている。
「クレリ」
「うん?」
「君が作る料理も、君自身も、俺にとっては」
そこまで言って、フィオは言葉を切った。
そして、笑いながら続けた。
「俺の居場所だ」
涙が出そうだった。
だから私は、ぎゅっと笑ったまま、頷いた。
「…それなら、もう一皿、作らなきゃね」
夜の厨房に、ふたりの笑い声が静かに響いた。
月草亭には、今日も灯火がやさしく揺れている。
この小さな食卓に、ふたりだけの、あたたかい物語が積み重なっていく。
おしまい